四月二十九日(土・11)。一番のガキは、誰だろう?
ぴたりと動きを止めた俺と詩乃梨さんの瞳に映るのは、耳を塞いではずの手をしれっと外して思い思いの体勢を取っている少女達。
彼女達が見せている反応は、文字通りの三者三様だ。両腕を組み眉間にしわを寄せて何事かを思案している真鶴佐久夜、震える頬を両手でがっちりと挟み込んで無表情を取り繕ってる真っ赤なお顔の綾音さん、こたつに頬杖を突いてぼーっとした面持ちでこちらを眺めている千霧。
声が失われた空間に、空気を読んだがゆえに空気を読まなかった綾音さんの溌剌とした声が響き渡る。
「私、ディープキス程度じゃいちいち反応しないっすよ! じぶん、土井村夫妻に鍛えられましたゆえ! これでもう、メルヘンあやのんとか箱入り娘だとかばかにされないですむですよね! きすなんて挨拶じゃよ、あいさつ!」
「…………………………あ、そすか」
ツッコミ所満載だけど、敢えてコメントはすまい。とりあえず、綾音さんは土井村夫妻の奇行を好意的に受けとめてくれたようなので、それだけわかっていればいい。
問題は残りの二人だ。
「……さくや、難しい顔してる。にあわねー」
詩乃梨さんに辛辣なお言葉をかけられて、真鶴佐久夜は芸人的なオーバーリアクションを取りかけた。が、なぜかそれを思いとどまって、中途半端にバンザイしたおかしな体勢で俺にちらちら視線を送りながら口を開いた。
「……あんさぁ、しのちー。……こたちーって、実はかなりネガティブなお方でいらっしゃったの? ……なんや、これまでの甘々お兄ちゃんな印象とギャップありすぎてびっくりやし……、あと、山岡くんに対して、色々偏見がすごかった気がするんやけど……」
本人を前にしてけっこう率直に物を言うなぁ。そっか、甘々お兄ちゃんって思ってくれてたのか。実態はこんな偏見まみれのネガティバーなのですごく申し訳ない。
詩乃梨さんは俺の頬を手探りでぺちぺちと叩いてきながら、ドヤ顔浮かべてそうな弾んだ声で真鶴佐久夜の問いに答えた。
「こたろーは、元々こんなだよ。でも、普通の人だったら隠したくなるそういう部分も、全部わたしに見せてくれるの」
「……ぬ、それはちょっと良いかも……。……で、でも、山岡くんが言ったこととかやったことに対して、感想がやたら酷かったような――」
「やまおかなんてどうでもいい。こたろーにいやな思いさせたから、そいつはわたしにとって敵。きらい」
詩乃梨さん、一切の迷い無く断言。真鶴佐久夜は虚を突かれたように息を詰まらせ、手と目線をふらふらと彷徨わせて、千霧に助けを求めた。
「ね、ねー、かやちー。うち、おかしなこと、言ってないよね? どいむら夫妻が山岡くんのこと虐めまくってるんやけど、うちの方がおかしいん?」
千霧は頬杖を突いたまま、微妙に焦点の合っていなかった瞳に真鶴佐久夜を映して、ふっと微笑んだ。
「佐久夜ちゃんの感性の方が、人として正しいと思います」
「……だ、だよね。よ、よかった――」
「でも、この場のみんなの『友達』としては、どうしようもなく間違ってます」
千霧の声音には、どこか嘲りや憐憫めいた響きが含まれていた。
真鶴佐久夜は、それをしっかりと感じ取ってしまったのだろう。豪雨に晒された仔犬のようにすっかりしょぼくれてしまい、千霧から逃げるようにすっと顔を逸らして、お菓子の国のお姫様に縋り付いた。
「……あやちー、たすけておくれよぅ……。なんか、うちまで悪者扱いされ始めとる気配やねん……。これ、いじめ?」
綾音さんは頬を両手で揉み揉みして熱と強ばりをほぐしながら、「んー」と軽い調子で唸った。
