2幕 思い出に耽って
「千尋の奴はもっと俺たちに素直になるべきだ。そうは思わんかね、美月くん」
「全くだな、雪彦殿」
雪彦と美月は大方思い出して、謎のコントを交えつつ共感をしていた。
しかしその思いはどうやら本当のものらしく、二人とも一色にはもっと甘えてほしいと思っていた。
……時に猫を思い出してもらいたい。猫は世間的には懐くのに多少なりとも時間を要すると言われている。特に一色は動物に例えると猫に近しいものがある。
心を開くのに時間が掛かり、すぐにどこかに行ってしまう。だが一度懐いて甘えるようになれば、この世のものとは思えないほどに可愛く見えてしまう。
簡単に言い表せば、二人の感情はそれに近いものであった。
「千尋をもっとデレさせる一手を考えたいところなのだが……この場合は初香と結託した方が良いものだろうか」
「いや、あいつは困らせるだけだ。この場合は虹ちゃんを参考にした方が良いけど――あれは天然ものだ。俺らが真似しようと考えたところで、到底上手くいかないぞ」
「……そうだな。虹の天然な可愛さには、私も常日頃からノックアウトされている――しかし中々甘えてこない分、不意にどうしようもなく不安そうな顔をした時は、こう……お持ち帰りしたくなるな」
貴音美月よ、それは女子が言って良いような発言ではない。どこぞの軽薄な男が普段から日常茶飯事に言っている言葉だ。
彼女もそのことにすぐに気付いたのか、ハッとして……
「ふっ、私としたことが、お前の近くに居過ぎて考えが伝染してしまったよ……虹、穢れてしまった私を許しておくれ」
「お前、卒業式だからって何でも許されると思ったら大間違いだぞ…っ!! 俺だってそんな見境ないわけじゃねぇよ!」
……それも事実なのだが、世間から受けている海老名雪彦の固定概念は、もはや覆すことが出来ないところまで来ているのだ。
無論、それは美月や初香のせいであるが。
「……美月、もしもお前が大学でも俺の悪評を広めたら、許さねぇぞ」
「ふっ、お前に出来ることなど高が知れて――」
「お前が男でも女でも見境なしって広める」
「――私とお前は親友じゃないか、ははは」
唐突に美月が雪彦に対して友好的になり、肩に腕を回し始める。……本当に彼女は現金なものだ。
雪彦はそんな美月に嘆息しつつ、馴染み深い校舎を歩く。
――二人は今、最も馴染み深い特別棟を歩いていた。特別意識して歩いていたわけではないのだが、無意識に足がここに向かっていたのだ。
特別棟は一階に学生食堂と購買部、そして保健室がある。特に食堂と購買部は美月と雪彦も良くお世話になっていたため、少し寂しい気分になる。
「良く美月は購買でおにぎり買い占めてたよな」
「握り飯は日本人の食すべき伝統的な食べ物だ。あれほど画期的な食べ物はない――腹に溜まり、方向性が様々で、かつお手軽。素晴らしい料理だ」
「……なんかそう言われると、めちゃくちゃすげぇ食べ物の気がしてきた」
美月が自信満々にそう語るものだから、雪彦も影響されてお腹が空いてくる。
具材にこだわれば、おにぎりは幾らでも味が変えられる食べ物だ。何でも有りと言ってしまえば聞こえが悪いが……ひとたび職人(一色)が作れば、ただのおにぎりだけでお店を開いてしまうのではないかと思ってしまうほど。
事実、一色のおにぎりを食べて以来、美月はそこらの市販のものでは満足できない身体になっていた。
「……おにぎりと言えば、一色の料理の才能は予想の範疇を超えていたな」
「そうだな。あいつの弁当を初めて食ってから俺も時々料理するようになったんだけどよ……何せ目標が高過ぎる。あいつはもはや職人だからな」
「あれか、胃袋を持っていかれたというやつか! ……虹の料理とは方向性が違うが、あれを毎日食べている和那は、さぞ舌が肥えているだろうな」
水無月も料理上手ではあるが、彼女の場合は食べて安心する家庭的な料理がメインである。比べて一色は家庭的な料理もするが、調理法にこだわって、まるでお店で出てくるようなものを平気で出すのだ。
味覚のセンスが一色は優れているのだろう。
「……何気にスペック高いよな、千尋。最近じゃ笑顔も増えたから、あいつ二年生に上がったら、かなりモテるんじゃねぇか?」
