1幕 男の友情が芽生えた昼下がり
第2章のはじまりです
思えば彼女と初めて会話をしたときから、ずっと不思議な子だと思っていた。常に笑顔を浮かべて周りを気遣う姿や、自然と会話の中心になる性質。誰からも愛されて、誰からも可愛いなんて言われる。それでも調子に乗る素振りは見せない。
それが彼女の、水無月虹の本質であることに気付くのに、時間はあまり必要なかった。見ていたらすぐに理解できるほどに水無月は純粋で優しく、気遣いもできる女の子。人見知りで他人と接することが苦手な俺とも自然に会話をするのが彼女だ。
彼女の絵を見て涙を流し、そして彼女の描く世界に興味を持ったから美術部に入部した。俺の目的はある意味では水無月にあり、彼女と触れ合うことであの世界を少しでも知れるんじゃないかな、と思っている。
彼女の描く世界は、本当に自由だ。好きな色を筆につけ、走らせる。違和感ができればすぐに修正して世界を構築し、そして最後は一つの作品を創り出す。その一から十の全てを笑顔で楽しいことを第一に優先して頑張る姿は、確かに周りを和ませる。人を自然と笑顔にさせていた。
彼女らしさが表現されたその世界はやはり彩りに満ち溢れている、と俺は思う。もちろん見えるわけではない。だけどその色が、理屈ではない何かで見える。
――そんな錯覚に囚われるほどに水無月虹の描く世界は美しいと思った。
思い出すのは文化祭を明け、二度目の美術部への訪問時の出来事だ。
『あ、君は確かあの時の入部希望の人!』
美術部の扉を開くと、そこにいたのは水無月だった。
水無月はイーゼルを立てて部活動の準備をしていたようだが、俺の姿に気付いて近くに寄ってきた。俺の顔を覚えていたようで、その距離感は以前に話したときと同様に親しげであった。
『その……一応入部希望で、活動を見に来たんだけど』
『え、本当に!? あ、だったら不肖の私が部活について説明するよ!』
『あ、一つ聞きたいんだけど……水無月って、君のことなのか?』
『……あ、そっか。まだ自己紹介もしてなかったね。はい、私は水無月虹です! よくわかったね?』
『俺は……一色千尋』
……ずっと気になっていた。彼女がどんな世界を自分の中に持っているのか。だから、自分では良く水無月に話しかけた。
『絵ってすごいよね。人が描いたものが、後世に残って、それがすごい価値になったりするんだもん! きっと絵は戦争をとめちゃうくらい、すごいものと思うの』
水無月の言う言葉は独特の言い回しで、彼女の絵に対する価値観は興味をそそられる。
たぶん、水無月の絵を見ただけでは俺はここに来なかった。それでも俺がここに来ようと思ったことは、水無月が俺に問いかけた一つの台詞。
――あなたのこころは、何色ですか? ……その言葉だった。
何を目的でこんな質問をしたのかも、そもそもどうして初対面の俺にそんなことを聞いてきたのかも分からない。だけどあの時の彼女の声が、質問が、ずっと耳から離れず何度も響いた。
まるで俺の心を見透かしたような台詞だと今なら思う。
……偶にだが、水無月は不思議な解釈で独創的な台詞回しや比喩をすることがある。あの時、俺に言って言葉もその一つなのであろう。
……あなたの色は、なに色ですか。
――その答えは、まだ出ないままだ。
「おい一色、何をぼうっとしている」
「……別に何もありませんよ」
「美月も分かってねぇな。千尋だって一人の男だぜ? そういうことを四六時中考えていても不思議じゃ」
「先輩と一緒にしないでください」
「お前と一緒にするな」
お馴染みの流れで一色と美月は雪彦にそう言うと、彼は猛反論をするのであった。
――美月に話しかけられて、一色はハッとした。現在、一色と美月、そして雪彦の三人は画材を買いに町に出ていた。放課後になって部室に向かおうとした一色を二人が拉致して連れまわし、そして現在に至るというわけだ。
そのあまりにもスムーズな事の運びに一色は「最初からメールなり電話なりで連絡してくれればいいのに」などと考えたものの、この二人にそんな常識が通用するはずがないとその考えを捨て去ったまである。
ともあれそんなこんなで街まで連れてこられた一色は、荷物持ちをさせられているというわけだ。
男手が必要だからということで一色と共に雪彦が呼ばれたのもそのためだ。学内では美月も相当に面倒臭いのであるが、ひとたび外に出れば比較的常識人である。よって現状は面倒臭いのは雪彦ただ一人であるので、一色としては気が楽だった。
