離去
「ドンドンドン!」
朝、急なノックの音が静けさを破り、天城由美を眠りから揺り起こした。彼女はうっすらと目を開け、まずは隣にいる詩花の様子をうかがう。小さな彼女はまだぐっすりと眠っていて、その表情はどこまでも穏やかで安らかだった。
由美は布団を引き上げて彼女にかけてやり、そっとベッドから下りると、扉を閉めて静かに玄関へと向かった。
ドアを開けると、そこに立っていたのは親友の三森歌月だった。彼女の顔には強い不安の色が浮かび、それでも由美が無事だとわかると、ようやく眉間に刻まれていた皺が緩んだ。
「どうしたの、歌月?こんなに早く」と由美が尋ねると、寝起きのせいで声はまだ少し掠れていた。
三森歌月はすぐに答えず、部屋へ一歩踏み込むなり、背後でドアをきっちりと閉めた。そして由美の肩をつかむと、じっと上下に目を走らせた。
「由美、無事で本当に良かった」と彼女は胸をなでおろしたが、その口調にはなおも怯えの影が残っていた。
「いったい何があったの?」由美はそんな彼女の様子に、少しぼんやりとしてしまった。
「昨日の夜――」三森歌月は顔を曇らせ、「このマンションで原因不明の失踪事件が起きたの。八階に住んでいたOLの女性が、なぜか忽然と姿を消してしまったのよ」と言った。
「それでわざわざ来たの?私に何かあったんじゃないかって心配して?」
「それもあるけど」と三森歌月は頷き、手に提げた保温バッグを軽く振って見せた。「もう一つはこれよ」。中には上品な弁当箱が入っている。彼女は続けた。「栄養たっぷりの朝ごはんを持ってきたの。きっとまだ食べてないでしょう?昨日まで風邪ひいてたのに、また適当に済ませるなんてダメよ」
「ありがと、歌月」と由美は素直に感謝の言葉を口にした。「いつも私のこと、気にかけてくれて」
「気にかけるだけじゃ足りないわ」と三森歌月は言いながら、あたりを見回し、自分の“第二の保護者”としての役目を果たそうと動き出した。「それにあなたの部屋も、今日は私が休んでるから、しっかり片づけてあげないと。ほら、まったく散らかって……」
そこで彼女の言葉はぴたりと止まった。驚いたことに、いつもの台風一過のような荒れ果てた部屋は、今では隅々まで掃除され、ピカピカに磨き上げられていたのだ。床は新品同様に光り、雑貨類は整然と収納され、ベランダには洗い立ての衣類が綺麗に並べられ、朝の陽射しを浴びてキラキラと輝いている。
三森歌月としては信じられない光景だった。あのズボラな親友のことだ、突然掃除好きになるなんてありえないはず――。
「これ、昨夜自分で片づけたの?」
天城由美はその疑問を見抜き、説明した。「昨日、詩花と一緒に掃除したの」
その名前を聞いた途端、三森歌月の体がわずかに硬くなった。
「詩花は?」彼女はそっと尋ねた。
「部屋で寝てるわ」と天城由美が答えると、「会いたい?」と彼女は続けた。
そう言って、彼女は寝室へと向きを変え、ドアを開けて可愛い子どもに会わせようとした。
だが三森歌月はすばやく由美の腕を掴み、少し焦れたように彼女を引き戻した。
「いいの、詩花にはもう少し寝させてあげましょう。子どもはしっかり寝てこそ、元気に遊べるんだから」と三森歌月は諭す。「まずは朝ごはんを食べましょう。きっとお腹空いてるでしょ」
「そうだね、じゃあ歌月の言う通りにする」
すると三森歌月は天城由美をダイニングへと案内し、椅子に座らせてから、保温バッグの中から弁当箱を取り出し、まだ湯気の立つ栄養粥を彼女の前に差し出した。「特別に炊いた粥だから、熱いうちに飲みなさい」
天城由美はスプーンを手に取り、一口ずつ粥をすすった。一方、三森歌月はキッチンへと進み、慣れた手つきで冷蔵庫を開けた。
彼女は天城由美の家を隅々まで知り尽くしている。二段目のチルド室から卵を取り出すと、相手への思いを込めた目玉焼きを作り始めた。
ほどなく、香ばしい匂いのする目玉焼きができ上がり、三森歌月はそれを天城由美の前に置いた。由美がまだゆっくりと粥を飲んでいる間、三森歌月は向かい側に座り、何も言わずにじっと彼女を見つめていた。
いつしか、彼女の視界がふわりと霞み始めた。
「歌月、どうしたの?」天城由美は異変に気づき、声をかけた。
三森歌月は慌てて瞬きをして、取り繕った。「なんでもない、ちょっと砂が入っちゃったみたい」
天城由美はそれ以上深くは聞かず、歌月が用意した朝食を味わい続けた。
食事を終えると、三森歌月は壁の時計に目をやり、「由美、もう時間だわ。そろそろ出勤しなきゃ」と告げた。立ち上がってさらに言った。「今日は着替えとメイク、全部任せて」
「うん、お願いね」と天城由美は快諾した。
三森歌月はリビングの化粧台に由美を座らせ、櫛を取り出して長い髪を丁寧に梳かし始めた。彼女は傷つけないように、極力優しく動かしていたが、それでも櫛が髪を撫でるたびに、数本の毛が抜けてしまった。
三森歌月はその艶を失った髪の毛を眺め、手に持った櫛を宙に止めたままになった。
「歌月、またどうしたの?」鏡越しに動きが止まったのを見て、天城由美が尋ねた。「なんか今日、すごく変なの」
