1幕 優しさと怖さは隣り合わせである
一色千尋が美術部に入部してから早くも三か月の月日が経過した。
季節は春を超え、本格的に暑い夏を迎えていた。
虹陸芸術専門高等学校は文化祭が春の五月にあった。これは新入生が先輩の作品を見てい影響を受ける意味合いと、単純に文化系部活動のアピールの意味合いは大きい。特にこの学校において文化系の部活動はあまり人気がないことも、春の五月に文化祭を実施する理由でもあった。
そんな文化祭から三か月経過した美術部といえば――
「合宿?」
「そうだ。私たちが美術部を発足してから毎年恒例の行事でな。毎年車で遠征して、海と山のある地域に行って、ロッジを借りて合宿をしているんだ」
来たる合宿の打ち合わせをしているのだった。
二年前、音楽コースに進んでいる美月と雪彦が美術部を創設して以来の恒例行事である合宿。当時の部員は美月と雪彦の二人だけであったのだが……
「私とこーちゃんも高等部に進む前から合宿には参加していたんだぜ♪」
「中等部はまだ部活動に入っちゃダメだから、半部員みたいな扱いでここにも良く遊びに来てたの」
「なるほど。俺は高等部への編入だからこの学校の仕組みは良く知らないけど……」
一色の感じた疑問が解決する。そもそも合宿についてのことを最初に一色に教えたのは水無月なのだ。自分と同じ学年である水無月が、合宿について一色に詳しく教えてきたものだから、少し疑問を抱いていたのである。すると雪彦はこの学校のことを詳しく知らない一色のために、懇切丁寧に中等部についてのことを説明した。
「中等部は色々な分野の基礎知識を詰め込むから、部活動が推奨されてないんだ。だから部活動は原則高等部に入ってからだけど、暗黙で中等部の学生も半部員化するのが慣わしってこと。つーかそもそも、お前も良く編入でここに入れたよな」
雪彦の言う通り、虹陸芸術専門高等学校は系列の中等部からのエスカレーター式の学校だ。唯一、外部から高等部への編入方法は一般入試とは異なり、AO入試(アドミッション・オフィス入試)と呼ばれる方法のみ。AO入試は虹陸芸術専門高等学校では入学希望者の基礎画力と進みたいコースによって合否を判定するのだ。
一色の場合は漫画の基礎技術が既にある程度あったため、編入が認められたのである。
「まあサブカルチャー系は数年前に発足したばかりだから、編入しやすいのかもな」
「そだねー。私のアニメーションコースでも編入組は結構いたし」
「漫画コースでも俺を含めて何人かはいますよ」
「話が脱線しているぞ――それでだ。今年もその合宿をしようと考えているんだが、少しばかり問題が発生してな」
すると美月は机に肘をつき、片手でこめかみを抑えて、少しばかり困った表情を浮かべた。
「問題ってなんだ? ロッジが今年は使えないのか?」
「いや、それは問題ない。あれは私の家の別荘みたいなものだからな」
「別荘って……なぁ、水無月」
別荘という言葉を聞いて、一色はちょいちょいと水無月を呼んだ。
「もしかして貴音先輩ってお嬢様なのか? 全くそんな風には見えないけど……」
「あはは……美月ちゃんじゃなくておじいちゃん方の別荘らしいよ? 美月ちゃんの実家は私の家と同じで普通の一軒家だから」
水無月が苦笑いでそう言うと、一色は納得したのかそれ以上は何も言わなかった。
「だったら何が問題なんだよ」
もったいぶる美月に対して、雪彦が単刀直入にそう尋ねた。
「交通手段の問題だよ。去年は部活動に熱心だった先生が、今年度になって転勤になってしまったからな。しかもロッジがある場所は本当に田舎で電車が使えないんだよ。それに合宿で部費を幾らか使うのならば誰か教師が保護者兼引率者として同行しなければならない」
「あぁ、それか。確かに今の美術部の顧問って名前だけ借りてるようなものだからな」
