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第05話


森田慎治もりたしんじは、拘置所こうちしょの中にいた。

留置場りゅうちしょではなく、普通は被疑者拘留に使われる事はないこの場所で、検事が直々に事情聴取をするなんて、すごい力の入れようだ。

その事を目の前に座る検事に尋ねると、「事件の重大性と、マスコミ対応を考えた結果だ」というそっけない返事、―――前の理由はともかく、後の理由は明らかに嘘だった。

この男が、被疑者の権利なんて考えているはずはない。

それは、これまでの事実が証明している。




―――彼が捕まったのは、埋立地にある国際空港のロビーだった。

それはまるでテレビドラマのような、マスコミが待ち構える場所での逮捕劇だった。

始めは意味が解らなかったが、刑事から逮捕状を見せられ、罪状を読み上げられると少し怒りが湧いた。

生命倫理法違反と傷害罪なんて、全く身に覚えが無い。

特に生命倫理法は仕事柄よく理解していたが、あれは故意犯だったはずだ。

抗議しようと思ったが、荷物を没収され、手錠をかけられると、―――稲妻のようなフラッシュが周り中から浴びせられた。

これ以上、マスコミの喜ぶような表情をしたくなかったので、彼は無表情のままで、黙って警察官の指示に従った。


フードも掛けられずに、手錠をしたまま、フラッシュの雨の中を歩くのは複雑な気分だった。

何だか笑いたいような、―――泣き出したいような、―――本当は、大声で叫びたかったが…。

つまり、これは世間に対するアピールで、彼は市中引き回しの上、獄門扱ごくもんあつかいなのだろう。

桑田から国際電話で、「…今は状況が悪い。どうせなら、もう少し海外にいろ」と忠告されたが、ここまで深刻だとは思っていなかった。

いつもとは別のSPが空港で待っているのかと思ったら、警察官とマスコミが大勢でお出迎えの上で逮捕なんて、現実離れし過ぎていて笑ってしまう。

だが、目つきの悪い彼が笑うと、不敵な表情だとマスコミに書かれるのがオチなので、出来るだけ自然体でいようと心に決める。


逮捕される時、―――真っ先に思い浮かんだのは、年老いた母の姿だった。

母子家庭で育った彼は、人に後ろ指をさされないように、真面目に必死に生きて来た。

その結果が不当逮捕なんて、母をどれほど心配させるだろう?

母の周りに親戚はいない、―――大震災で死んでしまったから。

故郷の住民達は母に親切だが、今の状況ではあてには出来ない。

電話一つも掛けられない状態では、里香に頼るしかないかもしれない。


…そうだ、里香だ。

この逮捕劇を見てどう思うだろうか?

きっと激昂げっこうするに違いなく、自分の事より心配だった。

大人しくしてくれればいいが、彼女の性格からして多分無理だろう。

帰国後すぐに、延期していた結婚式の日取りを決めるつもりだったが、もうそれどころでは無い。

場合によっては、辛い決断を押し付ける形になるはずだ。

そうしないと、彼女はいつまでも解放されないはずだから…。



―――それから、黒塗りの車に乗せられ、この拘置所に連行された。

色々と屈辱的な事はあったが、思い出したくも無い。

現時点で判明している全ての不適合ユーザーへの処置が終わった後だったのが、唯一の救いだろうか?

開発者としての最低限の責任を果たし終えた事だけが、彼のプライドを支えていた。


拘置所の取調室に入り、まず彼が自発的にした事は、知り合いの弁護士に連絡を取る事だった。

それまでは一言も話すつもりはなかった。

その弁護士の名は、九門真一くもんしんいちという大学時代からの友人で、人権派で知られる男だった。

彼なら信頼できるし、きっと力になってくれるはずだ。




慎治の期待に応えるように、二時間もしないうちに九門は面会に現れた。

少しホッとした彼だが、九門弁護士の表情は硬い。

面会室に座った2人は、透明なアクリル板を挟んで会話を交わす。

小さな丸い穴がプツプツと空いている、ドラマでよく見るタイプのものだ。


「森田、久しぶりだな…。こんな場所で会いたくなかったよ」


「…すまん、迷惑かけるな。早速で申し訳ないけど、僕の弁護を引き受けるか、信用出来る弁護士を紹介してくれ。何でこんな事になったのか、さっぱり見当もつかないんだ」


「…森田、君は日本にいなかったから知らないだろうが、ちょっと大変な事になっている。テレビでは、君が逮捕されてからずっと特番をやっている。言っては何だが、君の味方は少ない。…特に、政治家や財界は、八割方は敵だと考えた方がいい。だから味方は当てに出来ない。ついでに、マスコミは狂喜乱舞きょうきらんぶしているよ。…言ってる意味はわかるだろ?」


