第04話
森田慎治がプロテクト社を訪問してから一週間後、
本社の大会議室で、今回の思考プログラム不具合事件に関する重役会議が開かれていた。
この一週間で調べるだけ調べて、―――やるべき事は全てやった彼は、開発室主任の名倉の助手という立場で会議に同席している。
その横には、医師である篠原恵子も座っていて、―――この三人は、苦しい一週間を共に闘ってきた戦友であり、―――会ったばかりの頃に比べると、三人の仲は良い関係に変わっていた。
慎治は、約一月後に迫った里香との挙式を延期していて、今後しばらく続くであろう、戦いに備えていた。
里香も事情が事情なので、快く許してくれたが、彼は気が重かった。
長く待たした末に、また自分の仕事の都合で延期し、まだ入籍さえ出来ていない状況なのは、彼の不徳の致すところである。
その結果、―――香川家を始め、多くの関係者に迷惑をかけてしまった。
―――だが、今はこの重役会議に集中するべきだろう。
この会議の結論によっては、彼の開発した思考プログラムは、この世から姿を消す可能性が高いのだから。
それが、彼を良く知る友人達から、『これ以上は、プロテクト社に関わるな。契約を無視した向こう責任だろう』とか、『どうせ君に話を持ってくるさ。それまで待っていればいい』と言われているにもかかわらず、彼が損得勘定無しに動いている理由の一つである。
もちろん、それだけが理由では無い。
この一週間で、新たに判明した思考プログラムの不適合者は約100人、
何としても、なるべく早くに解決策を打ち出す必要がある。
もう、思考プログラムの権利はプロテクト社に売り渡しているので、彼には何の決定権もないのだから…。
「それでは、名倉君、今回の脳内バイオチップと思考プログラムの不具合に付いて説明したまえ」
「はい、社長。……それでは皆様、正面の3Dモニターをご覧ください」
社長の背後にある3Dモニターの前に立った名倉は、マイクを片手に説明を始める。
思考プログラムをインストールした約520万人のユーザーの内、その内容が改変されて、不適合が予想される人は400人から1000人の間である事。
プログラムの改変内容は、大まかな傾向があるものの、個別にかなりの違いがある事。
改変の原因か確定できないから、それ以外の全てのユーザーに対して、修正プログラムをインストールする必要がある事。
その開発者は森田慎治であり、プロテクト社に対して無償提供する事だった。
無償提供という言葉に、会議室内に冷えた笑いが起こる。
不良品を売りつけておいて、無償も何も無いだろうという感じだ。
もちろん、権利を全て売り渡していて、契約の全ての特約事項を破棄された彼と森田研究所には、そんな事をする義務はないのだが…。
道理をわかっているプロテクトの社長は、あえてその事には触れず、あくまでも社内問題として対応する。
「…名倉君、今度こそは大丈夫だろうね? この10日間で、我が社の信用は地に落ちた。再びの失敗は許されないよ」
「はい、思考プログラムの改変の直接のトリガーは確定できませんが、その過程は判明しています。思考プログラム内の最適化プログラムを発端にして、学習プログラムによる独自進化により、脳内バイオチップ内の全てのプロテクトが破られて改変が起こります。
詳しい事はレポートに書いていますが、スペックを落とす事と、二つのプログラムを一つの思考ルーチンにより制御する事で、不具合の発生率はゼロになるはずです。言いかえるなら、プロテクトの障壁を超えられる電荷エネルギーを物理的に出せなくするんです。
…ただし、これによる欠点もあります。反応速度が約30%落ちますし、学習機能がかなり制限されます。結果的に、仕様に書かれてある性能が出せなくなりますが、安全性を優先させた結果ですので、ユーザーに納得してもらうしかありません。同意書への署名が必要になるとの法務部からの要請がありましたので、修正プログラムのインストール時に、ユーザーに署名してもらう事にします」
名倉の意見を聞きつつ、慎治は考える。
プログラム改変の原因が分からない以上、この対策を講じても、新たに不具合が起こる可能性はゼロでは無いかもしれない。