昨年度まで美術部の顧問をしていた教師は活動に熱心で、協力してくれていたのだが、今の顧問はそうではなく、本当に名前だけの顧問なのである。実際に美月が交渉しても首を縦には振らなかったため、他に代役が必要なのだ。
しかし残念ながら貴音美月は騒ぎの元であるということは、教師の中でも知り尽くされている共通認識である。美月も当たれる人には当たってはみたものの、先入観から拒否してくる教師が大半であったのだ。
「ははは……私は自分の人脈の無さが寂しいよ……」
「ほらほら、美月ちゃんが良い子なのは私が一番良く知っているからさ」
「うぅぅ、虹ぉ」
気を利かせた水無月のフォローで瞳に涙を溜めて抱き着く美月。それを若干白けた目で見る一色であるが、実際に合宿に行くためには問題は山積みである。
一色は近くで携帯電話を弄っている雪彦に話しかけた。
「雪彦先輩には当てはないんですか? ほら、そのスマフォの中の数ある女性のデータの中に教師の連絡先の一つや二つ、あるんじゃないですか?」
「ははは、千尋。お前、最近俺に対して遠慮ってものがねぇぞ?」
「先輩に遠慮してたら体力が持ちませんよ」
互いに笑みを浮かべているが、明らかに好意的なものではないのは明白である。
「……当て、ねぇ。美月ほどではないにしろ、俺もそれなりに誰かさんのせいで悪評広めまくられているからな。当てになるとすれば保険室のさーちゃんくらいだけど……」
「またドンピシャで超美人な先生を当てにしますよね、海老名先輩。ちょっと引きます」
「こーちゃん? そういう意味じゃないからな!? なんでいつも俺から隠れる時に千尋の後ろに隠れるの!?」
割と真剣に引いている水無月は、雪彦から逃げるため一色の後ろにささっと隠れた。
なお保険医のさーちゃんとは、美人で優しいことで有名な咲良御子のことである。
「んー、さーちゃん、夏は毎年実家に帰省するって言ってたし、そもそも雪彦のことをものすごーく警戒してるから無理じゃないかな?」
「えー、俺、さーちゃんにまで警戒されてるの? マジか……いや、ホントマジか……」
陰から狙っていたのかは分からないが、いつもよりも落ち込む雪彦青年。しかし基本的に顔が広い雪彦と美月がダメならば、一色は自分には当てがないと考えるも……一人だけ、一色が頼れる人物がいた。
「渡邊先生には聞いたんですか? あの人なら人も良いですし、快諾してくれそうな気が……」
「あ、そっか! 渡邊先生! うん、私も先生で良いと思う! すっごく優しいし、頼りになるから――あ、でも美月ちゃんも海老名先輩も既に頼んだのかな? 確か二人の昔の担任なはずだから」
名案だ、と高揚するもすぐにその可能性に辿り着き、水無月は美月と雪彦を見つめた。すると二人は――明らかに視線を逸らした。
「ん? ……どうして目を合わせないの、二人とも」
「い、いやぁ、渡邊先生にも頼んだのだがな? やはり漫画がうんたらで忙しいと……」
「そうだな、美月! 渡邊先生に迷惑がかかるし、もっと他の人を当たってみよう!!」
「雪彦、今から行くぞ!!」
その場から走り去ろうとする雪彦の首根っこを掴んで止める一色と、美月を二人が狩りで止める水無月と初香。その理由は無論、怪しいからである。
普段衝突の絶えない美月と雪彦が共感して共に行動するなどありえない。となれば、二人にとって都合が悪いことが重なったとしか思えなかった。
「美月ちゃん、嘘だね。実は渡邊先生には頼んでないんでしょ?」
「見え透いた嘘を吐かないでください、二人とも。どうして渡邊先生はダメなんですか?」
「吐かないと後が怖いよ~~~?」
三年生二人の退路を断つ下級生の三人――どちらが上の立場なのか、些か疑問である。
――後輩たちの尋問の結果、美月と雪彦は渡邊に頼むのを嫌がった理由を供述したのだった。
「「「怖い?」」」
一色と水無月、初香の声が綺麗に揃った。