「佐久夜ちゃんは、山岡くんと直接話したことがある上であんまり悪い印象は抱いていないから、みんなの態度に納得がいかない、ってことなのかな?」
「そ、そう、そうです、そうなのです! さすがあやちー、サトリと呼ばれるだけのことはある!」
「……それ、琥太郎くんしか言ってないんだけどなぁ……。えーと、うん。私も、琥太郎くんの話を聞いた限りじゃ、山岡くんは悪い人じゃないんだろうなって思ったよ」
「だっ、だよねっ、そうだよねー! さあこれで形勢は二対三、なんとか勝負になる戦力差に――」
「ごめん、一対四かな。私も、山岡くんのことはあんまり好きになれないから」
小さく挙手しながら、申し訳なさそうに痛恨の一撃を放つ綾音さん。
信頼していた相手に手酷い裏切りを受けたような驚愕と悲壮を全身に塗りたくった真鶴佐久夜に、綾音さんはちょっぴり困ったような様子で内心を吐露した。
「ナメられたっていう表現は、流石にどうかとは思うけど……でも琥太郎くんの率直な感想だから、そこを否定しても意味無いしなぁ……。……でも、うん。山岡くんはちょっと琥太郎くんの優しさに甘えすぎだし……、それに、香耶ちゃんのことも好きだってわりにはちっとも考えてくれてないなって、私は思っちゃった」
「………………かやちーのこと?」
「うん、そう。……ずっと尾行して、駅とか……自宅までついてきて、それに張り込みや出待ちみたいな真似もして、逃げても逃げても追いかけてきて、けど本人に悪気は無くて、むしろ有るのは恋愛的な意味での好意だけ。……そんな人に付きまとわれる私の――じゃなくて、香耶ちゃんの気持ち、山岡くんは全然考えてくれてないよね。………………気持ち悪い」
ぼそり、と。最後に漏れ出た呟きは、切実な実感と、綾音さんらしからぬ嫌悪と憎悪に充ち満ちたものだった。
綾音さんは、前髪を軽くくしゃりと握って、熱く、暗く、重い溜息を吐いた。けれどすぐさまのほほんとした笑顔を貼り付けて、恐れ戦いている真鶴佐久夜に向かってぼそぼそと呟く。
「……持って来てくれた、ハンカチ……、悪いけど、私だったら、二度と使えない。……何されたか、わからないもん。……それにさ、なんで琥太郎くんをメッセンジャー代わりに使ってるわけ? 本当は警察に突き出されて当然なのに、穏便に済ませようとしてくれた恩人だよ? なんでその上香耶ちゃん呼び出してとか言ってるの、ちょっと図々しくない? だいたい、何の権利が有って、香耶ちゃんにわざわざ出向いてこいとか言ってるの? 何がどうなったら、この状況で自分が香耶ちゃんと交際できるとかありえない妄想できるわけ? これ、あれだよね。――『ナメてる』よね、完全に」
笑顔の似合う女の子は、笑顔でキレることができる器用な女の子でした。
真鶴佐久夜は泣きべそかく一歩手前くらいまで精神的に追い詰められちゃってるけど、俺は逆に盛大に安堵していた。だって、綾音さんの静かなる怒号は、俺の独りよがりな被害妄想に少なからず――というか多大に正当性を与えてくれるものだったから。
綾音さんは熱い吐息をはぁっと吐き出し、己を諫めるようにすっと目を閉じた。
「……ごめん、ちょっと熱くなりすぎた。これはあくまでも私の考えだから、佐久夜ちゃんは佐久夜ちゃんの信じたい人を信じればいいよ。ストーカーとか、山岡とかね。なんでそんなヤツの肩を持つのかちっとも意味わかんないけど、好きにすれば?」
「………………棘ありすぎだよぉ、あやちー……。静まり給えぇ、静まり給えぇぇ……」
「…………ごめん、ほんと違うの。他の人の意見に惑わされないで、佐久夜ちゃんは自分の信じたいものを信じてね。……私、だめだ。もう黙っておくから。あとは、よろしく」
