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空気を読まなかった男と不良未満少女の、ひとつ屋根の上交流日記  作者: 未紗 夜村
第四章 『あい』に始まり、『あい』に続く
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四月二十三日(日・1)。おっさんと綾音さん。

 詩乃梨さんは、俺のワイシャツを受け取ってくれなかった。


「なんだかちょっと、そういう気分じゃなくなっちゃったから」と。


 そう語る詩乃梨さんの顔には、申し訳なさそうな笑顔が浮かんでいた。


 戸惑う俺に、彼女は慌てて続きを紡ぐ。


「でもあとでまた欲しくなると思うから、ちゃんと用意しといてね!? もしこたろーの部屋に夜こっそり来てベッド潜り込みたくなったら、裸にそれ一枚だけ着てダイブするから!」


 紡がれた、台詞は。取り繕われた、言葉は。かつて彼女が『絶対にしない』と告げた行為に、彼女らしからぬ直接的なエロい行為に、織り上げられたその文章は。


 どうしようもないほどに、ほころんでしまっていて。



 俺と詩乃梨さんの関係にも、小さなほつれを生み出した。



 ◆◇◆◇◆



 だが安心してくれ。ほつれた箇所は見つけ次第速攻で修繕して、俺と詩乃梨さんの関係を一段階上へ押し上げるための糧にするのが俺スタイル。まだ見ぬ喫茶店の娘さんに嫉妬しちゃった詩乃梨さんの唇をぺろぺろしちゃった時然り、マスターや後輩に嫉妬しちゃった詩乃梨さんの唇をチュッとしちゃった時然り、喫茶店の娘という顔も名前も無い相手から明確な美女へと変身を遂げた綾音さんに嫉妬しちゃった詩乃梨さんの唇を半開きにさせて俺の触手染みた舌をぬるりと侵入させて詩乃梨さんの舌とえっちっちしちゃった時然り。


 今回生まれてしまった小さなほつれだって、そう遠くない未来に、俺と詩乃梨さんの勝利へと続く階の一段となる。一段どころか、もし今回の件を無事に解決できたなら、なんだか数段飛ばしで遙かなる高みに近付けそうな気がする。


 だって。ジャンプのための『溜め』が、あまりにも渾身すぎるんだもの……。シャツ断るだけじゃなくて、昨日の夕飯の時も今日の朝飯の時もここまで来る道中もしのりんってばなんだかめちゃめちゃ余所余所しかったんですもの……っ!


「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……………………」


 俺は心を埋め尽くす重いものを溜息に乗せて吐き出し、テーブルにぐでんと上体を預ける。


 頭の上から、しょっぱいおっさんの「ハッ」という小馬鹿にしたような鼻息が降ってきた。


「なんだ小童、早くも倦怠期か? やっぱテメェみてぇなくたびれたリーマンには、あんな御伽の国から飛び出して来たようなモノホンの妖精さんの相手なんざ無理だったか。でもまあ心配すんなよ、どんな円満な夫婦にだって、そういう時期ってのは必ずあるもんだ。そういう時はとりあえず身体動かして鬱憤発散しとけ。そうだ、フリスビーなんてどうだ? 仕方ねぇから俺が付き合ってやってもいいぞ? ん? で、どこでやる?」


「うるせぇ妖怪フリスビーおやじ! あんたどんだけフリスビー大好きなんだよ! 大体あんた今仕事中だろうが、客いねぇけど! でもね、えっとね、慰めてくれてありがとうございますです」


 俺はテーブルに手を突いて食ってかかった体勢のまま、ぺこりと感謝のお辞儀をした。


 カウンターの向こうのおっさんは、お盆をバスケットボールのように指先でくるくると回しながらハハッと軽く笑う。


「ようやくいつもの調子が出てきたじゃねぇか。俺様が丹精込めて煎れたコーヒーを、しょぼくれたツラで泥水みてぇに啜られちゃぁたまらねーからな。テメェはそうやって無駄にぎゃーぎゃー喚いているくらいで丁度良いんだよ」