渡邊といえば生徒に人気が高い教師の一人だ。いつもにこやかで物腰が柔らかく、生徒の話を真摯に聞いて、ダメなことがあればしっかりと叱ることのできる非常によくできた人格者でもある。
水無月はもちろん懐いており、あの一色までもが渡邊には心を開いて本音で話すことが多いほどなのだ。だからこそ、あまり渡邊のことを知らない初香はさておいて、彼と親しくしている一色と水無月からしたら驚愕であった。
「いやいや、あんたらに比べたら渡邊先生が怖いとかふざけないでください。あんたたちの方が万倍恐ろしい」
「渡邊先生はすごく優しいよ!」
「待て待て、二人とも! 私の話を聞いてくれ!! あの人の笑顔の下に隠れた恐ろしさをお前たちは知らないから、そんなことを言えるんだ!」
「そうだぞ!! いいか、あの人は鬼だ。良く言うだろ? 優しいと思わせる人の方が怖いって。優しい人ほど怒ると恐ろしいとはあの人のことを表している言葉なんだよ」
一色と水無月が二人の理由を否定すると、それに取り繕うように美月と雪彦はそう喚く。
一色はそんな二人に対して何を言い返してやろうと思った時、ふと部室の扉付近を見た。
「いいか、渡邊先生とは仮の姿だ。奴はな、それはもう人を人とも思っていない極悪人で、一度頼るとその甘いマスクで生徒を騙し、自分の傀儡のように扱うんだ!!」
「それを笑顔でやってのける渡邊先生こそ、真の悪魔だと俺は一年生の時からずっと思っていて――」
「――へぇ」
……騒ぐ二人の声を止めたのは、穏やかな声音ながらも涼しげさを兼ね備えている、そんなものだった。
「偶然通りかけて賑やかだと思って聞いていれば、随分と面白そうな話をしているじゃないか。僕もぜひ混ぜてほしいな。貴音さんに海老名くん?」
美月と雪彦の肩に乗せられる手、そして響く涼し気な声音。その声を聞いた瞬間、二人の顔が真っ青になって壊れた人形のように、首だけをギギギと後ろに振り向けた。
……そこにいたのはまさに今、噂の渦中にいた渡邊であった。渡邊はそれはもう、誰が見ても見惚れるほどの見事な笑顔を浮かべながら、しかしこめかみ辺りに青筋を立てながら静かに怒っていたのだ。
その姿を見てその場から逃げようと試みる二人。しかし……
「……一年生の頃の教訓がなってないね? 君たちが僕から逃げれると思っているのかい? ははは……まだ教育が足りないか」
「「ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃいい!!!」」
美月と雪彦は、それはこの世の終わりのような悲鳴を上げて、その場に尻餅をついた。今のは一色も少し驚いたほどだ。唯一渡邊がドア付近にいることを知っていて黙っていた一色も、まさかここまで驚くとは思っていなかったのだ。
――怒声も怒気も見せていないのに人を恐怖に陥れる渡邊の存在感。もはやそれに尊敬すら抱き始めた一色なのであった。
ともあれその場から逃げることを諦めた二人は、大人しくその場に正座をする。その前に立つのは下級生たちと渡邊であるというのが何とも情けない話だ。
「全く、君たちは僕をなんだと思っているのかな。仏の顔も三度までだけど、君たちの場合は百度を超えていることを忘れないでくれよ」
「は、はい……渡邊先生の仰る通りでございます」
「貴音さんのそれも体裁だけの軽いものだってことは理解しているから。あ、雪彦くんの土下座もプライドの欠片もないものって知ってるからしなくていいよ、みっともない」
「うぐっ……ッ」
ものの見事に問題児の二人を封殺する渡邊の姿に、普段から二人の奇行に悩まされている一色は感動さえ覚えた。これを機に渡邊の言動を一つでも覚えて、二人の対策を立てようと考えている一色。
その最中で渡邊はふっと一息漏らして部室の椅子に腰かけた。
