奇遇
宮野鞠子は病院の廊下を一心不乱に走っていた。頭にはキャップをかぶり、つばをぐっと下げている。今は一刻も早くここから抜け出し、自分のバッジを落とした場所へ戻って、優子に渡すはずのあのバッジを取り戻したいだけだ。
ある角の廊下で、一人の少女が診察券を手に、自分の診察室を探しながら、ときどき周固をきょろきょろと見回していた。
「三号診察室……確か……」
そう言いながら、彼女は診察券を片手に、ひたすら自分の部屋をさがしている。角を曲がろうとしたその瞬間、視線が前方に向いておらず、ちょうどそこから鞠子が勢いよく飛び出してきたものだから、二人は思い切りぶつかってしまった。
「きゃっ!」
少女は衝突の勢いで目がくらみ、尻もちをついてしまった。手にしていた書類が一面に散らばる。
「あ、ごめんなさい!」鞠子は慌てて目の前の少女の腕を引っぱり上げ、床に落ちた書類を一緒に拾い集めた。
少女は立ち上がり、受け取った書類を手にしながら言った。
「大丈夫、私がちゃんと見てなかったのよ。」
「あれ? どうしてあなたが……?」
鞠子は目の前の少女に気づいた。それは、以前自分があやまって弁当をひっくり返してしまったあの子だったのだ。
「あなたは……」少女は鞠子をじっと見つめ、しばらくして口を開いた。「ああ、私のお弁当を倒してしまった人ね。名前は宮野鞠子さん?」と。
「私の名前、どうして知ってるの?」鞠子が首を傾げると、少女はポケットをまさぐって小さなバッジを取り出し、鞠子の前に差し出した。
「これ、あなたの落としたバッジでしょう? 上に二人分の名前が書いてあって、キャラクターの顔も印刷されてるわ。その中で、あなたに似てるほうを選んで、下に『宮野鞠子』って書いてあったから」
少女はそう言って鞠子ににっこり笑いかけた。なぜだか、その笑顔を見ていると、鞠子はどこかほっとするような、不思議な温かさを感じた。
「ありがとう!」鞠子は急いで礼を言い、バッジを受け取ると、それを両手でそっと包み込むようにして、長い間失くしていた大切なものをようやく取り戻したかのような気持ちになった。
「そうだ!」鞠子はポケットから千円玉を取り出し、少女に差し出した。
「これ、あのときのお弁当代ね。お詫びとして……」と言ったが、少女は鞠子の手をそっと押し戻した。
「いいのよ、怒ってなんかいないから」
鞠子はこの子の意地の強さに折れ、仕方なくお金を受け取ることにした。
「話してるうちに自己紹介もまだだったわね」と、目の前の少女が言った。
「遠山凛って言うの。よろしくね」
「じゃあ私も自己紹介するね。宮野鞠子です。よろしくお願いします」と鞠子はにこやかに答えた。
「あの、宮野優子さんは……?」
「妹なんです。ずっとここで入院していて……」
「お姉ちゃん! バッグ忘れてるよー!」小さな声が鞠子を呼び止めた。二人が声のするほうを見ると、後ろにちんまりとした小さな姿が。手には鞠子のバッグを持って、こちらへ駆けてくるところだった。鞠子が急ぎすぎて、うっかりバッグを置き忘れてしまったのだ。それに気づいた優子が、自分でベッドから降りて、バッグを届けに来てくれたのだった。
鞠子は顔色を変え、すぐに駆け寄って優子を支えた。
「優子! どうして外に出ちゃったの? 入院中なのに、もうすぐ定期検査があるのに、こんなところを歩き回っちゃダメじゃない!」鞠子の口調には、叱責と不安が混じっていた。
「だって、お姉ちゃんが急ぎすぎたからでしょ? 今度、実力テストがあるのに、教科書が入ってないバッグじゃ困るでしょ」
「戻って休もうね」と鞠子は優子を支え、病室へ連れ戻そうとした。
「私も手伝うわ」と遠山凛もあとに続き、二人で優子を支えて、ゆっくりベッドまで運んだ。
鞠子は遠山凛から受け取ったバッジを優子の手にそっと渡し、言った。
「ほら、優子、これ、あなたへのプレゼント」
優子はそっとバッジを受け取り、陽の光にかざしてみた。銀白色のバッジが、きらりと輝く。
