第03話
画期的な思考プログラムが世間に公表されて三カ月、―――脳内バイオチップのユーザーを対象にして、試験的に導入される運びとなった。
一部のマスコミのネガティブキャンペーンにもかかわらず、約2000万人の以前からのユーザーの内、思考プログラムのインストールを希望したのは約1000万人。
かなりの希望者が殺到した事になる。
だが、森田慎治をはじめとする森田研究所の対応は慎重だった。
これはβテストも兼ねているので、万が一にも不具合が出た場合は、すぐに対応が出来る人が応募の最低条件だと、ホームページやバイオ関係企業に告知したのだった。
その他にもユーザーに対する応募条件は厳しく、更に関係企業への要求も、最低一年間は新規に思考プログラムを販売しないという厳格な物だった。
あちこちから不満の声が上がったが、安全第一を考えていた慎治達は一歩も譲らなかった。
結局、全ての条件を飲んで、森田研究所から思考プログラムの権利を買ったバイオ企業、『プロテクト社』が中心になり、―――ネットで格安に予約販売され、その第一弾として抽選に当たった1万人に導入される運びとなった。
1万人といっても、脳内バイオチップの場合と違い、思考プログラムの導入は簡単に済む。
専用の器具を使い、鼻の穴から鼻腔の奥にある接触端子に接続して、情報をインストールすればいいだけだから外科手術も必要ない。
わずか一週間ほどで1万人のユーザーに思考プログラムが導入されると、ネット上はお祭り騒ぎになった。
『信じられない。もうこれは勉強する必要なんて無いぞ。森田慎治は神だな』
『英語のリスニングは難しいが、文章だけなら理解出来る。例文や単語を記憶する必要があるけど、これってすごくないか?』
『今まで記憶馬鹿と呼ばれた奴でも、それなりに賢くなるな。ちょっと不安だったけど、これ以上馬鹿にならないと思って注文した俺は大正解だった』
ユーザーたちの意見は、ほとんどが大絶賛だった。
中には、『違和感があるから、俺はデリートしてもらった。お前らもやめとけ』という物もあったが、二週間以内の思考プログラムのデリートは、全額返金の対応だったので、ユーザーに不満は広がらなかった。
そしてそれから約1カ月、―――深刻なトラブルは一切報告されなかった。
そうなると、世間の熱狂は加速する。
同時に、ある意味ではじゅうぶんに予期された不満に火が付き始める。
1000万人の希望者に対して、1万人は少な過ぎるし、いくらβテストの治験者であっても、一年後の第二弾の販売時期は長過ぎたのだ。
『それでは受験に間に会わない! 何とかしろ!』
『プロテクト社は、ユーザーに対して誠実では無い』
『長期的な安全性などどうでもいいから売ればいいんだよ! 自己責任だろうが!』
不満は不満を呼び、プロテクト社のホームページやサーバーに対するハッキング事件まで発生した結果、―――森田研究所との契約に反してまで、プロテクト社は思考プログラムの本格導入を決めた。
慎治と桑田は責任がもてないと反対したが、プロテクト社は特約事項に対する多額の違約金を払ってまでゴリ押しをした。
慎治は桑田と話し合い、契約破棄まで考えたが、思考プログラムの権利を売却していたので、その売買契約自体は有効とされ、二人には止めるすべがなかった。
これは、森田研究所を閉める事を考えていた桑田のすきを突かれる形になったとも言える。
結局、思考プログラムが発売されてから半年足らずで、ユーザーは100万人を超え、今後も加速度的に増加する事は間違いなかった。
この頃になると、マスコミの中にも否定的な意見は影を潜め、思考プログラムは、開発者本人の予想以上に熱狂的に世間に受け入れられたのである。
……そう、多少のトラブルはあったものの、全ては順調に進んで行く。
慎治や桑田の思惑など関係ない、大きな時代のうねりのように…。
―――――――――――――――――――――――――
慎治が里香との挙式を三カ月後に控えた、冬が近づく落葉の頃。