「三年生になって少しはマシになったと思っていたのに、全く君たちときたら……あ、そういえば雪彦くん。最近小学生にまで守備範囲を広げたと風の噂で聞いたんだけど、それはどういうことかな?」
「待ってください、それはこの馬鹿とそこの馬鹿が広めた冤罪です!!! 渡邊先生、その汚物を見るみたいな目だけは本当にやめてください!!」
「……うちの妹に近づかないでください」
「――千尋ぉぉぉぉ!!!」
雪彦は更に追い打ちをかける一色に泣きつこうとするも、一色はそれを颯爽と避けて次は美月を見る。
……凄まじい量の冷や汗を掻いていた。目を見開いてひたすら床の木目を見つめるその姿はさながら、トラウマを抉られているような趣である。
そこには普段の美月の原型はなく、調教に調教を重ねられて飼いならされた犬のようであった。
「貴音さん、僕は昔に言ったよね。これは君たちのことを思って言っているんだと」
「はい」
「じゃあさっき、なんて言っていたのか正直に言ってごらん?」
「わ、渡邊先生はすばらし」
「……え、なんて? 聞こえないな」
「――あんたなんて極悪人だ!!!」
言ってしまった美月であるが、何より怖いのはなおニコニコ笑顔の渡邊であろう。渡邊はニコニコしたまま椅子から立ち上がり、床に膝をついて美月と同じ目線で肩を掴んだ。美月はそんな渡邊に引き笑いを浮かべる。依然と変わらない渡邊の笑顔。
「再教育が必要みたいだね。三人とも、ちょっと準備室の方を借りるね?」
「はーい、大丈夫でーす♪ あ、雪彦もそっちに放り込みますね!!」
「は、放せ初香!! お、俺は逃げるんだぁぁ!!!」
「はいはい、おにーちゃん? 諦めは肝心だよ?」
「いやだぁぁぁ――……」
そして準備室に消えていく美月と雪彦、そして渡邊。その姿を見て残された三人は多様な反応を見せていた。
一色は渡邊に尊敬の色をみせており、初香はこの状況を素直に楽しんでおり、水無月は準備室から聞こえる二人の呪詛のような絶叫を聞いて苦笑いを浮かべていた。
「……あ、そういえばそもそも和那を置いて合宿に行けないんですけど」
「連れてくれば問題ないよ!!」
「そのノリの軽さには俺もそろそろ慣れてきましたよ」
「やったー、和那ちゃんも来てくれたらもっと楽しくなるね!!」
……一色と水無月と初香の唯一の共通点は、いずれも切り替えが恐ろしく速いところにあった。
……それから数分後。準備室から出てくるのは渡邊一人だけで、残りの二名は準備室で完全にのびていた。
「あ、先生終わったー?」
「ええ。これで一週間は大人しくなりますよ」
「それでも一週間なんですね」
あれほどの恐怖を垣間見せた渡邊ですら一週間しか矯正が持たないことに落胆する一色。しかしあの二人を一週間でも大人しくさせられるのは恐らく、渡邊だけであろう。
「でもすごい怖がりようですよね。渡邊先生をあそこまで怖がるなんて……」
「ええ、僕をここまで化け物のように扱うのは前にも後にも彼らだけだよ――まぁそれなりの教育を一年生の時に叩き込んだから、仕方ないと思うけどね」
美月と雪彦が一年生の頃の担任をしていた渡邊。当時から若く、しかも甘いマスクとして人気のある教師であった。
誰もが慕う素晴らしい教師。まさに教師である彼であったのだが、どこの世にも人気のある人を良く思わない人間は確かに存在しているのだ。
「それはもうあの二人は問題児でした。雪彦くんはやれ俺よりもモテやがってちくしょーが、だの。貴音さんは、やれその笑顔が気に食わない、その仮面を引き剥がしてやるだのと宣ったものだよ。だけど僕も大人、最初の方はそれなりに対応していたけど、ちょっと甘やかしたら色々とエスカレートしてね」
「あぁ……その気持ち、分かります」
悪ノリがエスカレートした時の美月と雪彦の面倒くささを身に染みて知っている一色は、過去を語る渡邊に同情的な声を漏らした。