「いつもしょぼくれたツラしてたり無駄にぎゃーぎゃー喚いたりしてるのはおっさんも一緒だろうが。人のこと言えねぇだろ」


「んなことねぇよ、俺普段は寡黙で渋めでワイルドなおじ様で通ってんだぜ? テメェと話す時はテメェのレベルに合わせようと脂汗流して必死に頑張ってんだよ。感謝しろ、小童」


「へーへー、ありがとーごぜーますよ、ワイルドなおじ様。……あ、ねえねえワイルドなおじ様ぁ、コーヒーのお代わりくださいますぅ? ロハでっ!」


「気色悪ぃ声出すんじゃねぇよ、大体ウチはそんなサービスやってねぇっての。二割引で満足しとけ」


 俺は椅子に座り直し、空になったカップをおっさんに手渡した。おっさんはそれを流れるように自然な動作で受け取り、大仰なコーヒーメーカーを巧みに操って新たなコーヒーの錬成を始める。


 俺は頬杖をついておっさんの後ろ姿を見ながら、ふと気になったことを聞いてみた。


「おっさんにも倦怠期なんてあったのか? めちゃくちゃ幸せな家庭築いてるだろうが。奥さんのほほんとした美人であんたのこと大好きだし、綾音さんものほほんとした美人であんたのこと大好きだし。おっさんの尻蹴っ飛ばしていい? あまりに羨ましすぎて俺の方が爆発しそうなんだけど」


「なんだ、やっぱおめぇ俺の尻に興味あったのか? あっちゃー、それが原因で妖精さんとの仲がぎこちなくなっちゃったわけかぁー。ごめんねぇーこたろーくーん、全部俺のせいだったのかぁー。カァーッ! モテる男はつらいわー! マジつらいわぁー!」


 う、うぜぇ……。そっちがその気なら俺だって弄り倒してやるぞ。


「そういえばおっさんさー、綾音さんの男女関係の規制厳しすぎないか? あんまり箱入りにしちまう免疫力無くなっちまって、そのうち変な男にコロっと騙されちゃうかもよー?」


 殊更にニヤニヤしながら軽くジャブを放ってみたら、おっさんの動きがぴたりと止まった。


 あれ、おかしいな。ここは烈火の如く怒り狂って「そんな男は俺がこの手で去勢した上で皮を剥ぎ肉を削いでキャンプファイヤーの薪にしてくれるわ!」とか言う場面じゃ無いの? なんでコーヒーメーカーをじーっと見ながら哀愁漂う背中晒してるんだろう。


「………………なぁ、琥太郎よ」


「いきなり渋い声でファーストネーム呼ぶんじゃねぇよ、うっかりときめいちゃうだろ。で、なんだよ善吉」


「……おめぇ、昨日、綾音に会ったんだってな?」


 おっさんの声には、俺を咎めるような意図は感じられない。ただの事実確認のようだ。


 ふむ。まあ隠すようなことでもないし、むしろ隠した方が余計な疑いかけられそうだし、仕方無いから素直に応えてやるとしよう。お代わり二割引にしてくれた礼だ、ありがたく受け取れ。


「会ったよ、おがわで偶然な。でも俺あんまり会話してないぞ。綾音さんってば、俺そっちのけで詩乃梨さんときゃっきゃうふふしてたし。今日だって上で絶賛ガールズトーク中だし」


「……そうか。……なあ、おめぇ、綾音とは何年くらいの付き合いになる?」


「は? 何年って、おっさんと同じだろ。五年か六年くらいじゃないか。綾音さんが中学生くらいの時から知ってるっちゃ知ってる。まぁ、まともに会話らしい会話をしたのは昨日が初めてだけど」


「……そりゃあ、俺のせいか?」


 俺のせい? 何が? ……綾音さんと俺がほとんど会話したことがない原因がか? ほんとどうした善吉。無駄に大きいはずの背中がやけに小さく見えるぞ。


 どうしよ。こんなおっさん調子狂う。はやく元気になれ。今は俺がしのりんとの関係に悩んでる所なんだから、お前喫茶店放り出しても良いけどちゃんと俺のカウンセラー役は果たせよな。職務怠慢だぞ。