しかし、完璧を求めるならば思考プログラム自体をあきらめるしかなくなる。
そこまでの決断は、まだ慎治には出来なかった。
だが、この場でそれを考えているのは、恐らく彼だけだろう。
それを証明するかのように、社長は違う観点から質問をする。
「…それは大丈夫かね? 日本ではともかく、海外では訴訟になると思うが?」
社長の質問に、名倉は法務部の重役の顔をチラッと見た後で、解説を始める。
「安全性を担保する目的での仕様の変更は、顧客との当初の契約内容に明確に記載してありますから、法務部の見解では問題ないそうです。更に、修正プログラムを希望しないユーザーに対しての対応も必要ですが、…プロテクト社は努力義務さえ果たせば、そのまま放置していても法的には問題ありません。…ただし、顧客への周知徹底は必要です」
「……了解した。諸君、何か質問はないかね?」
社長が重役達を見渡すと、次々と質問があがる。
だが、ほとんどは日程や費用に関する事で、技術的なものはなかった。
当たり前だが彼らは経営者であり、科学技術に付いては素人なのだ。
全ての質問に答え終わった名倉は、次の説明を始める。
そして、ここからが一番厄介な説明になるだろう。
「次に、不適合者への対応を説明します。まず、不適合が医学的にどのような状態かを篠原医師が説明します。…篠原君、こちらへ…」
名倉から指名された彼女は、中年の女性らしい落ち着いた柔らかな雰囲気を漂わせながら、3Dモニターの前に立つ。
「篠原です。大脳生理学の医師で、御社の医療関係の顧問をしておりますが、…難しい説明は、なるべくしませんね。皆さまの手元にあるレポートに書いてますし、どうしてもという方には、後で個別に質問を受けますから。…それでは、モニターを見てください」
彼女の説明は、簡潔でわかりやすかった。
不適合ユーザーの脳内では、バイオチップ側から伸びたシナプスが複雑に絡み合い、お互いが共存関係にある事。
それらは、かき混ぜた卵の黄身と白身の状態に近く、お互いに影響を与えず切り離すのは不可能な事。
ただし、大脳生理学的に見れば、異常は見られない事。
深刻な問題点としては、改変された思考プログラムの制御下に置かれた生体ナノマシンにより、不適合者の脳細胞のDNA情報の極一部が書き換えられている可能性が否定出来ない事。
バイオチップ内の擬似思考が常に働いている状態なので、このまま放置すれば、更なるプログラムの改変が行なわれる可能性がある事。
―――そして、一度変わった性格は、決して元には戻らないという事だった。
「簡単に言うと、患者の脳細胞と脳内バイオチップが共生している状態ですね。どちらに主体性があるかは判断が付きかねますけど、この状態は安定していますので、下手に処置しない方がいいかもしれません。
ですが、そうするにも無視出来ない問題があります。今はまだ生体ナノマシンによる脳細胞への影響程度で済んでいますが、将来的には更に改変された思考プログラムが脳内バイオチップの外、…つまり、人の脳内で活動できるようになるかもしれません。それは、私達の祖先の細胞がミトコンドリアを取り込んだような物になるかもしれませんし、もっと独自の方法を取るかもしれません。進化論の常識では、後天的に獲得した資質は遺伝しないはずですが、この思考プログラムの支配下に置かれた生体ナノマシンによって卵子や精子の遺伝子情報を変えたり、そこまで行かなくても胎盤を通して子孫に伝わる可能性も完全には否定出来ませんわね。
……いま私が言った話は、ほとんど無い可能性ですが、もしそうなれば、御社は人の革新に貢献したユニークな企業として、歴史に名を残すかもしれませんね。何せ新しい人類が生まれるかもしれませんもの」
冗談めかして言う彼女の言葉に、会議室内に密かな笑いが起こる。
だが、これは冗談ではすまない問題だ。
彼女は言っているのだ、―――『いくら法的に免責されるとはいえ、このまま放置すれば、大変な問題になりますよ? だって、何が起こるかなんて予測出来ないのだから』
その事に気付いた社長から質問が飛ぶ。
「篠原君の見解では、バイオチップはもう脳の一部で、工業製品では無いというのかね? 修正プログラムをインストールすれば、何とかなると思うんだが、無駄かね?」
