四月二十九日(土・12)。人外魔境、ここにあり。
午後五時に、駅のすぐそばの公園にて。その時間と場所で、千霧が呼び出しに応じるにしろ応じないにしろ、俺は山岡くんと再会する約束を交わしていた。
目的の場所に向けて、特に寄り道もせずに、いつも通りの歩調で住宅街を歩き続ける。
アパートに戻るときは色々考え込んでて重かった足取りが、今はすっかりいつも通りだった。
千霧が俺にとって気を遣うべき対象ではなくなった以上、山岡くんを警戒する必要はもう無い。ストーカーになるなら勝手になればいい。まあそもそも、山岡くんにはそんな意志も気概も無いだろうから、全ては俺の取り越し苦労と空回りにすぎなかったのだろうけど。
千霧に用が有るなら、千霧に直接言え。最初から、俺はその一言を山岡くんに伝えるだけでよかったのだ。
それを、千霧が恋敵だからとか、恋敵に男の紹介ってどうなのとか、万が一にも山岡くんが千霧のストーカーにならないようにだとか、色々いらん気を回しすぎたから、話がこじれにこじれてしまった。
もう、いい。俺は、詩乃梨さんのことだけ考えていれば、それでいいんだ。
余計な重荷は捨てよう。身は軽く、思考はシンプルに。それが、現実を生き抜くための、最善にして最強の策だ。
人は、俺の思い通りにはならない。俺の想いに、想いを返してはくれない。俺はその常識を、この身に数多の傷として深く刻み込んでいる。
たとえ詩乃梨さんの友達であっても、それは詩乃梨さんとは別人だ。勿論、俺が自分の力で見出し、自分の意志で友誼を結んだ相手でもない。
ならばやはり、それは赤の他人だ。俺の想いに応えてくれるはずなどなく、そんなことを求める俺の方が間違っている。
千霧にも、それに真鶴佐久夜にも、俺は何も押しつけてはならない。
「……………………………………」
俺は足を止め、道すがら買ったコーヒーを軽く啜りながら、目の前に立ちはだかった少女達を眺めた。
後衛、真鶴佐久夜。ここまで走ってきたらしく、軽く息を切らせながらほんのりと頬を上気させ、ブラウスの胸元を摘まんで忙しなく服の中へ風を送り込んでいる。その仕草は気まずさを和らげる役割も兼ねているのか、殊更大仰であるように感じられた。
前衛、千霧香耶。運動が苦手なのか、真鶴佐久夜とは比較にならないほどに息も頬も熱を帯びている。しかしそれを冷ます努力はせず、二つの拳をぐっと握りしめて荒い息を無理矢理押さえつけ、俺に詰め寄るように真剣な顔で見上げてきた。
「あなた、少しおかしいと思います」
開口一番、千霧は何の遠慮も無く盛大にぶちかましてきた。
真鶴佐久夜が思いっきり目を見開いて千霧のブレザーの裾をくいくい引っ張るが、千霧は微動だにせずに俺を見据え続ける。
俺は軽くコーヒーを啜りながら、何を言うべきか考えた。
結論はすぐに出た。
「そうか」
返事、終わり。俺は二人を迂回し、再び歩みを再開した。
だが、千霧に服の裾を引っ張られ、歩みが遅くなる。
遅くなるだけで、決して止めはしない。後ろを振り返りもしない。
千霧は俺の態度が気に入らなかったのか、苛立ちに満ちた声をぶつけてきた。
「情緒不安定もいいとこじゃないですか。なんなんですか、あなた。意味わからないくらいにやたら甘々な人だと思ったら、意味わかんないくらいにやたらネガティブ思考で、いきなりわけのわからない所でキレて、ほんと意味わかんないですっ!」
「ちょっと、かやちー、言い過ぎ、言い過ぎ! 相手はうちじゃないんだよ!? 薬局からオブラート貰ってきて!」
「恋敵に対するオブラートなんて、有っても全部捨ててやります! 佐久夜ちゃんだって、この人に言いたいことあるでしょ!? どうぞ遠慮無く言ってやってください!」
「え、ええ? うちは別にいいよぉ。うち、こたちーのこと嫌いじゃないし……。まあ、ちょっと意味わかんないなって部分はあるけどさぁ……」
俺は、足を止め、二人を振り返った。
自分がどんな表情を浮かべているのか、やはり俺にはわからない。千霧は軽く眼を見開いて言葉も息も止め、真鶴佐久夜は「ひっ」と掠れた悲鳴を上げて千霧の陰に隠れた。
