第二十話「悪夢とうだる朝」
お久しぶりでぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇす!
「……う……」
その夜、蝶華は夢を見た。
懐かしくもあり、忌々しい記憶。
昔、蝶華は誘拐された事がある。
十年程前、もう忘れる事の出来ない惨劇だ。
ほんの一瞬、一人になった所を襲われ、眼を隠され、手足を縛られ、その場から連れ去られた。
当時五つだった蝶華には何が起こったか皆目見当も付かないし、付いたとしても、どうする事も出来ない。ただひたすら、精一杯の力で抗うも、暗闇からの罵声と暴力に、泣き声を必死に堪えて怯えるしか無かった。
汚いノイズの掛かった男達の声が頭の上を交差する。べたべたとあちこちを冷たくザラついた硬い手で弄られる。
不快と恐怖と痛みと困惑で、ただただ震えていた。
誰にも聞こえない叫び声で、ただただ助けを求めた。
「……、助けて」
*****
「……イヤな夢だわ」
目が覚めて、薄明い部屋の天井を見つめながら、蝶華は呟く。今の自分を作り、苛める悪夢に舌打ちをした。目を擦って眠った頭を起こすと、茹だる部屋の熱気に耐え切れず、布団から脱け出した。タオルで寝汗を拭いながら、濡れたシャツのボタンを外す。
洗面所に向かい、蛇口をひねり、冷たい水を流す。手に掬い、顔に当てる。熱気を冷水が奪ってくれた。
ここで初めて鏡を覗いた。
何時も以上に冴えない、窶れた酷い顔が写っていた。
「……はぁ」
ため息を吐きながらシャツを脱ぎ払い、下着と一緒にまとめて、洗濯機の中に放り込む。
汗を流す為に部屋の風呂へと向かう。
シャワーを浴びながら、髪を伝って滴る温水を俯瞰しながら、蝶華はただぼーっと立ちつくすしていた。
暫くしてシャワーを止め、緩い浴槽に浸かる。
時計にふと目をやると、まだ午前三時を指していた。魘されて起こされた事に、ようやく気が付いた。
「……はぁ」
蝶華は二度目の大きなため息をした。
思い出したくない、忌むべき陰惨な記憶。
あれから十年以上経ってもなお、蝶華を蝕む悪夢であり続けていた。
何度記憶の深淵に追いやろうとしても、不快な笑を浮かべて追いかけ、掴んで離さないでいた。
何度苛まれても、慣れない、ただただ恐くて忘れたい過去。ただ一つ、を除いて。
「……このまま、また寝ようかしら」
湯船から上がり、水の滴る髪を軽く結び浴室を後にする。
正直、この不快にも思う濡れた重い髪をわざわざ時間を掛けて乾かすのは、あまりにも億劫過ぎた。
濡れたままで寝る不愉快と、労力を投じて乾かす手間を天秤に掛けると、圧倒的に寝ねるの方に傾く。
「……けど」
ベッドに向かいかけたその時、ふと足を止める。
不意にヤツの事を思い出したのだ。
お節介で、変態で、しつこくて、優しい、蝶華の忠実な執事の事を。
この濡れた髪のまま寝れば、すかさず飛んできて丁寧に、時間をかけて執拗に、蝶華を起こす事なく乾かしにくるだろう……。
けど、せっかくのバカンスなのだ。
休暇までは行かずとも、普段尽くしてくれている分、少しだけでも羽を休ませてやりたい。
ささやかながらの、ご褒美ってヤツだ。
さっそく蝶華は重いドライヤーに手を伸ばし、電源を入れる。
「……億劫ね」
蝶華の細い腕には、重すぎる長く濡れた黒髪を乾かすのは、やはり非常に辛い作業であったが、辰馬はいつもこれを一人でこなしてくれるのだ。それを考えたら、ほんの一度くらいなんてことはないと思える。
長い時間をかけてようやく大方乾いてきた。
しかし時計は既に五時に。
さっきまでは夜を少し残すくらいの薄暗さはあったが、今はもう完全に太陽が世界を迷惑なくらいに、眩しく照らしてくれている。
眠気と暑さで、蝶華はふらふらだ。
(暑い……とんだ災難ね……)
辰馬ならもっと早く、もっと優しく、もっとしっかり乾かせる上に、何故かドライヤーの熱風が苦に感じない。上手いのだ。きっと。
やはり辰馬を呼ぶべきだったかな?………。
蝶華は少し後悔したが、自分でやると決めたには、最後までやり遂げる。
眠い目を擦り、ふう、ため息を深く吐いて、熱くなったドライヤーに手を集中させる。
*****
気が付くと、蝶華は明るくなった天井を見詰めていた。
一瞬驚いて起き上がったが、すぐにハッとして布団に横たわる。
……辰馬が運んだのだ。
恐らくあの後、鏡の前で寝てしまったのだ。
そして辰馬が、運んだ。
……結局、アイツの手を煩わせてしまった。
いや、執事だし、別に蝶華が気を使う必要は無い事は分かってる。
蝶華の手となり足となる、それがあの変態執事の望みなのだ。
けど、蝶華はそれに少しばかり、罪悪感を抱いている。
自分の無力さを見つめているみたいで、耐えられない感じもある。
何より、辰馬の事を想うと……。
「ん?」
想う?