「私はプログラムの専門家ではありませんが、患者の脳内バイオチップには、プログラムを正常にインストール出来ないそうですよ? もし出来たとしても、ユーザーの人格を更に改変する引き金になりかねません。ですが、外科的にバイオチップ取り払ったり、放射線で焼いたりするなんて、危険すぎて推奨出来ません。…最悪の場合は、患者は死亡するか、…そこまで行かなくても、廃人になるかもしれませんから」
会議室内が、一気に緊張に包まれる。
ようやくほとんどの重役たちが、事態の深刻さを理解した訳だ。
不適合者の脳内バイオチップは、取り払う事も破壊する事も出来ない。
思考プログラムは、内容の書き換えすら受け付けない。
さりとて、放置をするには危険すぎる。
最悪の場合は、プロテクト社は人類の歴史に汚名を残す企業に成りかねないのだから。
「…それで、篠原君の見解は?」
社長の重々しい口調の質問に、「お手上げです」と、あっさり答える彼女。
会議に参加している重役達は、言葉も無い。
その重苦しい雰囲気を破ったのも彼女の言葉だった。
「…それは、あくまでも医師としての意見です。生体バイオチップの専門家の意見は違うようですよ? …名倉君?」
「はい、…それでは説明していただきます。森田教授、どうぞこちらへ」
慎治の名前が呼ばれると、会議室は急にざわざわし始める。
彼はそれを気にした風も無く、二人の横に立ち並ぶ。
「…森田です。外部協力者として、この問題の対応に当たっています。…今から、思考プログラムの不適合者に対する、私の一案を説明します。モニターをご覧ください」
彼の言葉に、名倉と篠原は邪魔にならないように、3Dモニターの横に移動する。
社長を始め、参加者達の視線が集まると、彼はゆっくり話し始める。
「まず、名倉主任の説明のように、不適合者たちの脳内バイオチップ内の思考プログラムは、正規のプログラムから明らかに個別変化しています。その結果、先ほど篠原医師が言われたように、不適合者の思考プログラムは、新たな改変を受け付けません。私にもその理由はわかりませんが、理屈はわかっています。簡単に説明すると特定の電気信号以外のアクセスを電気的にブロックして、脳内バイオチップ外に排出しようとするするんです。
つまり、この思考プログラムは、生命体の活動に似た防衛本能を持っています。例えるなら、改変後の思考プログラムにとって、脳内バイオチップは人の脳のような物で、思考プログラム自体は人の擬似思考のようなものです。わたしはこれを擬似思考体、あるいは思考情報体と呼びたいと思います。
そして厄介なのは、思考情報体が微弱な電気信号に対する耐性を持っている事です。だからと言って強力な電磁波での思考情報体の消去は、結果的に周りの脳細胞やシナプスを傷付けますから、物理的に破壊する方法は得策ではありません。
…ですが、電気信号自体を受け付けない訳ではありません。私は、彼らの思考のすきをついて、彼らの体内に新たなプログラムをインストールしたいと考えています」
ポインターを使って、3Dモニターの神経回路網の映像を指し示す慎治。
聞き捨てならない言葉に、プロテクト社の社長は割って入る。
「待ちたまえ、森田教授。…君はまるで我が社の製品の事を別の生命体のように言うが、その根拠は何かね?」
慎治は、社長を始め、プロテクト社の重役たちの顔を見回しながら、出来るだけ感情を表さずに答えて行く。
「彼らは感情を持っています。その証明は、かなり長期間の実験による証明が必要になりますし、この会議の本題ではありませんから、ここでは詳しく説明しませんが、御社の科学者チームの中にも、私の意見を明確に否定できる人はいませんでした。…ですから、御社の製品は、感情を持つ思考情報体であると仮定する方が論理的です。
普通、感情を持つ物は、かなり高等な知的生命体です。…ですが、社長のおっしゃる通り、彼らは法的には生命体ではありません。それは、医学的な観点から見てもそう言えます。生殖機能も無く、単体では生きられない。…今の所、ウィルスのように自己増殖もしない。…意志はあるでしょうが、理性があるのかも確認出来ない。ですから、不完全な思考情報体というのが正しい表現かも知れません。おかげで、彼らと会話して、他の場所に移動してもらう事も出来ないのが残念です。