「わあ! すごくきれいなバッジだね。私とお姉ちゃんの名前が刻まれて、私たちの顔も描いてある!」優子は宝物でも手にしたかのように、大切そうにバッジを手の中で転がし、愛おしさで瞳を潤ませた。
「この間、バッジをなくしちゃったんだけど、このお姉さんが拾って返してくれたの」と鞠子が隣の遠山凛を指差した。
「そんなの、たいしたことじゃないわ」と遠山凛はにっこり笑った。
「私は遠山凛っていうの。あなたが宮野優子さんね」と、遠山凛は優子のそばに近づき、自己紹介をした。
「妹の優子は病気で、この病院に長く入院してるの。暇さえあれば、いつも会いに来てあげてるのよ」
遠山凛はベッドに横たわる優子を見つめ、やせ細っているけれど、瞳だけは澄んでいてまっすぐなのが目に留まり、ふと心が疼いた。彼女はそっと手を伸ばし、優子の頭を優しく撫でて、柔らかな声で言った。
「本当に、強い子だね」
優子は遠山凛の手つきがとても心地よいのか、気持ちよさそうに目を細め、まるで撫でられている小動物のように静かになった。そして、小さな顔を上げてこう言った。
「お姉ちゃん、手がとっても温かいね!」
「そうかな」
遠山凛には、子どものころから人の心を落ち着かせる不思議な力がある気がしていた。ただ、それがいつから備わっていたのかは自分でもわからない。以前、路地裏で出会った子猫も、この力で穏やかにさせたことがあった。
「あの……」優子は潤んだ大きな瞳で遠山凛をじっと見つめ、何か聞きたいことがある様子だが、なかなか口に出せず、頬もほんのり赤くなっていた。
「あの……凛お姉ちゃんって呼んでもいい?」
遠山凛は一瞬戸惑い、つい隣の鞠子をちらりと見た。鞠子は苦笑いを浮かべて、遠山凛に言った。
「まあ、許してあげてよ。断ったら、あの子、泣いちゃうかも」
「そんなことないもん! お姉ちゃん、私をそんな子ども扱いしないで!」優子はたちまち頬をぷっくり膨らませ、むっとして反論した。でも、口では強がっていても、大きな瞳には確かに涙が滲み始め、今にもこぼれ出しそうだ。
「いいわよ。じゃあ、優子はな、私を優子ちゃんって呼んでいいわね」
「本当? やったー!」優子は遠山凛の手をぎゅっと握りしめ、嬉しそうに叫んだ。
そのとき、遠山凛の視線が優子のベッドサイドに置いてある漫画に吸い寄せられた。表紙には、華麗な夜行装束をまとった怪盗少女が描かれている――まさに彼女の一番好きなキャラクターだ。
「『怪盗少女クロエ』! あなたもこの漫画好きなの?」遠山凛はページをめくって優子に尋ねた。
「えっ? 凛お姉ちゃんもこの漫画読むの?」優子は思わず親近感を覚えた。「よかった! ずっと誰かと話したかったの。お姉ちゃんは全然漫画読まないし、難解な文学書ばっかり読んでるから」
鞠子が横から補足した。
「ただ、この漫画の作者、めっちゃサボり癖があって、更新遅いし、よく休載するのよね。だから普段はほかの漫画も買ってきて、優子に与えてるんだけど……」と、優子の愚痴には気づかない様子だ。
すると、遠山凛と優子は、怪盗クロエの最新エピソードから、彼女の正体に関する推理まで、熱心に話し始めた。鞠子は二人のやりとりをそばで眺めながら、自分は漫画には興味がないものの、妹の顔に久しぶりに見られる、心から楽しそらしき笑顔を見て、胸がじんわり温まった。
そのとき、病院の放送が遠山凛の名前を呼び、再診のために診察室へ行くよう告げた。遠山凛が病院を訪れたのは、前回の謎の失神事件が叔母を少々心配させたためで、退院時の診断書にも定期的な再診が必要だと記されていたため、叔母が彼女に受診を促したのだ。
遠山凛は虚界での戦いのことを知っていたが、そんなファンタジーじみた話は普通の人である叔母には伝えにくい。だから、素直に叔母の意向に従い、しかも自身の記憶喪失の問題も解決したいと思っていた。
「あら、話が楽しくて、自分が再診に来たことなんてすっかり忘れてたわ。きっと、診察室の先生、ずいぶん待ってらっしゃるでしょうね!」