とあるスポーツ新聞に、思考プログラムについてのオカルトじみた記事が掲載される。
『私の夫は、森田慎治の悪魔のプログラムによって廃人にされた』
それは、被害者の妻を名乗る、若い女性の投稿記事だった。
女性の訴えは切実で、『夫の人格が変わった』という信じ難いものだった。
当初、誰もその記事には関心を示さなかった。
…恐らく、その記事を掲載した新聞記者でさえ。
何しろそのスポーツ新聞は、『宇宙人あらわる』というデマを平気で書いて発行部数を伸ばすタイプの三流新聞だったからだ。
真実なんてクソくらえ! 面白ければそれでいい! という姿勢なのだから当然だろう。
―――だが、実情は全く違っていた。
その女性は、プロテクト社に正式に抗議したものの、全く相手にされなかったから、そのスポーツ新聞に最後の望みを託して投稿したのだった。
一流新聞社は、時の人である森田慎治や、大スポンサーであるプロテクト社を根拠も無く悪く書く事はしない。
週刊誌も、今は思考プログラムを肯定的に書いた方が売れるから取り上げない。
インターネットに実名で投稿しても、炎上するだけで相手にもされない。
真実は、不幸にして世間に広がらなかったのだ。
この時、もし彼女が森田研究所に直接出向いて訴えていれば、被害は抑えられたのかもしれない。
だが、慎治たちの元に、彼女の声は届かなかった。
忙しかった彼が、三流スポーツ新聞を読むはずもなく、研究所あてのメールは膨大な数だったので、事務員達の手に負えなかったのだ。
里香との結婚を40日後に控えた冬の朝、―――人権派で知られる新聞の一面に衝撃的な記事が躍る。
そのタイトルは、『プロテクト社、思考プログラムの不具合を隠ぺいする』
『人格の改変! 被害者は少なくても100人以上』
記事の内容は、確定的では無いものの、十分に信頼に足るものだった。
いわく、『今まで慈善活動に興味が無かった資産家が、突然、財産の半分を寄付しようとした。その性格は、思考プログラムを導入した後に変化して、商売に興味を示さなくなった。当社の取材に対しても、世界平和に必要な事だという、以前では考えられなかった事を口走っており、家族や従業員の困惑は計り知れない。そのような事例が、当社の取材で多数確認された』との事だった。
それに対するプロテクト社の見解は、『ユーザー自身が論理的思考を身に付けた結果であり、思考プログラムの不具合とは関係ない。思考プログラムには何重ものプロテクトが掛けられていて、ユーザーの人格を改変する事は決して起こり得ない』との事だった。
この記事を読んだ慎治は、真っ先にプロテクト社に問い合わせた。
確かに、プロテクト社の見解は合理的な物ではある。
思考プログラムに明らかな異常が無ければ、そんな事は起こり得ないと開発者として断言出来る。
ただし、それが100人以上のユーザーに起こっているなら、無視できる事案ではないはずだ。
少なくても、今までそこまで極端な性格の変化など、慎治の元には報告された事はなかったのだから。
だが、プロテクト社の対応は、彼の予想外の物だった。
クレームに対する対応をおざなりにしていて、脳内バイオチップ内から思考プログラムをコピーして、比較検証もしていないというのだ。
そして、『我が社が思考プログラムの改変をして無い以上、開発者といえども口を出す権利はないはずだ。思考プログラムはすでに我が社の財産であり、対応はこちらが全て行う』との、木で鼻をくくったような返事をしてきた。
法律的にはそれでいいかもしれないが、慎治としては無視できる事では無かった。
すぐに桑田を呼び、対応を協議した結果、森田研究所のホームページに警告文を掲載する事に決めた。
もちろん、プロテクト社には事前通告したが、すぐに反応が帰ってこなかったので、そうするしかなかったと言える。
もし、予期せぬ不具合が真実なら、原因を解明するまでは思考プログラムのインストールを中止しなければならないが、権利を売り渡した手前、その決定権は彼には無いのだから。