付き合いの短い一色ですら既に中々の仕打ちを受けているのである。雪彦は一緒に出掛けていたら勝手にナンパに走り、自分まで巻き込もうとし、失敗したらそれを一色に擦り付ける。美月は美月で理性よりも直感で動き、一色の事情も顧みず自分勝手に行動する。それはもうひどいものだ。
「流石に文化祭の舞台で僕のことを罵ったラップを披露したときは凄かったよ。生まれて初めて青筋がプツンと切れた音が聞こえたからね。ホームルームでは騒ぎ出すし、学外活動で周りの方に迷惑をかけた時に堪忍袋の緒が切れてね――そうしたらああなったよ」
「先生は悪くないです!! 私からも美月ちゃんに強く言っておきますから!! ……あ、でも美月ちゃんが異常なまでに外では大人しくなったのは先生が理由だったんですね」
ほぼほぼトラウマなような出来事だったのであろうが、実際にはそれが良い傾向になったのは間違いない。
一応、一色としてもそこまで全力で拒否するほどの感情をまだ二人に抱いていないのも、それが原因なのだろう。少しはマシになったと言ってもいい。それほどに一年生の時の彼らは酷いものだったのだから。
「ちなみに雪彦は高校二年生から急に色気づいたから、たぶん渡邊先生を意識してなんだろうねー。人としての器では勝てないから、それ以外の他で勝ちたかったのかな?」
「その懐の大きさが一番重要だと思うけど……いえ、なんでもないです」
これ以上雪彦に追い打ちをかけたら彼が立ち上がれなくなると思い、一色はその言葉をそれ以上は言わなかった。
ともあれ、渡邊に件をお願いするのであればむしろ三年生の二人は邪魔であると判断した一色。とりあえず頼れる水無月とまだ多少頼れる初香に小さな声で提案することにした。
「水無月、海老名先輩、俺は渡邊先生にお願いしたいって思っているんだけど……どう思う?」
「うん、私も同じこと思ってた。渡邊先生が来てくれたらあの二人も去年よりも大人しくなってくれると思うし……それに単純にそっちの方が楽しいからね!」
「いいと思うよー。でもどうしてかなー? ちひろんが私よりこーちゃんを頼りにしている気がするぞー?」
……それは気のせいではない。
ともあれ意見は揃ったため、一色は改めて椅子に腰かける渡邊の前に座る。
「渡邊先生、一つ俺から先生にお願いがあるのですが……」
「一色くんが僕にお願いとは、また珍しいね。それでなんだい? そのお願い事っていうのは」
「はい。実は夏季休暇を利用して美術部で合宿をするんですけど、今のところ引率者がいなくて困っているんです。貴音先輩と雪彦先輩は評判が悪すぎて、お願いしても軒並み断られるので……先生、お願いできないですか?」
一色は渡邊に頭を下げる。本来、この役目は美月が全うするべき仕事であるが、当の本人が全くの役立たずである。よってこの場において最も渡邊と仲の良い一色がそう懇願した。
すると、渡邊は間髪入れずにすぐに返答した。
「いいよ。合宿か、とても楽しそうで良いね」
「――返答がまさかの即答な上に快諾でびっくりです」
あまりにも清々しい快諾ぶりに、一色も驚きを隠せなかった。一色としては必至の説得も視野に入れていたのだが、こうまで快諾だと逆に申し訳なさが先行する。
「ははは、実は外でこっそり話をこっそり伺っていたんだよ」
「あー、なるほどー。……そういえば先生は何で部室に来たんですか? さっきは偶然通りかかったって言ってましたけど」
「一色くんにちょっと用があってね。まあそれは後でも良いことだからさておくとして……。ちなみに詳しいことは決まっているのかな?」
予想外にノリノリな渡邊に若干の動揺を隠しきれない一色。実際の詳しい内容は美月がパソコンで作った予定表に書かれており、一色はそれを渡邊に手渡した。
「快諾してもらったのは良いんですけど、実はここに行くためには車を使わないとダメなんです。ちなみに先生は車の運転は出来ますか?」