つまり彼らは、特殊な環境以外では存在出来ないんです。プログラムのコピーが成功しなかったのも、母体から切り離されて、すぐに死滅したからだと推測できます。…人の脳細胞が単体では生きられないように、彼らは人の脳内にある脳内バイオチップの中でしか自らの情報を保てない。…そう考えるべきでしょう」
重役の中には、あまりにも突拍子もない話に噴き出す者もいたが、大半は黙って慎治の言葉を聞いている。
そんなオカルトじみた事が起こるなんて、常識ではあり得ないが、―――実際問題、あり得ない事が起こっているのだから否定出来ない部分がある。
まして相手は、脳内バイオチップの発明者で、『生体コンピューターの父』とか『知の超人』と呼ばれている男だ。
社長は目を細めて、彼を厳しい様子で見る。
「君の言い分はわかったよ。だが、まさか君は、その生命体もどきを助けようという気かね? わざわざここで、そんな事を言うのは、我が社にそいつの住みかになるバイオチップを開発しろとでも言うのかね?」
慎治は感情を表さずに、首を横に振る。
「…それは全くの逆です。彼らはどうしても死滅させる必要があります。…今からその方法を説明しますが、私が彼らを生命体のように言ったのは、彼らの存在を抹消する意味を皆様にわかって欲しかったからです。…少なくても私は、彼らをただの工業製品だとは思えませんから」
本心では、慎治は新しい命を殺したくなかった。
何か方法があるならば、生き続けて欲しい。
…だが、リスクがあまりにも大きすぎた。
どちらかしか選べないのなら、人の持つ人格の方が大事だ。
あくまでも人の価値観だが、彼らは犯罪者なのだから。
慎治は感情を抑えて、自分の息子にも等しい命の殺し方を説明する。
それは、複合型のコンピューターウィルスを使った方法だった。
死滅プログラムを送り込めないのなら、偽装した情報をバイオチップ内に送り込み、内部で組み立ててしまえばいい。
その変化は一瞬で、思考プログラム自体が脳内バイオチップ内の全てのプログラムをフォーマットするから、―――その後、改めて脳内バイオチップの維持のための基礎プログラムと、―――希望者には修正した思考プログラムをインストールし直せば、今までに形成されたシナプスは、そのまま維持されて、医学的にも問題ないという訳だ。
つまり、彼を持ってしても、思考プログラムの直接の改変は出来ないのだ。
下手にいじくると、何が起こるか予想出来ないから、確実に殺す必要がある。
例え新たな罪を背負う事になったとしても、それは譲れない。
エンジニアとして、一人の人間として、…彼らの父親として。
「…以上が、私の提示するプランです。問題があるとすれば、彼らの情報パターンがそれぞれに違うので、それを確実に読み取って、個別に死滅プログラムを調整する必要がある事です。死滅プログラムのベースは完成させていますが、それをそのまま適応すると、情報を完全に破壊しきれず、耐性を持たれる可能性があり、…そうなったらお手上げです。不適合者たちがどうなるかも予想出来ません」
プロテクト社の社長は、慎治の話を聞き終わると、口に手を当てて考え込む。
慎治の案を危険だからという理由で却下して、不適合ユーザーたちを放置していても法的に問題はないはずだが、道義的には大問題だ。
プロテクト社の信用は、とても回復出来ないだろう。
和解金を支払って、事を収める場合でも、誠意が無いとされて金額が膨らみかねない。
社長は、しばらく熟考した後で決断した。
「……どうやら、それしかないようだ。…名倉君、森田教授のプランを実行したまえ」
名前を呼ばれた彼は、申し訳なさそうな表情で一歩前に出て答える。
「…お言葉ですが、社長。私には無理です。死滅プログラムは森田教授が単独で開発した物で、無償提供には含まれていません。ベースプログラムを買い取るにしても、個別調整が出来る人物など、彼以外には思い当たりません。森田教授の協力なしでは、…いいえ、彼以外には、このプランは実行不可能なんです。