「別に……」歌月はその数本の髪をそっと掌に握りしめ、再び仕事に戻った。
しばらくの忙しさの末、三森歌月はついに親友の身支度を整えた。彼女はクローゼットから今日着る普段着を取り出し、由美に着替えさせ、コートの襟を丁寧に直してから、最後の挨拶のように言った。「じゃあ、由美。行ってらっしゃい。気をつけてね」
「行ってきます」と天城由美は微笑み、玄関へと向かった。ドアが「カチッ」と閉まる音が響くと、アパートメントはたちまち静寂に包まれた。
三森歌月はゆっくりと閉ざされた寝室のドアへと近づいた。開けようと手を伸ばしても、どうしても重くて上がらない。中を覗く勇気が湧かないのは、そこに「詩花」がいようといただろうと、天城由美と過ごせる時間がもうほとんど残されていないことを彼女は知っていたからだ。その感覚は薄い霧のように心を覆い、胸の中に寒々とした空虚が広がり、息遣いまでが次第に重くなっていく。
彼女は掌の中にある、天城由美の髪の毛をじっと見つめ、耐えきれなくなった。膝がガクッと折れ、冷たい床にひざまずくと、朝からずっと抑え続けてきた悲しみが一気にこみ上げ、顔を覆って泣き崩れた。
一方、天城由美が乗ったエレベーターはゆっくりと降りていく。車内は静まり返り、機械の唸る低いうなりだけが響いていた。一階に到着し、ドアが静かに開くと、彼女は外へと歩み出た。
迎え入れるように、厳粛な面持ちの中年男女が歩いてきた。由美がエレベーターを出ると、二人は黙って乗り込み、狭い空間に沈鬱な空気がたちこめる。女性が指を伸ばし、十四階のボタンをそっと押した。
エレベーターがゆっくりと昇っていく中、女性が小声で尋ねた。「母の部屋は十四階よね?」
男性は小さく頷き、「そうだ。間違いはない。昨日、公園のベンチで亡くなっていた。発見されたとき、母は微笑みを浮かべていて、とても穏やかだった。医師の話では自然死で、苦しみは少なかったらしい。今は遺品整理に来ているところなんだ」と答えた。
女性はため息交じりに言った。「最近、街では理由もなく行方不明になる人がたくさんいて、遺体すら見つからないから、家族はただ待ち続けるしかない。果てしない苦しみの中でね。母がこんなに穏やかに、苦しまずに自然死できたのは、ある意味完璧だわ。少なくとも、平穏な最期だったのだから」
「そうだね」と夫もまたため息をついた。「私たち兄妹のために一生懸命働いてくれた母だ。絶対にきちんとした葬儀にして、尊厳のある旅立ちにしてあげたい」
エレベーターが十四階に到着し、兄妹は1403号室へ向かおうとした。ところが、隣の1402号室の前に、三森歌月が保温バッグを持ち、自分用のお弁当を抱えて立っているのを見つけた。
兄妹は彼女を1402号室の隣人だと思い、「こんにちは、失礼しますが、こちらは1402号室の方ですか?」と頭を下げて挨拶した。
「違います。友達を訪ねてきたんです」と歌月は慌てて説明した。
二人はすぐさま謝った。「あ、すいません、お間違えでした。私たちは母の遺品整理に来ているんです。それぞれ家庭があって、普段はなかなか頻繁に顔を出せないもので」
「大丈夫ですよ。お母様のご逝去、心よりお悔やみ申し上げます。どうぞお力を落とされませんよう」と歌月は手を振って慰めた。
「今回は母の部屋をきれいに片づけ、使えるものがあれば近所の人に譲ろうと思ってきました」
「ありがとうございます。でも私の友達はもう出勤していて、今は留守なんです。それに……」と言いかけて、歌月はハッとした。あと少しで口を滑らせそうになっていた――「それに、もう長くはないから」と。
「それに、何が?」女性が少し不審そうに尋ねた。
「それは……あの……」歌月はしどろもどろになり、結局、ため息交じりにこう付け加えた。「まあ、うちの友達って、普段から自分の世話が全然できてなくて、毎回私が『ちゃんとご飯食べなさい』『薬飲んで』って注意してるの。だったら、もし使える食材とかあったら、持って帰って友達の体調を整えるのに使わせてほしいな。最近ちょっと体調崩してて、栄養補給が必要なのよ」
二人は歌月の説明を聞き、納得して1403号室のドアを開け、片づけを始めた。歌月は玄関先で、兄妹が終わるのを静かに待っていた。
そのころ、天城由美は近くの庭園を車で通り過ぎていた。斜めに差し込む陽光が石畳を照らす。公園の石造りのベンチでは、老夫婦がゆったりとオレンジを剥き、ひと房ずつ分け合っていた。由美はそのおばあさんが昨日見た人だと気づき、隣にいるおじいさんはきっとその伴侶だろうと思った。信号待ちで車を停めた由美は、窓を開けてじっと彼らを見つめた。老夫婦も向こう側の天城由美に気づき、笑顔で手を振ると、由美も軽く会釈を返した。
やがて青信号に変わり、車列が静かに動き出す。天城由美は余分な時間を取らず、軽くアクセルを踏んで前方へと進んだ。バックミラーの中で、オレンジを食べる老夫婦の姿は次第に薄れ、やがて公園のベンチから完全に消え去った。まるで最初から存在していなかったかのように。




