#10 ■■がいた世界
--そこには何もなかったし、誰もいなかった。
光が収まると、ボクはたった一人でいた。ルーソとウィルはいない。ボクは二人を呼ぼうとしたけど、相変わらず声は出なかった。胸がしんと冷たくなるのを感じる。
周りに広がるのは、箱庭のような灰色の世界だった。けれども、建物も人も誰もいない。微かに焦げ臭い匂いが漂うだけだ。この匂いを嗅いでいると、激しい吐き気が込み上げた。だけど、吐き出すこともできずに余計に気持ちが悪くなる。お腹を押さえながら、ボクは何もない空間を歩いた。所々に灰の塊と、黒く塗り潰された床が広がる。生暖かい空気が、頬に張り付く。ここに居たくない。灰の塊はずっと見ていると、人影にも見えるような気がした。まるでボクを見ているような。床の黒いシミも、段々ボクに手を伸ばすように広がるような気がした。ルーソ、ウィル。助けて! 見つかるはずのない出口を、ボクは歩いていた。
足取りが重くなった時、ボクの前に誰かがいた。黒い人影が、紙切れのようなものを持っている。息を切らしていたボクは、その人影が誰でもよくなっていた。とにかくここから連れ出してほしい。ボクが人影に近づくと、人影は力無く倒れてしまった。大丈夫!? しっかりして! その言葉は声にならなかった。ボクはその人影を揺することしかできなかった。人影が揺れる度に、その体は灰のように朽ちていく。人影はぼろぼろの手で、ボクに紙切れを渡した。ボクは紙切れを受け取るけど、首を振って人影を揺すり続けた。この人影が誰なのかはボクには分からない。だけど、生きていて欲しい。そう思い続けていた。
--僕だけがそこにいた。みんないなくなった。何もなくなった。
--僕もいなくなればよかったんだ。
--僕はいつも彼女とここで遊んだ。ここは僕と彼女との秘密の場所。十五時の鐘が鳴ったら、僕は彼女と会う為にここに来たんだ。
気がついたら人影はいなくなって、ボクは別の場所にいた。ドラム缶が敷き詰められた隙間から、外の暖かい光が差し込んでくる。埃っぽい金属の匂いが鼻に充満した。工場の中のようだ。柔らかな光に彩られた工場は、先程とは打って変わってなんだか落ち着く。座る用の木箱と、作業台が無造作に置かれている。大きさからして、子供用だろう。ドラム缶の側に置かれた段ボールは、おもちゃで溢れていた。ボクはおもちゃ達を手に取る。怪獣とヒーローの人形に、ヨーヨー。カメラも入っていた。ふと、おもちゃに挟まっている紙片を手に取る。何も書いていない、またあの本のページだ。
「落ち着くでしょ? ここ」
後ろから聞き覚えのある声がして、ボクは振り返った。フィンデルが外の光に照らされている。光の屈折が、フィンデルの髪を紫色に彩った。見知った相手に、ボクは胸を撫で下ろす。
「ここは私とあなたしか知らない秘密基地よ」
フィンデルの言葉に、ボクは首を横に振る。ボクはこんな場所知らない。こんな場所初めて来るよ。ボクの様子を見て、フィンデルはいきなりボクの手を取った。
「安心して。君はずっとここにいれば安全だよ。大丈夫、全部上手くいく」
フィンデルの体に巻かれた包帯が、ボクの手足を縛り付けた。フィンデルの言葉が頭の中で反響し続ける。包帯はボクの身体を覆い、首を覆い、最後に目を覆っていく。離して。本能が叫び、動けない手足を動かそうとした。苦しい。包帯に首を絞められ、意識が遠のいていく。途切れ途切れの意識で見た彼女の最後の顔は、崩れ落ちて二つの目玉だけがはっきり見えていた。
--彼女を見たのはあれが最後だ。僕の大切な物は、僕の場所ごとなくなった。
--彼女と会ったのはあの時だ。孤児院でひとりぼっちの僕に、いつも彼女は話しかけてきてくれた。
目を覚ますと、ボクは白い部屋のベッドに寝ていた。綺麗に整頓されている机に、白い服が規則正しく入っているクローゼット。箱庭の孤児院みたいだ。一つ違うのは、窓の外から覗く空は、澱みない水色だった。ボクは安心すると同時に、奇妙な違和感を感じる。
「■■■■。あなたの大好きなオムレツができたわよ」
下の階からマーテルさんの声が聞こえてくる。ボクはベッドから降りて、部屋を出ようとした。
「行っちゃダメよ。■■■■」
いつの間にかボクの後ろにフィンデルが立っていた。暗いトーンでボクを諭し、身体中の包帯が揺らめいている。また、包帯がほどけて恐ろしい彼女の姿になるかもしれない。ボクは怖くなって部屋を飛び出した。
下の階に降りようとすると、インクで塗りつぶされたような暗闇が広がっていた。暗闇は階段を侵蝕し、ボクを引き摺り込もうとする。後退りしようとすると、ボクのすぐ後ろにフィンデルが近づいてきていた。フィンデルの長い髪が、ボクの頭の上で揺れる。
