瞬きの先 5
全体を見れば、およそ茶色。よくよく見れば、一粒一粒違う色で、白く光ったり黒い粒だったり。その上を一心不乱に黒い蟻が歩いている。
「瑠夏さん、ゆう先生が探してたよ」
休憩対応の職員と交代するとき、神谷に頼まれたのだ。佐藤瑠夏を見かけたら、早帰りのため教室へ戻るよう伝えてほしいと。
もしかして、とのぞいてみれば、のんのんの木の根元、しゃがみこんで蟻を見つめる瑠夏を見つけた。
「あみ先生、蟻はどうして生きてるの?」
「え……」
出たよ、子どもの難問。なんで空は青いの、だったらいくらでもスマホで調べられるが、哲学に触れてしまいそうな質問は困る。
「えーと。瑠夏さんはどうしてそれが気になったの?」
必殺質問返しをしながら時間をかせぐ。
蟻をひたと見つめていた視線が、ゆっくり私へ向く。途端、ぱちりぱちりと瞬きが始まった。
思わず、目が痛いの? と聞いてしまいたくなるようなその姿は、あまりに痛々しい。
苦しい、つらい。こちらを責め立てるようにさえ感じるそれを、瑠夏の母は毎日どんな気持ちで眺めているのか。
「図鑑で、植物は空気をきれいにするって書いてあったの。きれいにしたら、みんなうれしいよね。蟻は何をしてるんだろ」
「ああ、そういうことね」
食物連鎖のことと絡めて説明すれば良いのかなーーとことばを選ぼうとした途端、中腰になった瑠夏の足が浮く。どん、とそのまま下された足は蟻の行列を乱し、ざりざりと嫌な摩擦音を立てた。
「死んじゃったね」
「……」
一瞬の惨事に行列は乱れたが、やがて潰れた蟻を避け、何事もなかったかのように行進は再開される。
「ママがね、どうしてって言うの。どうしてできないのって。パチパチやめなさいって、どうしてやめられないのって」
だって、わかんないんだもん。
瑠夏が頬をふくらませる。
「図鑑もたくさん見たけど、理由が書いてないのもあって」
ーーどうして生きてるのかなぁ。
一瞬、消えたはずの美晴の影が見えた。
どうして戻ってきたの、消えていくのが怖いよ、と叫んだ美晴は、瑠夏の中にまだいるのだろうか。
「……私にも、よくわからないから。一緒に考えようか」
とにかく、この木の近くに瑠夏を置いておきたくないし、私も早く離れたい。
お部屋に戻ろう、と促すと、ぱちりと応えがあった。
ーーーーーーーーーー
「あみ先生、お久しぶりです」
「佐藤さん」
ママ、と瑠夏が駆け出す。瑠夏の母と私が話し出したのを確認して、ここまで送ってきたのであろう仄里が目礼して立ち去っていく。
いくらおやつの時間で皆部屋に入っているとはいえ、自由に動き回られるとよからぬものを見られる恐れがあるから、見送りは必須だ。
いつも整えられた上品なスーツ。毛穴もシミもきれいに隠された肌に、つやつやの巻き髪。いざ私が瑠夏の母の年齢になっても、こんな風にはなれないだろう。
帰り支度をするため教室へ入っていく娘の背を見ながら、瑠夏の母が口を開く。
「あみ先生が来たばかりの頃……瑠夏とお友達が喧嘩になったことがありましたよね」
「はい……」
美晴が惣太にハサミをつきつけたときのことだ。
あのとき、覚醒前の子どもの何人かが廊下の騒ぎに気づいてしまった。
両名覚醒者なので、ケガがない以上は保護者への連絡も控える予定だったが、前世に支配されていない子どもに知られてしまえばそういうわけにもいかない。
曖昧な理由をつけて両名の保護者へ報告、謝罪することになったのだ。
私のケガに気づかれなかったのは不幸中の幸い、ではあったが。
「思い返すと……あの頃、瑠夏はなんだか様子がおかしくて。夜寝ていてもうなされたり、何もないのに身体をさすって痛いと訴えたり……。あのときもっと自分が受け止めてやっていたら」
美しい睫毛の下、うっすらと涙の膜が揺れた。
夫は大きな企業で働き、自身も一つの会社で長く働き役職を持っているという瑠夏の母。初めての子育てで戸惑いながらも、決して手を抜かず、真摯に瑠夏に向き合ってきたのを知っている。
「今は……そういうことは?」
「……ないですが、瞬きが……」
遺恨を深く残したまま消える前世の人格は、子どもたちに少なくない影響を及ぼす。
吐くまで食べてしまうようになる子、出血しても次々ささくれをめくってしまう子、大人も怯むような強いことばを使うようになる子。どれも、神谷の言うように幼児期に出ても不思議はないものばかりだが、やはり胸は痛む。我が子のこととなれば、なお辛いだろう。
「指摘してもどうにもならないとは言うけど、どうにか……してあげたいって思ってしまいますよね」
吃音やチックは指摘や指導では直らない。むしろ、おかしいと思われている、直さなければと思うことで悪化する可能性があると言われている。
あくまでも想像の域は出ないけれど、それを知識として知っていても、自分の子どもにやらずにいられるかというと、かなり忍耐力を必要とされそうだ。
「……前に私、園長に言われたんですけど。誰かをどうにかしてやろうっていうのは、烏滸がましいんですって」
瑠夏とよく似たアーモンド型の瞳が、疑問にすがめられる。
「直接関係なくても、自分がごく自然にしていることがひとつひとつ積み重なって、相手にとって意味を持つようになるから、今すぐどうにかしようと思わなくてもいいって」
子どもの発達は必ず右肩上がりだ。足踏みしているようでも、一段下がったように見えても、必ず階段を上がれる日が来る。
前世の名残に邪魔されても、それは変わらないはずだ。
「佐藤さんが今瑠夏さんのためにやってることも、そうでないことも。巡りめぐって必ず意味を持つと思います」
全部受け売りですけど、と胸を張ると、ぷっと瑠夏の母が吹き出した。
「受け売りですか」
「そうです。仄里園長の有難いおことばです」
どうして生きているのかわからなくても、あなたのあとを私も生きている。
きっと今度は大事にしてくれる人に出会ってほしい。
そのための手伝いを、しっかりするからね。