「くっ……私の目が届かないところに、虹と千尋がいるのが辛い……っ!」
「お前の変貌ぶりには流石の俺でも千尋に同情しちまうよ」
色々と彼の過去を知ったからと言っても、美月の変化は極端なのである。
……二人は一回の保健室の前を歩く。そこで雪彦はふと、遠い目をした。
「……最初にさーちゃんと渡邊先生が付き合ってるって聞いた時は、辛かったなぁ」
「まだ気にしていたのか。未練がましい男だ」
「未練っていうか、あれだ。自分の好きなアイドルとか女優さんが、結婚しちまった時の気分だ――お前で言えば、こーちゃんが誰かと付き合って」
「千尋以外は認めん」
この断言具合を当人たちが聞けば、赤面して何も言えなくなるだろう。
逆に言えば美月の中では水無月の交際相手が一色ならば何も問題はなくなっているのだ。ほんの半年前では考えられない変化である。
少し前までは「私が永遠に虹を守る!!」と豪語していたのと比べれば、幾分か成長しているのではないだろうか。
「……でも、実際のところさ、千尋の過去を仮に知らなくても認めたんじゃねーの? 千尋なら虹ちゃんを任せられるって」
「…………さぁな」
雪彦がそう指摘すると、美月は不敵に笑った。
――そもそも美月は一色のことを最初から気に入っていた。水無月に近付く男子ならば、まずは牽制するところから始まるものを、一色には特にそれもしなかったのだ。
もちろんあまりにも度が過ぎる接近には目を光らせていたが……それでも他とは隔絶した違いがあった。
「最初は勘でしかなかったが、結果として私のそれは当たっていたよ。あいつらは鏡写しみたいに似ていて……どっちとも可愛い後輩たちだ。それはずっと変わっていないよ」
「……はっ、違いねぇな」
美月の言うことを雪彦は肯定し、階段の前まで歩いてきた。
……美月と雪彦にとって、ここから先が高校生活の記憶が詰まった道のりだった。
「……マジで怖い鬼ごっこ、何回もしたな。この階段で」
「おい、その言い方は少し私を侮辱する旨が含まれているぞ」
「……捕まったら最後、意味するのは死だったな」
美月を無視して雪彦の白けた独白が続く。
……もちろんそれは些細なもので、本当はもっと大切な思い出の数々がある。だが、ふざけていないと感傷に浸って、つい涙ぐんでしまうのだ。
「……お前がさ、美術部を創るって言い出した時は大変だったぞ」
「そうだな。……教師二十名の賛同と、最低二人の部員、更に顧問を一人設けないと創部が出来ないからな」
「特に厳しかったのは二十人の賛同だよなー。俺ら、あんまり教師の中では良い生徒ではなかったから……半分以上はお前の迫力で落としたようなものだし」
雪彦は昔のことを思い出して、つい苦笑いを漏らしてしまう。
……高校に入学してすぐ、美月は新しい部活を創ると宣言した。しかし彼女は部活創立の条件を何も知らなかったため、色々な根回しをしたのは雪彦である。
影で協力してくれそうな先生を選別し、美月が目に余る言動しそうものなら身体を張って止める。美月の前や、彼女も知らないところで美術部発足の後押しをしていたのだ。
言わば影の立役者なのだが、雪彦はそれを自ら大々的に発することはしない。
……それを自分から誇ってしまうのは違うと思っていたからだ。
美月に何かを求めたいわけでもなく、それを知って良い格好を見せたいわけでもなく ――真っすぐな美月を、支えてあげたかった。本当にそれだけの理由だ。
「……お前には、迷惑を掛けたな」
「――ッ」
ふと、そんなことを考えていた雪彦の心を読んだかのように、美月がそう呟いた。雪彦は突然の呟きにドキリと胸が高鳴り、驚きの表情で美月の顔を見る。
――もしかして、美月は全部知っていたのか? そんなことを思っている矢先……すぐにそれは違うことが分かった。
「お前の了承も得ずに勝手に美術部の副部長にしたんだ。幾ら部員が二人必要とはいえ、いつもノリの延長線上で勘定してしまって申し訳――ってなんでそんなに引き笑いを浮かべているんだ?」
「……いや、別に。お前がそんな器用な奴じゃないって思って安心したのと、ちょっと期待した俺が馬鹿だったって再確認しただけだ――はぁぁぁあ」