叔母が遠山凛に予約させたのは専門外来で、すでに待ち構えているはずの医師もいるだろう。
遠山凛は名残惜しいまま立ち上がり、鞠子と優子に別れを告げた。去り際、優子が彼女の手をぎゅっと握りしめ、切なげに言った。
「凛お姉ちゃん、これからもよく会いに来てね。お姉ちゃんは漫画嫌いだし、私、ここに一緒に話せる友達なんていないから」
「それは……」遠山凛は少し悩んだ表情を見せた。
鞠子が遠山凛の前に立ちはだかり、言った。
「お願いします、遠山さん!」
短い時間の交流ではあったが、鞠子は遠山凛なら信頼できる相手だと感じていた。もし自分がいなくなってしまっても、優子の面倒をしっかり見てくれるはずだ。
「宮野さんまで……」と遠山凛は真剣な姉妹の姿を見て、言った。
「わかった。これからもよく会いに行くよ、優子ちゃん」
遠山凛は身をかがめて、優子の頭をそっと撫でた。
「じゃあ、指切りしよう!」優子が小さな親指を差し出し、指切りの合図をする。遠山凛もにっこり笑って同じように指を絡め、「指切り、百歳まで絶対変えないよ! 嘘ついたら針千本飲むんだからね」と誓った。
遠山凛はその後も優子としばし世間話を交わしていたが、病院の放送が二度目に彼女の名前を呼び、ようやく優子の病室を後にし、診察室へ向かった。
鞠子もバッグを手に、退院の準備を整える。最後に優子に声をかけた。
「優子、じゃあ、行ってくるね。午後には定期検査もあるから、体調には気をつけてね」
「またね、お姉ちゃん!」
鞠子はキャップのつばを低く下げ、病院の静かな細長い廊下を歩く。足取りは自然とゆっくりになった。
彼女は、遠山凛という少女から、優子に渡すはずだったバッジを取り戻した。それは、優子のために特別に用意したものだ。もうこれ以上、「王」の殺し合いゲームには巻き込まれたくない。たとえ死が待ち受けていようと。
しかし、死こそが最後の終わりではない。忘却こそが真の終焉なのだ。
鞠子がいま最も恐れているのは、優子が自分を忘れてしまうこと。だからこそ、このバッジを特別に作った。優子がバッジに刻まれた名前と顔を見れば、必ず鞠子のことを思い出すだろう。
そして今、遠山凛という少女も、優子の面倒を定期的に見ると約束してくれた。短い交流ではあったが、鞠子は彼女なら頼れる相手だと確信し、自分の使命もほぼ果たされた気がした。
病院の玄関に差し掛かると、鞠子は太陽に向かって大きく伸びをし、これまで溜め込んでいた緊張をすべて解き放った。それから学校へ向かい、選択授業に戻る準備を始めた。
病院から学校へ向かう途中には、小さな商店街がある。規模は小さいが、観光客や学生の姿も多く、日頃から多くの生徒が買い物や息抜きに訪れている。
鞠子はキャップのつばをさらに下げ、虚界空間で出会った二人の少女に見つからないよう細心の注意を払っていた。彼女たちが虚界に入れるということは、彼女たちもまた「虚界の少女」である証拠だ。
鞠子は覚えている。一人はショートカットの少女、もう一人はロングヘアの少女だ。ショートカットの子は小柄で、当時背を向けていたため、鞠子は顔をはっきり見ることができなかった。もう一人のロングヘアの少女はすらりとした体型で、傍らには奇妙な隻眼の魔法書が浮かんでいた。その魔法書がまず鞠子を見つけ、続いて少女が振り返った。鞠子はその優美な顔と冷ややかな眼光をひと目見て、忘れられない印象を受けた。
今、鞠子が願うのは、相手に自分の顔を見られずに済むこと。たとえ死の運命を受け入れていても、彼女は他人の狩りによってではなく、ひっそりと誰にも見つからない隅で最期を迎えたいのだ。
ところが、世の中には、避けたくても避けられないことがある。信号の向こう側――そこに、腰まで伸びるロングヘア、清潔で冷ややかな美貌の持ち主が立っているのを、鞠子は見てしまったのだ!
鞠子はすぐに気づいた。これは、間違いなく虚界で出会ったあの少女だ!




