祭りのあとで
部屋に戻ると、どっと疲れが押し寄せてきた。
慣れない人混みに流され、騒動に巻き込まれ、そこから逃れるために走ったあとで、人ひとりを背負って夜道を歩いたのだ。運動不足のアラサーにとってはトライアスロンにも等しい過酷さだった。
「……ああ、疲れた」
ソファにだらりと身体を委ねて、冷房を強風に入れる。
「お風呂、先に入ります?」
「いや、後でいいよ」
「それじゃあお言葉に甘えて……」
七海が脱衣所に向かおうとしたとき、彼女のスマートフォンが鳴った。電話の着信だ。最近の若者はあらゆる連絡をラインで済ませると聞いたが、そんなこともないらしい。
「もしもし……、どうしたの、青葉」
七海は恐る恐るといった声音で電話に出た。相手が三ツ森青葉なら、そういう対応にもなるだろう。
「え? うん、夏祭りで絡まれたけど……、いや、援交じゃないって、それは……、うん、長谷川さんだけど……、ダメ元で誘ったらOKだったから……、え? 今?」
七海がこちらを向いて申し訳なさそうな顔をする。
「替わるの? 長谷川さんと?」
そんなやつはここにはいない。
僕は口パクでそう伝えたが、残念ながら伝わらなかったようだ。七海はこちらへ歩いてきて、スマホを差し出した。
「青葉からです。長谷川さんと替われってしつこくて」
「何を言われるんだろう、恐ろしいなぁ。……もしもし」
『副店長のおっさん?』
三ツ森青葉は出だしから失礼だった。
「長谷川という名前があるから、それを使っておくれ」
「じゃああたしお風呂入ってきますね」
「――ちょ!?」
『は? お風呂? 今のどういうこと?』
電話口の声が低くなる。
「私にはオフ会行ってきますって聞こえたけどね」
『いやどっちにしてもおかしいし』
「三ツ森さんは、私になんの用かな?」
強引に話を進める。
こちらを疑う沈黙が続いていたが、やがて三ツ森は本題を切り出した。
『あいつら……うちの知り合いが、夏祭りで七海っちを見つけて、しかも、援交してたって騒いでたから、気になって』
「なるほど」
『で、どうなん?』
「少なくとも、やましい関係ではないよ」
大っぴらに言える関係でもないが。
『女子高生と一緒に夏祭りに……、ていうか、夜に出歩いてたのに?』
「それでも私と水渡さんは、君が考えているようなことはしていない」
『でも七海っちは――』
三ツ森の言葉が途切れて、
『――七海っちは、すごくがんばってて』
改めて発せられた言葉は、おそらく、本当に言いたかった言葉ではないのだろう。
「伯鳴高校に入るために必死で勉強をしたというのは聞いているよ」
『そうだよ、なのに、親の都合で勝手に転校させられたりして……』
三ツ森の声は、まるで自分のことを悔しがっているかのようだった。
この子は確かに七海の友達だったのだろう。先日のいざこざは、すれ違いや誤解によるものであって、七海に対する本来の感情ではなかったのだと、そう思える声だった。万引きさえしなければ良い子なのだろう。
「それは気の毒だとは思うけれど、転勤や転居はどうしようもないんじゃ――」
『やっぱり七海っち、言ってなかったか』
「うん?」
『七海っちの母親は、そういうんじゃなくて。仕事の都合で引っ越したんじゃなくて』
三ツ森の声には明らかな悪感情が込められていた。
七海の母親に対する、嫌悪と軽蔑が。
「何か、知っているのかい?」
恐るおそる問いかける。ここ数日のあいだ七海と接した所感として、彼女の家にはいくらか問題はあっても、事件性はないと思っていた。
しかし、三ツ森の口ぶりは、明らかに――
『あの女は、男を追っかけてったの』
「は……?」
我ながら間の抜けた声が出た。
『なんかSNSでやり取りして意気投合して、お互いフリーだねって話になって、それじゃ一緒に住もうって流れで決まったらしいけど』
「それは、また……、フットワークが軽いことで」
『尻軽って素直に言えば』
「大人はあまり刺激的な言葉を使っちゃいけないんだ。安っぽく見られるからね」
『あそ』
スマホを一時とおざけて、ため息をつく。
恋に生きるというのは、その響きだけを切り取れば、素晴らしい生き方のように聞こえる。純粋で懸命な、曇りのない生き方のように思える。
しかし、そのために周囲に迷惑をかけるというのはいただけない。特に、親の恋愛が子供の生活を乱しているのだとしたら、それは醜悪以外のなにものでもないだろう。
『ちょっとおじさん?』
「……長谷川」