綾音さんは言うなり、ふて腐れるように上体をごろんと横へ倒した。顔にかかった髪を整えることもせず、宣言通り完全に沈黙。
詩乃梨さんは綾音さんの頭を撫でるようにして髪を梳いてあげながら、情けない顔の真鶴佐久夜に不思議そうな声を投げた。
「さくやは、やまおかのこと、気に入ってるの?」
「……………………え、いや……、気に入ってるっていうか、悪い人ではないなぁって思ってただけなんやけど……。話したこともあんまりないし……」
「怒らないから、ほんとのこと、言っていいよ? わたし、さくやの友達、やめないから」
「……え、なんでそんな優しさいっぱいのお顔なん……? うち、嘘ついとらんよ。……ただ、一方的に悪者にされとるから、かわいそうやなぁって思っただけで……」
「…………ふぅん?」
詩乃梨さんは心底不思議そうに首を捻った。人付き合いを重視しない詩乃梨さんからしてみれば、これだけ俺や綾音さんに嫌われている山岡に対して『かわいそう』などという感想が出てくる意味がわからないんだろう。味方の敵は己の敵であり、その定理に情けや容赦の挟まる余地は無い。
その、歪なようでどこまでも真っ直ぐで純粋な思考回路は、どうやら詩乃梨さんの専売特許ではなかったようだ。というか、その上位互換みたいな危うい代物を、千霧香耶は有してしまっていた。
「佐久夜ちゃんは、友達よりも山岡を取るんですね。男に腰振って女に尻尾振って、今度は私達を裏切って寝返るわけですか?」
味方の敵は己の敵であり、敵に回るならたとえ元は味方であっても容赦しない。千霧は気怠げに頬杖をついて、仄暗い熱を瞳に宿しながら酷薄な笑みを浮かべた。
真鶴佐久夜は一瞬ぐっと息を詰まらせたが、流石に千霧の言いぐさにはかちんと来たのか、眉間にしわを寄せながら眼を細めた。
「……なんだよ、それ。うち、そんなこと一言も言ってないじゃん」
「言ったじゃないですか。詩乃梨ちゃんにも、綾音さんにも、琥太郎さんにも嫌われている相手に、『かわいそう』なんて。佐久夜ちゃん、いったい誰の味方なんですか?」
「だから、誰の味方とか、今そういうこと言ってないでしょ。一方的に責められてる人をかわいそうって思うのが、そんなに悪いことなの?」
「悪いに決まってるじゃないですか。なんでその人がそんなに責められてるのか、無い頭でちゃんと考えて下さい。ただなんとなく『責められてるからかわいそう』とかやめてください、ガキじゃないんですから」
「ガキって何さガキって。かわいそうなものはかわいそうだろ、虐められてる人見たらそう思っちゃうのが人間として普通だろっ!」
「そうですね、それが普通で、それが一般論ですね。でも実際の人間っていうのは、そんな甘っちょろい八方美人な考え方してるお花畑のちょうちょさんじゃないんですよ。そんなこともわからないからガキだって言うんです」
「……………………………………誰がガキだ、くそがき」
「……………………………………誰がくそがきですか、くそビッチ」
女同士の戦いは、理屈や理性を捨てて単なる口汚い罵り合いの様相を呈し始めてきた。
二人が更なる罵声を口にするために、息を大きく吸い込み――
「詩乃梨さん、なんか暇だしちょっと子作りの練習しようぜ」
詩乃梨さんのお腹を撫でながらのほほんと呼びかけてみたら、詩乃梨さんではなく絶賛キャットファイト中の二人がぎゅるんと顔を向けてきた。
詩乃梨さんはビビったように全身をびくんと跳ねさせたが、やがて俺の手の動きに身と心を委ねてきて、ほぅっと穏やかな溜息を吐いた。