「今更ですが水無月と海老名先輩は留守番ですか?」
「お前は虹に荷物持ちが務まるほど力があるように見えたか?」
「初香はお前が思っている以上にポンコツとだけ教えてやるよ」
――二人とも言っていることが散々なものである。
しかし実際に買い出すものは多く、男子の手が必要不可欠だというのも納得する。画材一つ一つはかさばらないのだが、美術の教師からのお使いも兼ねているためそれなりの重量になるのだ。特に組み立て式のイーゼルも購入リストに入っているからか、ドシンと重量が嵩む。
「私は店に入って買い出しに行ってくるから、お前たちはここで待っていろよ」
「ほいほい、行って来い、行って来い」
少し高圧的な物言いの美月の言葉を手の平をひらひらと返しながら受け流す雪彦。美月が画材屋の中に入っていくのを確認すると、すぐさま雪彦は周りをジロジロと見渡し始めた。
「何をしているんですか、雪彦先輩」
「何ってお前、可愛い女の子がいるかどうかのチェックに決まっているだろ、馬鹿野郎」
「……先輩は本当にぶれないですね」
もはや、雪彦に対してある意味の尊敬さえも抱きはじめている一色。それを真似しようとは毛ほども思わないが。
しかしながら手持ちぶさということは一色も同意するところである。美月は買い物のときに無駄に時間をかけるため、それだけ待ち時間が長くなるのだ。……迷惑な話である。
「なんであの人に買い物を頼むんですか?」
「……買い物が大好きでな、あいつ。独断で買い物に行こうとするものなら、鬼の形相で来るんだよ。長である私を放って買い物とは良い度胸ね、ってな」
「……めちゃくちゃ面倒臭い人ですね」
「ああ、全くだ。……お、あの子めちゃくちゃスタイル良いな」
この人もこの人だ、と一色は内心で思う。しかしながら美月に対して不満を抱きつつもしっかりと付き合っている辺り、面倒見の良い雪彦らしいと言えば雪彦らしい。
女癖の悪さと悪乗りさえなければ比較的常識人である雪彦。要は女さえ絡まなければ普通の人であるというのが一色の認識だ。人見知りな上に口下手な一色と面と向かって交流を深めようとしているのが良い証拠である。
「――ところで千尋、虹ちゃんとはどんな感じなわけ?」
「……悪意を感じますよ、その言い方」
「動揺しねぇくせに何言ってんだよ。それで実際問題さ、虹ちゃんのこと、どう思ってるんだよ」
色恋沙汰な話題に敏感な雪彦だ。面白さが半分を占めているだろうが、それ以上に単純に興味もあるのだろう。ニヤニヤと笑いながらそう尋ねてくる雪彦に少しばかりイラッとするが、一色は特に取り乱すことはない。平然と言い返した。
「別に、気の知れた同級生ですよ。あんたらと違ってまともですし」
「おぅおぅ、そんなこと言わずによ。虹ちゃんめちゃくちゃ可愛いだろ? 数多の女を見てきた俺が言うんだから間違いねぇよ」
「いや、だから俺が好意を抱くとかは別問題で」
「んじゃ嫌いか?」
……その質問は卑怯だ。一色は雪彦の言葉に対してそう思った。
嫌いか嫌いじゃないか。そう尋ねられたら答えは決まって一つ。嫌いではない、だ。嫌いならばそもそも近づかないし、わざわざこの美術部に入る意味もない。
好きとか嫌いとか、そんなものは一色には分からない。ただ一つ、一色は彼女の描く世界に興味があるのだ。前も今も、それは一切変わらない。
「……そういう先輩はどうなんですか?」
一色はほんの少し、やり返しをしてやった。
「……は?」
雪彦はまさか一色からそんな返答が来ることを予測していなかったのだろう。珍しくキョトンとした表情をしていた。
「俺はこの部活に入って日が浅いですけど、可愛い子に目がない雪彦先輩は水無月を気に入っているんでしょう? すぐに手を出しそうですけど」
「……あぁ、それな。そりゃあめちゃくちゃ可愛いし、好みだけど……美月がいるだろ?」
「……そういう理由ですか」
それは無理だと一色は納得した。水無月に対して異様なほどに過保護で激甘な美月である。もし雪彦が水無月に手を出そうものならば血祭りに上げることは間違いない。血祭りで済めばまだいい。最悪、朝刊に二人の名前が載ってしまうこともあり得る話だ。無論、犯罪者と被害者としてであるが。
「そういうこった。虹ちゃんを好きになるってのは、美月の野郎とまともにやり合わないといけないってことだ。美月もお前にはまだ甘いが、他の男子だとえげつないぞ?」
「……例えば?」