『おじさん、七海っちの上司なんでしょ、七海っちのこと助けてあげてよ』
「それは職務の範囲を超えている」
『二人の関係だってショクム? の範囲を超えてるくせに。変なことしてもいいけど、シたならシたで責任取れって言ってんの!』
三ツ森は興奮気味にそう言って、一方的に通話を切ってしまった。
彼女の七海に対する必死さは伝わってきたが、それでこちらの考えが変わるわけでもない。ただ、もたらされた情報については、じっくり考えてみる価値があった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
風呂から出てくると、七海はソファに座ってスマホをつついていた。横顔はニヤニヤと笑っている。
こちらに気が向いていないようで助かった。
厄介すぎる家庭事情を聞いたあとで、彼女と目を合わせてしまったら、きっと動揺が顔に出ていただろう。
「何か面白い動画でもあった?」
「センセからのメッセージに返信してたんです」
見ていたのはグループライン『さんにんぐらし』らしい。
このタイミングで古井河からのメッセージならば、おそらく『二人きりだからと言っておかしなことをしないように』という類の警告文だろう。
自分のスマホを操作してグループラインを確認する。
そこには確かに、想像していたとおりのメッセージがあった。
ラブリバ:あたしがいないからって
ラブリバ:二人でヘンなことしちゃダメですからね
ラブリバ:(目つきの悪い猫のスタンプ)
しかし、それに対する返信は想像を超えていた。
みなとなみ:大丈夫、ちょっと激しい運動をしただけ
みなとなみ:二人で密着して、息が切れるまで
みなとなみ:蒸せるから離れなさい、って言われたけど
みなとなみ:背中に手を回すと、長谷川さん、ちょっと痛がってた
みなとなみ:跡が残ってるかも
みなとなみ:(目がハートになった犬のスタンプ)
直後、画面が暗転して古井河からの音声着信があった。
「……もしもし」
『長谷川君、説明を』
「子供の冗談を真に受けすぎだ」
ソファの方を見ると、七海は無言で腹を抱えて笑っている。
僕はその脇を通ってベランダへ出た。
『冗談にならなくなるから心配してるの』
「夏祭りに行っただけだよ。君が言ったんじゃないか、フォローしてあげてって」
『それはそうだけど……、水渡さん、やっぱり落ち込んでた?』
「今は問題ないよ」
『激しい運動をして?』
「あの子には誤解を誘う作文の才能がある」
『……本っ当に、おかしなことはしてないのね』
「神に誓って」
古井河の過保護っぷりに思わず苦笑いしてしまった。
七海への心配はもちろん、いくらかの嫉妬心も感じる。
同窓会の帰り道の、あの告白は本心なのだろう。
だが、その感情は12年も前のものであって、今の彼女が今の僕に対してどういう思いを抱いているのかは、よくわからないままだ。
こちらの誠意を確かめるような沈黙は、古井河のため息によって終わる。
『おかしなこと云々は抜きにしても、気をつけてね? わたしたち大人は、水渡さんという子供に対して、責任があるんだから』
「ああ、わかってる。古井河も気をつけて。車の運転とか」
通話を終えると、ベランダの手すりに腕を置いて、明かりの少ない貧相な夜景を眺める。
『七海っちを助けてあげて』という三ツ森の言葉と、
『水渡さんに対して責任がある』という古井河の言葉。
どちらも七海を思いやってはいるが、しかしその方向は相反している。
三ツ森はもしかしたら、僕がヒーローのように颯爽と、七海をあの境遇から救ってやれると考えているのかもしれない。
古井河はシンプルに、七海の面倒をしっかり見て、期限が来れば親元へ返す――そういうつもりで話をしている。
三ツ森は良くも悪くも僕に過大な期待をしている節があり、古井河の方は、いくらか特殊な現状ではあるものの、大人として、教師としての責任を果たそうとしている。
――では、僕自身はどうか。
三ツ森や古井河と同じように、僕にもこうしたいという願望はある。
だが、願い望むだけではどうにもならない。
動かなければならない場面なのは明らかで、
どこへ向かえばいいのかはわかり切っており、
期限もそろそろ迫ってきていた。
夏の終わりはまだ先だが、一般常識として、スケジュールは早めに先方へ伝えなければならない。あらゆる手続きには時間がかかるのだ。
僕はスマホの電話帳を開いて、職場の同僚へ片っ端から電話をかけていく。