慎治は顔を引きつらせながら、がっくり肩を落とす。


「マスコミに嫌われているのは知っていたけど、そんなに世間から嫌われているとは知らなかったよ。政治家や財界人なんて、めったに会わないから、無視してくれるだけでいいのにな。…だけど参ったな。ここしばらくは、世界を飛び回っていたから、そこまで深刻だとは知らなかったよ。…やっぱり僕は、許されないんだろうか?」


九門はその質問には答えず、用件を話す。


「罪状は知っているな? 時間が無いから手短に話すが、もし何か聞きたいなら手を挙げて話を止めろ」


慎治が頷くのを確認すると、九門は少し早口で話し始める。

彼の頭の回転の速さと記憶力を知っているから出来ることだ。


「どうせ君のことだ、無罪に決まっている。大よその経緯も知っているし、大学でも君ほど人畜無害な人はいなかったからな。

 知ってると思うが、生命倫理法と傷害罪はいずれも故意犯だ。これは見込み逮捕の可能性が極めて高い。必ず自白を強要しようとして、あの手この手で迫って来るぞ。だから決して認めるな。黙秘してもいいが、暇なら雑談程度なら付き合ってもいい。

 …だが、取調官とは決してわかり合おうとするな! 相手は絶対こちらの話を信じない。そういう風に訓練されていると思った方がいい。それから、違法な取り調べを避ける為にも、必ず撮影を要求しろ。相手の言葉づかいも丁寧になるし、法律で認められるから、さすがに拒否できないはずだ。もし難くせを付けられたなら、俺がかけ合うから心配するな。…ところで、メモは持っているか?」


「いや、荷物は返してもらってない」


「返却を要請しろ。念のため、取り調べ以外でもメモは取っておくようにしろ。金はいくら持っている?」


「…確か、日本円で2万円程度だったと思う。残りはドル紙幣とカードだ」


「君には、差し入れを頼める人がいるか? もしだめなら、現金を差し入れ屋に預けて頼む事も出来る。それとも、うちの事務員に持ってこさせるか?」


一瞬、里香の姿を思い浮かべるが、ここはやめた方がいいと判断する。

無理だとは思うが、今は出来るだけ遠ざけたい。


「手間をかけて済まないが、現金だけ貸してくれるように君に頼むよ。…確か現金があれば、買い物できるんだったな」


「それはいいが、何でも買える訳じゃないぞ。詳しい事は看守に聞いた方がいいがな。今は時間が無いから、別の事を話そう。ふざけたことに、接見時間が15分しか取れなかった。これは明らかに異常だ。正式に抗議するつもりだが、君もそれでいいか?」


「…まかせるよ、何もかも初めてだから、何をしていいかわからない」


力なく微笑む慎治を見て、九門は少し声を大きくする。


「いいか森田、気をしっかり持て! 簡単にあきらめるなよ。必ずここから、日の当たる場所に帰してやる。俺はその為に来たんだからな!」


(…そうだ、九門の言う通りだ。僕がしっかりしないと母さんも里香も不幸になる。桑田だって心配しているはずだ。…早くみんなと話したい。こんなのは嫌だ!)


それからも、九門弁護士の注意は続く。

慎治は聞きもらさないように集中する。


「かなり長い闘いになる可能性がある。…あまりこんを詰めるなよ」


最後にそう言って、九門弁護士は面会室を出て行った。

…そうだ、目的さえあれば、長い闘いにだって耐えられるはずだ。

彼は、大切な人達と全員で幸せになりたいのだから。



―――――――――――――――――――――――――



次の日、真っ先に面会に来たのは里香だった。

面会室で彼の顔を見た瞬間、泣き出しそうになるが、何とか耐えたようだ。


「慎ちゃん、差し入れ持ってきたよ。着替えとかお金とか、ネットで調べて持ってきた。一日一回しか会えへんし、10分だけしか駄目やなんて酷い話や。そやから、桑田さんから手紙を預かってきたよ。…後で読んでね」