ですが、森田研究所との契約内容は、売買契約の成立以外は当社の方から破棄しています。今回の森田教授との契約内容でも、プログラムの破壊は協力に含まれていませんから、新たな契約を結ぶ必要があります。…これは、法務部の見解とも一致します」
社長はなるべく表情を変えずに、慎治の目を見つめる。
「…森田教授、協力してくれるかね?」
「それは、契約内容によります。私から提示するのは、それ相応の金額と、今回の事件に関する全ての情報の公開です。いま何が起こっているかを世間に知らしめて、今後は新たなユーザーだけでなく、既存ユーザーに対しても、性能を抑えた思考プログラムにバージョンアップするように強くうながす必要があります。
…そして、金額ですが、ユーザー一人に付き、1000万円いただきます。これは金額交渉の余地はありません。正当な対価として要求します」
一人1000万円と聞き、会議室内に怒号が飛び交う。
この時代の1000万円の価値は、二一世紀初頭の五割程度にまで下がっていて、何とか国産高級乗用車を買える程度であるが、決して安い金額では無い。
「ふざけるな! そもそも貴様のせいだろうが!」
「被害者は300人以上もいるんだぞ! いや、予想では1000人になるかもしれんのだ! 100億の出費など認められん!」
「この、ごうつくばりめ! 人の足元を見よって!」
「貴様の心は、肌の色より真っ黒だな!」
決して議事録には記載されない非難の言葉にも、慎治は表情も変えない。
喧騒がおさまるのを待って、彼はゆっくりと話し始める。
「…先ほども言いましたが、これは正当な金額です。本来の計画では、不適合者は出ても一人か二人だったはずです。全ての不具合を迅速に森田研究所に知らせるという約束も、御社は破棄して守りませんでした。
…私の技術は安くありませんよ? 一人か二人相手のプログラムなら、2000万円は妥当な金額です。人災に付き合わされるこっちの身にもなって欲しいものです」
慎治はプロテクト社を許していなかったのだ。
意志を持った思考プログラムは破壊出来ても、改変された性格は元には戻らない。
それは世間的には、個人としての死を意味すると言っても大げさではないだろう。
その被害者がすでに300人以上も出たのは、間違いなくプロテクト社の責任だ。
そして、営利企業というものは、利益損失が一番こたえるものだ。
―――お金は有効に使わせてもらうつもりだ。
被害者に対する救済会を設置する資金として。
もちろん、自分自身の責任から逃れるつもりはない。
もう、矢面に立つ事も恐れない。
彼は、覚悟を決めていた。
例え世界に名だたる大企業を敵に回したとしても、一歩も引くつもりはなかった。
「…即答は出来ん。後で決定を伝える。…この部屋から出て行きたまえ」
社長に言葉に、慎治は軽く一礼すると、最後に念押しをする。
「…それでは失礼します。…ああ、そうそう、契約書に小細工するなら覚悟を持ってしてください。こっちは捨て身だから、もう何も怖くないです。それに、その気になれば、優秀な弁護士の知り合いはたくさんいるんです。プロテクト社の法務部に負けないくらいの人達がね」
慎治はもう、自分の財産を使う事をためらわない。
この戦いは、絶対に負けるわけにはいかないのだ。
例え全て失うとしても、一向に構わなかった。
だって、寝覚めが悪すぎる。
里香と幸せになるには、他人の不幸の上に立つなんて許されないと思うから。
―――――――――――――――
それからわずか三日後、―――プロテクト社から全面降伏に近い内容の返事が森田研究所に届く。
プロテクト社の条件は一つだけで、―――それは、慎治が記者会見に立ち会って、問題解決の全面協力を請け負う事だった。
恐らく、下がり続ける株価に対する防御策として、慎治を矢面に立たせることに決めたのだろう。
望むところだった慎治は、副所長の桑田の反対を押し切って、プロテクト社に協力する事を決める。
プロテクト社と共同で記者会見を開いた慎治は、全てを公開して世間に謝罪し、思考プログラムの安全性を保証する結果となった。
一見すると、彼は完全勝利をおさめたかに見えた。
―――だが、世界に名だたる大企業は甘くはなかった。
ありとあらゆる手段を使い、責任が全て慎治にあるように世論を誘導する。