俺はまた、何を言うべきかを考えた。
何かを言う必要は無いと思う反面、何か言わないとこいつら引き下がらなそうだなとも思う。
仕方無いので、とくに何も考えず、口からまろびでた音をそのまま台詞として採用することにした。
「……意味、わかんないか。そうだよな、俺もわかんない。……昔から、よくわかんない所でキレるっていうのは、わりと言われてたしな……。……ああ、じゃあ俺ってわりと最初から欠陥人間だったのか……」
俺が人として壊れたのは、社会に出てからだと思っていた。でも昔から、そういう人間になる芽は既に培われていたのだろう。
俺は無反応な女の子達に、ぽつぽつと内心を吐露していった。
「意味わかんないって言われるのが、俺には意味わかんなかったよ。いつだって俺は、俺なりの考えやたいせつにしたいものがあって、きちんと考えた上で行動してた。……なのにみんな、意味わかんないって言うんだよ。……ろくに何も考えてないような、俺の事だって考えてくれてないような奴らが、俺のこと『意味わかんない』って言うんだよ。
……わからないなら、考えろよ。なんでその努力すらしないで、無責任にそんなことを言うんだ。俺の事なんてどうでもいいくせに、なんで俺が傷つくことばっか的確に言ってきやがるんだ。
俺はいつだって、考えた。みんなのこと、考えてた。でも、誰も俺のことなんか考えてくれない。なんだそれ。ずるいだろ。なんで俺ばっか割り食うんだよ。なんで何も考えてない奴らがへらへら楽しそうに笑ってて、必死こいて考えまくって頑張りまくってる俺が泣かなくちゃいけないんだよ。
知らない。俺のこと考えてくれない奴らなんか、俺だって知らない。いい。もういい。俺には、詩乃梨さんだけいてくれればそれでいい。細かい理屈なんか、もう要らない。俺は詩乃梨さんのために生きる。もう、それだけで、いい。誰の意見も求めない。批判なんかいらない。俺はお前らの邪魔しないから、お前らも俺の邪魔はしないでくれ。俺が望むのは、それだけだ。
……なあ、俺はなんか難しいこと言ってるか? 不当なこと言ってないだろ。過度の期待とかしてないだろ。ただ俺があげた分を返してほしいって期待して、でもそれをしてくれないなら、じゃあせめて俺に関わらないでくれって、それだけだろ。犯罪だってしてない。誰かに迷惑かけたわけでもない。なのになんで、お前らは俺を傷つける? お前らは、それで何か楽しいのか?」
声調は、あくまで穏やかだった。内容も、別にそれほど酷いことを言ったつもりはない。でも俺の本能的な部分は、自分の主張をこう評価した。
――『病んでいる』。そして、『意味がわからない』。
「…………………………」
怯えた表情の女の子達に、俺の無駄によく回っていたはずの口は、しかしこれ以上かけるべき言葉を持たなかった。
俺は、服の裾を掴んでいた千霧の手を優しく振りほどき、軽く溜息を付いた。
二人に背を向け、独りごちる。
「……ごめんな、こんな意味わかんない、病みまくった人間でさ。……もっと、スマートに生きられりゃ良かったのにな……」
無い物ねだりをしても仕方無い。それに俺は、本当に欲しいものだけは、既にこの手に掴むことができている。
なら、俺は、これでいい。この病みまくった意味わかんない土井村琥太郎を、俺は肯定する。
俺は、二人の方を振り返ることなく、今度こそ歩き出した。
追ってくる足音は、無かった。
◆◇◆◇◆
待ち合わせの時刻まではまだだいぶ間があったが、公園には既に山岡くんの姿が有った。
ベンチに腰掛けていた彼に歩み寄りながら手を振ると、俺に気付いてぺこりと会釈を返してきてくれた。
「悪いね、山岡くん。無駄に待たせちゃったみたいで」
「いえ、そんな……。あの、それで、千霧さんは……?」
期待と不安に満ちた顔で、俺の後方を忙しなく確認する山岡くん。俺はベンチの横のゴミ箱に缶を放り、自由になった両手を顔の前でぱんっと打ち合わせた。