「…ありがとうな。とりあえず座りなよ」


透明なアクリル板を挟んで、婚約者達は向かい合う。

わずか1mしか無い距離だが、触れ合う事も出来ない。


「…慎ちゃん、心配せんでも、うち毎日会いにくるよ。悪口言う人にも、うちは負けへん! そやから元気だし!」


慎治の表情を見た里香がそう言うなら、酷い顔をしているはずで、より一層、心配させてしまったようだ。

彼は少し気を引き締める。


「…里香、それはダメだ。今そんな事をしても、多分逆効果だ」


「そんなん、あかんよ! 慎ちゃんが大変やのに、うち、じっとしてられへんもん」


「里香、…頼むから僕の言う事を聞いてくれ。もし何かあったらと思うと、心配で夜も眠れないよ」


「……検討します」と、目線をそらす彼女。


絶対嘘だと思ったが、へいの中にいる自分にはどうしようもない。

彼女は恐らく、世間に顔を出してでも彼の無実を訴えるだろう。

ありとあらゆる場所で、―――例えば、拘置所の前で待ち構えているマスコミの前ででも躊躇ちゅうちょしないはずだ。

彼への悪意が自分に向くなら、大歓迎だと言うばかりに。


「なあ、里香? SPの人にも迷惑だろ? 電車を乗り継いでも、家から往復3時間近くかかるだろ?」


「慎ちゃんは、アホやな。ここに来る時は、SPの人は付いてこんよ。目立つから、それの方がええと思うし丁度ええわ」


「…里香、もしかしたら、SPの警護が外れたのか?」


慎治の指摘に、困った顔をする里香。


「…うん、さすがは慎ちゃんや。…可憐かれんさんも怒っとった。今が一番危ないって言うて、ごっつう心配してくれてたよ…」


可憐というのは、昔から里香達をよく知るSPの女性だ。

彼女が警備を外れるという事は、警察上層部で、何かあったのかも知れない。

自分を追い詰める手段かもしれないし、世論に配慮したのかもしれないが、今はそれどころでは無い。


「里香、桑田に相談して、警備会社から女性警備員を手配してもらえ! 金なら心配するな。後で全部、僕が出す。…頼むからそうしてくれ!」


彼女はフッと笑うと、「…桑田さんもそう言っとった。…そやから、明日からそうしてもらうんよ。今日かて、変装してきたから大丈夫や」と元気よく答える。


さすがは桑田である。

少し安心したが、念押しをする。


「…ともかく、今日はまっすぐ帰るんだぞ。…約束してくれ」


「…うん、約束する。慎ちゃんの、そんな顔見たら、…うち断れへん」


それからは、たわいない話が続いたが、10分はあっという間に過ぎる。

面会時間終了を告げる看守の声がすると、里香は最後にこう言った。


「…明日、慎ちゃんのお母さんと会って来るさかい、心配せんとってね。…節子さんに、何か伝えたい事ある?」


「僕は元気だから心配するな。…それと、すぐ手紙を書くと伝えてくれ」


看守に連れられて、面会室を出て行く慎治の後ろ姿を、里香はじっと見ていた。

最愛の人が闘っているのだから、自分も負けるわけにはいかないと決意を込めて。



―――――――――――――――――――――――――



逮捕された日の午後からずっと、―――もう一ヶ月以上も、慎治の先の見えない静かな闘争は続いている。

取り調べ時間は思った以上に長くて、何度も同じ事を聞かれると気が滅入る。

一人の検事と、二人の警察官がとっかえひっかえ、―――こちらは一人なのに。

もう、雑談に応じる気にもなれなかった。


九門弁護士の言うように、彼らは最初から聞く耳など持っていなかった。

要するに、目の前の男が犯罪者では無くては困るのだろう。

彼から聞かされてなかったら、更に消耗が激しかったと思う。



慎治が闘っている塀の外でも、闘争は続いている。

九門弁護士は、信頼出来るマスコミのインタビューに連日応じて、逮捕の不当性を訴える。

同時に、被疑者のまま拘置所に拘留されているという慎治の特別扱いを非難し、一日も早い釈放を検察に求める。

その意志に賛同した弁護士達が、大弁護団を結成すると、検察の焦りはますます酷くなり、検察内部でも彼を逮捕した検事一派に対する非難が表に出始めた。

何しろ関係各所を家宅捜索をしても、慎治を立件する証拠は、微罪といえども出てこなかったのだから、彼の敵もこれ以上、さらし者には出来なかった。

