‐3‐ バトンタッチ
「冬樹っ」
夏樹のアパートの部屋の前で一人佇んでいた冬樹は、こちらに軽く手を上げてアパートの階段を昇ってくる雅耶の姿を見つけると、僅かに笑顔を浮かべた。
「久し振りだね、雅耶」
「おう。元気そうで何より」
二人は挨拶を交わすと、お互いの立ち位置を入れ替えるように移動した。
「ごめんね、雅耶。会ったばかりで本当に申し訳ないんだけど…。じゃあ、あとはよろしくね」
冬樹が声を落として控えめに言うと、雅耶は「任せとけって」と頷いた。
「あと、これ…なっちゃん家の鍵ね。もしも、帰る時なっちゃんが眠っていたら…」
「ああ。施錠して、この新聞受けに戻しておけばいいんだよな?」
先程電話で話した内容を反復しながら、それを受け取る。
「…本当に良いのか?寝てる間に行っちゃって…」
後ろ髪を引かれているのが見て取れる冬樹の様子に、雅耶が尋ねる。
だが、冬樹はドアを見つめながら小さく頷いた。
「うん、いいんだ。なっちゃんもそのつもりでいるし、大丈夫だよ。少し話も出来たしね」
「そっか…」
「うん。じゃあ…またね。雅耶も今度ゆっくり…」
「そうだな。また…」
そうして冬樹は軽く手を上げると、背を向けて歩き出した。
その冬樹の何処か寂しげな背中に、雅耶は咄嗟に思わず名を呼んで呼び止めていた。
冬樹は足を止めると、顔だけをこちらに向けて振り返る。
「お前、こっちに戻って来る気はないのか?」
その言葉に、冬樹は迷うような困った瞳を見せた。
「お前の八年間にも色々なことがあったのは分かるよ。でも、お前が最後に帰ってくる場所は夏樹の隣だろう?俺は、お前達がこんな風に…離れ離れでいるのは、見ていて辛いよ…」
「雅耶…」
いつだって二人は一緒だった。それこそ、この世に生を受けたその時からずっと…。
一緒にいるのを当然のこととしながらも、だが…いつだってお互いがお互いのことを本当に大切に思い合っていて…。
そんな二人を見ているのが好きだった。
自分は、そんな二人と一緒に過ごす時間が大好きだったのだ。
雅耶は切なくなって冬樹を見つめていた。
だが、冬樹は初めは驚いた表情を浮かべていたが、柔らかに微笑むと。
「でも、今は…雅耶がなっちゃんの隣にいてくれるでしょう?」
その思わぬ言葉に雅耶が目を丸くしていると、「なっちゃんをよろしくね」そう言って、冬樹は歩いて行ってしまった。
去ってゆく冬樹の背中を見送って。
その、最後に残した冬樹の言葉に複雑な想いを抱きながらも、雅耶は気を取り直して夏樹の家のドアへとそっと手を掛けた。
夏樹は眠っているのだろうか。室内は薄暗く静寂に包まれていた。
雅耶は緊張気味に、だが小さく独り言のように「お邪魔します」と律儀に呟くと家へと上がった。
玄関を上がると廊下に横付けされたような細いキッチンを抜けて、夏樹が眠る部屋へと入る。
部屋の中は、窓からの明かりで暗いという程ではなかった。
耳を澄ますと、僅かに夏樹の規則正しい寝息が聞こえてくる。
起こさないようにそっとベッドへと近寄ると、夏樹が僅かにこちら側を向いて眠っていた。
おそらく額を冷やしていたのであろう、濡れたタオルが横に落ちている。
「………」
雅耶はそれをそっと取り上げると、そのままベッド横へとしゃがみ込んで夏樹の寝顔を見つめた。
頬が僅かに赤く、普段よりも呼吸が早いのが判る。
そっと額へと手を伸ばす。
(まだ、かなり熱があるみたいだな…)
自分と比べなくても判る程、夏樹の額は熱かった。
(昨日、学校の裏庭で風に当たり過ぎたのかも知れない…)
額へと手を添えても起きそうもない夏樹の様子に、雅耶は僅かに緊張を解くと濡れタオルをすすぎにキッチンへと立った。
そうして、改めてその家の中を見渡す。
実は、雅耶はこの家に入るのは初めてである。
玄関先までは来たことがあるのだが、流石に独り暮らしの女の子の部屋へ上がるのは勇気がいるというか、何というか…。
狭い家の中、他に誰もいない状況で夏樹と二人きり…。
そんなの、自分の『理性が持たない』だなんて内心では思っていたのだけど。
結局は夏樹が眠っている所にお邪魔することになるなんて、本末転倒も良いところだ。
勿論、具合の悪い夏樹に何かをすることなどある訳もないのだが。
(でも…夏樹が目を覚ました時に、俺が突然部屋にいたら驚くかな?)
