第1章 やっぱり猫だった
目が覚めたら、異世界だった。――しかも、猫として。
死ぬ直前、「もし次があるなら、気楽な黒猫にでも生まれ変わりたいな」なんて場違いなことを願ってしまったからだろうか。
元の世界のアニメや小説なら、今頃まばゆい空間で神様のような存在から事情説明を受け、チートな固有能力の一つでも授かっているはずだった。だが、そんな都合の良いイベントは一切ない。説明も、能力も、何もない。
俺は、ただの「黒猫」になっていた。
正確にいえば、俺の知っている一般的な黒猫の容姿とは少し違っている。やはり、ここは異世界なのだ。
毛足は不自然なほど長く、身体のサイズがやたらとデカい。日本の一般的な野良猫どころか、柴犬くらいの質量がある。言うなれば、漆黒の毛並みをした「マヌルネコ」だ。
この世界に放り出された当初は、本気で途方に暮れた。野良猫としての生き方など、元人間の俺が知るわけもない。猫好きではあったが、ただ愛でていただけの一般人だ。生態系の研究者ではないのだから。
それから一週間。ゴミを漁り、泥水をすすり、なんとか生き延びてきた。元人間としてのプライドを粉々に砕かれる屈辱的な日々だったが、そんな泥臭い努力も虚しく、このデカい図体を満足させられるほどの栄養は到底得られなかった。
おまけに地元の先住猫たちからは縄張りを荒らす異分子として追い回され、まともな食事にもありつけない。
(……気持ち悪い。なんだか、視界がフラフラする)
前の人生でも、時々仕事にのめり込みすぎて低血糖を起こしたことがあった。まさに、今がその状態だ。猫も人間も、飢餓状態になれば同じ症状になるんだな――なんて、急速に薄れゆく意識の隅っこで、妙に冷静なことを考えている。
あれ……。そういえば俺、前の人生でなんで死んだんだっけ。
ダメだ、思い出せない。
ここで終わりか。脳裏を駆け巡るのは、異世界に来てからのたった一週間の、泥塗れで屈辱的だった走馬灯。
(……あの一角の、飯屋の裏に落ちてた残飯、美味かったな……)
重たい瞼が、ゆっくりと閉じていく。冷たい地面に横たわる俺の意識は、そのまま深い闇へと沈んでいった。
目が覚めた。
「また別の世界に生まれ変わったか?」と淡い期待を抱いて自分の身体を見下ろしたが、相変わらず漆黒のモフモフした毛並みが広がっている。猫のままだ。ガッカリしながら、重い頭を巡らせて周囲を見渡す。
どうやら、天幕のような場所に寝かされているらしい。見知らぬ場所に放り出された不安から、あちこちを嗅ぎ回って安全を確かめたい衝動に駆られるが、いかんせん身体がだるくて動く気が起きない。
……って、嗅ぎ回りたいだと!?
何を本物の猫みたいなことを考えているんだ、俺は!
自分の思考に戦慄し、落ち着こうとして無意識に手を舐め、腕を舐め、後ろ足で耳の後ろをガシガシと掻いてみる。うん、余計に猫っぽさが増しただけだった。
(ばさっ、ごそごそ)
天幕の入り口が揺れ、誰かが入ってきた。俺はとっさに身構え、いつでも逃げ出せるよう残った力を四肢に込める。
『……気がついたか。逃げんでもよい、安心しろ。お前の敵ではない。道端で行き倒れていたゆえ保護したまでだ。取って食おうとは思っておらんよ。ハハハ、すっかり猫が板についているではないか』
声が、頭の中に直接響いた。どうやら助けてくれたらしい。
物言いは妙に老成しておっさん臭いが、目の前にいる主の年齢がまるで掴めない。20代のようにも、30代のようにも見える。いや、10代の少女のような瑞々しさもあるし、40代の包容力もあるように見えた。
とにかく不思議な魅力がある女だ。綺麗だが、同時にひどく可愛らしい。全体的な印象がカメレオンのように変化するため、もし警察に「モンタージュを作れ」と言われても絶対に再現できない自信がある。というか、そもそもモンタージュってなんだっけ。俺の記憶の引き出しが、また少し軋んだ。
あれ……? それより、なぜ言葉が理解できるんだ?