「ああ、問題ないよ。あ、でも僕の車はクラシックカーで二人乗りなんだ――そうだね。僕に当てがあるから、ちょっと頼みに行ってみようか」
「車の当てってなんですかー? あ、もしかして先生の彼女さんとか!? ってそんなわけ」
「ああ、よくわかったね、海老名さん。そうなんだ、この学校に僕の恋人がいて、その子かなら八人乗りの車を持っているから借りるか、もしくは一緒に来てもらおうって思ってね」
――その瞬間、音がなくなる。そして……
「「えええええぇぇぇええ!!?」」
一色を除く女子二人の驚きの声が美術室に木霊するのであった。
○●○●
放心状態の美月と雪彦を放置し、渡邊は一色と水無月、初香を連れてある場所に向かっていた。その場所に渡邊の恋人がいるらしく、色恋沙汰に敏感な女子組はそわそわしていて、対称的に一色は大して驚いてもいなかった。
一色としては渡邊ほどの男に恋人ができないことの方が不自然であるように思えるため、特に驚く要素が見当たらない。そのために平然としているのである。
ただ渡邊が恋人にするほど魅力的な女性であるという点は気になるため、ある意味では興味津々な部分もある。あまりそれが表情に出る性格をしていないのだ。
「あの女子の憧れの渡邊先生に実は恋人がいたなんて、びっくりです!」
「そだねー。特に芸術系の専門学校だから、余計にかっこいい人が少ない中、渡邊先生は極端にかっこいいから――これはスキャンダルだね!」
「そんなに褒めたって何も出ないよ。それに容姿だけで言えば雪彦くんの方が整っているんじゃないかな?」
「あー、あれは中身がダメなんで! 妹である私が太鼓判を押してますよぅ♪」
ひどい言われようである。そんな雑談をしながら歩いていると、一色はその進行方向から何となくその相手が割り出せ、そして合点がいった。
「おや、一色くんは私の相手が分かったみたいだね」
「すぐ人の心を読むのは止めてくださいって何時も言ってますよね?」
むしろ一色の表情の変化に気付く渡邊が鋭すぎるのである。
そうして一行がたどり着いたのは保健室であった。それは一色の予想通りであり、つまり渡邊の恋人とは保健室の番人である咲良というわけだ。
「ほえー、美男美女のお似合いカップルさんだー」
「なるほど、さーちゃん先生が渡邊先生の彼女さんなんですね! うんうん、すっごいお似合い!! さーちゃん先生も物凄くいい人だし。……ね、一色くん?」
「何故俺に振るんだよ。……俺は咲良先生と面識ないから何とも言えないかな」
むしろ水無月が面識を持っていることが意外なのだが、と一色は思った。
渡邊は三人の反応を面白がって観察していたものの、保健室をガラッと開けて室内に入った。
「いらっしゃい、どうしたの? ……って、れ――渡邊先生、どうしたんですか?」
一瞬渡邊の姿を見ていつものように名前を呼ぶ咲良御子。しかしすぐに後ろにいる三人に気付いたのか、他人行儀に敬語を使った。
それを見てくすくすと笑う渡邊は、いいよ、と手を振った。
「いつも通りで良いよ、御子。この子らは僕らの関係を知っているから」
「あ、そうなの? じゃあ玲。放課後にどうしたの?」
渡邊がそう告白すると、咲良は特に気に留めることもなくそう質問してきた。
すると咲良と面識のある水無月と初香は渡邊と一色よりも前に出て、女子特有の恋愛トークを繰り広げようと話しかけた。
「さーちゃん、クールぶってしれっと良い男捕まえるなんて憎いね、全く~」
「さーちゃん先生と渡邊先生はすっごくお似合いです!! 末永くお付き合いしてくださいね!!」
「ちょ、あなたたちくっつきすぎよ!? っていうか、いつも言ってるけどさーちゃんは止めなさーい!!」
最初から遠慮のない二人に戸惑いを隠せない咲良。