「やー、すまん! ちょっとした手違いがあってな、今日はちょっと来てくれないことなった。明確に呼び出しや告白を拒否られたわけではないから、後日改めて千霧に話を持って行ってもらえるか?」
俺の、言葉に。
山岡くんの表情が、すっと抜け落ちた。
感情が抜け落ち、時間の概念まで抜け落ちて、ひたすら彫像と化す山岡くん。俺は彼の時計の針が動き出すまで、半笑いのまま待機し続けた。
そして時は動き出す。
「………………千霧さん、来ないんですか……?」
「いや、だからすまんて。でも、ほぼ確実に来てくれないだろうなっては言ってあっただろ?」
「…………でも、もしかしたら、来てくれるかもって……」
「いや、それは言ってない。ハンカチ返すだけならともかく、告白となるとやっぱ全然話違うし。それに、千霧人付き合い苦手っぽい所あるし」
「………………でも、直接話すかって言ってくれたのは、土井村さんですよね?」
「いや、それハンカチ返したいしか聞いてなかった時だろ? だから、告白となるとやっぱ全然話が違う――」
「――ふざけないでくださいっ!」
山岡くんの顔に、表情が戻った。ただしそれは俺にとって好ましい物ではなく、明確な怒りと敵意が横溢した鬼の形相だった。
思わずたじろぐ俺に、山岡くんが立ち上がって詰め寄ってきた。
「こっちがどんな思いで待ってたと思ってるんですか! 大人のくせに、無責任な仕事しないでくださいっ!」
「……あー。……誤解を招く言い方をしたのは、謝る。でも俺みたいな無責任な大人に頼らずとも、学校で千霧に直接言うなり、友達経由で呼び出してもらうなり――」
「それができれば苦労してませんっ! それに、千霧さんに口添えしてくれるっていう話はどうなってるんですか!」
「……え、それ『ハンカチを変なことに使っていない』っていう話について……で、いいんだよな?」
「それ、千霧さんがぼくに良い印象持ってくれるように、取りなしてくれるっていう意味でしょう!? それくらいはちゃんとやってくれたんですか!?」
えぇぇ、そこまで求められてたの……? これ俺が悪い? でも山岡くんすっかりヒートアップしてて、俺が悪いのーなんて訊けません。
俺は山岡くんを両手で押しとどめるようにしながら、朗らかな笑顔を心がけた。
「ま、まあ、あれだよ。呼び出すのが無理でも、山岡くんが愛の告白したがってるってことはちゃんと伝わってるから、千霧も何かしら反応すると思うけど」
「………………む、そ、そうですか。……そうですか、なら、まあ……」
山岡くんは急激に怒りを収めていき、多少不満が残っているような顔つきではあるものの、こくりと頷いてくれた。
俺は意味も無く服の襟を正したりして間を持たせながら、空気を変えるべく「あ、そうだ」と声を上げた。
「今更だけど、愛の告白したがってるーって伝えたら、もう告白する前から山岡くんの意図バレバレなんじゃないの? それ、山岡くん的にどうなん?」
問いかけてみたら、山岡くんは不思議そうな顔をしながら、当たり前のようにこう言った。
「それでいいじゃないですか。ぼく、直接告白とか無理ですし」
………………………………。
「ん?」
首を傾げながら疑問符を投げかける俺に、山岡くんも「あれ?」と首を傾げながら、少し自信無さげな声音で説明してくれた。
「直接告白するのが無理だから、『告白したがってる』って伝えてもらって、千霧さんにぼくの気持ちを知ってもらう。で、本当なら、その返事を千霧さんがこの公園でぼくに言ってくれるはずだった。……ですよね?」
「…………………………え、その流れ、俺聞いた?」
「いえ、言ってないですけど……。普通、わかりますよね?」
…………………………。
「つまり、俺って、きみの代わりに千霧に告白したような役回りなの?」
「そう、ですけど……。えっと、なんでそんなに不思議そうな顔なんですか?」
いや、だって、え? 告白って、そういうものだったっけ? これジェネレーションギャップ? 俺が現代の若者の恋愛事情について疎いだけなの?
