第百十三話 翻弄される朝
「桜子さん時間は大丈夫なの?」
少女姿の芹緒は風呂から出て髪をつつじに乾かしてもらい、中学生女子の制服を着てダイニングテーブルに座ると、隣で優雅にお茶を飲む桜子に尋ねる。
「時間はありますわ」
「聖桜女学園ってここからだと九条邸より遠いんじゃ?」
「ああそちらでしたか」桜子は合点がいったと頷くと芹緒の手を取り微笑む。「優香様と過ごす朝より大事なことはございません。ご心配なく、遅刻にはなりますが行きますわ」
「そ、そう」
一般人であるところの芹緒からすると、そんな理由で学校を遅刻するなんて思いもしないが、両親や家の都合で振り回されることが多い上流社会に暮らす彼女たちにとってはごく普通、当たり前の感覚なのだろう。
そしておそらく学校側もいちいち遅刻程度では目くじらは立てまい。
「どうぞ、朝食です」
「「ありがとう」ございます」
そう声かけして朝食を目の前に並べてくれたつつじとさつきにお礼を述べると、二人はそれぞれ両手を合わせた。
「「いただきます」」
今日の朝食は鮭の切り身とご飯に味噌汁という、とても庶民的な料理だ。
もちろん芹緒のリクエストだ。ただし見た目は普通でも使っている食材は高級品で芹緒も舌鼓を打つ。
芹緒は食事の際は極力少女姿になることにしていた。
単純に身体が小さいので食べ過ぎることがないこと、そして食べ物を美味しく感じられることがその理由だ。
中年男性姿ではいくらでも食べられるのに、味音痴。
つつじやさつきが作ってくれる料理をしっかり味わいたい芹緒にとっては少女姿一択だ。
「姫恋様は羨ましいですわね……、優香様と一緒に学校へ通えるんですもの」
桜子が箸を上手に扱って鮭の小骨を取り除く。
小骨など最初から取り除けばいいものだが、これには芹緒のマナー訓練の意味合いも込められている。
少女姿にせよ、中年男性姿にせよ、いずれ上流社会で社交デビューすることは確定している。
そうでなければ『芹緒家』を知らしめることなどできない。
「確かに助かってるね。僕一人であの集団に放り込まれたらと思うと胃が痛くなるよ」
『芹緒家』。
なんと不安定な響きだろうか。
芹緒が感じている『檻』。芹緒はここにいる限り、上流社会で九条家、伊集院家、芹澤家、中川家の威光を背景に絶大な権力を行使できる。もっとも芹緒本人にそんなことをつもりは毛頭ないが。
今現在、芹緒の持つ口座には莫大な金額が入っている。
芹緒が一人住むためだけの豪華な邸宅が建築されている。
芹緒のお世話をしたいと芹緒に仕えるメイドたちがいる。
芹緒と愛情を確かめたいと積極的に愛をささやく少女たちがいる。
だがそれらの何一つとして芹緒自身の努力の結果ではない。ただ宝くじに当たったようなものだと芹緒は考えている。
少女たちの愛を疑う気はもう微塵もないけれど、九条家たちがその気になれば芹緒優香という一個人など、まるで机の上の埃のように表舞台から消え失せる。
砂上の楼閣。これが芹緒の感じる『檻』に最も近い感覚だろうか。
「私もこちらへ転校いたしましょうか……。幸い住むところはありそうですし」
「さすがに聖桜へちゃんと通った方がいいと思うよ」
そして芹緒が漠然とした不安を感じていることはもちろん少女たちはとうの昔に見抜いている。
だからこそ美琴は芹緒が少しでも馴染みある一般社会を感じられるよう中学校へ通うことを提案したし、その場所は姫恋がかつて通っていた中学校が選ばれた。
一般社会との繋がりを得るために芹緒自身の姿ではなく少女姿での生活にしたのも、芹緒の自身の姿へのコンプレックスを慮ってだ。
そして桜子も葵も有栖も彼女たちなりの気遣いで芹緒に愛をささやき続けつつ、様々な調整を行っている。
「残念ですわ。でも今週末は楽しみです♩ みんなで一日中優香様と楽しめるんですもの」
「……あはは」
特に美琴の作業量は膨大だ。
彼女は『九条家』と『九条カンパニー』の両輪で満足に動けなかった父から『九条家』を引き継ぎ、『芹緒家』を正式なものにせんと学校を休学してまで芹緒の身分確立に向けて業務を行っている。
どれだけ上流社会の流儀で『芹緒さんの資産は芹緒さんのものだよ』と言っても、芹緒はもともと一般人。倫理や法律に囚われた思考をするのは当然だ。
だから動きの遅い役所に発破をかけながら、芹緒が安心出来るような形で資産を渡したいと行動している。
そして芹緒が自分の意思で自由になってくれることを期待している。