新聞記事により下がり始めていたプロテクト社の株価が、森田研究所の警告文の掲載直後から暴落して、ストップ安になる。
そうなるとプロテクト社も対応せざるを得ず、思考プログラムの販売は、その日のうちに凍結された。
少しホッとした彼だが、やる事は残っている。
まず、自分と桑田の脳内バイオチップ内の思考プログラムをコピーして、比較検証する事だ。
同時に、森田研究所主導で行なった思考プログラム実験の全ての治験者にも連絡を取る。
これは、研究員が比較検証ソフトを使って週に一度は行なっている作業だが、今回は慎治自らの手で調べる事にする。
急な連絡に協力してくれた治験者は20人ほどだったが、ぜいたくは言ってられない。
だが、1日がかりで調べた結果、不具合は見つからなかった。
…それも当然だろう。
βテスト段階で、1万人全ての治験者を調べている訳ではないが、そんな事があれば優秀な研究員が見逃すはずなど無いのだから。
森田研究所の研究室で、徹夜明けの目をしょぼつかせながら、慎治は作業を手伝ってくれていた桑田に質問する。
「啓二、…やっぱり、プロテクト社を説得できないかな? やっぱり、具体的に症状が出ているユーザを調べてみるしかないと思う。…だいたい、もう奴らだって無視出来ないだろ?」
「それより、お前はもう寝ろ。私は2時間ほど仮眠を取ったが、お前は完徹だろう? 体が持たないぞ?」
「…だけどな、一刻も早く原因を解明しないと安眠できないよ」
人格の改変は、二人が予想も出来なかった最悪の事態である。
今までの脳内バイオチップの記憶の受け渡しは確かに双方向だが、あくまでも無機質なデーターのやり取りに過ぎない。
それに対して、思考プログラムは、ユーザーの思考が脳内バイオチップに干渉できるが、思考プログラムの擬似思考は、ユーザーの思考に影響を及ぼさない仕様になっている。
つまり、あくまでも思考はユーザー側からの一方通行であり、プログラムの思考過程を感じる事は出来るが、いうなれば他人の考えを感じる程度の物である。
そして、思考結果のデーターだけを脳内バイオチップを介して受け取るのだ。
論理的には、思考プログラムがユーザーの人格を操るなんて起こり得ないが、全てのプロテクトを破られ、脳内バイオチップがシナプスと必要以上に結合した場合は、不可能ではないかもしれない。
だが、そうならないように、細心の注意をして脳内バイオチップを開発し、思考プログラムを組んだ慎治には、そうなる理由がわからない。
脳内バイオチップはあくまでも工業製品で、ナノマシンによって完全に制御できるし、脳内バイオチップ側からのシナプスの増殖なんて起こり得ない。
まして、擬似思考がユーザーの人格を改変するなんて、あまりにもオカルトじみているではないか?
これは、今までの科学の常識ではあり得なかった。
それを十分理解している桑田は、慎治の肩に手を置いて語りかける。
「慎治、新聞記事が何かの間違いなら問題ない。…だが、最悪の場合は、お前にしか対応出来ないだろう。…考えたくもないが、そうなれば、きっと苦しい戦いになる。それもかなりの長丁場だ。…だから、無理にでも寝ろ。今必要なのは、万が一に備えて体力を温存する事だと思う。心配しなくても、何か問題があればプロテクト社の方から連絡してくるはずだ。思考プログラムを完全に理解しているのは、お前しかいないんだからな」
「…ああ、啓二の言う通りだな。僕は仮眠室に行くよ。だけど、次はお前だぞ。もう、お互い、無理が利く年じゃないんだからな」
2人は笑い合うと、それぞれが行くべき部屋に向かう。
慎治は仮眠室、桑田は副所長室へ、―――予測不能な事態の対応をする為に。
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プロテクト社から森田研究所への電話連絡があったのは、それから三日経ってからだった。
正式な依頼内容は、プログラムの申し子である森田慎治個人に外部協力者として、新製品の改善を頼むという白々しい物だった。
