対峙
家まで送るというひばりの申し出を断り、私は家路についた。
携帯がポケットの中で振動し、その存在を伝えてくる。
さっきまでひばりからの着信があまりにもうるさかったので、マナーモードにしていた。
画面の眩しさに目を細め、着信履歴を見た途端に顔をしかめる。
父からの着信だった。それも五回。
さすがに連絡なしに家を飛び出したまま帰らないのはまずかったか、と少し反省する。
今更かもしれないが、とりあえずもうすぐ帰宅するということは伝えておこうと思い、自ら電話をかけた。
「もしもし、お父さん?」
「あげは! すぐ帰ってきてくれ!」
ワンコールで繋がった父の声は、切羽詰まっていた。
ただならぬ気配を感じて、私は走り出す。
「お父さん? どうしたの、何かあったの」
「鍵が――鍵が盗まれたんだ」
「鍵?」
あまりにも言葉が足りない。
状況を把握できずにもどかしく思っていると、父は早口でまくし立てる。
「本当はあげはが二十歳になったら言おうと思っていたんだ。紫呉家には資産倉庫がある。そこの鍵が盗まれたんだ!」
どういうことだ。
まさか、ナイチンゲールに狙われているのか。
私は努めて冷静に問う。
「お父さん。その倉庫はどこなの」
「如月駅の近くだ」
「今からすぐ行く。住所を教えて」
今現在の場所からかなり近いのがせめてもの救いだった。
通話を切って全速力で駆け出す。傘は邪魔だったので道端に捨てた。
紫呉家の資産? そんなものは初耳だ。
脳の処理速度に情報量が見合っていない。何が何やらさっぱりだ。
「着いた……」
その倉庫は随分古びていたが、人が生活するには困らない程度の大きさであった。
入り口にそっと近付いて耳をそばだてる。物音は聞こえない。
犯人よりも先に着けたのなら幸いだが。鍵がないならそもそも中には入れない。
重々しい扉に手をかけると、引っかかりもなく奥へ開いた。
もう入られたか。
心臓が突然嫌な音を立てて動き出す。息を殺して、慎重に中を窺い見た。
誰もいないのを確認し、忍び足で侵入する。
その中は倉庫と呼ぶには勿体ないほど綺麗に整備されていた。
奥にまた扉があるのを見つけ、そこに手をかけようとした時、足がすくんだ。
――誰かいる。
なぜ、と聞かれても恐らく勘だとしか答えようがないが、ここを開けてはいけない気がする。
音を立てないように深く息を吸った。
震える手を叱咤し、ポケットから携帯を取り出す。いつでも警察に発信できる状態にしておかなければ。
そうしてようやく覚悟を決めた。
「建造物侵入罪! 通報するわよ!」
勢い良く扉を開け放し、私は勇んで踏み出した。
が、しかし――
「おや。威勢のいい子だ」
深く被ったハットにグレーのスーツ。
眼前で優雅に足を組んだ男は、その手に黄色い宝石を保有していた。
顔が半分以上隠れているせいで、人相は分からない。
形の良い唇が弧を描き、こちらを挑発しているかのようであった。
――まさか。まさか、こいつは。
「ナイチンゲール……?」
体の芯から震え上がった。
果たしてそれが恐怖なのか、怒りなのかは分からない。
頭が真っ白になって、全ての感覚が一つにごちゃ混ぜになってしまったかのようだった。
男は私との対峙にびくともせず、台座に腰かけたまませせら笑う。
「可哀想に。そんなに怯えないでよ。私はナイチンゲールじゃない」
芯があって、それでいて澄んだ声だ。
こいつはナイチンゲールじゃない?
