私を拾った理由
朝食を食べた後、彼が新聞を読んでいるところにちょっかいをかければ、優しく頭を撫でられた。
まるで、いたずらをしたペットを優しく咎めるような彼の態度に、なせか恥ずかしさでいっぱいな私。
することが無くなってしまって暇になった私は、テーブルの上にあったお皿を手に取って立ち上がった。
自分が食べたのだから、片付けるのは当たり前なこと。
ついでに彼の分も下げて、キッチンのシンクの中に置く。
辺りを見ると、すぐに食器用洗剤とスポンジが見つかる。
それを手に取ると、彼の許可なく勝手に洗い出した。
皿洗いを勝手に始めたからといって、彼が怒るとは思えない。
それに鶴も機織したのだ。
猫が皿を洗ったとしても、自分の舌で洗っているわけではないのだからかまわないだろう。
皿洗いが終わってしまうと、洗面所へ向かう。
乾燥機から自分の着ていたものを出し、それに着替える。
下着をつけないままのパジャマ姿で彼の前にいることには少し抵抗があったけれど、着替えを持ってなかったし、彼もそんなことを気にしているようには思えなかった。
猫耳カチューシャを付け、尻尾もつける。
わざわざつける意味があるのかすでに疑問だけれど、今朝の彼を思い出すとつけておいた方がいいような気がするのだ。
無表情で猫の鳴き真似をする彼。
私が子供だったら怖くて泣き出していたかもしれない。
いったいなぜ鳴き真似なんかしたのだろうか?
今でもわからない。
私が着替えて戻って来ると、彼はどこかに電話していたようで携帯の電源を切っているところだった。
「おいで」
戻ってきた私に気づいた彼に呼ばれ付いていく。
彼は壁についている数字の書かれたパネルの前で数字を打ち込むと、私の手をとって、横にあったガラスに人差し指を押し付けた。
ピピっという電子音が聞こえ、彼は私の手を離すとまたパネルを操作し始める。
「これでいつでも外に出られるよ」
「え?」
「鍵はドアが閉まれば自動的にかかる。開ける時は人差し指でプレートに触れれば自動的に開く」
「……」
名前も知らない、猫のコスプレをしていたコンビニのバイトをしていた女を拾っただけでも奇特だというのに、彼は私にこの家への出入りを許したのだ。
こんな簡単に鍵を与えてしまうなんて何を考えているのだろうか?
セキュリティがしっかりしていても、彼の認識がこれでは意味をなさない。
「どうして?」
「何が?」
「どうして私を拾ったの?」
ずっと心にあった疑問が自然と出る。
「君は自分で捨て猫になった。それは自分を捨てたいと思うようなことがあったからだ。そんな君を俺が拾っただけだよ」
彼の言葉に、心臓が大きく跳ね上がった。
……そう、私は捨てたかったのだ。
生真面目で面白味のない自分を。
何も出来ない無力な自分を。
こんな自分にいったいどんな価値があるのだろうか?
世界の平和を守るヒーローになりたいなんて思わないけれど、誰かの特別になりたかった。
そんな価値が欲しかったのだ。
「俺は仕事ばかりで何もしてやれないだろうが、君が1人でゆっくりできる場所くらいは提供できる。満足するまでここにいてゆっくりしてみるだけでもいいんじゃないか?」
「……私のこと知らないのにどうしてそこまでしてくれるんですか?」
「名前は知ってる。遠野 美音子さん。コンビニで働いている時、ネームプレートで名前を覚えた」
「あ……」
彼が私を覚えていたことに少しだけ驚く。
まあ、いやがらせのようにビールを転がしてしまったのだ、覚えていてもおかしくはなかったのかもしれない。
「不可抗力でもビールを毎回落とすだけでも印象に残るのに、4度目はわざとやっただろう?」
「……はい」
「君の中で我慢出来ないことが爆発していて、その八つ当たりの相手が俺なのは気づいていたよ」
「……」
いきなり父の再婚を知らされ、あの日はその相手と初めて会った日だった。
再婚話には驚いたけれど、再婚に反対だったわけではない。
それなのに会った再婚相手は嫌な人だった。
父の前で優しく理解のある態度なのに、父に話が聞こえないくらいの声でいろんな嫌味を言われた。
この年齢で無職なこと。
彼氏がいないこと。
地味なこと。
最初からいきなり上手くいくわけないことはわかっていた。
それでも、仲良く出来ればと思っていたのだ。
馬鹿な望みを持った自分が可笑しかった。
いい年してどんな幻想を抱いていたのだろうかと。
彼の言う通り、ただの八つ当たりだった。
くだらない自分が恥ずかしい。
「ごめんなさい……」
「謝らなくていい。君はあの後、自己嫌悪と空しさを感じている表情をしていた。自分の行動に気づいて苦しんだだろう?」
「はい」
「だからもう許している」
彼の顔は無表情のままだったけれど、声は限りなく優しいものだった。
「俺は偽善者じゃない。ただ、君が会計をする時、いつも俺に言ってくれた言葉が嬉しかったから、そのにお返しをしているだけだ」
「言葉?」
彼に言われて自分が何を言っていたのか思い返す。
バイト中、私は袋を渡す時、サラリーマン風の人には必ず「お仕事お疲れ様でした」と言っていた。
「たった一言のいたわりの言葉の為に、俺は君のいるコンビニで買い物をしていたんだ」
ただ、仕事で疲れている人に何かを伝えたかったのだ。
その一言が聞きたくて私のいるコンビニに買い物に来ていたと彼が言ってくれた。
私の心の奥がほんの少し熱を持つ。
彼は無表情だけれど、細かい所まで気づく人なのだ。
私は彼のパジャマに手を伸ばし、その端を握る。
「嬉しい……。ありがとう」
小さくかすれた声しか出なかったけれど、彼は私の頭をまた撫でた。
なでなでって感じではなく、なでりなでりって感じの撫で方だ。
彼にとって私はまだ愛玩動物的なものなのかもしれない。
それでも、私の中で彼の存在がまた少し大きくなったような気がした……。