感情の行き場
「結局、母の意向を尊重して手術することになったんだけど、その頃にはもう私も割り切っちゃってたんだよね」
涙に溺れた記憶を思い返し、私は息を吐いた。
母は自分が長くないと知ると、横たわりながら私に囁いたのだ。
「あげは。私がもし――もしよ。もしだめだったら、あなたがこれを大事にして欲しいの」
毎日首にかけているペンダントだ。
私はその言葉に一も二もなく頷いて、でもそれから母を怒った。
「縁起でもないこと言わないで。言霊ってあるんだからね」
「そうね。ごめんなさい」
薄く微笑んだ彼女の頬は、痩せこけていて生気がない。
前は執拗に強請ったペンダントも、今となっては欲しくなかった。
だってそれを自分が手にする時、母はこの世にいないから。
願わくばその美しい宝石が、母の首元を永遠に照らしてくれますように。
「今思えば、ちょうどその頃だったわね。ナイチンゲールが騒ぎ出したのは」
私の言葉に、ひばりは肩を震わせた。
その瞳から光が消える。まさか、と言いたげな視線に、私は頷いた。
「そのペンダントが盗まれたの。何者かにね」
母は失くしてしまった、と最後まで言っていたが、私はそれは有り得ないと思う。
肌身離さずあんなに大切にしていたものを、不注意で失くすだろうか。
そんな訳はない、と結論づけて、盗まれたという見解に至った。
「もしかしたら本当に失くしたのかもしれないけど、その時は私も冷静じゃなかったから。盗まれたんだって決めつけてた」
母は最後まで美しかった。
手術は成功したものの、術後合併症で呆気なくこの世を去った。
唯一の形見となるはずだったものも行方知れずで、私は心底憤った。
でも母を責めるのは違う。この感情の行き場を知りたくて、私は決めた。
「形見を盗まれた恨みを晴らそうって思ったの。そこから探偵に興味を持った」
何かに没頭したかった。
一生懸命になれるものを見つけないと、必死に何かをしていないと、負の感情がたちまち自分を支配してしまう。
そんなこと、母はきっと望んでいない。
「現実的に母の形見を取り返すのは無理かもしれないけど、今でもそこが原動力になってる。きつい時は、もっときついこと思い出せば大体我慢できたから」
世間では怪盗だなんて立派な呼び名がついているが、ただの強盗じゃないか。
狡くてせこくて卑怯な、犯罪者だ。
「それから父が再婚しようとして、女の人を家に連れて来た。私のためだっていうのは分かってたんだけど、どうしても受け入れられなくて」
正直に言わせてもらえば、多分女の勘というものだったと思う。
何となく、彼女は「違う」と感じて、強い嫌悪感を抱いた。
父は首を縦に振らない私を見て、彼女との籍は入れなかった。
それに少しだけ安心して、同居を許してしまったのだ。
「その人、私のことは好きじゃなかったんだと思う。父のことが好きなだけで。母親っていうよりも、父の恋人っていう感じがいつまでも抜けないの」
父に色目を使う彼女に、嫌気がさしてしまった。
そういうことに聡いのは女同士だからなのかもしれない。
仕方ないとは思いながら、次第に父にも苛立つようになった。
「あんなに母のこと大切にしてたのに、急に違う人を連れて来て楽しそうにして……妬いてたのかもしれない。でも、それじゃあ母があんまりじゃないって、ずっとモヤモヤしてた」
女は、最初こそ私にも穏やかだった。
よそよそしくはあるがそれはお互い様だし、もしかしたら家族になれるかもしれないと淡い期待を持った。
だが、彼女はいつまで経っても籍を入れない父に不満を漏らした。
「ねえ、マサトさん。いつになったら結婚できる?」
「ああ……もうちょっと待ってくれ。あげはも、まだ心の整理がついてないんだろう」
父が行動にうつさない理由が私にあると知って、女は徐々に態度を変えてきた。
さながら本妻に嫉妬する愛人のように。
高校生になって進路を考え始めた頃、父に探偵になりたいと初めて告げた。
決して安全とは言えない職業だし、探偵になるためには育成学校に通う必要がある。学費も馬鹿にならない。
父には反対された。
それでも折れずに反抗し、学費は自分で稼ぐから行かせて欲しいと頭を下げた。
「分かった。お金の心配はしなくていいから、あげはは勉強に集中しなさい」
最後には許しをもらって、私はその道を歩き始めた。
