#15 いつも側に
目を覚ますと、僕は病室のベッドの上にいた。心電図の機械音に包まれ、淡い蛍光灯の光が僕を照らす。僕はゆっくり起き上がり、自分の手を見た。ボクの手はガントレットの代わりに、包帯が巻かれている。足のグリーブも包帯に変わっていた。シャツとズボンの代わりに、薄い青緑色の病衣を纏っている。
「おお、目が覚めたんだね」
病室にお医者さんが入ってきた。山羊のような白い顎髭を撫でながら、先生は僕の顔を覗き込む。
「脈が弱くなっていたから、一時はどうなるかと思ったよ」
先生は僕の手首に指を当てる。先生の冷たい指に当てられて、脈は驚いたように動く。先生はしばらくその様子を見ていたけれど、安堵したように息を吐いて僕の腕に巻かれた機械を外した。
「先生……僕は……」
「君はこの病院の屋上から飛び降りてしまったんだよ。全身を打って意識を失ってね。回復がもう少し遅かったら死んでしまうところだったんだよ」
先生は僕が次に喋る言葉に気づいたのか、事の顛末を語る。意識を失っていたのか、僕は。箱庭の中で過ごした時間が、ひどく長く感じられた。
「どうして飛び降りたんだい?」
「…………」
先生の声のトーンが一段と暗く落ちる。僕は俯いて、何も答えることができなかった。
工場の爆発事故で、僕も頭を打って病院に運ばれた。頭に包帯を巻かれ、混濁した意識の中、僕は彼女の姿を見た。担架に乗せられ、動かない彼女の姿を。血の滲んだ白い布を被せられた顔を見て、僕は居ても立っても居られなくなったんだ。痛む頭を押さえながら、僕は病室を抜け出し、屋上目掛けて階段を駆け上がった。屋上の柵を乗り越え、僕は迷うこともなく空中に身を放り出したんだ。彼女のいない世界から消えてしまいたい。そんな思いに背中を押されながら。
先生は固く閉じられた僕の口元を見ている。けれど、僕が口を開きそうにもない様子を見て、ゆっくり立ち上がった。
「……君が言いたくないのなら、これ以上は聞かないよ。ただ、あの高さから落ちて打撲で済んでいるのは奇跡に等しい。その命は大切にするんだよ」
先生は部屋を出ようとドアを開けかけて、何かを思い出したように僕に振り返った。
「そうだ、窓に君のお客さんが来ているんだ。会いに行ってあげたほうがいいよ」
そう言い残すと先生は部屋を出る。僕はしばらく、夢遊病のように部屋の中を歩き回った。床に自分の足の裏が張り付くような音だけが聞こえる。その時、カリカリと窓を引っ掻く音が、僕の足音をかき消した。僕が窓を開けると、そこには一匹の大きな黒猫がいる。黒猫は僕の顔を見るなり、僕に飛びついた。僕は仰け反り、その場で尻餅をつく。黒猫は緑がかった黄色い瞳を潤ませ、僕に目一杯頬擦りをした。
「ルーソ…………いや、メラニィ」
メラニィ、秘密の隠れ家で僕が拾った猫だ。あの事故の後も、病院まで着いてきて僕のことを心配してくれてたんだ。爪を立てないように、恐る恐る僕の胸元に前足を乗せた。勢いあまって、僕は棚に手をぶつける。メラニィは毛を逆立て、申し訳なさそうに赤くなった僕の手を舐めた。
「大丈夫だよ。ありがとう、心配してくれてたんだね」
僕はメラニィの頭を撫でる。メラニィは心地良さそうに喉を鳴らした。メラニィを撫でていると、僕は棚から何かが落ちた事に気づく。落ちた物を拾い上げると、それは人形だった。縫い目だらけで不恰好だったけど、白いマントを羽織り、片眼に眼帯を付けていて、ヒーローみたいだ。
「ウィル……いや、ブランシュ……」
僕はブランシュを手に取り、埃を落とした。ブランシュはもう話しかけたり、動いたりしなかった。ただ、その口元は僅かに微笑んでいるようにも見えた。僕はブランシュが入っていた棚の箱に目をやる。箱の中にはあの世界の物が詰まっていた。騎士の格好をした怪獣のブリキ人形。海で彼女と撮った写真。彼女と一緒に買ったアルバム本。箱庭がそこにはあった。
いつのまにかメラニィが僕の頬を心配そうに舐めていた。僕は頬に手を当てた。泣いてたんだ、僕。僕はメラニィを撫でながら、箱の中を眺めた。ふと、窓を見上げると白いカーテンが風ではためいている。その隙間から、彼女が笑ってくれたような気がした。
僕は再び屋上に出て、外を眺めた。街があった場所には大きなクレーターができていて、僕が知っているものは何もない。だけど、僕は飛び降りる為にここに来たわけじゃなかった。今、僕の隣にはメラニィがいる。ブランシュがいる。そして、僕の記憶には彼女の笑顔があった。街の人の分も、彼女の分も、僕は生きなくちゃいけない。箱庭がなくても、僕の大切な存在は、いつもすぐ側にいてくれた。
ありがとう。彼の結末を見届けてくれて。君のおかげで彼を救うことができたよ。これで、この世界も救われた。
さあ、もう君も帰る時間だ。長話に付き合ってくれてありがとう。いつかまた、会える日を楽しみにしているよ。そのいつかはまだ遠い話になりそうだけどね。