咲良御子は虹陸芸術専門高等学校の養護教諭である。白を基調とした落ち着いた服の上から白衣を羽織っており、ナチュラルメイクであるのが咲良の容姿の特徴だ。肩にかかるほどの内巻き気味の髪も今は邪魔にならないように一まとめに結われており、目元は丁度いいくらいの大きさで少し吊り目気味。素が良いのか比較的地味な印象にも関わらず非常に美人である。
「っていうか水無月ちゃんと海老名ちゃんっってことは、もしかして美術絡み?」
「そういうこと。お願いがあってね。少し時間いいかな?」
「まぁ構わないんだけれど――あ、もしかしてその子が一色くん?」
ふと咲良は一番奥にいる一色に気付き、渡邊にそう尋ねた。
「もしかして渡邊先生が何か言っていましたか、咲良先生」
「さ、咲良先生……玲、一色くんは良い子ね、気に入ったわ」
――美人で優しく、親しみやすいが絶妙に距離のある咲良は、基本的に親しみを込めてあだ名で呼ばれることが多い。そのため敬意を持たれることが少なく、「先生」という言葉には滅法弱いのだ。そのため一色の丁寧な言葉遣いに感銘を受けた咲良は一発で彼のことを気に入るのであった。非常に乗せやすいのは見て取って分かるだろう。
……結局、一色の質問に答えることはなかったが。
しかし本題はそこではない。渡邊は水無月と初香をとりあえず咲良から引き剥がし、早速彼女にお願い事をした。
「実は一色くんと水無月さんにお願いされて彼らの合宿に同行することになったんだよ。それで彼らを乗せるための車が必要なんだけど……」
「…………玲の車は二人乗りだものね。それで、私に一緒に来て欲しいっていうところかしら?」
「察しが早くて助かるよ。それでもし予定がないなら夏休み、一緒に引率を手伝ってほしいんだ」
渡邊が単刀直入にそうお願いすると、咲良は鞄からスケジュール張を出して予定を確認した。水無月と初香からすれば是非来てもらいところであるからか、少し緊張した赴きである。
「うん、今なら先に期日を教えてくれたら大丈夫よ」
こうして今年度の美術部の合宿が実施されるのが決まったのだった。
「……そういえばこういう時はいの一番で海老名の馬鹿が来そうなものだけど、あいつはどうしたの?」
「渡邊先生の教育を施されて今は部室で死んでます」
「あら、そう。それは平和で良いことね」
「全くですよね」
意外と意見が合うためか、性格的な相性の良い一色と咲良であった。
保健室にて渡邊と咲良と別れた三人は部室に戻ると、そこには未だにぐったりとしながら机に項垂れている美月と雪彦の姿があった。
気力が尽きたのか、いつもの騒がしい様子はなく、どちらかといえば萎びれている様子だ。まさに口から魂が浮かんでいるという比喩が使えるほどである。
「二人ともー、生きてるかー?」
初香は美月と雪彦の肩を揺さぶるも、反応はない。
初香はふむ、と一瞬考え、そして……
「こんなの放って帰りご飯食べて帰ろう~♪」
「ちょっと待てよ、お前には兄を心配する妹心がないのか!?」
面倒なのか、二人を放って一色と水無月を連れて帰ろうとする初香。そこでそれまで屍であった雪彦が反応し、バッと起き上がった。
「あ、生きてたんだ、雪彦お兄ちゃん? てっきり私、死んだかと思ってたよ」
「気分的にはもちろん最悪だったけど、余計悪くなったよ。お前のせいでな」
あっけらかんとそういう初香に対し、笑顔のまま怒る雪彦。しかしまだ美月は起き上がってなかった。
「きゅ~~~……」
なにか変な声を上げてのびているのを見て、もう苦笑いすら浮かべない一色。その表情は、「無」である。
しかし合宿の問題が解決したため、一応は部長の美月に報告する義務がある。よって今の彼女に話しかけなければならないのだ。
「でも雪彦先輩に比べたらこの人、随分と疲弊していますね」
「素行に問題があったから、俺よりも渡邊先生に絞られてたよ。それはもう恐ろしい精神攻撃だ」
「なるほど……今度、先生に教えてもらうか」
