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虚界少女  作者: sara
虚界呼唤
20/102

血蝶

夜の闇がますます濃くなり、新しい月が夜空に浮かび上がっている。文京区の一軒家では、遠山凛が自宅の大掃除に励んでいた。


彼女は動きやすいスポーツウェアに身を包み、部屋中をせっせと掃除している。リビングまで来ると、窓の外の庭で、真っ黒な体に四本の足だけが白い黒猫がガラス戸の前にちょこんと座り、青く光る目で室内をじっと見つめながら、しきりに「ニャーニャー」と鳴き、ときどき真っ白な爪でそっとガラス戸を叩いていた。


その頃、外はけっこう強い風が吹いており、道端の木々がざわざわと音を立てている。リビングのテレビでは天気予報が流れていて、キャスターが原稿を手に「今夜、関東地方は強風となり、激しい雨も伴います。市民の皆さまは窓やドアをしっかり閉めて、安全にご注意ください」と告げていた。


遠山凛はそれを見て心が和らぎ、小雨を避けるためにこの子を中に招き入れようと、そっとガラス戸を開けた。そして冷たい風が入らないよう、すぐに扉を閉じた。


黒猫は中に入ると、まっすぐ食卓へと向かった。椅子に飛び乗ると、テーブルの上に残っていた小さな塩焼きサーモンの一切れが目に飛び込む。


するとすぐに、その魚に向かって切羽詰まった「ニャーニャー」という声を上げ始めた。どうやら最初から、この猫はあのサーモンの香りを目当てにしていたらしい。


「あなた、小さな子ね。やっぱりサーモンの匂いに誘われてきたの?ほんとに食いしん坊だこと」


遠山凛は黒猫のあごをそっと撫でてから、箸でサーモンの一切れをそっとつまみ、猫の口元へ運ぼうとした。


その瞬間、奇妙なことが起きた。


サーモンに顔を近づけようとしていた黒猫の姿が、突然ぴたりと止まり、喉から出かけていたゴロゴロという音さえもぷつりと途切れたのだ。窓の外の風の音も消え、吹かれても揺れていた木の枝も一瞬で凍りついたように動かなくなった。


まるで世界全体が一時停止ボタンを押されたかのようだった。


しかし不思議なことに、遠山凛自身はまだ自由に動けている。彼女の手は箸から離れたのに、サーモンの一切れと箸は空中で静止したままなのだ。


この異様な光景に、凛は内心ひやりとしながら、周囲をきょろきょろと見回し、何か手がかりを探そうとした。幸いなことに、状況は長くは続かず、数秒後にはすべてが元に戻った。ただ、凛が箸から手を離したため、サーモンの一切れと箸は一緒に床へと落ちてしまった。


黒猫は床に落ちたサーモンの一切れを満足そうにくわえると、ガラス戸の前まで戻ってきて、爪でトントンと戸を叩き、出て行ってもいいかと遠山凛に合図を送った。


「まあ、もう行くの? でももうすぐ豪雨になるのに……」と遠山凛が不安げにしゃがみ込んで言うと、黒猫はそれでもまたガラス戸を叩き、視線を庭の小さな門の方へ向けた。凛がその先を見やると、庭の門の外で、小さな黒い子猫が待ちわびるように佇んでいるのが見えた。


そこで遠山凛はようやく悟った。この黒猫は自分の子どもが気になって仕方がないのだ。


“もしよかったら、子どもも一緒に雨宿りさせてあげるよ。おやつもあるし。”と彼女は優しく声をかけ、再びガラス戸を開けた。すると黒猫は言葉が通じたかのように、サーモンの一切れを地面に置いて、すばやく外へ飛び出し、ほどなくして我が子を連れて庭の小さな門からひょいと入ってきた。


遠山凛はこの親子を1階のトイレに案内した。彼女と蕭珊雅の部屋は2階にあるため、普段は2階のトイレばかり使っている。1階のこちらのトイレはほとんど使っていないので、ちょうど彼らの仮住まいにぴったりだった。


彼女はトイレの入り口に防水マットを敷き、その上にサーモンの一切れを置き、使わない古い茶碗を見つけて水を入れてそばに並べた。さらに窓には少し隙間を残し、雨が侵入するのを防ぎつつ、雨が上がれば黒猫親子が自主的に出て行けるように配慮した。


すべてを終えると、彼女はトイレのドアをそっと閉め、リビングへ戻った。壁の時計を見上げると、時刻はすでに午後8時半を回っている。


ところが、ルームメイトの蕭珊雅はまだ帰ってこない。


「もしかして、蝕刻の姫に遭遇したのでは……!」と遠山凛の胸は大きく沈んだ。窓の外を見やると、空はすっかり暗くなり、低く垂れ込めた雲の下で、遠くから重苦しい雷鳴が聞こえてくる。


夜こそ、都会の影に潜む怪物たちが最も活発に活動する時間なのだ!