国際的にも問題になり始めたので、検察は何とかして有罪に持ち込むしか無く、―――かなり無理をして拘留延長をするしかなかった。



それから更に一ヶ月、

検察が成果を挙がられない間に、九門弁護士はついに相手のアキレス腱を付き止めた。

慎治の腹心の部下だった男、―――田代が検察の切り札だと気付いたのだ。

田代から事情を聴き、検察の筋書きを読み切った九門は、まず精神科への通院を彼に勧めた。

それから、何度も会って話しているうちに、田代の信頼を得ることに成功する。

元々は慎治の信奉者なのだから、道理を説いて、恩師の苦境を説明すれば後は簡単だった。

裁判になった時の証言を約束させて、念のためにビデオメッセージを撮影すると、もう負ける要素は見つからなかった。



一方、桑田副所長はというと、自らは座して全く動かなかった。

今回の逮捕劇の直後から、桑田は深く反省していた。

慎治をおとしいれる勢力を、ある程度は予想していたが、―――結局、彼らの魔の手から慎治を守る事は出来なかったからだ。

さすがに、検察内部の情報までは、桑田はつかめなかったのだ。

こうなった以上は、自分が動き回る事より、情報収集に努める方がいいと判断した訳だ。


そうなれば、彼がする事は一つだった。

いま自分が一番するべきなのは、慎治が安心して帰れる場所を守る事ではないか?

そして、最近ずっと留守を預かるという、本来の役目をおろそかにした事に気が付いたのだ。

その結果、慎治の直属の部下である、田代の精神の異常に気が付いて、九門弁護士に報告する事が出来た。

冷静になれば、見えてくる物もあるのだ。


そもそも、親友の不幸をネタにするマスコミへの対応など無視してもいいし、従業員の就職の世話など、部下の自主性に任せればいい。

あえて慎治の弁護をかって出なくても、離れて行く人は離れて行くし、陰ながら協力してくれる人もいる。

自分は出来るだけ目立たずに、人付き合いが得意ではない親友の手助けをする事が、今の彼が出来る最良の仕事だと、改めて心に決めた訳だ。



結果的にそれは正しかった。

慎治が隙を突かれる格好になってしまったのは、桑田が研究所内の人心を把握しきれていなかったからだ。

…だが、田代を責めるわけにはいかない。

それは自分達の都合を優先した結果であり、副所長である彼の注意不足でもあるからだ。


結局、天才ではない彼は、サポート役が一番しっくりくる。

彼が里香に託した親友への手紙には、「安心して帰ってこい。留守は任せろ」と最後に書かれていた。

拘置所に捕らわれて動けない親友の為に、人と人を繋ぐ役目をこなす事が、何より重要だと考えた訳だ。




そして、この間、一番活発的に動き回っていたのは里香だった。

それほど知恵が回るタイプでは無い彼女は、とにかく目立つことにしたのだ。

桑田は、『危険だから目立つな、君に何かあったら慎治が悲しむ』と何度も止めたが、彼女は聞き入れなかった。

慎治を知る友人達を集めて署名活動をしたり、感情を殺して、マスコミ相手のインタビューに明るく答える。

自分の婚約者がいかに良い人かを熱心に語りかけて、笑顔を絶やさない。

それを一部のスポーツ新聞やワイドショーが取り上げて、彼女はちょっとしたヒロインになった。


彼女の考えは、シンプルだからこそ迷いがなかった。

人に自分がどう思われようとも構わない。

誰が何と言おうが、二人は繋がっている。

例え籍は入っていなくても、もう夫婦なのだから、世間の荒波に一緒に立ち向かうのは、彼女にとっては当然だった。



―――だが、タチの悪いマスコミにとっては、慎治の代わりの新しいおもちゃを手に入れた感覚であり、―――とりあえず持ち上げて、落とす準備をするつもりだったのだろう。

そこそこ美人だし、慎治の情報を知っているので記事には事欠かない。

それを読んで、『いい気になってるバカ女』と思う読者もいれば、『不謹慎な女性だ』と眉をひそめる読者もいるだろう。

中には彼女の言葉を信じる単純な読者もいるだろうが、ここまでがっちりと検察が関与している犯罪者が無罪になるはずはないから、―――慎治が起訴されて罪に問われれば、もっと面白い記事が書けるだろう。