「千尋様、どうかそれだけはやめてもらえないでしょうか? お前まで先生のようになっちまったら俺、比喩表現なく死ぬぜ? ただでさえ最近若干素養を垣間見せているんだからな、お前」
半分は冗談で、半分は本気である。
「貴音先輩、起きてください」
「ばぶぅ……」
『幼児退行……!?』
まさかの反応に一同、驚愕するのであった。
……美月が現実世界に戻ってくるのに、それから三十分の時間を要するのであった。
○●○●
「世界平和って、どうすれば実現できるんだろうな……」
復活した美月。しかしながらそこには普段の無駄な明るさはなく、比較的大人しい。それはもう、一色がつい何者かと疑うほどに。現に意味の分からない哲学を呟いているほどに、少しばかり壊れた美月がそこにはいた。
「あぁ、一色……いつも世話をかけてごめんな。……私に優しくしてくれないか?」
「だからあんたは誰だよ、ホントに。そんなことより貴音先輩、合宿の問題が解決しました」
「…………なぁ、まさかと思うが、渡邊先生が来るなんてことは……」
「よくわかりましたね。その通りです」
「――合宿になんて参加するものかぁぁぁ!!!」
一色からの宣告を受け、美月はその場から草食動物のような足取りで逃げそうになるも、それを水無月と初香によって断固として止められる。雪彦もしれっと逃げようとするものの、一色が首根っこを掴んで離さなかった。
「は、離せぇ!! あの人と二十四時間過ごすとか、ハメを外せれないじゃない!!」
「その抑止力のために呼ぶんでしょうが。ともかくこれはもう決定事項です。部長として諦めてください」
「ふっざけんじゃねぇぞ、千尋ぉ!! 何が嫌で胃がキリキリする合宿に行かねぇといけないんだよ!!」
「もう、駄々をこねないでよ、二人とも!! せっかく渡邊先生が快く引き受けてくれたのに!!」
「そうだよー。我侭はみっともないよー?」
水無月と初香も一色の加勢をする。何気にこの勢力争いは美術部としては珍しい光景だ。特に普段は敵同士である美月と雪彦が同意見であるというのが特に珍しい。
それほどまでに渡邊は彼らにとって脅威的な人物なのであろうが、あまりにもその反応は過剰だ。いったい何をされればここまでの苦手意識が出るのか、三人の興味は尽きない。
だが、いつまでも同じことで揉めていても解決にはならず、不毛である。そこで一色はまず、非常に単純な思考をしている雪彦から攻略することを決めた。
「……ちなみに雪彦先輩、この合宿には渡邊先生だけじゃなくて、咲良先生も来るってこと、知っていますか?」
「――――なに?」
一色の悪魔の囁きが雪彦の耳を通り抜け、脳髄を刺激する。それはもう顕著な反応だ。なんなら咲良の「さ」の文字に反応していたほどだ。
「ちひろんは雪彦の喜ぶポイントをすごく把握してるよね。雪彦検定特級を進呈するよ」
「……扇動っていうのかな、これって」
「そんなものいらないし、扇動って言うなよ。聞こえが悪い。説得だよ、説得」
こそこそと話している二人だが、聞こえている一色からすれば嬉しくもないお褒めの言葉であった。しかしその思いに反して一色の耳打ちの効果は絶大で、それまで萎びれていた雪彦はみるみるうちに若返っていった。
「――美月よ、なぁ美月。俺たちはいつまでもあの人を怖がっていてはダメだと思うんだ」
「ゆ、雪彦! お前まさか、私を裏切るつもりか!?」
「違う。俺は自分とお前のことを想って言っているんだ。大丈夫、二人ならばあんなの怖くないよ」
……自分の欲望が八割以上を占めていることは間違いないだろう。雪彦はわざと美月の口癖を真似て、そう説得し始める始末。
「さぁ美月ちゃん、これで四対一だよ!! 諦めて合宿に行くんだよ!! 美月ちゃんが一番合宿に行くのを楽しみにしていたでしょ?」
じわじわと追い詰められていく美月。水無月までもが説得に入るこの状況下で、彼女に逃げる術などあるはずがなかったのだった。
3章の始まりです。