ひたすら呆然とする俺に、山岡くんは怪訝そうな眼を向けていたが、やがて表情を緩めて溜息を吐いた。
「今日返事をもらえないのは残念でしたけど……、来週学校ありますし、千霧さんの方から言ってきてくれますよね」
「………………………………きみから、聞きにはいかないの?」
「だから、それができれば苦労はしないんですって」
……じゃあ、なにか。
できない苦労を、俺に押しつけやがったのか、お前。
自分は、成果だけを貰っていくつもりで?
「…………………………」
一仕事やり終えたように身体をほぐしている山岡に、俺は意味も無く手を伸ばしながら、口を開き――
「告白、お断りします」
――横合いの茂みからすっ飛んできた女の子に、ぱしりと腕を捕まれて。同じく茂みから出て来た別の女の子に、喋る役まで奪われた。
俺と山岡くんは、闖入者達に視線と言葉を奪われて、彼女達をまじまじと見つめることしかできなかった。
俺の腕を掴んだ真鶴佐久夜は、俺を背後に庇うような形で山岡に対峙。彼女の今にも吠えだしそうな剣呑な雰囲気に気圧されて山岡が数歩下がり、空いたスペースに防波堤を築くかのように千霧が一歩踏み出した。
千霧は、再度告げる。
「あなたの告白、お断りします。ごめんなさい」
ぺこり。太股に手を添えての、女の子らしい綺麗なお辞儀。
顔を上げた千霧がどんな表情なのか、俺の位置からでは見ることができない。だがきっと、びっくりするほどっかない顔なんだろうな。
だって、山岡くんが歯をカタカタ鳴らすレベルでびびってるからね。
「……ちっ、ち、ちぎり、さっ、ど、どど、どう、どうして、こ、ここ――」
「ごめんなさい」
「………………ぼっ、ぼく……、あ、は、はんかち――」
「ごめんなさい」
「…………………………………こくは、く――」
「ごめんなさい」
「……………………………………………………」
「ごめんなさい」
千霧はお辞儀せず、機械のように同じ言葉を繰り返し続けた。
千霧が発している言葉は、日本語の『ごめんなさい』ではなかった。偶然それと同じ発音であるだけの、全く異質な何かだった。
思い遣りも、奥ゆかしさも、ごめんなさいの気持ちも、ちっとも感じられない。むしろ、敵意や殺意に近しい凍てついた業火が、聞く者の心を瞬時に凍り付かせ、灼き、砕いた。
あれは、呪いだ。呪いの文言だ。千霧香耶の正体は、氷炎の魔女でした。
千霧の魔術を受けた山岡は、凍死体のように顔を真っ白にして、豪雪の中を歩くような速度でじりじりと後ずさった。
やがて山岡はベンチの端のあたりまで追いやられ、そこで灯の灯る山小屋を見つけた遭難者のような輝く笑顔を浮かべながら、ベンチに置いてあった紙袋を掴んで掲げた。
「こっ、これ、はんかち――」
「ごめんなさい」
灯の灯る山小屋は、遭難者の見た空虚な幻想だった。
山岡は幻想の欠片をその場に取り落とし、かくりと項垂れて動かなくなった。
氷像と化した山岡は、しかし最後のあがきで再始動。
ここにいたら、死ぬ。ただそれだけを本能的に理解して、山岡はじりじりと下山を始めた。
こちらを、振り返ることはなく。氷の申し子の視線に背中を灼かれながら、人里を求めて山岡は雪を掻き分けながら無謀な旅を続けた。
そして山岡は、やがて人の行き交う地、駅前へと辿り着いた。
気を抜いた山岡は、安堵の表情でこちらをちらりと振り返る。
振り返って、しまった。
「――ごめんなさい」
追撃を受け、山岡死亡。生ける屍は、天国への片道切符を求めて、駅構内へと姿を消していった。
そうして。この場に残されたのは、見えなくなった屍を視線で灼き尽くそうとし続ける氷炎の魔女と、俺の腕を掴んで背に庇い続ける犬ちっく娘と、冴えないリーマンだけとなった。
リーマンは、獣人娘と魔女に問う。
「……きみら、どの辺から見てたの?」
「そっちの茂みの中からだよー」