「おっさんの所為って言えば、まぁ、そうな。綾音さんにみだりに近付かないようにって散々言われたし。でもおっさんは悪くねぇよ。大事な一人娘で、しかもあれだけの美人となれば、父親としてはちょっとどころじゃないくらいに過保護になるくらいで丁度良いだろうよ」


「……父親としては、か」


 この俺がせっかく慰めてやったというのに、おっさんは重苦しい溜息を吐いて肩をがっくりと落としてしまった。


 うまく言葉が見つけられずにしばらく沈黙していると、おっさんが唐突に「あー」と呻きながら天を仰いだ。


「なぁ、琥太郎。もし自分の娘によ、『私、パパのお嫁さんになるー!』って言われたら、どうする?」


「『よーし、パパがお前のお婿さんになってあげよう! 他の男になんざ絶対渡さねぇ、俺が身命を賭して絶対幸せにしてやるぜ!』ってなる。……あ、もしかしておっさんの過保護の理由ってそっから来てるの?」


 綾音さん、おっさんのことめちゃくちゃ大好きだもんなぁ。本来父親を毛嫌いするような年齢になっても一緒にフリスビー満喫しちゃうくらいなんだから、ちっちゃい頃は当然のようにパパのお嫁さんになると公言してたに違いない。おっさんマジ羨ましすぎて俺が大爆発寸前である。


 だが。爆発寸前だった俺の心は、おっさんがぼそりと呟くようにして放った衝撃的な問いによって、一気に凍り付いた。




「じゃあよ。もし、『パパのお嫁さんになりたい』って言ってきたのが、もう成人間近の娘だったとしたら、おめぇ、どうする?」




 ―――――――――。


「え?」


「え? じゃなくてよ。鋼の箱に入れて育てた結果、もういい年頃になった娘がそういうこと言い出し始めちまったとしたら、おめぇならどうするかって話だ。ただの例え話なんだ、まぁ気楽に答えてくれや」


 おっさんは相変わらず天を仰いだまま、ついでに首に手を遣ってこきこき骨をならす。先程までの鬱々としていた空気から一転、わざとらしいほどにどうでもよさげな風を装っている。


 ……え? ………………え? …………………………え?


 なにこれ、え、つまり、そういうことなの?


 綾音さんって、おっさんのこと大好きだよなぁ、とは思ってたけど……。『好き』って、あの、そういう意味で『好き』なの?


 ………………………………え、マジで?


「………………………………」


 俺、沈黙。おっさんも、腰に左手、首には右手、俺に背を向け、天を仰いでひたすら硬直。


 ………………やばい、脳味噌が、うまく回らない。


 回らない、けど。たぶん、このまま黙ってたら、おっさんがすげー傷付くと思う。


 傷心のおっさんなどという煮ても焼いても食えないゲテモノなんて見せつけられたらトラウマ確定なので、とにかく俺は乾いた咽から言葉を捻り出した。


「俺、は……」


 もし、俺だったら。綾音さんみたいに健やかでのほほんとした美人に育った実の娘が、『パパのお嫁さんになりたい』と言ってきたら。


 そうしたら、俺は。


「俺は――『有り』だと思う」


 それは、自分が思った以上に、力強い声だった。


 あまりに力強すぎてこれ近親相姦教唆みたいになっちゃってちょっとヤベェなと思ったので、俺は慌てて自己弁護の言葉を探した。


「もちろん、倫理的に考えれば何がどう転んでも百パーセント『無し』だぞ? そんなの俺だってわかってるよ。世間体良くないどころか社会的に死亡確定で、一生後ろ指差されて生きなきゃならなくなるのは間違いない。身命を賭して幸せにするどころか、自分のその選択のせいで、娘も、あと奥さんも、とんでもなく不幸な目に遭うことになるかもしれん」


