#8 沈む記憶
--僕の住んでいる町には池があったんだ。水面がとても綺麗で、離れた場所から池を見ていた。でもある日、新しいカメラをもらった僕は、近くから池を撮ろうとしたんだ。そして、足を滑らせて落ちた。僕は泳げない。水底の藻が、僕の足を掴む。もがけばもがくほど、僕は底に沈んでいった。息が苦しい。口の中に入った水が、僕の肺を満たす。僕の体も、意識も沈む。全身の力が抜けて、僕は何もない世界に沈んでいく。水底が大きな口を開けて飲み込もうとする。まるで怪物が久しぶりの獲物に喜び、大口を開けるように。全身が水中へと溶けていく。
誰かの手が、ボクの目の前に差し出された。あの手を掴まないと。無意識のうちにボクはその手を握りしめる。そうすると、ボクは一気に光の中へと引き上げられた。
「大丈夫?」
誰かがボクの肩を叩く。ボクは水を吐き出して荒い呼吸をする。肩を小刻みに震わせながら、ボクは声の主の顔を見た。あの子だ。箱庭で会った女の子だ。名前は確か、フィンデルって言ったっけ。フィンデルはボクの胸に手を当てる。ひどく冷たい手だ。
「心を落ち着けて。そうすれば波も穏やかになるよ」
フィンデルの息遣いに合わせて、ボクも呼吸をする。胸が温かくなり、ざわつく心も鎮まる。同時に水面も凪いで、水位が下がっていった。
「よかったわ。この水の庭は、迷い込んだ人が戸惑えば戸惑うほど、その形を変えていくの」
フィンデルが手を離すと、ボクの胸からハートが浮かび上がる。ハートは淡い光を纏いながら脈動した。
「探し物は、どうやら見つかったみたいね」
フィンデルはボクの手を開かせる。そこには、一枚の写真があった。いつの間にかボクは写真を手に入れていたんだ。ボクは写真を覗く。古ぼけてよく見えないが、二人の人影が海辺で並んでいた。二人は手を繋ぎ、なんだか楽しそうだ。海辺を映したその写真を見ていると、穏やかな波音が聞こえてくるような気がする。すごく安心する音だ。
「■■■■! どこにいるの?」
ルーソがボクを呼んでいる。その声を聞くと、フィンデルは安心したようにボクから離れていく。待って! 君は誰なんだ? どうしてボクを助けてくれたんだ? もっと君のことを知りたい。頭の中で渦巻く言葉は、ボクの口からは出てこなかった。
「大丈夫よ。君の記憶はいつかきっと戻る。そんな心配そうな顔をしないで」
フィンデルはそう言って、水の壁に吸い込まれるように消えていった。ルーソはボクの姿を見つけるなり、水に濡れるのもお構いなしに走る。ルーソは大きな手でボクを力一杯抱きしめた。
「■■■■、よかったぁ。またいなくなっちゃったかと思ったよ」
ルーソは濡れたボクの頭を撫でる。自分の毛が濡れるのも構わずに。緑色の瞳を潤ませるルーソを見ていると、ボクの胸が締め付けられた。
「お前は昔、溺れたことがあるんだから、無茶すんなよ」
ウィルが後から来る。びしょびしょになったフードをボクから取り上げ、バサバサとはたく。
「でも、お望みの品は見つけたみたいだな」
ウィルがボクの手の中にある物に目をやる。写真は無意識に握りしめられ、若干ひしゃげていた。ルーソは興味津々に写真に鼻を近づける。
「いい匂い。磯の香りがするよ」
「おい、みっともねぇぞ。人のモン、クンクン嗅ぐんじゃねぇ」
ウィルがルーソの鼻を押し除ける。ルーソはしばらく残り香に浸っていた。
「いるんだろ? 泣き虫野郎。早く出てきな」
ウィルが水の壁を叩くと、ロスローが現れた。ボクはロスローに写真を渡す。涙の残る瞳で、ロスローはしばらく写真を見ていた。あの瞳ごしには、写真の中の世界はどう映っているのだろう? 写真を吟味するなり、ロスローは大粒の涙を溢した。
「うわぁーん! ありがとう! この写真が見つかってなかったら、私……私……!」
ロスローの泣き声が、庭の水路を歪める。ウィルは苛立ち、ロスローの口を塞いだ。
「いちいち泣くな。写真は見つかったんだ。それでいいだろ」
ロスローも驚き、涙を引っ込める。その瞬間、庭に日が差し、水が引いていった。壁がなくなり、屋敷の入り口が現れる。今まで不鮮明だったロスローの目が露わになった。丸い緑色の瞳は、雨粒のようだ。
「う……うん。ありがとう、お兄ちゃん」
泣き顔が笑顔に変わったロスローは、写真を握りしめる。
「屋敷はもう目の前だ。行くぞ」
ウィルはフードを被り直し、屋敷の入り口へ向かう。ボクも濡れた髪を拭い、歩みを進める。
だけど、なぜロスローは自分が映っていない写真を大切だと言っていたのだろう。