その後、プロテクト社の営業担当が持ってきた契約書は、かなり分厚いもので内容に納得できない部分もあった。
いささか引っかかる契約内容に警戒した桑田は良い顔をしなかったが、慎治は口約束で依頼を受けることにした。
法的には無関係の自分に連絡があったというならば、それはつまり、お手上げという事に違い無いからだ
例え何かの罠だとしても、科学者としての良心と、開発者の責任から断わる気にはなれかった。
SPに同行してもらい、プロテクト社の営業担当者と一緒に本社の開発室に到着すると、そこに待っていたのは針のむしろだった。
気まずい雰囲気に圧倒された営業担当者がそそくさと出て行くと、慎治の対応は開発室の責任者がする事となる。
ある程度は覚悟していた彼は、名前も名乗らない開発室の主任に、事情の説明を受ける。
全員が名札を付けているから支障はないが、挨拶さえしないのは、よほど自分が嫌われている証拠だろう。
完全に感情を切り離した彼は、あくまで一人の科学者として名倉と名札に書かれた主任の男に質問をし、―――膨大な資料を読み込んで解決方法を探る。
その結果は、限りなく最悪に近いものだった。
「やはり、全てのプロテクトが破られて、思考プログラムが改変されている。…プロテクト社の見解も、それでいいですか?」
「ええ、その理由はわかりません。開発者のあなたになら解るんじゃありませんか?」
慎治の質問に、意味を含んだような質問を返す責任者の男。
もし慎治が理由を知っているなら、とっくに対応している。
嫌みにしてはストレートだが、あえて無視して慎治は質問を続ける。
「ここにある資料は200人分程度ですが、他に不具合が出たユーザーはいないのですか? 全てのユーザーの個人情報の開示をお願いします」
「企業秘密ですので、私にはお答え出来ません。不具合率は1万分の1以下だとだけお答えします」
「…重要な事なんです、名倉さん。資料を見る限り、脳内バイオチップから抜きだしたプログラムの改変パターンはバラバラだし、一見すると意味をなしてません。これは、バイオチップから正常にプログラムをコピー出来ていないと考える方が自然です。
プロテクトが破られた理由は解りませんが、恐らく脳内バイオチップ側からの干渉により、内部から破壊されています。これは、思考プログラムと不適合ユーザーの資質が影響しあった結果と考えるのが妥当です。ですから、全ての不適合ユーザーに共通する問題を見つけるのが、解決の近道だと思います」
「…なるほど、あくまでも思考プログラムの問題では無く、ユーザー側の問題だという事ですか? さぞかし御自身が開発した製品に自信があるようですな」
「そんな意味で言っているのではありません。…ともかく、全ての情報を見せてもらわなければ、これ以上の進展は望めませんよ?」
「森田教授は外部協力者ですから、企業秘密と個人情報保護法により開示出来ません。こちらの指示に従ってください」
…全く話にならなかった。
ユーザー側の都合を完全に無視した酷い対応である。
どう考えても、慎治に真実を解明して欲しい姿勢には思えない。
同時に、桑田が懸念していた理由もわかった。
恐らくこれは、プロテクト社の責任逃れであり、開発者でも原因を解明できないという事実が欲しいだけなのだろう。
もっとも、この開発室の主任のプライドの問題かもしれないが。
―――いや、あるいはもっと辛辣な物かもしれない。
プロテクト社は、思考プログラム自体を切り捨てる気かもしれない。
そしてこの茶番劇は、不完全な商品を売りつけた森田研究所相手に訴訟を起こす下準備かもしれない。
プロテクト社は、この一年以内の思考プログラム販売には、ユーザー相手の免責特権を設けていたはずだ。
詳しい内容までは覚えていないが、―――確か予期出来ぬ不具合での損害は、補償を免れる契約をユーザーと交わしていたはずである。
多分だが、思考プログラムの販売を取りやめて損失を確定させ、損失は森田研究所から取り返す、―――そんなところだろうか?