自分たちと子をなすことは喫緊の課題でもあるし、芹緒とようやくいちゃつける時間でもあるので最優先事項だが、芹緒がその資産を手にして何かすることに口出しするつもりは全くない。
基金を作ろうが競馬ですろうがカードゲームに使おうが、それは芹緒の自由。
もちろんそれとは別に資産形成や運用の勉強は並行して芹緒に行うが。
今の芹緒は口座にものすごい桁のお金が入っていることを知っていても使うそぶりはない。メイドを通して何か買うこともしない。通販すらしない。美琴と入れ替わって以来、買い物をしていない。
早く芹緒が足場の安心した生活を送れるようにと願っている。
「美琴様がまた優香ちゃんを抱きつぶしちゃうんでしょうか」
「……女姿で抱かれるのはすごく恥ずかしいし、何かに目覚めちゃいそうだからイヤだなぁ」
昨晩桜子と愛し合っていたせいか、桜子の朝からするようなものでもない話題に芹緒は乗る。
「大丈夫ですわ優香様。今の所優香様が美琴様の子を産むまでは相手は美琴様お一人ですから」
……毎晩少女たちを抱くという、彼女たちからすればごく自然の行為が芹緒にとって最も重圧のかかる行為だとしっかり認識しているのは葵と有栖だけである。
「いや、自分が妊娠するとか考えたくないんだけど」
「美琴様も現在男性姿で励んでおいでですが、やはり九条家として男児が欲しいのは本音でしょうから」
「男性としてするのはともかく女の子姿でするのはすごく恥ずかしいんだってば」
「ダメです。次は私の子を孕んでいただきますので。それが私が許嫁関係を解消する条件というのは優香様もご存知でしょう?」
「……知ってるけど」
「素敵なことに優香様は女性姿で妊娠して男性に戻っても、また女性に戻れば妊娠が継続しているという本当に不思議な体質です。優香様の変身は肉体が直接変化しているわけではないのでしょうか」
桜子の言う通り、芹緒は女性姿、男性姿の状態が継続している。これは芹緒が少女状態で身体に吐精されたあと、男性に戻り、また変身した際、零れてきたことから発覚したことだ。
芹緒に直接吐精された者が男性に変わったり、芹緒に吐精した者が女性に変わったりと、芹緒の身体と精液の関係は本当に理解不能な不思議なものである。
目下各家お抱えの医療従事者たちが総出で芹緒の身体や精液を調べてはいるが、芹緒の中に出されたものは芹緒自身のものではないため、結局は芹緒の肉体が関係した性行為が怪しいと関係者たちは見ている。
また、スポイトで芹緒の膣内に入れた美琴の精液では美琴は女性化出来なかった。
芹緒の身体に直接出すこと、芹緒に直接出されることが性別変化の条件らしい。
これも芹緒が毎晩彼女たちに誘惑され励んでいる理由の一つでもある。
だが上流社会の者たちが持つ力は既存の科学では解明できないものばかりであるため、芹緒の変身や他者変身、女性体と男性体の不連続性について明快な説明が出来るものはいない。『そういうもの』として扱うしかないのだ。
「ああそれと」桜子は食べ終えて両手を合わせてごちそうさまを言うと、「しばらくは学校の方と浮気してはいけませんよ?」
「ゲホッ!?」桜子の唐突な言葉に芹緒は口に含んでいたお茶を勢いよく吹き出す。「そ、そんなことするわけないでしょ!?」
だが桜子はあくまでも優雅にお茶に口をつけると
「優香様は誰が見ても美少女です。性別関係なく他者を誘惑してしまいますわ。仲良くなれば優香様の内面の優しさを知りさらに深みにハマってしまうことでしょう。お気をつけくださいませ」
「気はつけるよ……」
言われるまでもなく、芹緒は少女姿の自身が美少女であることは理解している。何せ芹緒が見惚れた九条美琴と髪色以外瓜二つなのだから当然だ。
美少女だから誘惑してしまう、というのは『ミニスカートを履いてるから下着が見えて当然だ、見るのが悪いのではない、ミニスカートを履いてるのが悪い』みたいな論法を思い出してしまう。
この姿もミニスカートを履くという意思も本人のものだ。それを差し置いて『その姿だから悪い』というのはなんだかなぁと思う。
一方今まで他者に見てもらえるどころか距離を置かれていた自認モンスターな芹緒としては、外見がもたらす印象というのはよく理解している。
美少女姿を振りかざすのはよろしくないが、その姿であることに無頓着であることも問題だろう。
ミニスカートを履いているのに風でめくれても押さえることなく気にしないのは本人の問題だ。
特に昨日、すでに芹緒はスカートがめくれた姿をクラスの子たちに晒している。