彼が逃げない事を巧みに利用したのだ。
マスコミは、今まで溜まった鬱憤を晴らすように、悪意を持って書きたてる。
何しろ、落とす準備は万全だ。
予定されていた根拠のないデマが、週刊誌の紙面を埋める。
一人に付き、1000万もの技術料も、彼に不利に働いてしまう。
人の不幸を逆手に取って儲ける守銭奴だとの意見は、大衆の心を動かし始める。
それに対して、慎治が開設した救済基金の情報は、一切報道しなかった。
一つの真実は、たくさんの嘘を肯定する。
慎治への人格攻撃が、徐々に真実味をおびる。
他人の成功は妬ましい。
他人の不幸は蜜の味だ。
大衆は無責任に踊る。
不満の吐け口を求めて。
忙しく世界を飛び回り、不適合者の相手をしている慎治や、各界との調整に忙しく動き回る桑田には、怒涛のように押し寄せる世間の非難に立ち向かう時間はなかった。
森田研究所のホームページでの説明さえ、もう世間の関心を引かなかった。
彼の敵は、2人の予想以上に多かったのだ。
マスコミやプロテクト社は言うまでも無く、――その株で大損をした人、――思考プログラムへの期待を裏切られた人、――世論に誘導された被害者の家族、――新しい生命を作った彼を憎む宗教関係者、――そして、国士を気取る保守的な権力者たち。
…それから4カ月、全世界に約500人いた、不適合者の脳内にいた小さな命を全て殺し尽くした彼を待っていたのは、一通の逮捕状だった。
その罪状は、生命倫理法違反と傷害罪。
それを理不尽だという人は、彼の身内以外にはほとんどいなかった。
―――――――――――――――――――――――――
ではいったい慎治は、なぜ逮捕されたのか?
それは、以下の事情によるものだった。
生命倫理法は、21世紀になって出来た新しい法律だ。
コンピューター技術の進化で、人の擬似的な思考を再現できる事がわかると、人々はまだ実現する見込みのない未来に恐怖した。
『人は機械の体になるんじゃないのか? あるいは機械に支配されるんじゃないか?』
だからそれは、人のクローンを作りだす事を禁止するだけでなく、人の脳の情報を、故意に頭脳を再現した機械にコピーするのを禁止する法律でもあった。
だが、人の思考の一部をトレースして、普通のロボットに再現するのは完全に合法とも書かれていた。
要するに、人の尊厳を傷付けるような行為を禁止したザル法だったのだ。
そもそも、脳の情報を全て機械に写し取るなんて、いくらこの時代でも出来るはずもない。
だから、森田慎治の罪が成立する道理など無い。
彼はあくまでも生体バイオチップの開発者であり、バイオチップは明確に工業製品だと規定されているのだから、人の脳の科学情報をコピーしても意味を成さないのだから。
そもそも、受精卵を使ってクローンを作っても不可能な事を機械で再現するなんて、人の手ではとても実現など出来ないだろう。
それでは、慎治はどういう理由で逮捕されたのか?
それは生命倫理法の最後に、故意に新たな知的生命体を生み出してはならないという条文があったからだった。
もちろんこれは、受精卵やIPS細胞技術を応用して、人の遺伝子を操りミュータントを作る事を禁止する意味だったが、何に対してかを書かれていなかったので、都合よく拡大解釈されたのだった。
そして、この時代の傷害罪についても、新たな条文が加えられていた。
これにも、それなりの訳がある。
今から少し前、―――とあるアジアの国で洗脳装置が開発されて、罪人や危険思想を持つ人民に使用されるという驚くべき事件があった。
更に悪い事に、密輸された洗脳装置が悪名高き新興宗教集団、―――カーン神聖教で、出家信者たちに使用された事件が日本でも発生する。
その被害者は、実に200人以上、―――だが、完全に洗脳されていた信者は訴えを起こさず、―――教祖は傷害罪でしか裁かれなかった。
多くの人々の人生は破壊され、――家族の恨みは激しく、――その後、刑法は改正された。
他人の人格を科学技術を使って故意に変えた者は、最高で無期懲役に処すると、傷害罪に条文が追加されたのだ。
これらの事情により、人格の改変は人の死に等しいとの世論が形成されていた。
それでは、今回の事件はどうだろう?