悲劇のヒロインを気取るか、怒り狂って醜態しゅうたいをさらすか、―――いずれにしても、馬鹿な女はティッシュペーパーのように使い捨ててしまえばいいだけだ。

万が一、慎治が無罪にでもなれば、検察を叩けば済むだけだから、こっちに責任は無い。

…もちろん、始めから取るつもりも無い。

情報が錯綜さくそうする現代社会では、彼らは最大の既得権益者なのだから、―――例え問題になっても、表向きだけ反省すれば、全ては許されて過去の事になるのだから。



―――――――――――――――――――――――――



そんな、それぞれの思惑が絡み合う拘置所の塀の外、

慎治が逮捕されてから、すでに約三ヶ月、―――いくらなんでも拘留日数も限界で、そろそろ決着が付くはずだと思ったマスコミが、里香を落とす準備を整えていた頃、

―――誰にとっても不幸な形で事件は起こった。



慎治は、連日続く厳しい取り調べにも黙秘をつらぬいていた。

不正ネットアクセス防止法違反とか、著作権法違反の幇助ほうじょだとか、いくらでも言い訳が利く理由で再逮捕と拘留延長が認められたいたが、黙ってじっと耐えていた。

プログラムの作成という仕事は孤独な物だから、一人でいるのには耐性があったと言えるかもしれない。


それでも、人には限界がある。

彼の心の支えは、二日に一度は必ず面会に来る里香の存在だった。


……だが、今日は少し気になる事があった。

昨日、面会に来る予定だった里香が拘置所に現れず、体調でも崩しているかと彼は心配していたのだ。

そんな日の朝早く、九門弁護士から至急接見したいとの連絡があり、ろくに朝食も取らずに慎治は面会室に向かう。

扉を開けて、すでに椅子に座っている九門弁護士に声をかけようとした彼の動きが固まる。

九門弁護士が、今まで見た事も無いような深刻な表情をしていたからだ。

悪い予感を必死に抑えて、透明なアクリル板の前に彼は腰掛ける。


「…九門、何があった?」


「落ち着いて聞け、…香川里香さんが、昨日の午後三時過ぎ、数人の暴漢に襲われて車で連れ去られた。目撃者の通報ですぐに車は発見されて、彼女は一時間後に保護された。今は入院しているが、かなりの重症らしい。襲撃の際に警備会社のSPが殺害されていて、犯人は逃走中だ」


慎治の全身がガタガタ震え出す。

体の芯に、しもが降りたようで、寒くて仕方が無い。


(僕は何やってんだ? 会いに行かなきゃ)