これは、下がり続けている株価対策の意味もあるのかもしれなかった。
(どうする? 一旦帰って、桑田に相談するか? …いや、それは何時でも出来る。今は僕が出来る事をやろう。…帰るのは、それからでも充分だ)
思考を切り替えた慎治は、違うアプローチを試みる。
「…法律に違反するなら仕方ありませんね。プロテクト社が私を部外者だというなら、そういう扱いもあるんでしょう。企業秘密で資料が開示出来ないのなら、依頼人の言う事に従うのもやぶさかではありません。…ですが、この事は研究所のホームページに記載しますよ。森田研究所の所長という立場は、子供の使いではありません。何も出来ないのならば、せめてその理由を公開しなければ、私の沽券に関わりますからね」
少しあわてて、名倉主任は答える。
「それは、守秘義務に反します。この開発室内で見聞きした事を話すのは、明確な契約違反です」
「そちらこそ勘違いしていますよ。私は法律家ではありませんが、契約の努力義務くらいは知っています。今まであなたが言った事の中に、新製品の改善に対する協力的な姿勢はありましたか? そもそも契約を守る気が無い相手には、守秘義務どころか契約の成立さえ怪しいと思います。ましてこれは口約束です。私は、思考プログラムの不具合の改善は約束しましたが、プロテクト社の用意した契約書にはサインしていません。…なにしろ、契約書を読み込む時間が無かったですからね」
「…プロテクト社を敵に回すおつもりですか?」
「私に殺人予告状を書いて来る人達と、どちらが恐ろしいんでしょうね?」
敵に回すも何も、明らかにもう敵だろう。
争い事は嫌いだが、敵の思惑にのってやるほど、お人よしではないつもりだ。
だいたい、ここでの全ての会話は脳内バイオチップに音声ファイルとして記録しているので、こちらから引く理由など無い。
裁判での証拠能力があるとは思えないが、これを公開したらプロテクト社の信頼は更に落ちるだろう。
しばらく考えていた主任の男は、「少し待ってください。上司に確認します」と言って、開発室から出て行った。
慎治は、部屋にいる研究者からの冷たい視線を無視して、もう一度資料を見返す。
何か新しい事がわかるとは思えないが、ボーっと待っているなんて時間の無駄なのだから。
開発室に戻ってきた主任の対応は、少し改善していた。
不機嫌な様子は酷くなっていたが、契約書に慎治がサインさえすれば、顧客の個人情報や企業秘密を明かすのは可能だとの返事。
慎治は、「プロテクト社が協力をするなら、帰る前にサインする」と口約束して、全ての情報を見せてもらう事に決めた。
罠の可能性は否定できないが、契約書は手元にあるし、桑田の話では『それほどこちらに不利になる内容はない』との事だった。
サインだけして追い出されたらたまらないから、契約の履行が完了してからでなければ駄目だが、それ以外は問題ないという訳だ。
冷静に見れば、こちらにはメリットが無い話だが、元々損得勘定で動いている訳ではないから別に構わない。
ただし、慎治にとって嬉しい誤算もあった。
別の開発室の診察スペースに、三人の思考プログラム不適合者が来ているそうで、「どうせなら見てみませんか?」と主任の方から提案してきた事は意外だった。
冷静に考えれば、『やれるもんならやってみな』という意味だろうが、それこそが慎治の望んでる展開だった。
不適合ユーザーの脳内バイオチップからコピーした思考プログラムデーターは完全に壊れていて、実際にバイオチップ内部で何が起こっているかをシミュレーション出来なかったからだ。
開示された個人情報を見せてもらった結果、慎治の予想外の事が色々とわかった。
脳内バイオチップの現在までの使用者は全世界で約2200万人で、その男女比は6対4で男性が多い事は知っていたが、思考プログラムの不適合が確認されているユーザーは圧倒的に若い男性が多かった。
214名のうち、男が210名―――女性はたった4人しかおらず、100対1以上の男女比は、明らかに異常だった。
プロテクト社の資料によると、思考プログラムの全世界のユーザー数は現時点で約520万人という事だから、これは氷山の一角かもしれない。
いずれにしても、今現在も約520万人が思考プログラムを使用している事は間違いなく、一刻も早く原因を付き止めないと被害の拡大も考えられる。
慎治は焦る心を抑え、その他の共通点を探す為に、不適合ユーザーのDNA情報はもちろん、生年月日や血液型や家族構成まで調べたが、大きな違いは見つからなかった。
全体的な傾向としては、比較的若くて活動的な人に不適合が出ているのだから、きっと何か原因があるはずだ。
更に気になる点は、改変後の性格に対するユーザーや家族のアンケートに共通して書かれている意見だった。
それは、『気力や欲望が減った』とか、『穏やかな性格に変わった』とか、『ロボットと話しているようだ』という内容だった。
慎治の頭脳は、あり得ない仮定を導き出す。
後は、実際に確かめてみるしかないだろう。
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第二ラボと書かれた扉の奥に、三人の男がベットに横たわっている。