それにいい顔をしなかったのは、勿論父の恋人だ。
彼女はことあるごとに嫌味を被せてきて、私を妬んだ。
それを父に言おうか迷ったが、これまで母の分も背負って私を支えてくれた父を、これ以上悲しませるのも気が引けた。
「私が我慢すれば済む話かと思って考え直したけど、でもやっぱりあの人が母親になるっていうのは腑に落ちなくて」
そうして今現在も、歪な関係のまま私たちは同じ家で暮らしている。
リビングの居心地が悪くなった。テレビが欠かせなくなった。
玄関の扉を開ける瞬間、緊張が走るようになった。
「未だに私がこの学校に通ってるの、よく思われてないのは分かってる。さっきもちょっと居づらくて出てきちゃった」
湿った制服を自分の体ごと抱き締める。
やっと見つけた自分の居場所だ。夢を追いかけていないと、私はたちまちどこへ行っていいのか分からなくなってしまうから。
「私は探偵になるの。探偵になって、たくさん事件を解決して、それから――」
ぐ、と喉の奥から何かがせり上がってきた。
我慢しなくちゃ。我儘を言うのはもうやめたんだ。
今までもらった優しさの分、私は誰かに尽くせるような人間になりたいって、そう決めた。
唇を噛む。目を瞑る。
首を振って、弱気な心を振り払った。
ひばりに視線を投げて、ゆっくり笑ってみせる。
「それから、私は『素敵な大人』になるの」
母のように、可憐で美しい女性に。
だから私は耐えなければ。今は辛くても、いつかきっと。
あの日の悲しみに比べれば、この程度どうってことはない。
ずっとそうやって自分を叱咤してきたのに。
「あげは……」
目の前がぼやける。
違う。これは雨が目に入ったんだと。訳の分からない理屈を並べたくなる。
だってこんな所で落ち込んでいる場合じゃない。
もっと強くならないと。我慢しないと。
隣から手が伸びてくる気配がして、私は「ごめん!」と叫んだ。
彼が怯んだ隙に、勢い良く立ち上がる。
「変な話しちゃったね。ごめん」
彼の脇に置いてあった自分の傘を回収し、背を向けた。
話をしたら大分落ち着いた。今なら帰っても穏便に済ませられそうだ。
「何で誤魔化すんだよ」
背後から咎められる。
本気で怒られている気がして、背筋が伸びた。
「何で泣かねえんだよ。泣きたいんだろ。我慢して笑ってんじゃねえよ」
そう怒鳴られて、堰が切れた。
「だって――だって、どうすりゃいいのよ。泣いたって何も変わらないもの。何も解決しないじゃない」
我慢しないと、止まらなくなってしまう。
本当の自分はもっと我儘で情けなくて、みっともない。
「変わるよ」
短く放たれた言葉に、堪らず振り返る。
何かに縋りたくて必死だった。安心したくて、甘えたくて、でも気を抜くと転んでしまうから。
「気が済むまで泣けばいいじゃん。それで自分の気持ちに折り合いつけれるなら、安いもんだろ」
「折り合い……」
「自分の気持ちを救ってやれるのは、自分だけだよ」
そう言って柔く微笑んだひばりに、目頭が熱くなった。
嗚咽が止まらなくなって、口元を押さえる。
――お母さん。私、頑張ってるよ。
ずっと甘えたかった。誰かに甘やかしてもらいたかった。
許されたかった。それでいいよと、言って欲しかった。
「ひ、ひばり……」
「ん?」
「頭、撫でて、お願い」
しゃくり上げながら乞うと、ひばりはくしゃりと笑う。
その表情が幼くてびっくりした。でも多分、今の私の方が子供だ。
彼は立ち上がって私の目の前に立つと、最初は気遣わしげに手を乗せた。
「よしよし」
あやすように声をかけられて、少し恥ずかしくなる。
抗議の声を上げようとした矢先、彼は急に真剣な顔になって言った。
「あげはは偉いよ。沢山我慢したな」
何で、こうも私の欲しい言葉をくれるんだろう。
鼻を啜り上げていると、頭を撫でていた手が背中に回った。
優しくさすられて軽く叩かれると、思わず抱き着きたくなる。
残った理性を総動員させて、彼の腕を掴む程度に留まった。
「体、冷えてる。ちゃんと風呂入ってあったまれよ」
「分かってるわよっ」
いつものお節介が始まった。
噛み付くように返して、それでもこの手は彼に縋ったままだったから、ひばりは肩を揺らして笑った。
「話してくれて、ありがと」
穏やかな彼の声に頷いて、私は俯く。
体感温度はもう、とっくに熱い。




