‐2‐ かけがえのない時間
冬樹は部屋へと一歩入った所で足を止めると、室内を眺めた。
洋室一間のアパート。広さは六畳位だろうか。
家具はベッドと本棚、そして小さなカラーボックスがあるのみで、余計な物のないシンプルな部屋だった。
例え兄妹と言えども、年頃の女の子の部屋に上がること自体初めてだった冬樹は、内心では少しだけ緊張していたのだけれど。
その、あまりにも女の子らしさの欠片もない、本当に飾り気のない部屋に一瞬目を丸くした。
(でも、そうか…。そうだよね。ついこの前までなっちゃんは男として生活してきたから…)
そこに今までの夏樹の苦労を垣間見たような気がして、冬樹は何だか切なくなった。
そして部屋の中央には、折り畳み式の小さなテーブルが一つ置いてあった。
(…ここで一人で食事して…。勉強もここでしてるのかな?)
そんな彼女の姿を想像して、再び心を痛める。
「ふゆちゃん…?」
呆然と立ち尽くしているのを不思議に思ったらしい夏樹に声を掛けられ、
「ああ、ごめんね。一応女の子の部屋だし入るの緊張して…」
そう笑いながら振り返ると。
だが、夏樹はきょとんとした表情を見せた。
「…そういうもの?」
「え…?うーん…。普通は…そう、かな?雅耶とか緊張してなかった?」
思わず浮かんだ幼馴染みの名前をそのまま出すと、夏樹が顔を真っ赤に染めて反応した。
「なっ…何で急に雅耶が出てくるのっ?」
その慌てようが可愛くて何だか微笑ましくて、冬樹は思わず小さく吹き出して笑った。
(…相変わらず、なっちゃんは判りやすいな…)
そんな昔と変わらない所が、妙に嬉しく感じる。
くすくす笑っている冬樹に、夏樹は少しだけ頬を膨らませると、照れ隠しのように「ほら、いつまでも笑ってないで座ってよね」と奥へ行くように急かした。
「はーい。お邪魔しまーす」
冬樹は素直に言うことを聞いて、テーブルの横に座ることにした。
八年という長い期間会えずにいたのに、その年月を感じさせないお互いのやり取りに、冬樹も夏樹も…二人ともが何処か安心して。
そして、救われる想いがした。
「ごめんね、座布団も何もなくって…」
冬樹が座ると、夏樹がカップを二つ乗せたトレーを運びながら申し訳なさそうに部屋に入って来た。
「そんなの全然平気だよ。僕こそ、お休みの所突然お邪魔しちゃってごめんね?何か予定とかあったんじゃない?」
連絡も入れずに訪れたことを詫びると、夏樹はゆっくりと首を振って微笑みを浮かべた。
「ううん、平気。もともと今日は家でゆっくりしてるつもりだったんだ」
そう言って冬樹の前にカフェオレの入ったカップを置いた。
「ふゆちゃん、これ好きだったよね?」
「あ…うん。ありがとう」
例の事件の解決後、僅かな日数ながらも手続き等の関係で一緒に行動を共にしていた期間中に、自分がよくカフェオレを飲んでいたことを覚えてくれていたようだ。
そんな小さな心遣いに、胸が温かくなる。
だが――…。
(――あれ…?)
何処か違和感を覚える。
「ねぇ、なっちゃん。もしかして…どこか調子悪い?」
何気ない動作の中に、ふと引っ掛かりを感じた。
そんな冬樹の言葉に、夏樹は驚いた表情を見せると。
「確かに足は痛めてるけど…。よく分かったね?もう痛みは引いてるし、普通に歩けてるつもりだったんだけど…」
そう言って、昨日足を痛めたことを話してくれた。
足を痛めていることには、当然気付いていた。
だが、それよりも冬樹が気になったのは…。
「そうだったんだ…。でも、痛みが治って来てるんなら捻挫が原因って訳でもないのかな…」
冬樹は、目の前でホットミルクが入ったカップに手を伸ばしている夏樹を眺めながら言った。
「え…?原因って…?」
「稀に捻挫が原因で熱が出ることもあるらしいんだ。でも、そんなに酷くなさそうだし大丈夫かなって」
夏樹は言っている意味が解らないらしく、きょとんとしている。
(…これは、自分でも分かってない感じだよな。まぁ…なっちゃんらしいけど…)
冬樹は苦笑を浮かべた。
「なっちゃん…熱あるでしょう?」
「え…?」
「『熱』…だよ」
「…へ…?」
「ちょっと、ごめんね?」
一応断りを入れて、冬樹は呆然としている夏樹の額にそっと手を寄せた。
その額は、思っていたよりもかなり熱かった。
「かなり高そうだよっ?寝てなきゃ駄目じゃないっ」
もう片方の手を自分の額に当てながら比べていた冬樹が、その熱さに思わず身を乗り出して言った。
だが当の本人は、のんびりと温めたミルクを飲んでほんわかしている。
「そうかな?まぁ…大丈夫だよ。今日はバイトも入ってないし…」
「あのね…。バイトないなら余計に寝てられるでしょう?本当に高めだよ?とりあえず熱計ってみてよ。…体温計はどこ?」
冬樹は立ち上がると、救急箱等がないか探す。
だが、それらしきものは見当たらなかった。
(独り暮らしで救急箱も何も…普通はないか?)