彼らは思考プログラムの不適合者だが、意識ははっきりしていて、落ち着いている様子に見える。
頭部にヘルメット状の脳内観測装置と、鼻の穴に脳内バイオチップ接触端子の専用器具を突っ込まれているのは滑稽だが、一目見ただけでは異常は見られず、特に不満もなく大人しくしている。
彼らの前には中年の女性医師がいて、3Dモニターに映る脳波の状態を確認している。
性格の改変という予期せぬトラブルには、医師の協力は欠かせないだろう。
慎治は今、第二ラボの横にある電算室の中にいて、防音ガラス越しに彼らを眺めている。
先ほど彼ら三人と話をしてみたが、驚くくらいに温厚な人達だった。
受け答えは理性的で、表情があまり変わらず、しゃべる声も小さく穏やかだった。
今回の件を怒ってもおらず、家族や恋人が心配するからプロテクト社に連絡したと、口をそろえたように言っていた。
これは、『短気でけんかっ早い中学生』、『有名なホストクラブのNo.1で、女性関係が激しい』、『有名なデイトレーダー』という彼らのプロフィールに書かれた内容からすると明らかにおかしかった。
診察を終えた医師の女性が、電算室に通じるドアを開けて入って来ると、真っ先に慎治に向かって話しかける。
「お会いできて光栄です、森田教授。先ほどは患者の前でしたので、挨拶が遅れて申し訳ありません。篠原恵子と申します。大脳生理学が専門の医師です。…大変な事態ですが、何としてでも解決法を見つけましょう」
「こちらこそ、お世話になります。早速ですが、篠原さんのご所見を聞かせてください」
握手もそこそこに慎治がそう切り出すと、「名倉君、モニターに解析画像を出して」と、電算モニターの前に座っている主任の男に指示を出す。
主任の男は、相変わらず不機嫌そうな様子だったが、黙って機器を操作する。
3Dモニターに映る映像は、患者の脳の新型MRIの立体画像と神経回路網、―――更には脳細胞の電気シナプスデーターを立体化した物だった。
「大脳生理学の専門家として断言しますが、彼らは完全に健康体です。私の知る限り、異常は認められません。私が見た患者は50名ほどですが、全員がそう言えますね。ダメージを受けた脳細胞は、このような活発な活動はしません。データーが残っていますから、ご覧になりますか?」
「…いえ、私は医者ではありませんから医学的な意見は医師の方にお任せします。…ですが、脳内バイオチップと大脳間の電気信号のやり取りが多すぎませんか?」
慎治の意見に、篠原はもう一度3Dモニターを見返す。
「私こそ、生体バイオチップの専門家ではありませんが、電気信号のやり取りが行われているのは正常な状態だったと思いますけど?」
「はい、そうです。…でもこれでは、…何と言うか自然すぎるんです。脳内バイオチップへのアクセスは、ユーザー側から働きかけないと起こりません。例え全てのプロテクトが外されている場合でもそう言えます。生体バイオチップは工業製品で、人の臓器とは違います。自発的な活動が起こる製品なんて、危なくて人の体の中に埋め込めませんから」
「…わかったわ、バイオチップと電気シナプスのやり取りに付いて、もっと詳しく解析しましょう。…森田教授、あなたが考えている事は、…バイオチップの自発活動、つまり、生体バイオチップが何らかの意志を持っているという仮定ですか?」
「…はい、あり得ない事ですが、事実は否定出来ません。まだ確証はありませんが、思考プログラムが脳内バイオチップを通じて、ユーザーの脳の神経ネットワークを改変した可能性が高いと思います。私は、脳内バイオチップのデータを直接トレースして、思考プログラムがどう動いているか解析したいと思います」
慎治と篠原の会話に、名倉が我慢出来ずに割って入る。
「馬鹿な! 君達は何を言っている? 工業製品が命を持ったとでも言うのか? 生体バイオチップは、擬似DNA情報しか持たないたんぱく質の塊だぞ!」
彼の意見は、生体バイオチップの専門家の常識では完全に正しい。
生体バイオチップは、人の細胞に似せてはいるが、遺伝情報を制限して細胞分裂を起こさないようにしている。
長年の研究から、その安全性は疑う余地はなく、自己修復機能もナノマシンによって行なわれる工業製品なのだから。
慎治は、名倉に向かって静かに答える。
「…名倉さん、これは仮定の話で、まだ圧倒的に情報が足りません。むしろ予断を持って調査する方が危険かもしれません。だから、あなたはその考えのままでいてください」
名倉は、きつく慎治をにらむと、「…そうさせてもらう」とだけ言って、演算機器の前に座り直す。
慎治は篠原の方に顔を向けると、「篠原医師、出来るだけ多くのデーターが必要です。…出来れば不適合者全員分の…」と、申し訳なさそうに言う。
「…やってみましょう。新しく医療チームを編成する必要があるわね。…いいわね、名倉君?」
名倉が黙って頷くのを確認すると、彼女は急いで第二ラボを後にした。
その後、不適合ユーザー三人に、高校レベルの数学の授業の映像を見てもらい、慎治と名倉は思考プログラムの動きをトレースする。
コピーしたデーターが意味を成さないなら、プログラムの動きを直接見るしかないという訳だ。
退屈な映像だが、文句も言わずに興味深そうに見ている三人は、果たしてこのままで幸せなのだろうか?