「……するの、練習?」
「うん。俺ら、すっかり忘れ去られちゃったみたいだしさ。しばらく楽しいことしながら、事が終わるの待ってよう」
「………………………………ほんとに、するの?」
「してもいいかなってわりと本気で思ってる。女の子二人が罵り合う声なんかより、詩乃梨さんの甘ぁい嬌声聞いていたい」
「……………………ふぅん……」
俺と詩乃梨さんは、この後の展開の決定権を、二匹の雌猫に委ねた。
あれだけ激しくやり合っていたお猫様達は、仲良くアイコンタクトを交わし始めた。それをなんとなく傍受してみたら、大体こんな感じ。
『……え、なんでいきなり子作り始めちゃうのん……? こたちーってばかなの?」
『いや、今の明らかに私達の仲裁が目的でしょうに。なんでそんなことすらわからないんですか』
『………………なんで仲裁でえっちなのん? そもそも、仲裁要らなくね? うちら、これくらいはしょっちゅうやってるよね?』
『……詩乃梨ちゃんはすっかり慣れきってますけど、琥太郎さんの前では初めてですから。自他共に認めるフェミニストですし、女同士の喧嘩に耐性無いんだと思います』
『……………………このまま言い争いしてたら、今すぐえっち見れそうな気配?』
『……………………なるほど。……よし』
よしじゃねえよ。なんでキリッとした表情で握手交わしながら頷き合ってんだよ。
俺はじっとりとした視線で二人を睨め付けながら、深々と溜息をついた。
「……二人共、仲直りしたんなら、ちょっと話聞いてくれるか?」
「仲直りとかしてませんよ! 私は佐久夜ちゃんに言ってやりたい文句が山のようにいっぱいあるんですからね!」
「うちだってそうだよ! かやちーの悪口言わせたらうちの右に出る奴ぁいないぜ!」
「――黙れよ。人の親切、笑顔で踏みにじるのか、お前ら」
自分でも驚くほどに重く響いた、底冷えするような声。
俺は自分の心と場の空気が凍り付いていくのを感じながら、引きつった笑みで固まった少女達をぼんやりと眺めた。
「……俺は、お前らのこと、よく知らないけど……、一応、それなりに気に入ってたつもりだ。……まあ、そんなのは、俺の勝手な気持ちの押しつけなんだけどさ」
今日はよく鬱になる日だ。俺は詩乃梨さんの身体で暖を取りながら、譫言のように呟き続ける。
「……喧嘩が、きみ達にとってコミュニケーションの一環だってはわかった。もう、余計な真似はしない。でも、今俺が『喧嘩しないでほしい』って思ってたのは、二人共わかってくれたんだろ? ……だったら、せめて今だけは、素直にケンカやめてほしかったよ」
それもまた、勝手な気持ちの押しつけだ。
俺がこうしたから、相手にはこうしてほしい、こういう人間であってほしい。
今日会ったばかりの年下の女の子達に、俺は一体何を期待していたのだろう。
「……………………すまん。勝手なこと言った。許せ」
いいや、もう。今日は本当、疲れたから。考えるのは、もうやめよう。
俺は詩乃梨さんから身体を離し、のっそりと立ち上がった。
きょとんとした顔で見上げてくる詩乃梨さんに、心からの笑顔と頭撫で撫でを贈る。
そして、怯えたように俺を見上げて身を寄せ合っている真鶴佐久夜と千霧にも、自分で把握できていない何らかの表情を向けた。
「……俺、山岡くん待たせてるから。ハンカチも告白も、対応は後日改めて千霧本人にってことで、今日の所は帰ってもらうよ」
千霧からも、真鶴佐久夜からも返事は無い。反応も無い。
俺は空虚な思いで胸を満たしながら、きびすを返して玄関に向かった。
……俺、何やってるんだろうな。