じゃあ一体何だ。ただの窃盗犯か。
「手に持っているものを離しなさい」
「無理な頼みだね。これで置いて帰ったら間抜けにも程があるよ」
無駄に溢れるこの気品は何だろう。
犯罪者特有の下劣さが微塵も感じられない。やっていることは卑劣極まりないのに、彼はさっきから全く動じていないのがいっそ不気味だ。
「ちょっと作戦が狂っちゃったよ。まさか君が入って来るなんてね。ツイてないなぁ」
その言葉に、偶然とはいえあの公園にいて良かったと心底思った。
あと少し遅ければ取り逃していただろう。
しかし、彼がナイチンゲールでないというのは信じ難かった。
普通の窃盗犯にしては、何か他と違うものを感じる。
「あなたの目的は何? 宝石を盗んでどうするの?」
「やだなぁ、まだ盗んでないでしょう。間違ってここに入っちゃって、うっかり掴んじゃったんだよ」
「誤魔化さないで」
このチャンスを逃すわけにはいない。
尻尾を掴むまで、何か聞き出さないと。
「鹿取くんのお父さんのこと、知ってるんじゃないの? あなたが殺した人よ」
男が小首を傾げるので、私は「ガーネット」と呟いた。
「ナイチンゲールがガーネットを盗んだ時、亡くなった男性よ」
そう言った瞬間、彼は「へえ」と愉快そうに口元を歪める。
「――どうして君がそれを知ってるんだろうね?」
凶悪な空気を孕んだ声色に、悲鳴を上げそうになった。
間違いなく何か地雷を踏んでしまったのだと確信する。
しかしその口ぶりからすると、彼はやはり。
「あなたがナイチンゲールなのね?」
自分の声はか細くて、頼りなかった。
腰が引けるのを必死に堪え、顔を上げて念を押す。
「何度言わせるの。ナイチンゲールじゃないよ。『私は』、ね」
「……どういう……」
「困ったね。君はちょっと邪魔だから駆除してもいいんだけど」
今まで比較的穏やかに進んでいた会話が、急に物騒な方向へ走り出した。
体中から汗が止まらない。焦る思考の片隅で、ナイチンゲールは殺人の罪も犯していたことを思い出した。
こんな時にそんな知識はいらない。
握り締めていた携帯の存在を忘れていた。私はやけくそ気味に言い募る。
「そんなことしてみなさい。いつだって警察呼べるんだから」
危害を加えられたり、逃げ出したりした瞬間に警察を迷わず呼ぶ。
だが、今この向き合っている状態で迂闊に外部と連絡を取れば何をされるか分からない。
最悪、命の保証はないのだ。
「脅してるつもりかい? 警察なんて、現行犯でもない限り無意味だよ」
飄々と述べて、彼は胸元に手を入れた。
出てきた手に握られていたのは、ナイフだ。
全身の毛が逆立つ。
逃げるのが最善なのか、それにしたって足は言うことを聞かない。
「大丈夫だよ。ちょっとチクッとするけどね」
さながら看護師のような台詞で私を脅した彼は、ナイフを遠慮なく振りかぶった。
条件反射的に顔を背け、筋肉が固く縮む。
数秒経っても何の刺激も受けなかったので、もしかしてチクリともせず死んだんだろうかと錯覚した。
こわごわと目を開けると、そこには誰もいない。
その代わり宝石も消えていて、嵌められたと苦虫を噛んだ。
すぐさま警察に発信し、倉庫の奥の方にずかずかと入り進む。
「窃盗被害に遭いました! 如月駅付近の西十条です! 至急来てください、ナイチンゲールかもしれません!」
通報しながら歩いていると、外へ通じる扉を見つけた。
ここから出たのかもしれない。
「くそ……」
思わず悪態をついて、そこを乱暴に開けた。
辺りを見回すが、案の定奴の姿は見当たらない。
とにかく父に連絡を入れなければ。
ようやっとそこに思い至って、私は携帯を耳に当てた。
それから程なくして警察が到着し、付近の捜索や現場調査が行われた。
父と私は事情聴取でしばらく拘束され、解放されたのは夜が更けてきた頃だった。
父が何やら書類を書かされているのを待ちながら、私は空を見上げる。
散々な一日だった。
次々と起こる出来事に必死で、今も自分の置かれている状況をいまいち把握しきれていない。