雪彦は盛大な溜息を吐いた。別に知ってもらいたいわけではない。わけではないのだが……それを察して少しときめいてくれても良いんじゃないか、と思ったのだ。
しかし美月にそんな回りくどいものを求めても意味はない。そして雪彦自身、自分からそんなことを告白するつもりもない。
つまり諦めの溜息なのだ。しかしすぐに雪彦は可笑しそうに笑った。
「……変な奴だ。表情がコロコロ変わって」
「お前に言われたくねぇよ――お前に巻き込まれるのなんて、もう気にしても意味ないだろ。何せ、美月は誰かを巻き込んでこその女だからさ」
そして彼女の額を軽く小突く。美月は小突かれた額を抑え、疑問符を浮かべながら首を傾げていた。
そんな美月を放って、雪彦は先を歩く。
「それに色々と楽しかったし、結果オーライだ。終わり良ければオールオッケーってな」
「……それなら、私は嬉しいよ」
美月は見た目に合った、清楚で可憐な微笑みを雪彦に向けた。
普段は快活で豪快な笑い方ばかりするから、雪彦はつい見惚れしまう。美月の反則的なギャップに充てられて、少しばかり頬が赤く染まった。
「どうした、雪彦。顔が赤い……」
「は―!? そんなことねぇし! ちょっと風邪気味なだけだしぃ!?」
「な、なに!? それは大変だ! これから卒業式なのにそんなもの、勿体ない!! えぇい、デコを貸せ!!」
雪彦の照れ隠しを真に受けて、美月は雪彦に近付いて彼の前髪を上げる。そして自分の額と彼の額をピタリと合わせて……
「……っっっ」
「ま、また温度が上がった! 不味いな……これでは今日の予定が色々と狂って」
「ど、どうともねぇよ! ……お前のそういうところ、好きだけど嫌いだわ」
「ん、何か言ったか?」
雪彦がボソッと呟くものの、幸いそれは美月には届いていなかった。美月は首を傾げている中、雪彦はもう一度だけ溜息を吐き、
「なんでもねぇよ、バーカ」
「む、せっかく心配してやっているのに、馬鹿とはなんだ! それだからお前はいつもいつも――」
照れ隠しを見抜けず、絶好の弄る機会を失う。それが美月らしいと言えば美月らしい。
……美月と雪彦はいつも通りの口論を繰り広げながら、特別棟の階段を上がっていく。二階を過ぎて三階まで上がると、そこからは一本道だ。
この一本道の先に、二人にとって一番の思い出の場所がある。
「……やっぱり最後はここに行き着くよな」
「当然だな。何せ、私たちの高校生活の全てはあの部室にあるのだから」
部室は三階の一番奥にあり、それまでに幾つかの教室を横切る。それらも文化系の部活の部室なのだが、あまり活動的ではないため滅多に開いていない。
だからこの三階は美術部だけが使っているようなものだ。騒いでもいるのに苦情があまりないのもそれが理由である。
……ちなみに騒ぎ過ぎた日は、二階の家庭部から説教される日はあることは内緒だ。
「……青春の場所だな」
「――私たちがたくさん成長できたのは、この部室があって、そこに雪彦や初香、虹や千尋。皆がいたからなんだろうな」
部室の前に辿り着き、美月は扉に手を触れて、感慨深くそう呟いた。
――ここに来ると、今日で最後なのだということが、嫌でも現実味を帯びてしまう。
だから美月は寂しい。
……ここに誰よりも居場所を感じていたのは水無月だ。美月は――この美術部を、誰よりも守りたいと思っていた。
そんな美月にとって、この部室は家のようなものだ。……そこから去るというのは、どうしようもなく物悲しい気持ちになる。
「……扉は、開いていないか」
「いつも美月が最初に来て開けてたからな――今から取りに行くか?」
「…………いや、良い――卒業式が終わったら、改めて見納めに来よう」
美月は扉の取っ手から手を離し、雪彦の方を向いた。そして彼の隣を通り過ぎる。
「あぁ、あと二年間は高校生をしていたいものだよ」
そしてそんな願望を口走った。
「二年ってことは、今から一年生に戻りたいってか?」
「そういうことだ」
雪彦は呆れるような顔をして、胸の前で腕を組んで美月を見つめる。
そんな雪彦の方に美月は視線を向ける。雪彦からは丁度美月の横顔が見えて、それと同時に窓から太陽の光が美月を照らした。