「ちゃうねん、そういうこっちゃないねん。話をどの辺りから聞いてたの?」
「そっちの茂みの中ですねー」
「ナメとんのかワレぇ! わかってておちょくってんだろ、大人ナメたらあきまへんで!」
俺は喚きながら、真鶴佐久夜の手を振りほどこうと腕を振った。
しかし、真鶴佐久夜、意外と握力が強い。でも体重は軽かったようで、一本釣りされた魚のように飛んできた小さな身体が俺の胴体にぶち当たった。
「……こたちー、鼻、痛いっす……」
「じゃあ腕離せよ。こんな現場詩乃梨さんに見られたらどうすんだ。おい、離せ。身体くっつけんじゃねぇ――いやほんとなんでお前身体擦り寄せてんの!? やめろ、馬鹿、おい!」
股の間に足を差し込まれているせいで、体重移動しようとすると真鶴佐久夜の生足に接触するか足を踏んづけるかしか選択肢が無い。
俺はいつ膝で金タマを潰されるかわからない体勢で、こちらに背を向けたままの千霧に救いを求めた。
「おい、こいつ何とかしろ! お前の友達が欠陥人間のおっさんに抱き付いてんぞ、道を正してやれ!」
「そうですか。わかりました」
あれ。友達なんかじゃありませんって突っぱねるか、俺の浮気現場をカメラに収めて強請ってくるかくらいはするかと思った(←超失礼)けど、意外なほどあっさりと救援要請に応えてくれた。
千霧は一旦俺と真鶴佐久夜を迂回し、俺の横を抜け、背後へと回り込み。
「えい」
何故か後ろから俺の胴体に抱き付いてきた。
「………………………………え、お前何してんの?」
「友達が堕ちる時には、一緒に堕ちるのが真の友達というものです! ねー、さくちー!」
「ねー、かやちー! ……え、さくちーとかやめてよ。うちそんな変な呼ばれ方したくない」
「じゃあかやちーやめてくださいよ。ていうかちーってなんですか、ちーって。ちゃん付けの亜種ですか?」
「え、うちそこまで考えてなかった……。でもちーがちゃんなら、こたちーって、琥太郎ちゃん?」
「うるせぇ、俺挟んでどうでもいい雑談に花を咲かせるな。離れろ、貴様ら。見てる、向こうの方から人が見てる。警察呼ばれちゃうのでお願い離れて?」
こっち見ながら指差してる野次馬の姿に、事案発生&お上にしょっ引かれるイメージがダブり始めた頃、二人の少女達はようやく俺を解放してくれた。
俺はとにかく二人から距離を取り、軽く服の乱れを直しながら安堵の溜息をはいた。
ふと目に付いたハンカチ入りの紙袋を拾い、それを掲げて見せながら千霧に声を掛ける。
「ほれ、これ。ハンカチ」
「捨ててください。あの人に何されてるか、わかったものじゃないですから」
千霧、笑顔でばっさりである。
俺は、だいぶ迷った。まだ使えるものを捨てるのは、倹約家な詩乃梨さんに怒られそう。でも千霧の気持ちはわかる。山岡の気持ちはもうわからないし、わかりたくないし、海馬から奴の記憶を抹消したい。
俺は心の中の詩乃梨さんに謝りながら、ベンチ横のくずかごに狙いを定め、スリーポイントシュートを放った。
が、最近ボール触るどころかろくに運動すらしていなかったせいか、ちょっと狙いが逸れ――
「へぇい、ないすパスっ!」
いきなり駆けていった犬っころが勢いよくジャンプし、空中で紙袋をキャッチして、着地と同時にダンクシュートを決めた。アリウープでいいのかな、あれ。シュートじゃなくてダンクでキメると技名変わったりする?
俺は真鶴佐久夜のスカートの中に見た物を必死に考えないようにしながら、戻って来た彼女に全身でせがまれて「いぇーい!」とハイタッチを交わした。
「……いや、いぇーいじゃねぇよ。なんでお前らここ居るの?」
「こたちー追っかけてきたからだね!」
「……なんで追っかけてきたんだ?」
「追いかけたかったからですね」
犬か、お前ら。そこにフリスビーがあったからみたいなノリで答えてんじゃねぇぞ?