さすがに疲労感を覚えて目を閉じようとした矢先、こちらを見ながら声を潜める人たちが視界の端に映った。
「目の前で取り逃がすって有り得るか?」
「そもそもナイチンゲールがこんな都合良く現れんのかね」
「スパイだったりして」
「おいおいやめろよ。あ、こっち見てる。聞こえたんじゃね?」
正探偵の制服を着た男性が数名。
そういえば今自分は制服を着ているんだった、とため息をついた。
普通の女子大生なら咎められることもなかっただろうが、この制服を着ている以上、私はただの一般市民ではいられない。
まさに泥沼だ。
「あげは、すまん遅くなった。帰ろう」
その声で我に返る。
振り返ると、少しやつれた表情で頭を搔く父がいた。
「紫呉家の資産って、どういうことなの」
歩きながら切り出すと、父は眉尻を下げて答える。
「俺の祖父母の五代前からずっと受け継がれてきたんだ。子供に受け継ぐ時は成人してからと親父にも言われていた。こんな形で知らせることになって、すまない」
昔から守られてきたものだったのか。
いずれ自分があの資産を管理しなければならないと思うと、荷が重い。
「それは、いいけど。お母さんもこのこと知ってたの?」
「ああ。すみれには結婚する時に相談したよ」
「……じゃあ、トモカさんは?」
彼の恋人の名を出すと、父は私の方に顔を向けてから静かに頷いた。
「彼女にも話したよ」
あっさりと肯定した父に、おさまったはずの感情が沸騰しそうになる。
それを知らんぷりして、私は質問を重ねた。
「いつ?」
「確か二年前、だったな。あげはが高校二年生の時だ」
「……そう」
彼女の態度が変わり始めたのも、ちょうどその頃だ。
私に冷たく当たるのは、父と結婚できないからだとずっと思っていた。
多分、彼女の本当の意図は違う。
父を愛していたから私を詰ったのではない。父に心配をかける私が憎かったのではない。
もっと単純明快だ。
彼女は、父の資産が目当てだったのだ。
父が亡くなった場合、その資産は本来配偶者に与えられる。
だが配偶者がいない彼の資産を引き継げるのは、直系の子供――つまり私だけだ。
「なあ、あげは。トモカさんな、すごく心配してたぞ」
父の言葉が右から左へと流れていく。
こんなこと、知りたくなかった。
あんまりだ。だってそれじゃあ誰も報われないじゃないか。
彼女が執拗に籍を入れたがったのは、父の配偶者になることが絶対条件だったからだ。
婚約者じゃ意味がない。恋人なんてもっての外だ。
彼女は資産を独り占めする私を恨み、憎んで、今日まで父の隣に居座り続けたのである。
「もう、許してやってくれないか。母さんだって――すみれだって、きっとそれを望んでる」
ああ、もうどうにでもなればいい。
今自分は悔しいのか悲しいのか、それとも怒っているのか、皆目見当がつかないのだ。
きっともう全て終わってしまっていたんだ。
母がいなくなったあの日から。
「いいよ」
私は今、笑えているだろうか。
母のように美しく生きられているだろうか。
「結婚、していいと思う」
資産なんていらない。そんなもの全部くれてやる。
それで気が済むならいくらでもあげるわ。
だからお願い。もう私からこれ以上大切なものを奪わないで。
「私、卒業したら一人暮らしする」
私にとって母は一人だけだ。
それを分かってくれない父に、もう抵抗のしようがない。
いや父も被害者か、と自嘲気味な笑みが零れた。
最愛の妻を亡くし嘆いていたところに現れたのは、彼自身ではなく財産目当ての女だったのだから。
私も父も、寂しかったのかもしれない。
誰かに穴を埋めて欲しくて、それこそ藁にもすがる思いで。
だから私には父を責める権利などないはずなのだ、きっと。
「あげは……」
ひばりの前では泣けたのに、父の前では絶対に弱音を吐きたくなかった。
いま涙を流したら、確実に父を詰ってしまう。
それが分かっていたから、私はただ目を瞑って心を落ち着かせた。
「帰ろっか」
背筋を伸ばして父に微笑みかける。
これ程までに、早く大人になりたいと思った日はなかった。