「そうだな。俺と同じクラスの女をとっかえひっかえしているチャラ男が虹ちゃんを狙った時は、後日そいつは女性恐怖症に陥った」
「――経験談じゃないですよね?」
「ちげぇよ!!!」
美月の恐ろしさを二人で語っていると、予想外の盛り上がりを見せる。あまり話す方ではない二人組が会話に花を咲かせるのは大抵、共通の知人の話題であるのは今も昔も変わらないのである。特に陰口に近いものは余計に盛り上がりを見せる。
――だが留意していただきたい。そういった噂話とは、すぐに発覚するということを。政治家や芸能人が不祥事を起こして発覚したとき、マスコミがそのネタを掴んで世間に公表するのと同じように、そういったものはすぐに発覚してしまうのだ。
一色と雪彦はつい話が盛り上がり、周りを見ていなかった。そう……すぐ近くにいる同じ制服を着た女子生徒の存在など、いざ知らずに。
その女子生徒はガシリと二人の肩を掴む。
「あぁ、なんだよ――」
「…………あ」
「やぁ、一色に雪彦? 随分と盛り上がっているじゃないか。ぜひ、私も仲間に入れてくれないかい?」
額に青筋を浮かばせ、明らかに上機嫌ではない笑顔を浮かべている美月。その表情はまさに鬼の形相という言葉を体現していた。こんなにも早く美月が戻ってくるなんて雪彦は毛ほども思っていなかった。いつもなら一時間は帰ってこないところを、美月はものの数十分で帰ってきたのだ。
「……人がね、せっかく荷物持ちをしてくれるから気を利かして飲み物を買いに行ってる傍からお前たちは……覚悟、できてる?」
「お、お前……珍しく女らしい言葉遣いするじゃ、ね、ねぇか」
「――覚悟できてなくても歯を食いしばれ、雪彦ぉ!!」
華麗、ともいえる鮮やかな右ストレートだ。文化系の学部に通う美術部員が出せる代物ではない。その道を進むプロが放つそれと遜色のない殴打が雪彦の整った頬を貫く。雪彦はその余りある威力に仰け反り、白目を剥いていた。
それを見て、一色は柄にもなく心拍数が跳ね上がる。その恐ろしい光景を垣間見て、この次に自分が同じ目に合うのではないかと恐怖していたのだ。この心拍数は初めて水無月の絵を見た時に匹敵すると心で思う。
ふと、美月は優しげな笑顔を一色に向けた。
慈愛に満ちた笑顔だ。大抵の男ならばこれで彼女に心を射止められても不思議ではない笑顔だ。だけども、一色はそれが無性に怖かった。もはや怖いという概念=美月という公式が出来上がるほどに。
「……一色、なぁ一色」
「は、はい」
「お前は真面目だな。きっと雪彦に唆されて、あいつに誘導されて私の陰口を仕方なく言っていた。そうなんだろう?」
「そ、それは……」
話し言葉的にぶっちゃければ本心である。割と真剣に雪彦と話が盛り上がっていたのだ。
しかし自分の隣にある亡骸を見ると、それを言い出すことができない。
「雪彦のせいならば私の左拳は再び雪彦に向かうさ――さぁ、どっちだ、一色」
コキコキと左手の指の骨を鳴らす美月。そうだ、もともとは雪彦が始めた話題だ。自分も最初は何も言っていなかった。雪彦に罪を擦り付ければすべては解決する。
そう思った時、一色は雪彦の亡骸を見た。
その顔は白目を剥いていたが、しかし口元が微かに動いている。
――俺に擦り付けろ、そう言っていた。
「……あんた、馬鹿だ」
雪彦はそう呟いた。そして自分の愚かさに頭が痛くなった。
……罪は罪だ。一色も面白がって美月の陰口を叩いていたのだ。やれ魔王だの、冥界の門番だの、化け物のような人だの、それはもう好き勝に言っていたのだ。それを仲良くしてくれる先輩に全て擦り付ける。
そんなもの男ではない。卑怯者の所業だ。
罪を背負うものには罰を。それが当たり前。目には目を、歯には歯を。陰口には制裁を。
「……ぶっちゃけ貴音先輩は魔王です」
一色がこれでもかという笑顔を浮かべ、そう言い放った瞬間に感じるのは頬に伝わる衝撃。顔が確実に変形しているのが肌で分かる。意識が遠のくのも分かる。
ロールプレイングゲームのラスボスが放つ一撃必殺の必殺技――一色は昔に妹と一緒にプレイしたそれを思い出して雪彦の隣に倒れた。
「――さようなら、一色、雪彦」
美月の足音が遠のく。一色と雪彦の意識も遠のく。
だが一色にはなぜか達成感があった。ふと彼は隣の雪彦を見ると、そこには白目を剥きながらも親指を立てて一色を賞賛する雪彦の姿が。それを見て一色はふと笑みを浮かべる。
一色が雪彦と謎の友情を育んだとある放課後の出来事であった。
○●○●