想像すればするほど焦りが募る遠山凛は、せっかく出会ったばかりのルームメイトを失いたくない。何しろ、失われた記憶の中で自分と彼女の間にいったい何があったのか、まだ何もわかっていないのだ。もし蕭珊雅に何かあったら、きっと永遠に答えはわからない。


彼女はこれ以上待つのはやめ、部屋に戻って着替え、外へ出て蕭珊雅を探しに出ることにした。服を着替えたところで、家の前を一台の黒いリンカーン・リーダーが勢いよく走り抜けていくのが目に入った。


「こんな高級車が、どうしてここを走ってるの?」と遠山凛は窓辺に身を寄せて小さく呟いた。


さらに夜の闇の中、蕭珊雅の姿を見つけた。彼女は家の方へ急いで戻ってきて、ほどなく玄関の前に到着した。


蕭珊雅はドアを開けて中へ入ってきた。遠山凛は階段を駆け下り、ちょうど玄関先で彼女と顔を合わせた。


「おかえり、蕭珊雅さん。」と遠山凛はいつも通りに挨拶した。


「うん、戻ってきたよ。」


「どうしてこんなに遅くなったの? 不審者による失踪事件を防ぐため、学校ももう夜の授業はないはずなのに。」


「ちょっと用事ができてね。」と蕭珊雅は淡々と答えた。


「もしかして、蝕刻の姫のこと?」と遠山凛は一気に緊張して数歩進み出た。


「蝕刻の姫じゃないよ。ちょっとした私的な用事なの。」と蕭珊雅は遠山凛の狼狽に気づき、慌てて説明した。


心の底からほっとした遠山凛は、蕭珊雅が襲われたわけではないことを知った。


そして先ほどの奇妙な出来事を思い出し、蕭珊雅に尋ねた。「さっき帰ってくる途中、何か変な感じがしなかった?」


「変な感じ?」と蕭珊雅は少し戸惑った。


「つまり、時間が一瞬止まったような……そんな感覚のことよ。」


「時間止めの感覚って、どういうこと?」と蕭珊雅は不思議そうな目で遠山凛を見つめ、「“時間止め”なんて感じたことないけど、あなた、ちょっと神経質になりすぎてるんじゃない?」と笑った。


遠山凛はとても奇妙に思ったが、蕭珊雅の様子を見る限り、嘘をついているようには見えなかった。


「まあ、私が気にしすぎたのかもしれない。とにかく無事でよかったわ。」と遠山凛はその疑問をひとまず胸にしまい込んだ。


「じゃあ、他に用事がなければ、私は先に部屋に戻るね。」と蕭珊雅はそう言って、階段を上がって自分の部屋へ向かった。そして階段を上る直前に振り返り、「心配かけてごめんなさい」と遠山凛に謝った。


「いいのよ。早く休んでね。」と遠山凛は微笑んで応えた。


蕭珊雅の部屋のドアが閉じるのを見届けると、遠山凛はリビングの掃除を最後まで済ませ、迫り来る暴風雨に備えて窓やドアに鍵をかけた。


すべてを終えて額の汗を拭い、さあこれから浴室でゆっくりとお風呂に入って、すっかりリフレッシュしようと思っていた。


浴室の中は温かな湯気が立ち込め、空間を靄がかかったように包み込む。遠山凛は心地よいバスタブに身を沈め、深々と息を吐いた。


蕭珊雅が無事に戻ってきて、危険な目に遭わずに済んだことに胸をなでおろし、一日の疲れが一気に溶け去っていく。だが、ふと頭の中に蘇るのは、先ほどの奇妙な“時間停止”の体験だ。


「もしかして、私、“時間停止”の能力に目覚めちゃったの?」と遠山凛は手の甲に隠された刻印をじっと見つめながら、密かに考えた。


しかしすぐにその考えを打ち消した。ここは『ジョジョの奇妙な冒険』の世界ではないし、確かにあの刻印には神秘的な力が宿っているように感じるものの、やはり“時間停止”というのはいくら何でも突拍子な話だと思ったのだ。