とりあえず、本人に聞いた方が早い。
「ね、なっちゃん?体温計はどこにあるの?」
夏樹を振り返ると、座ったまま、きょとんと見上げている。
「…体温計?」
「うん」
「…そんなのナイけど?」
「………」
「……?」
その数分後には、夏樹は冬樹に強引にベッドへと押し込められてしまっていた。
「これ位全然平気なのに…。ふゆちゃん、心配性だ…」
未だに不服そうに。まるで子どものように軽く口を尖らせている夏樹に、冬樹は苦笑した。
「なっちゃんが気にしなさ過ぎなんだよ。具合悪いの分かったら放って置ける訳ないでしょう?ちゃんと寝てなきゃ駄目」
体温計がない以上はハッキリとは判らないけれど、かなり高い筈だ。38度は超えているかも知れない。
「でも、体温計も何もないままで…。今まで具合悪くなったりしなかったの?」
聞けば、薬さえもこの家には一つも置いてないという。
冬樹は、とりあえず今出来ることとしてタオルを一枚借りると、それを水に浸し夏樹の額の上に乗せた。
夏樹は「冷たい…」とか言いながらも、冬樹の質問には曖昧な笑顔を浮かべるだけだった。
「病院行った方が良いのかも…」
丁度熱が上がり始めていたところだったのだろうか。
僅かに呼吸が早くなってきている夏樹を見下ろしながら、冬樹が漏らした呟きに。
「病院なんかいいよ。こんなの何てことない」
と、夏樹は反論した。
見上げてくる瞳が「行きたくない」と意思を伝えてくる。
その昔の面影が残る夏樹の表情に思わず苦笑を浮かべた。
だが、一人でいて動けなくなる程悪化してからでは遅いと思うのだ。
自分は、ずっと傍に居てあげられる訳ではないから…。
だが、夏樹が切なげに見上げてくる。
「折角、ふゆちゃんが来てくれたのに…病院なんか行ってたら時間がなくなっちゃう」
「…なっちゃん…」
「並木さんから連絡…来るんでしょう?それまでは…。ゆっくり、ふゆちゃんともっと話がしたいよ…」
寂しげな瞳。
その瞳の色に負けて、冬樹は小さく息を吐くと。
「うん…。そうだね…」
頷いてベッドの傍へと腰を下ろした。
二人は取り留めのない話を沢山した。
今まで離れていた時間を少しでも共有するかのように…。
話しをしている間にも、夏樹の熱は上がっていっている感じで、あまりにも辛そうなので「眠れそうなら寝ちゃって良いよ」と声を掛けた。
「ありがと…。ふゆちゃんも気にしないで、連絡来たら行っていいからね…」
そう言って夏樹は、最後まで自分の心配ばかりをしていた。
今は苦しげに。だが規則的な呼吸を繰り返して眠っている夏樹をそっと見下ろす。
自分はもうすぐ、行かなくてはならない。
鍵を開けっ放しで行ってもいいという夏樹に、流石にそれは不用心だということで、このアパートの鍵を預かった。
自分が出る時に鍵を掛け、ドアに設置されている新聞受けへと鍵を戻しておくことにしたのだ。
だが、具合の悪い夏樹を一人置いて行くことに、流石に後ろ髪を引かれる想いがする。
(僕は、なっちゃんに兄らしいこと、何もしてあげられてないな…)
自嘲気味に溜息をひとつ吐いた時。
ベッドの端に置いてあった夏樹の携帯が突然鳴り始めた。
やっと眠った夏樹を起こしてしまわないように、冬樹はすぐにそれを手に取った。
勿論、勝手に開く気などなかったが、少しでも音を抑えようとしたのだ。
だが、携帯には見慣れた名前が表示されていた。
「…雅耶…?」