日本国内での被害者は100人以上もいるのに、誰も罪に問われないのはおかしいのではないか?
新興宗教の教祖は、人格改変という理由では大した罪には問われなかった、―――今回もそうなのか?
状況は大差ないはずで、被害者も多く、反発している一部の家族の嘆きも大きい。
だから、為政者たちには、わかりやすい生贄が必要だった。
やる事をやっていると世間にアピールしなければ、沽券に関わるのだ。
もちろん警察も馬鹿では無いから、第一のターゲットはプロテクト社だった。
被害を拡大させたのは明らかで、被害者への対応も冷淡だ。
だが、多額の損失を受けているし、―――なにしろ世界的な大企業なので理論武装は完璧だった。
それと、大きな声では言えないが、今の与党と繋がりが深いので、捜査に何度も横やりが入った。
家宅捜索にも持っていけず、―――結局、立件を断念せざるを得なかった。
そうなると、次のターゲットだ。
被疑者は都合のいい事に、世間からの恨みを買っている。
だが、逮捕しても公判が維持できるとも思えず、警察、検察内部の意見は消極的だった。
いくら相手が世間の敵でも、赤っ恥をかくのは真っ平ごめんである。
…だがそこに、思わぬ権力が介入する。
一人は、現与党の重鎮の代議士、―――彼はガチガチの保守主義者な上に、プロテクト社の株で大損していたので、慎治の事を逆恨みしていた。
警察官僚にも顔が利いたので、公判さえ維持できれば無罪になっても構わないと圧力をかけて来たのだ。
彼は、慎治の苦しむ姿が見れればそれで良かった。
正義とは無縁の人物だったのだ。
そして、もう一人はプロテクト社の社長だった。
彼は逆恨みというよりは、慎治に世間の悪意を集中させる為に、計画的に生贄にしようと画策したのだ。
いくらプロテクト社といえども、完全にマスコミを牛耳るなんて出来るはずも無く、被害拡大の道義的責任を追及されるのを恐れてもいた。
彼がした事は単純だった。
慎治と仕事をした開発室の研究員に、部下を通じて緩やかな圧力をかけ、―――自発的に嘘の証言をするように誘導したのだ。
これにより、いかにも慎治が知的好奇心の目的で、故意に思考プログラムを開発して、ユーザーやプロテクト社に被害を与えたかのような話をでっち上げさせたのだ。
自分は高みの見物が出来るし、もし問題になれば、トカゲのしっぽ切りをすればいいだけである。
そのような動きがあっても、警察、検察の意見は真っ二つに割れていた。
冷静に考えれば裁判に勝てるはずもないし、慎治を憎む立場の人の証言では、公判さえ維持出来ないという訳だ。
彼を逮捕するには、何か強烈な証拠か、有力な証人が必要だった。
そんな時、―――まだ慎治が世界を飛び回っていた頃
一人の捜査員が、とある男に目を付けた。
彼の名は、田代という慎治の腹心の部下で、若い優秀なエンジニアだった。
田代はその時、酷く落ち込んでいて情緒不安定だった。
彼が思考プロジェクトチームで開発した最適化プログラムが、今回の事件の全ての発端になった事実をプロテクト社の情報公開により知らされたからだ。
更に悪い事に、副所長である桑田から、森田研究所の閉鎖の事実を知らされた事が、より一層彼を苦しめる。
二つの事件は全く関係ないのだが、事情を知らなければ、恩師である慎治に恩をあだで返すような真似をして、―――その結果、誇りある森田研究所が閉鎖の危機に追い込まれたと考えるのが普通なのだから。
もし桑田が普通の状態ならば、田代の不安定さに気付いただろうが、彼はそれどころではなかった。
慎治を弁護する為の各界への働きかけ、―――従業員たちへの研究所閉鎖の報告と仕事先の斡旋、―――マスコミ対応やクレームの処理等、とにかく忙しかった。
慎治は世界中を飛び回っていたから、気付くはずもない。
桑田副所長や、直接の上司の慎治にも相談出来ず、田代は孤立を深めて徐々に精神を病んで行く。