本音の自白を促すためにじっとりとした眼で見下ろしてやったら、真鶴佐久夜と千霧は困ったような様子で互いの顔を見つめ合った。
「ね、かやちーはなんで追っかけてきちゃったの?」
「……やっぱり、追いかけたかったから、としか言えないですね。敢えて言うなら……、こう、胸の中がむずむずするような、浮ついてるような、せつないような、よくわかんない……、狩猟、本、能……? ちなみに、佐久夜ちゃんはなんで?」
「いや、だってこたちーと仲直りしたかったし。あんなおっそろしい眼で見られたままさよならとか、夜寝られんし。あー、山岡くん、たぶん今日不眠だね。ちょっと良い気味だけど」
「……もう、かわいそうとか言わないんですか?」
「さっきのあれ見て、どっかかわいそうな要素有った? 結果オーライみたいな感じだけど、これで零対五だね! うちもう独りじゃないよ!」
真鶴佐久夜は脳天気な笑顔を浮かべていて、千霧は呆れた様な半笑い。
意味合いの異なる笑顔を浮かべながら俺を見上げてきた二人に、俺はつい笑顔を向けかけて、しかしぐっと堪えた。
俺は、この二人を見限ると決めた。だってこの子達は、俺とは赤の他人。期待してはいけない。気を許してはいけない。俺みたいな病んだ人間の重い気持ちは、そこいらの女の子に気軽にほいほい向けていいものではない。俺のためにならないし、この子達のためにもならない。
唇を噛んで堪えている俺を、真鶴佐久夜が一瞬怯えたような顔で見上げてきて。
そして千霧が、なんかくしゃみを堪えてるような顔で睨んできて、背中を無遠慮にばしばしと叩いてきた。
「いてっ、痛ぇ、ちょっ、な、なんだ、お前、おい」
「……いえ、こう、なんかむずむずして……狩猟本能がくすぐられたといいますか」
「さっきも言ってたな狩猟本能。なに、お前俺のこと嬲って痛めつけたいの? ……ドS?」
「…………………………そうですか、これがサディズム……。……そっか、琥太郎さんって大人の男なのに精神的に脆いから、良い感じに嗜虐心がそそられ……」
千霧は不穏な台詞をぶつぶつと呟きながら、先程まで叩いていた俺の背中を、今度はゆるゆると愛おしげに撫で始めた。やばい、こいつやばい。アメとムチの使い方を研究し始めてる。俺メンタル豆腐だからこいつ無理。
俺は急いで千霧の射程圏外へ逃れ、そのまま帰宅の途につくことにした。
「じゃあな、女子高生達。おっさんな俺はもうお前ら若いもんと関わる気はない。だから俺にも関わるな。達者で暮ら――」
歩きながらひらひら振った右手に、後ろから犬っころが思いっきり飛びついてきた。
「こたちー、寂しいこと言わんといてぇな。もっと構ってぇや。もっとバスケしようぜ? あとゲーム面白いの有ったら貸して? あ、あとチョコレート手つかずのやつくれるって言ったのもらってない! よこせ!」
「…………………………ん、んぅ……」
やばい。こいつやばい。俺こういう甘えたがりの犬っころ大好きなんだよ。うっかり心がときめきかける。男女的な意味じゃ無くてペット的な意味だけど。
俺は真鶴佐久夜を一旦放置することにしてずるずる引きずりながら歩き、空いている左手を千霧に振った。
「千霧――」
「わかりました」
いつの間にかすぐ側に寄っていた千霧が、俺の台詞を待たずに両手でがっちりと俺の手を捕獲した。
「………………いや、違う、俺が言いたかったのは『お前もこっち掴まれ』ではなく、達者で暮らせよさようならーであってね?」
「だと思いました。だからわざと掴んでやりました。……なるほど、これがサディズム……。確かに、ちょっと気持ち良い……」
お前のそれ、なんかサディズムと違う。でも藪突いて蛇出したくないから、この慈しむような手付きの握手こそがサディズムの真骨頂なのだと誤解したままでいてもらおう。
結論。俺、文字通りの手詰まり。
しょうがないので、自由な足で、自宅に向かってひたすら歩くことにした。
「……おい、もっと端に寄れ。トラックに轢かれて昇天しちゃうぞ」
「じゃあ抱っこして!」
「なら私はおんぶで」
………………………どうなってんだこれ……。異世界転生してないのに、獣人娘と氷炎の魔女を両手に侍らせてんぞ……。しかも家帰ったら正妻の雷龍様と、お菓子の国のお姫様やってる妖怪サトリがいます。
人外魔境、ここにあり。