女の唇は微塵も動いていなかったはずだ。この一週間、街の人間たちに追い立てられた時は、奴らが何を喚いているのかさっぱり分からなかったのに。
『……なんだ、お前は思念が上手く使えないのか? お前の頭の中でぐるぐると回っている思考がダダ漏れで、うるさくて敵わん。私の目を見ろ。眉間に意識を集中させ、伝えたいことだけを絞り出すようにしてみるのだ』
ええええぇ、思念!? 超能力か、それとも魔法か!?
異世界に来て初めて遭遇したファンタジー要素に、俺の心が跳ね上がる。そういえばこの女、深紅のフード付きローブなんていう、いかにもな格好をしている。やっぱり魔法使いなのか?
『お前、本当に記憶が飛んでいるのだな。魔法などという低級な技術と一緒にするな。我ら魔族は魔力の正当なる使い手であり、誇り高き種族ぞ』
……嘘だろ。俺、魔族だったの? しかも猫?
人間に「害獣」として狩られる側に転生しちまってるじゃないか!
*
女の名は「クワァンリ」というらしい。
お返しに俺も名乗ろうとしたのだが、どうしても自分の名前が浮かんでこなかった。それどころか、前世の記憶は虫食いのように不自然に欠落している。もちろん、今世の「魔族」としての記憶や常識は完全にゼロだ。
仕方がないので、クワァンリに新しく名前をつけてもらうことにした。
「ノル」
彼女がくれた名前だ。古代魔族語で『黒』という意味らしい。要するに「クロ」だ。安直だが、悪くない。
クワァンリの説明によると、今の俺の状態は「獣落ち(けものおち)」という現象らしい。魔族の一部は、身に危険が迫ると精神を獣の器へと逃がし、身体能力を爆発的に強化して窮地を脱するのだという。
俺の本来の姿は「山猫族」らしいが、世間には狼や猛禽類など、様々な獣落ちの種族がいる。なかでも犬や猫の種族は、魔族の人口の大部分を占めているそうだ。
「人型に戻る方法はあるのか?」と思念で尋ねると、クワァンリは頷いた。一瞬だけ歓喜したが、続く言葉にすぐさま奈落へ突き落とされる。
人型に戻る術は秘匿性が高く、本人か、あるいは同種族の者しか知らない。他種族に明かすことは絶対にないのだという。
したがって、俺が人間の姿に戻るためには、どこかにいる「山猫族」の生き残りを見つけ出し、戻り方の教えを請わなければならない。クワァンリから「普通の猫族では駄目だ」と念を押されたのは言うまでもない。山猫と家猫は、魔族の社会では明確に違うらしい。
ちなみにクワァンリは何の種族なのか? と気になって質問してみた。
すると、彼女はそれまでの堂々とした態度から一転、借りてきた猫のように縮こまり、
「と……蜥蜴だ……」
と、顔を真っ赤にして蚊の鳴くような声で言った。
強大な魔族のくせに、トカゲなのを気にしているらしい。不覚にも、ちょっと可愛いと思ってしまった。
『……ッ!』
あ、しまった。思念が漏れていた。クワァンリはさらに顔を林檎のように真っ赤に染め、俺をキッと睨みつけてきた。悪気はなかったんだ、許してほしい。
だが、彼女に言われた通り、眉間の少し上のあたりがじんわりと温かくなる感覚――「第三の目」を開くようなイメージを持つことで、思念のコントロールは徐々にコツが掴めてきた。魔力を行使するのも、基本的にはこれと同じ感覚らしい。
もっとも、今の「獣落ち」の身体では大した魔力は使えない。身体強化、自己治癒能力のブースト、五感の増幅。要するに、元から猫が持っている野生のスペックを底上げする程度だ。人型に戻れば、もっと高度な能力が色々と使えるらしい。
不覚にも、胸の奥からワクワクとした感情が湧き上がってくるのを感じていた。
記憶も名前もなく、身体は柴犬サイズの黒マヌルネコ。味方は、強大な魔族のくせにトカゲであることを妙に気にしている、ポンコツ可愛い魔王の娘。
上等じゃないか。この状況が神の悪戯か暇潰しかは知らないが、とことん付き合ってやろうと腹が決まった。
どうせなら、この最悪な状況を楽しんでやる。簡単なイージーゲームより、無理難題だらけの無理ゲーの方が、クリアした時の快感は大きいに決まっている……!
しかし。
まさか猫スタートとはなぁ……。
(……頑張るにゃん、っと)
己のふざけたセリフに内心で盛大にずっこけながら、俺の異世界サバイバル、そして彼女との奇妙な旅が幕を開けた。