「――だって、そうしたら雪彦や初香、虹や千尋ともっと一緒に居れるだろ? そしたら毎日がもっと楽しくなるんだからな!」
「――」
……雪彦は、今日の美月は少しおかしいと思った。どうしてこんなにも何度もドギマギさせられるのかと、心の隅で動揺する。
だが、動揺しては負けだ。美月にだけは、雪彦は負けたくない。それは一種のプライドのようなもので……その小さなプライドは雪彦が何よりも守りたいものだ。
「……心配しなくても」
美月の隣に歩いていき、雪彦は彼女の頭をクシャクシャと撫で回した。あまり美月にしたことがない行為だ。しようものなら、鉄拳制裁が来ても可笑しくないからである。
「お、おい雪彦! きちんとセットしてきた頭をくしゃくしゃにするんじゃない!!」
美月は突然の行動に、もどかしいのか喚き散らす。しかし雪彦はこれくらいしないと気が済まないのか、構わず美月の無駄に綺麗な黒髪を撫で回した。
……そして少しして、
「――そんなに心配しなくても、俺たちは切っても切れねぇよ」
美月を安心させるように笑顔で断言した。その顔を見て、美月は一瞬目を丸くする。
……しかしすぐに微笑みを浮かべた。
「……気を遣ったのか?」
「お前に遣う気なんてねぇよ。前向きじゃない美月は気持ち悪くて、見てらんねぇんだ」
「――そういうことにしておいてやる」
二人して不敵に笑い、そうして来た道を戻っていく。
二人は感傷に浸ることなく……普段通りの雰囲気に戻る。
自分たちの教室に行くまでの間、何気ない会話を続ける。今日の卒業式終わりに皆で打ち上げをするやら、朝まで騒ぎ続けるやら……そんな仲間の用事を顧みず、受け入れてくれるだろうと信じて疑わずに。
そうやって特別棟から出るまで会話は途切れなかった。
――その会話は部室の中にいる、彼らにもしっかりと届いていた。
「……あっぶないなぁ、もう。まさかあの二人がこんなにも早く来るなんて予想外だよ!!」
「保険で鍵を掛けていて正解でした。気付かれないように朝日が昇る前に、学校に侵入していたのに……」
「一色くんの起点のおかげで助かった~」
……そう。部室の中にはずっと、三人が居たのだ。
一色たちはとある目的のために早くに学校に来て、事を進めていた。何の準備かと言えばもちろんそれは……美月と雪彦が愛して止まないものである。
しかし最後の最後まで予想外な行動を起こす二人に、一色たちは苦笑いを浮かべ合う。
「うちの部室が曇り硝子になっていたのが幸いでした。透明だったら勘付かれてました」
壁際で物音一つ立てずに潜んでいたため、三人は床に座ったままである。
一色は立ち上がり、そして水無月と初香に手を差し伸べた。
「おっ、かっこいいー♪ ではでは、お手を拝借――むむ、中々綺麗な手だね」
「イヤらしいんで止めてもらえますか」
「……でも初香先輩の言う通り、一色くんの手は大きくて綺麗だよ」
「――水無月まで、何を言ってるんだよ」
一色は呆れた表情を浮かべていると、二人とも彼の手を取って立ち上がった。
……普段の部室とは少し違う光景を前にして、満足げな表情を浮かべていた。
「こんなに後輩に想われているんだから、果報者だよね、二人とも」
「全くです――あの二人に教えてあげましょう。本当のサプライズというものを」
「い、一色くんがやる気になってる!? ……よぉし、仕上げを頑張りましょー!!」
……そうして、美月と雪彦が知らないところで着々と後輩たちは動く。
――空にはギラギラと自己主張の激しい太陽が地表を照らしている。その自己主張の激しさを、一色は美月と雪彦のように思った。
人生に一度の、高校の卒業式。その卒業式を――一色たちは、美月と雪彦を全力で喜ばせて、感動させて泣かせるように仕向ける。
しかしそこには一切の悪感情はない。
――木漏れ日の美術部、最後の活動。それは……
「最後は笑顔で、追い出してやりましょう。それが美術部の礼儀でしょうし」
「追い出す、その表現良いね! よっし、やる気が漲ってきたよぉ~!」
「……追い出すって言葉的にアウトなのに、美月ちゃんたちに向けてだとむしろ最適に思えるよね」
彼らを泣かせ、美術部から卒業してもらう。
そのために三人はせっせと仕事をするのであった。