他者誘惑云々以前に、一人の女の子として気をつけなければいけない。いくら性自認が男でも少女の姿ならその姿に沿う行動をとって然るべきだろうから。
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「優香さんおはよー!!!」
「おはよう姫恋さん」
芹緒が家のドアを開けると同時に廊下の向こうのドアも開く。つつじたちメイドが連絡を取り合っていたのだろう。
桜子は朝食を終えるとすぐに帰った。この時間からは姫恋の時間と心得ているらしい。
スムーズな引き継ぎだが、見方によっては芹緒に一人の時間はなく、常に誰かが側にいる。
エレベーターで一階のエントランスに降りた姫恋はガラス張りの自動ドアの向こうに友人たちを見つけると駆け出していく。
「おはよー!!!」
美琴と入れ替わっていた時と違うのは、外出にメイドたちが伴わない点だ。
九条家の一人娘であった美琴と事情が異なるとはいえ、少女たちに言わせれば今の芹緒も重要な存在らしい。だが護衛の一人も付いていないのは不思議だ。
一方で芹緒自身としては常に誰かが側に控えている生活は非日常的で、少女姿で中学生とはいえ、こちらの方がかえって安心出来るのも本当だ。
そうなると姫恋に護衛がいないのも気になるが、中川家の方針について芹緒は口を出すべきではないだろう。それは『大人』が考えることだ。
「みんなおはよう」
「おはよう優香ちゃん」
挨拶を交わし昨日できたばかりの友人の顔を見渡す。
芹緒はなかなか顔と名前が一致させることが出来ない。その理由を自分が相手の顔をしっかり見ていないからだと自己分析している。
ともすれば芹緒は相手の髪型や座る位置などで人を覚えてしまう。教室ならまだなんとかなるが、この年頃の女の子たちはヘアアレンジに挑戦するお年頃だ。髪型だけで覚えてはいけない。
昨日ストレートヘアだった姫恋の友人も今日はポニーテールにしている。まだ雰囲気でうろ覚えだが認識できている。あとは呼び間違いをしないよう気をつけるだけだ。
「優香さんどうしたの?」
「ううん……小糸さん可愛い髪留めだね」
「あっうん。私こういう小物好きなの」
「優香ちゃん目ざとくなったねえ?」
芹緒と小糸の会話に姫恋が割って入る。芹緒は姫恋の指摘に少し目を逸らす。
「最近鍛えられてるから……」
「あは♡ そうだねそうだねー!!」
「なになに?」
「私いろんなことに疎いから、みんなに教えてほしいなって話です」
芹緒は毎日少女たちと接している。
その中で少女たちは先日と今の自分がどう違うのか、芹緒に毎回問いかけている。
女性は小さな変化を気付いてもらうのを喜ぶ。それも好きな人のために行動したのなら尚更だ。
だが残念ながらこの芹緒優香という男、そんな言葉をかけるタイミングは訪れたことがなく、本人も人に対する興味が薄いことを公言しているようにとにかく気付かない。
だからこそ少女たちは半ば強制的に言わせるようにしているのだが。
ちなみに桜子の変化ポイントはリップの色だった。もちろん芹緒は分からなかった。
「庶民的なこと?」
「うん、そういうこと「女の子のあれこれも知りたいんだって!!」」
ざわ。
一瞬グループの空気が固まる。
「それってどういう……」
「優香ちゃん箱入り娘だからさ、ちょっと距離置いてるところあるじゃない? ほら今も」
歌衣の問いに姫恋は小糸と横に並んでいた芹緒を指差す。
確かに間にもう一人入れそうなくらい距離が開いている。
「こんなものじゃない……?」
芹緒がそう言うとみんなが立ち止まって観察を始める。
「あー……」
「少しよそよそしいかも?」
「優香ちゃんいつもお行儀いいからさ。今だけでもスキンシップ多めにしてほしいな!!」
「そういうのいいから」
「ふーん」歌衣はニヤニヤ笑いを浮かべると芹緒と小糸の間に入ると二人の腰を両腕で抱え抱きしめる。
「きゃっ!?」
「わっ!?」
「確かに確かに。小糸ちゃんは驚いただけだけど、優香ちゃんは逃げようとするねえ?」
腕の中の二人の動きをそう分析した歌衣が笑いながら言う。
「普通に、普通に登校しようよ」
「優香さん」歌衣に抱きしめられた小糸は顔を赤くしながらも芹緒に微笑む。「優香さんは長くこの学校にいれないんだったら、これくらいのスキンシップはいいと思うよ」
「そうだねー」
「ナイス小糸ちゃん」
「私も!」
そしてもう四月だというのに、芹緒を中心にまるでおしくら饅頭をしているようにしか見えない女子中学生の塊が、周囲から奇異の視線を浴びながらも笑い声を上げながら通学路を進んでいくのだった。