それで嫌がられるのだけは避けたい。
(でも、冬樹に頼まれたっていうのもあるし…。ある意味、仕方ない状況だよな?)
思わず自分に言い訳しつつ、すすいだタオルをよく絞ると再び夏樹の傍へと戻った。
そして、それをそっと夏樹の額へと当てる。
「…ん……」
不意に夏樹が声を発したが、起きる様子はない。
雅耶は一息つくと、静かにベッド横へと座った。
シン…と静まり返った部屋。
何処かにある時計の秒針の音だけが小さく響いている。
物の少ない、片付いた部屋をぐるりと眺めた。
(ここで一人、寝起きして暮らしてるのか…)
ずっと実家暮らしの自分にとっては『独り暮らし』と聞くと若干憧れもなくはないのだが、実際にこうして生活の場を目の当たりにすると何だか寂しい感じがした。
それに普段は、こんな風に具合が悪くても一人でやり過ごすしかないのだろう。
誰にも頼らず、一人きりで…。
今日は、たまたま冬樹が訪れている時だったから良かったものの、もしも誰もいない時であったら人知れず倒れていても気付かれることさえないのだ。
それを考えたら『怖い』…と思った。
(まぁ今日は…俺も、もともと来るつもりでいたから大丈夫だっただろうけど…)
でも、今のように夏樹が深く眠ってしまっていたら、連絡さえ付かずにきっとヤキモキしていたことだろう。
(――せめて、野崎の家に戻ってくればいいのに…)
それは、いつでも思うことだった。
今は誰も住んでいない夏樹達の実家。
確かに一人で住むには大き過ぎるのかも知れない。
だが、あの家に戻ってくれば自分は隣に住んでいるのだし、何かあってもすぐに駆けつけることが出来る。
すぐに会いに行けるのだ。
昔そうしたように、二階の窓越しに会話をすることだって出来る。
少なくとも今よりは会える頻度が確実に多くなる筈なのだ。
(あの家は、以前おじさんのデータを狙って悪い奴らが出入りしていたから、鍵は全て取り替えなくてはならないだろうけど…)
それでも、こんな所で一人寂しく暮らすよりは全然良いと思う。
雅耶は、眠っている夏樹に視線を向けた。
僅かに頬に掛かった髪をそっと除ける。
未だ目を覚ます様子はない、夏樹。
指先を掠めたそのすべらかな肌は、やはり普段とは違う熱さを持っていた。
(心配なんだよ…。お前のことが…)
愛おしくて愛おしくて、堪らない存在。
出来ることなら、いつだって自分の近くに置いておきたいと思う。
だが、思い出が一杯のあの家に一人で住むことによって夏樹が余計な寂しさを感じてしまうのなら、それこそ無理などさせたくはなくて。
(…複雑だよな。本当なら、冬樹がこっちに戻って来て、兄妹仲良くあの家に住むのが一番ベストだと思うんだけどな…)
先程の別れ際の冬樹を思い出す。
(あの様子だと、こっちに戻って来る気はないのかもな…)
『今は…雅耶がなっちゃんの隣にいてくれるでしょう?』
そう言って微笑んでいた冬樹。
一見、自分のことを認めてくれている感じではある。
だが――…。
(夏樹には絶対、聞かせられない言葉だよな…。冬樹のヤツ…。俺と冬樹とでは立ち位置が全然違うのに…)
冬樹の残したあの一言が『昔とは違うんだ』と切り捨てられてしまったような感じがして、雅耶の心に小さな傷を残していた。