「■■■■。早くしないとオムレツが冷めちゃうよ」
「■■■■。ぐずぐずするなよ」
聞き覚えのある友人の声が、闇の中から聞こえてくる。ボクは無意識のうちに階段を一歩降りた。友達の声は何度もボクを呼び続ける。■■■■。■■■■。ノイズがかかって聞き取りづらいけど、確かにボクの名前だ。だけど、ボクの名前を呼んでいるはずなのに、どうして頭が割れそうに痛いのだろう。
「ダメよ! ■■■■!」
フィンデルの声に押されて、ボクは階段から飛び降りた。どこまでも続く暗闇の穴の中を、ボクは落ちていく。友達の声も、フィンデルの声も、もうボクを追いかけることはなかった。無音の暗闇の中、ボクの心臓の鼓動の音だけが大きくなる。思い出した。以前もボクはこうして落ちていったんだ。
暗闇の中に、一枚のページが浮かぶ。汚れ一つない、新しいページだ。ボクは縋る思いで、ページに手を伸ばした。
--彼女は僕の世界だった。彼女がいたから、灰色だった僕の世界は彩られたんだ。
気がつくと、ボクは白い部屋にいた。白いけれども、孤児院とは違う雰囲気だ。薬臭くて、冷たい電子音が一定のリズムを刻んでいる。部屋の中央にはベッドが一つだけあった。窓一つない閉じ込められた空間の中には、ボクと、フィンデルがいる。
「ここまで来ちゃったんだね。■■■■」
さっきまでとは違う、悲しげな口調だ。ボクは冷めきっていない悪夢に引き戻された。部屋の隅に後退り、ベッドの前に立つフィンデルから距離を取る。
「怖がる必要はないわ。私は君の味方だよ」
フィンデルはボクの胸に手を当てる。冷たいけど、柔らかな手つきだ。すると、ボクの胸のハートは赤く輝いた。フィンデルは静かにゆっくりとボクに息を吸わせる。ボクが呼吸をするたびに、鼓動は落ち着いていく。気持ちが落ち着くと、部屋の輪郭が鮮明になった。
「ここは最後のページの中よ。この本の世界は、随分前にバラバラになっちゃったの」
フィンデルは一枚の紙片を取り出す。くしゃくしゃになった紙には、何も書かれていない。フィンデルは紙片を丁寧に伸ばし、ボクに手渡した。
「君がここまで来てくれたから、このページを渡すことができたわ」
フィンデルが微笑む。ボクはベッドの方に目をやった。ベッドには黒い人影が横たわっている。あれは誰だろう。
「これで、この人もいつか目を覚ましてくれるわ」
黒い人影は表情も寝息もなかった。動きもない。フィンデルは人影の顔をそっと撫でる。その様子を見ていると、ボクの頬も火照った。
「さあ、友達が待ってるわ。君はこの本を読み終えるのよ」
フィンデルがボクに手をかざすと、ボクの持っていた四つの紙片が全て浮かび上がった。紙片の順番が入れ替わり、一つの本を作り出す。すると、眩い光が部屋を多い、フィンデルと人影をかき消した。待って! ボクはまだ君のことを知らない。君は一体誰なんだ?フィンデルが消えようとすると、ボクの胸はひどくざわついた。
ーー彼女と会ったのはあの時だ。孤児院でひとりぼっちの僕に、いつも彼女は話しかけてきてくれた。
彼女は僕の世界だった。彼女がいたから、灰色だった僕の世界は彩られたんだ。
--僕はいつも彼女とここで遊んだ。ここは僕と彼女との秘密の場所。十五時の鐘が鳴ったら、僕は彼女と会う為にここに来たんだ。
彼女を見たのはあれが最後だ。僕の大切な物は、僕の場所ごとなくなった。
--そこには何もなかったし、誰もいなかった。
僕だけがそこにいた。みんないなくなった。何もなくなった。
--僕もいなくなればよかったんだ。
気がつくと、ボクは一冊の本を持ったまま立っていた。ボクの目の前にはルーソとウィルがいる。二人とも心配そうな様子で、ボクの顔を覗き込んでいた。
「大丈夫? ■■■■、いきなりいなくなっちゃったんだよ」
「趣味が悪いぞ。司書官」
ウィルが毒づく。面白くなさそうに、本棚を睨みつけた。
「そんな事言わないでくださいな。結構楽しんでいただけたでしょう?」
本棚の隙間からセペラールが出てくる。弾むような調子のセペラールに、ウィルは舌打ちをした。
「たった今、アドレム様が戻られましたよ。客人にぜひ会いたいとおっしゃっておりました」
セペラールが指を鳴らすと、奥の扉が開く。
「僕のちょっとした余興に付き合っていただき、ありがとうございます。さあ、さあ、アドレム様はこちらの階段を登った奥の部屋にいらっしゃいますよ」
セペラールはボクの持っている本を手に取る。ボクはセペラールに軽く会釈をして、奥の扉へと歩き始めた。ルーソとウィルも躊躇いがちに奥へと進む。
なぜ、セペラールはボクだけにあの本を読ませたのだろう? 他の二人には見せないで、なぜボクだけなんだ?