「……それがわかってて、『有り』なのか?」


 おっさんの、空虚な問いに。俺は少し迷いながらも――迷った『フリ』をしながらも、己の主張を貫いた。


「有りだよ。俺と俺の娘で、っていうことで想定したら正直よくわかんないけど、父親がおっさんで、娘が綾音さんなら、絶対に『有り』だ」


「なんだそりゃ。なんで俺と綾音なら有りなんだよ?」


「おっさんが綾音さんを不幸にするわけがないし、綾音さんがおっさんを不幸にするわけがない。あとの問題は奥さんがどう思うかってことだけど、俺は奥さんのことほとんど知らないから、そこはおっさんがうまいことやってくれ」


 最後は丸投げである。いやだって俺、奥さんとの絡みって綾音さん以上に少ないんだもん。


 おっさんは魂がどっか行っちゃってるかのように「はぁん」と気の無い返事を返すのみであったので、俺は背もたれに寄りかかって深い溜息を吐いてから付け加えた。


「まあ、なんだ。もし世間の目が痛すぎてたまらなくなったら、俺ん所に顔出せ。おっさんや綾音さんのことを知らないくせに近親相姦ってだけでひとくくりにしてギャーギャー喚き立てる『世間様』なんてお偉いヤツらの目を気にする暇があるなら、おっさんや綾音さんを多少は知ってる俺の生ぬる~い目を見に来い。いつもうまいコーヒー貰ってる礼に、缶コーヒーくらいならおごってやるからさ」

 

 言いたいことは言った。後は知らん!


「おいおっさん、いい加減コーヒーお代わり寄越せよ。いつまで『あっは~ん』みたいなポーズで固まってんだ。仕事しろ仕事」


 テーブルをばしばし叩いて急かしたら、ようやくおっさんが再起動を始めた。


 おっさんは首に当てていた手を後頭部へ持って行き、たださえろくに整えてない髪をがっしゃがっしゃとかき混ぜてアフロヘアーにすると、「はっハァー!」というテンション高い奇声を上げてコーヒーの錬成を再開。


 そしておっさんは、頬を朱に染めたキモいことこの上無い満面の笑顔と共に、ようやくコーヒーを差し出して来た。


「琥太郎よぉ! おめぇ、砂糖ざっばざっば入れたカフェオレみてぇにクッソ甘ぇ奴だな!」


「だからなんでみんなの中の俺ってそんな感じなの? 俺そんなに甘ったるいこと言ってないよ? むしろおっさんを茨の道に蹴り落とすような超厳しいことしか言ってないよね?」


 俺はコーヒーをひったくり、ぐいっと一気に煽った。


 やべぇ、砂糖もミルクも入ってねぇ。超苦い。


 思わず舌を出して顔をしかめていると、おっさんがカウンターに肘を突いてによによと不細工な笑みを浮かべながら陽気な声で言った。


「まぁ、さっきのはあくまでも例えばの話なんだけどな! 綾音のことあんまり過保護に蝶よ花よと育てちまったもんだから、もし本当にそんなこと言ってきたらどうすっかなってふと思っちまっただけでよ!」


「はあ、そすか。……………………え、そなの? まだ『パパのお嫁さんになりた~い』って言われてないの?」


「おう! さすがにマジで言われちまった日にゃあ、高熱出してブッ倒れて店どころじゃなくなってるっての! がっはっはっは!」


 がっはっはじゃねぇぞゴルァ!? 俺のシリアス返して!? 無駄に真面目ぶって損したわい!


 苦いコーヒーに口を付けてぶくぶく泡を立てながら、おっさんをじっとりと睨め付ける俺。


 おっさんはひとしきり笑い終えると、目尻の涙を袖でごしごしと豪快に拭ってから、真夏の太陽のような灼熱の笑顔を向けてきた。


「ありがとな、琥太郎よ! おかげさんで、もし本当に綾音が告ってきたとしても、熱出してうんうん唸らずに済みそうだわ!」


「……そうかい。そいつぁー、よかったね」


「おう! よかったぜ!」


 おっさん、今までに見たことないような心からの全力笑顔である。


 俺はしばらくふて腐れてたけど、あまりにもおっさんがにっこにっこしやがるから、ついつい頬が緩み始める。


 ……ああ、流石は綾音さんの父親だな。このおっさんも、接客業の才能有るわ。

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