違う。
思う、か。
顔を洗い着替えを済ますし、部屋を出ようと扉をあける 。
「おはようございます。お嬢様」
いつも通り、そこには辰馬が跪いていた。
今日も律儀な黒スーツは、寝起きの暑さに嫌気が差している蝶華には、見ているだけで息が苦しくなりそうだ。
「ああ、今日もお美しいです」
御世辞やおべっかでは無く、心の底から、いつもそんな言葉を掛けるのだ。この執事は。
「え、ええそうね……」
昨夜の後ろめたさと相成って、平静を保つのが辛かった。
上目遣いでそれを言う変態執事を見下ろしながら答えた。
「今日の朝食はいかがなさいますか?」
と、蝶華の必死のポーカーフェイスとは裏腹の曇りない笑顔で訪ねる辰馬。
正直、暑さもあって食欲は微塵も無かったが、食べないと辰馬が心配して付き纏うので、答えはイエスだ。
「ではラウンジに向かいましょう」
万遍の笑みで、辰馬は手を出す。
蝶華は手を取る。
いつも変わらぬ温もりに、今日も安心する。
「……ええ。行きましょう」
*****
ラウンジに下りると、既に数人が朝食を摂っていた。と、言っても、滞在中このホテルは蝶華達の貸切なので、ここにいる客は全員変態館の住人達だ。
「あら、蝶華ちゃん!今日もきゃワいー!」
と、朝からまた大きな声で蒼伊は歓喜した。
蝶華の腕を掴み、ぶんぶん上下に振り回しながら子供の様に飛び跳ねていた。
毎度毎度、元気がいいものだ。
こっちは寝起きの上に暑さでバテバテなのに……。
「お、おはよう繚之浦さん……」
「またまた〜そんなよそよそしくしないでよっ〜!蒼伊でいいわよ。あ・お・いっ」
「え、ええ……」
圧倒されるばかりである。
身体には触れてないものの、とんでもなく接近されて、蒼伊の鼻息が顔に掛かってこそばゆい。
「繚之浦さん、お嬢様が戸惑っています。離してもらえませんか?」
何時も通りの不動の笑顔で蒼伊をたしなめる辰馬。
(内心、どう思ってその表情なのか……)
少し離れた席で見ていた秋村は少しばかり気になったが、注文していたソーキそばが届いたから割り箸を綺麗に割いて舌づつみを打った。
「あーら?イヤなの?蝶華ちゃん?」
「え、い……いや……」
ただ蒼伊の勢いに戸惑っているだけで、決して嫌がっている訳ではないのだ。寧ろ、こうもそっけない自分に呆れずに構ってくれる蒼伊に、ある意味好感を覚えている。
「その……なんと言うか……くっ……くすぐったい……だけ……で……」
蚊の羽音の様な消えそうな声で答えた。
赤面して正面が向けず俯きながら更に小さな声量になって、正直自分でも聞き取りにくいボリュームだったが、
「あら、そうなの?ごめんね蝶華ちゃん」
お詫びに結婚しましょう!と続けている蒼伊にまた後ずさり。
何時も思う、この形容しきれない勢いと言うか、元気さと言うか……青伊から溢れる「気」の様な物を、一掬でも分けてもらえたら、自分の日常は、もっといい方向に行くと思う。
そんな考えがふと頭に過ぎった。
「おはよう……蝶華ちゃん」
愛らしい、ふわっとした声が鼓膜を撫でた。
オニギリの模様が入った変わってるが可愛らしいパジャマ姿で、手には白い抱き枕の様な物(シロクマかアザラシかと思ったら中華まんの形)を抱え、目を擦りながら魔論が現れた。
欠伸をした所為か、長い睫毛が少し濡れてキラキラ光っていた。
何時も以上に無防備な姿に、蝶華は母性を擽られざるおえなかった。蒼伊じゃないが、今すぐにでも抱きしめたくなる衝動が込み上げてくる程に(とうの本人はすぐさ魔論の元へ)可愛かった。
「お、おはよう、悪魔野さん」
「魔論でいいんだよ、まろん〜……」
眠そうに微睡みながら答える。可愛すぎる。
「あ、うん……ま、まろ……ん」
何故かオドオドと、消えそうな声。
照れくさと、恥ずかしさが入り混じって潰れそうだ。
「うん!蝶華ちゃんだーい好き!」
カッと目を見開き、キラキラした瞳で蝶華を見つめながら蝶華を抱きしめた。
「く、苦しいよあく……魔論……」
「大好き!」
更に力が強まった。
蝶華の細身は悲鳴をあげている。
しかし、可愛いから許してしまいそう……本能では危険信号を送っているのに、思考ではそんな事を考えてしまっている。
「悪魔野さん」
ポン、と辰馬が魔論の肩を叩いた。
霞のない笑顔で優しい口調で言った。
「お嬢様が辛そうになさってます。離して貰えませんか?」
「……あぁ」
ゆっくりと(その間も抱き締め続ける)状況を把握(?)したのか、こくりと頷き、徐々に力が抜けていき、蝶華は解放された。
(はぁ……苦しかった……けど、柔らかくていい匂いしたな……)
お菓子の様な甘い匂い……そう、正に『マロン』の香りがした。苦しさと幸福の狭間から脱した蝶華は安堵の息と共にそんな感想を思った。
「大丈夫?ごめんね……」
申し訳無さそうに謝る魔論。
イタズラがバレてしまった子供の様に、澄んだ瞳を潤わせこちらを見詰める。
母性を擽られるオーラをふわふわと放たれては、何も言えない。この瞳の前では、どんな兵器も無力と化す。
「だっ……大丈夫よ」
産まれたての小鹿の様に脚をプルプルと震わせながら答えた。我ながら滑稽で、なんとも無様な事だ。
上手く力が入らず、思わず後ろによろけそうになった。
すっ、と背中を支えられる。
誰かと分かりつつ、振り返るとやっぱり、アイツがいた。
「お嬢様」
笑顔が綺麗過ぎる。幸せそうな、私の執事の顔があった。




