君の街まで
朝ご飯を食べている長谷川さんを見るのが好きだ。
起き抜けで眠そうにしている顔が、あたしの作ったご飯を食べているうちに、だんだんしゃきっとしてくるところが好き。猫背気味だった背中が起き上がって、きれいな姿勢になっていくのが好き。食事中にテレビを見るのは、ちょっと浮気されているみたいで嫌だけど、遠い国の悲しいニュースに目を細めるやさしいところは好き。食べ終わったらあたしと目を合わせて、ごちそうさま、って言ってくれる声が好き。
二人きりの朝はいつもどおりだった。
〝二人きりの朝〟なんて言うと、ちょっとやらしい感じがするけど、単に古井河先生がいないだけで、それ以外に変わったことがないのが、少しだけ不満な朝。
長谷川さんは食事を終えると、歯を磨いてから、仕事用のワイシャツに着替える。それがいつものパターンだ。だけど今日は、なぜかワイシャツではなく、私服のポロシャツに着替えていた。下はジーンズを履いて、無難で地味なコーディネイトだ。
「今日、仕事じゃないんですか?」
「ああ、ちょっと有休を取ったから」
「えっ? ウチの会社に実在したんですか?」
思わず大きな声で聞き返してしまった。
「学生アルバイトでさえこの驚きよう……」
長谷川さんは力のない笑いを浮かべている。
「いいんですよ、無理に有休消化率の高い先進的な上司を演じなくても」
「そして有休ひとつでこの言われよう……。まあ、法改正とかいろいろあってね、年に5回取得しないと、洒落にならない額の罰金を取られるんだよ」
「じゃあ、本当にお休みなんですね」
「そういうこと」
「でもどうして急に? 昨日の疲れですか?」
「まあ、確かに……、きっかけは昨日にあるのかな」
「はあ」
「ちょっと遠出をしようと思ってね」
長谷川さんはハンドルを握る仕草をする。
「ドライブ……、意外とアウトドアなんですね」
「愛車もたまには通勤経路以外を運転してやらないと。水渡さんも一緒に来るかい?」
「え?」
「何か予定があるなら――」
「――ないです、皆無です」
反射的にそう言ったあと、今日の予定を頭の中で再確認する。落胆。
「……と思ったんですけど、夕方からバイトでした」
「それなら、榊原主任に連絡してるよ。今日は休むって」
「ああ、そうだったんです……、……え?」
少し遅れて、長谷川さんの言葉を理解する。
この人が何をしたのかを理解して、でもそうする理由がわからなくて、あたしはとても混乱していた。
長谷川さんがあたしの休みを連絡したってことは、つまり、最初からあたしを連れてドライブに行くつもりで、段取りをしてたということで。
「……長谷川さん?」
真意を知りたくて横顔を見つめてみても、長谷川さんは窓の外、遠くの空を眺めている。
「いい天気だね、絶好のドライブ日和だ」
なんて、のん気なことを言いながら。
◆◇◆◇◆◇◆◇
長谷川さんの愛車は国産のハイブリッドカーで、ちょっと通行量の多い道を通れば、すぐに同型車とすれ違うくらい、没個性的な車種だ。
長谷川さんは目的地を言わなかった。
「どこへ行くんですか?」
と尋ねても、
「ドライブというのは過程を楽しむものなんだよ」
と車のCMのナレーションみたいな返事ではぐらかされてしまう。
でも、あまり気にはならなかった。
助手席に座っているという事実だけで頭がいっぱいだったから。
あたしと長谷川さんは、密室に二人きりで、同じ方向を向いて、車のシートに座っている。
これってある意味、ダブルベッドに並んで寝ているようなものだと思う。違うだろうか。まったくの的外れではないなずだ。シートは倒したら平らになるし、その状態はベッドと言えなくもない。しかも、長谷川さんはすぐ隣にいるのだ。手を伸ばすどころか、寝返りを打つだけで触れられる距離に。
隣を見るのが恥ずかしくて、窓の外に視線を向けると、山の中腹に建つお城みたいな建物が目に入ってくる。バッグの中にある、古井河先生に押しつけられた〝お守り〟を意識してしまう。
そのとき、黒いワンボックスカーがうなりを上げて、追い越し車線をすごいスピードで走り抜けていった。あたしは反射的に長谷川さんの横顔をうかがう。いつもどおりの、おだやかな表情だ。「飛ばすなぁ」なんて笑っている。
どうして長谷川さんの顔色が気になったのか。
ちょっと考えて、その理由に思い至る。
数年前、母が当時交際していた男性と3人で、ドライブをしたことがあった。
母と男性は車中ずっと話をしていて、会話の内容は思い出せないが、二人とも楽しそうだったと思う。
ところが、自分の車が追い越されると、男性の態度は急変した。
妙に運転が荒くなり、スピードを出して抜き返そうとしたり、悪態をつくようになった。母にこっそり、男性が怖いという話をすると、「そういう子供っぽいところがかわいいんじゃない」と笑っていた。あたしには母の笑顔が理解できなかった。
男の好みが母に似なくて良かったと思う。
長谷川さんが穏やかな人で良かったと思う。
会話の少ない静かなドライブだけど、一緒に居られるだけで、あたしはうれしい。
長谷川さんはどうなんだろう。
どういうつもりであたしを誘ったんだろう?
楽しい時間が切断されるように終わったのは、そんな疑問を思い浮かべてしまったから、なのかもしれない。
ウインカーが、ちっか、ちっか、と音を立てた。
反射的に前を見ると、緑地に白抜き文字の標識。
ジャンクションが近づいてきていた。
「――あ」
標識の文字が示す行き先に気づいて、喉の奥からうめくような声が出た。
ウインカーの出ている方向へと、ゆるやかにハンドルが切られる。
「長谷川さん」
「ん? どうしたの」
「今日は、どこへ、行くんですか」
その横顔は相変わらずおだやかで。
だけど告げられた行き先は、絶望的な響きがした。
「君の街まで」