混乱した彼は、立ち上がろうとするが、―――膝が笑って、その場に倒れ込む。


「森田、しっかりしろ!」


九門の声が遠くに聞こえる。

大きな音に驚いた看守が、ドアを何度もノックする。

慎治は言葉さえも出ず、胸が苦してたまらなくなる。


「落ち着け、森田! 気をしっかり持て。彼女は強い人だ! 君を置いて行ったりしない!」


業を煮やした看守がドアを開けて、面会室に入って来る。

慎治の様子を見てあわてて駆け寄ると、状態を確認する。

ガタガタ震えていて、とても話が聞ける様子ではない。


「なにがあったんです、九門さん? 酷い興奮状態じゃないですか?」


アクリル板に貼り付くようにして、九門弁護士は答える。


「…彼の婚約者が暴漢に襲われて、危険な状態だ」


看守の男は、慎治と九門を交互に見て事情を理解すると、すごく気の毒そうな顔をする。

だが、職務を思い出したのか、九門に尋ねる。


「どうします? 接見を中止されますか? とても話せる状態には見えませんが?」


「いや、…彼が落ち着くまで待って欲しい。…勝手な事を言うが、今日の取り調べは中止にするように担当官に報告してくれないか? 彼の弁護士として、とても認められない」


「報告はしますが、お約束は出来ません。…それでよろしいですか?」


「…ああ、頼む」


立ち上がろうとした、看守の男のズボンを慎治は震える手でつかむ。


「…待て、罪でも何でも認めてやる。僕をここから出せ!」


「…森田さん、落ち着いて」


かすれる声で絶叫する慎治を看守はなだめる。

だが、その声は彼には届かない。


「お前らは、僕がハイと言えばそれでいいんだろ! だったらいくらでも言ってやる。僕がやった、僕が全部悪いんだ! だ、か、ら、ここから出せ!!」


胸ぐらをつかもうとした慎治を、看守は仕方なく床に抑えつける。

非力な彼は身動き出来ずに、叫び声をあげる。

怒っているのか、――悲しいのか、――虚しいのか、―――何故だか解らないが、涙があふれて止まらない。


40を過ぎた男が、床にいつくばって大声で泣いている。

―――もう彼は限界だった。

いま、里香に会いに行けるなら、例え死刑になっても構わなかった。

もうすべてが嫌だったが、何も出来ない自分が一番嫌だった。


「森田、これを見ろ!」


放心状態の彼の耳に、九門の力強い声が届く。

拘束をゆるめられた彼が無意識に身を起こすと、透明なアクリル板に里香の顔が見える。

もちろんそれは、ただの写真で、スポーツ新聞の切り抜きだった。


「…里香」と、つぶやいた慎治は笑顔の彼女の写真をボーっと眺める。


「香川さんに止められていたから今まで見せなかったが、今の君に一番必要な物だ。…さあ、読んでみろ!!」


慎治はアクリル板にこすりつけるように顔を近付けると、スクラップブックに貼り付けてあるスポーツ新聞の記事を見る。


里香は笑っている、―――慎治の無実を信じてると、―――何があっても決してあきらめない、愛する人とは一心同体だから。


ゆっくりとページをめくって行く九門弁護士。

彼女の表情は、全て満面の笑顔だった。

記事の文章も、全て彼を気遣う物だった


「…どうだ、森田。こんな三流新聞でも、香川さんの心が伝わって来るだろう? 君は、彼女と再会した時、笑って話したいのか? それとも罪人として、こんな仕切り越しに会いたいのか? どっちだ!!」


慎治の目に、生気が戻る。

大きく一つ深呼吸する。


「……すまなかった。頭が冷えたよ。…あなたにも、ご迷惑をかけました」


右そでで涙を拭き、振り返って看守に頭を下げる慎治。

看守は軽く頷くと、面会室を出て行った。


九門弁護士は、ようやく椅子に座り直すと、深々と頭を下げる。


「森田、私の言い方が悪かった。君を冷静な男だと思っていたとはいえ、あまりにも配慮が足らなかった。…だが、負けないでくれ、―――彼女の為にも、自分の為にも」


「…ああ、ありがとう」


九門弁護士は、慎治にスクラップブックを差し入れると、

「今日の取り調べに気を付けろ。必ず付け込んでくるぞ。それと、香川さんの事は毎日必ず報告する。不安だと思うが、…頑張れ!」と言って、足早に立ち去った。


彼の性格なら、もう少しくらいは残っていくはずだ。

…恐らく、かなり無理して来てくれたのだろう。

心強い友人の存在が、今はありがたかった。




―――果たして、九門弁護士の予想は当たった。

それからすぐに、慎治は取調室に呼ばれ、長時間の尋問を受ける事になる。

九門弁護士によると、目の前に座る男は、与党お抱えの検事と言われていて、最近は取り調べに顔を出していなかった。

…だが、いま目の前にいるという事は、慎治を落とす気なのだろう。


「森田教授、いいかげんに認めませんか? すぐにとは言いませんが、調書さえ完成すれば、釈放も検討しますよ? ……色々と思う所もお有りでしょ?」


暗に釈放をちらつかせる検事に、慎治は生まれて初めて強い殺意を覚える。

なぜなら、里香のSP警護を中止させた警察の一派は、この男と関係が深いと九門弁護士から聞いていたからだ。

全てを知って、人の不幸を利用してくるこいつは、本当に人間だろうか?


(里香に、もし万が一の事があれば、……必ずむくいを受けさせてやる)


奥歯をかみしめながら、彼はじっと耐えた。

今は、それしか出来ない。

……そして、辛くて長い一日が終わった。




今は夜、―――独居房に戻った彼は、ベットに寝転び、じっと天井を見つめる。

とても眠れるとは思えなかったが、寝なければならない。

明日からの闘いに備える為にも。

里香も必死で戦っているはずだ。

彼は目を閉じ、心に誓う。


もう迷わない。

決して負けない。

九門から、里香の心を受けっとったのだから。



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