すぐに三つの3Dモニターに、記号化された思考プログラムの演算結果が映されて行く。
それはどう見ても意味不明の信号の羅列で、理解出来ない名倉は、三人の演算結果の違いに付いてだけに注目するしかなかった。
記録は取ってあるので、暗号を解くようにして、思考プログラムの違いを解くしかないと思うと名倉は気が重かった。
だが、この世にたった一人、―――慎治ならわかる。
自分の思考を解析してプログラムの基幹部分を作り、何度も思考錯誤を続けて来た彼には、答えを見て計算式が推測出来るのだ。
それこそ、まるで魔法のように…。
それから五分ほど経って、沈黙に我慢出来なかった名倉が独り言を言う。
「…三人とも似たような結果だ。解析作業にどれくらいかかるんだ? …ぞっとするな」
「…いや、思考プログラムはそれぞれが別々に改変されている。ベースは大して変わっていないし、見た目には演算結果にも大差ないが、…それは見ている映像のせいじゃないかと思う。もっと刺激的な内容なら、かなりの変化があるはずだ」
それに律儀に答える慎治。
演算結果に集中しているのだろう、―――彼の目線は、3Dモニターから外れない。
「…やってみます」
半信半疑だった名倉だが、断る理由も無いので、映像を今度はホラー映画に切り替える。
だが、三つの3Dモニターに映るのは、相も変わらない信号の羅列だ。
先ほどの演算結果と比べても、それほどの変化があるとは思えなかった。
三つの演算結果を比較しても、それほどの差があるとは思えなかった。
だが、驚愕したように慎治は言葉を漏らす。
「…信じられない。思考プログラムが全く別の反応を示している。…これは恐怖を感じた時の思考パターンか? …こっちはパターンがバラバラだ、…まさか好奇心か?」
「なに言ってるんです? 思考プログラムに感情があるとでも?」
呆れた様子で問いかける名倉に対して、慎治はニコリともせず質問を返す。
「…名倉さんは、人の感情パターンを解析した経験はありますか?」
「…いいえ、それほど暇ではないものですから」
「人の脳波は、特定の思考に対して、一定のパターンを示します。個人差が大きいので正確な考えまではわかりませんが、解析さえ出来れば大よその思考は読めるんです。特に強い感情に対しては、ある決まったパターンが現れやすくなります。
…あり得ない事ですが、この思考プログラムの演算結果は、脳波の波形に似ていると思うんです。思考プログラムは何らかの原因で変化をして、知性と感情を持ったのかもしれません」
心底呆れたように、名倉主任は文句を言う。
「はっ! 思考プログラムが知性や感情を持つですと? たかが微弱な電気信号を流すだけの、人が作ったプログラムが? …森田教授、あなたはどうかしている! SFの使い古された設定が現実に起こったとでも言うんですか? まったく馬鹿げている! 感情を持つ工業製品なんて、物語の中だけでじゅうぶんだ!」
「…もちろん、まだ断定は出来ません。だが、今の所、それ以外に説明出来ない。…これは恐るべき事態かもしれません。見方を変えると、人の脳が知的思考体に寄生されているとも言えますから」
深刻な表情をして考え込む慎治を見て、名倉も黙ってしまう。
この事態は、彼の科学者としての領分を超えている。
それは、森田慎治にとってもそうなのだろう。
意図せずとはいえ、結果的にDNA情報によらない新しい知的生命体を作り出してしまったとするなら、もうそれは人の技とは言えず、神の御技なのだから。