一方その頃、水無月と初香は部活動を楽しんでいた。普通に真面目な水無月はともかく、意外にも初香も今日はおとなしいのだ。
もちろん話すことが好きな初香だ。ときどき、水無月に話しかけてはいる。だが今日に関しては絵を描くことを優先している節があり、水無月もそのことで初香をチラチラと伺っていた。
「今日は初香先輩、集中力がすごいですね。何を描いてるんですか?」
水無月は気になって初香に尋ねた。
「んーとね、何人もの女性に蔑ろにされて、心が乾ききっている男性(お兄ちゃん)の深層心理を私なりに表現した作品だよ? 名づけて『ひこゆきの叫び』かな?」
「……それ完全にお兄さんのことじゃ――いえ、なんでもないです」
本人がいないところで勝手に絵の題材にされる海老名雪彦。
――しかしそれは当然なことである。今日の活動内容は身近な人を題材に絵を描こうというものだからだ。初香の最も身近な人物は雪彦であることは間違いないのだから。
水無月は初香の作品を凝視して、一言。
「本人が描いてるわけじゃないのに、まるで本人が描いてるみたいですね」
「でしょ? これでもトレース能力は長けていると自負しているよ!!」
「はい――なんか、ないはずのオーラが見えます。人の悲壮感とか執念めいたものを、こんなにも描いた作品、見たことないです!」
水無月は苦笑いをしてながら、そう評価するのであった。
すると初香は自分の作業が一段楽したからか、次は水無月のキャンバスを覗く。
そこに描かれているのは彼女と同じで異性であった。少し変わっているのは、それを動物として表現しているということ。無機質な目をしている、雄の猫が描かれていた。
「――これは、ちひろんだね」
「あ、やっぱりわかります? 最近の身近な人って言われたら、一色くんのことが思いついたので、つい」
「いやぁ、でも特徴は捉えてるよ? ほら、無表情なところとかは間違いなくちひろんだよ」
そうやって水無月を褒める初香。しかしそれとは相反して、彼女の目がキラリと光った。
――三度の飯よりも悪戯が好き、とは彼女を表現する言葉である。人の揚げ足を取り、弱みを見つけては悪戯を仕掛ける。これこそが海老名初香の本性であり、小悪魔的な側面の一つ。
その初香の勘が冴え渡った。これは水無月を弄る絶好の機会であると、瞬時に判断したのだ。
「そっかー、こーちゃんの最近気になる男の子はちひろんなんだねぇ~」
「そ、その言い方は語弊がありますよ!」
水無月にとっての「気になる」とは、純粋な同級生としての意味である。しかし今の初香の言い方はまるで、色恋沙汰を連想させるようなものであるのだ。
しかし水無月のそんな反応は想定の範囲である初香は、更に燃料を投下する。
「でも写生会の時はすごく仲良しさんだったよねー♪ 傍から見れば恋人さんだったもん」
「あ、あれは疲れたから岩場で休憩していて、他意はなくて……」
「でも嫌じゃないよね? ほら、今もちひろんがいないから、ちひろんを想って絵を描いていたりして……」
「――ッ」
「え」
水無月が顔を真っ赤にして固まるのを見て、初香はつい素の声を出してしまう。
……まさかの図星に、水無月は何も言えない。感情の種類はどうであれ、実際に一色のことを考えて絵を描いていたことには間違いないのだ。
そしてそれを突っ込まれたら、嫌でも一色を意識してしまうというわけだ。
……初香としてはもっと食い下がると思っていたのだ。しかし蓋を開ければ満更でもない水無月の反応に、
「……ふむ」
多少の物足りなさを感じていた。
……そんなときであった。彼女の携帯電話が小刻みに震える。照れて可愛らしい反応を見せている水無月を横目に、初香はパカッと携帯電話を開けた。
メールが一件ほど届いていた。送り主は彼女の兄である海老名雪彦である。
『今日、千尋を家に連れて帰るから、どうせならお前も早く帰ってこいよ。千尋と交流、深めたいだろ?』
現在、美月の制裁を受けた一色と雪彦は一緒にいて、流れで一色が海老名家にお邪魔することが決定していた。
どうしてそうなったのかは初香は毛ほども分からないものの、兄の言う通り初香も一色と交流を深めたいという気持ちはあった。
よって二つ返事で返そうと思ったとき――初香は未だ可愛い反応を見せる水無月を見る。
「……ふふふ♪」
……そして、彼女を見て、薄く微笑むのであった。
――言えることはただ一つ、彼女がこのような笑顔を浮かべるとき、碌なことは企んでいないのである。