そんな時に近付いて来たのが、今回の事件を担当している捜査員だった訳だ。
始めは相手にもしなかった田代だが、徐々に捜査員の意見に耳を傾けることになる。
『考えても見ろ。『プログラムの達人』と呼ばれている男が、君のミスに気付かないはずないだろう?』
更に別の日には、
『確かに悪名かもしれないが、森田教授は歴史に名を残す。新しい生命を作ったんだからな。…だが、それが偶然の産物で本当にいいのか? 君は森田教授の意志を感じなかったのか? 一番近くにいたんだろ?』
田代にとって、慎治は神にも等しい存在だった。
失敗なんてあり得ない、―――そうでなければならない。
神の意志とか価値観なんて、凡人の自分とは違うはずだ。
……きっと、全ては計画通りなのだ、―――そうであって欲しい。
自分のミスで恩師が苦しむなんて、間違っている。
…田代は気付かない。
彼の開発した最適化プログラムは、失敗作ではなかった事を。
ただの不幸な偶然が重なった事故だった事を。
慎治だって、ただの人なのだ、―――未来を見通す事なんて出来るはずもない。
だが、自らの罪悪感と恩師に対する感謝がねじ曲がった田代は、―――ついに捜査員に証言をする。
「森田主任が、知らないはずはありません。だって、すぐに解決法を見つけたでしょ? 人の革新の為に、新たな生命の想像は必要なんです。私はその指示に従えて光栄です。その計画を知らなかった事が、私には恥ずかしい」
これは決定的な証言だった。
裁判所で証言させることは難しいが、今は事情聴取の映像記録が証拠として認められる。
少なくても、公判の維持は充分に可能だった。
―――検察の一部は、ついに重い腰を上げた。
証拠は足りないが、自白さえ取れれば有罪に持ち込める。
もしそれが無理でも、どうせ悪評高い男の事だ、―――家宅捜索すれば、ほこりの一つや二つは出てくるはずだ。
腹心の部下に裏切られる形になった慎治は、―――帰国後、すぐに逮捕された。
生命倫理法違反と傷害罪の罪状は、意図して生命を作りだし、人に寄生させ人格を改変させたという重罪だ。
検察の主張がすべて認められれば、被害者の数が多いので、無期懲役は免れないだろう。
慎治は、窮地に追い込まれた。
解説
生体バイオチップと脳内バイオチップの違いについて
脳内バイオチップについては物語の冒頭に説明してしていますから、ここでは説明を省きます。
まず、生体バイオチップとは脳内バイオチップと似たタイプの工業製品です。
双方とも開発者は森田慎治であり、生体バイオチップが始めに開発されて、その用途は主に医療用です。
慎治が生まれた時代には、すでに生体ナノマシンが存在しており、遺伝子治療や病気の治癒の補助などに使われていましたが、抗がん剤と同じくらいに副作用の危険性が高くて扱いにくい治療方法でした。
それを解決したのが、彼の開発した生体バイオチップと制御プログラムです。
生体バイオチップ内に特定のプログラムによって制御された生体ナノマシンを内包して、治療したい部分に埋め込めば、患者の全身に生体ナノマシンが回るような事も無く、ほとんど副作用なしに効率よく治療が出来ます。
この方法を使えば、ほとんどの体内組織の再生さえ可能だという、画期的な医療機械です。
ですから医者は、脳内バイオチップを生体バイオチップの一種だと考えている人が多くて、慎治を尊敬している人が多いという訳です。
彼自身は、あくまでも脳内バイオチップの開発の過程で生み出した製品なので、その意識は薄いのですが、生体バイオチップを開発した事だけでも、彼は多額の特許関連費用を手に入れて、とある有名な賞の候補に躍り出たと設定しています。
しかしその後、脳内バイオチップの発明により、特定の宗教を信仰している人達からは良くは思われず、その話は立ち消えになっています。