彼女は手ですくった水を顔にぶっかけて、少しでも意識をはっきりさせようとした。


パタリ――


すると浴室のドアがまた開き、一人の女性が入ってきた。彼女は鏡の前で髪を整え、くるりとまとめてシャワーキャップの中に押し込んでいる。髪をまとめ、キャップをかぶると、浴槽の縁に手を伸ばして適温を確かめ、包んでいたバスタオルを解いて、そのまま身を横たえた。


頭を浴槽の縁に預け、目を閉じるまでの動作は実に流れるように自然だ。


「蕭珊雅さん、また来てたのね。」と遠山凛は思った。


同じ女子とはいえ、これではちょっと親しすぎるのではないか? でも考えてみると、自分は田舎から出てきたばかりだし、東京のような大都市の女の子たちはもっと開放的で、友達と一緒にお風呂に入るのも当たり前なのかもしれない。郷に入っては郷に従え、と自分を納得させ、あまり深くは考えないように努めた。


とはいえ、蕭珊雅のほのかに漂う清楚な体臭に誘われて、次第に気持ちが緩み、意識もぼんやりと霞んでいき、最後はわずかな理性だけを頼りに洗い物を続ける始末だった。


いつしか遠山凛はようやく入浴を終え、水から立ち上がろうと浴槽の縁を踏み出した。ところが、水とボディーソープでぬかるんだ陶器の表面は驚くほど滑りやすく、足を踏み外した瞬間、バランスを崩してしまった。


「きゃっ!」と叫びながら後ろへ倒れ込みそうになった遠山凛は、頭が浴槽の縁に激突する寸前だった。


思わず目を固く閉じ、衝撃に備えて身体を任せる覚悟をした遠山凛。ところが、予想していた激突は起こらず、頭の中はぼんやりとしたまま、どこか信じられないほど柔らかくて心地よいものに寄りかかっているような感覚に包まれ、思わず体をこすりつけるようにしてから、ようやく目を開けた。


すると次の瞬間、彼女の顔は見る間に真っ赤に染まった。


自分の頬が、蕭珊雅の胸に深々と埋まっていることに気づいたのだ。蕭珊雅がいつの間にか彼女の体を向きを変え、優しく頭を抱き寄せていたのだ。


頭の中が真っ白になった遠山凛は、とっさに蕭珊雅を押しのけ、「ごめんなさい! 本当にごめんなさい! 私のせいです! 意図したわけじゃないんです!」と取り乱して謝った。


そう言うなり、着替えとバスタオルをつかんで浴室から逃げ出した。


遠山凛が去ったあと、蕭珊雅は不思議そうに自分の両手を見つめた。先ほど遠山凛が転びそうになったとき、つい無意識に相手を抱きしめてしまっていたのだ。


「どうして……なぜ、反射的に触ってしまったの?」と蕭珊雅は困惑気味に独りごちた。「私の体は……一体どうなっちゃってるの? 私は以前、彼女とどんなことをしていたんだろう?」と。


彼女の体は、脳よりもはるかに鮮明に、目の前の遠山凛という少女のことを覚えているようだった。


ほどなくして蕭珊雅も入浴を終え、濡れた長い髪をドライヤーで乾かしていた。今夜は暴風雨が予想されているため、熱気を逃がしつつ雨水の侵入も防ぐため、窓には少し隙間を残しておいたのだ。


浴室の隅では、血色の蝶がひっきりなしに羽ばたいていたが、蕭珊雅が髪を乾かし始めたのを見て、窓を閉めようと飛び立とうとした瞬間、そのまま窓の外へ舞い去ってしまった。


窓の外では夜がいっそう濃くなり、赤い血色の蝶は闇に乗って遠くへと飛んでいく。幾重にも重なる街路を越え、やがて一つの洋館へとたどり着いた。


洋館の中はすべての灯が消え、主人はとっくに眠りについている。ただひとつ、1階の一部屋だけが窓もドアも開け放たれたままだった。血色の蝶は窓のそばまで飛んできて、そっと羽を震わせ、まるで帰還を告げるかのように振る舞った。


貴族風のドレスを身にまとった少女が窓辺に歩み寄り、軽く手を挙げて、血色の蝶に指先へ降りてくるよう合図を送った。


「戻ってきたのね。偵察任務はうまくいったみたいね。」と彼女は穏やかに言った。


「さあ、戻っていいわ、私の使魔よ。」貴族の少女の言葉が終わると、血色の蝶は彼女の手の甲へと飛んで行き、やがてその姿は徐々に溶けて、手の甲の上で一滴の血の痕跡へと変わった。


そしてその血の痕跡は、少女の手の甲に蝙蝠のような模様を浮かび上がらせ、数秒ののちには消えてしまった。

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