012
夜の隠れ家。
入浴を済ませた俺は服を着替えながら部屋へ戻り薄型電脳端末の電源を入れる。後ろの寝台では寝間着姿のキリアがキキョウの寝顔を嬉しそうに見つめていた。その愛らしい少女の横顔を眺めていたいのだがそうもいかない。提出すべき書類の作成や事前の情報収集は俺の役目だからだ。
端末に記録媒体を差し込み簡潔にこれまでの進捗報告を纏める。
作業と並行して俺は解せない点を頭の中で整理していく。
なぜバルザック社は宝生麻耶の存在をハンコック事務所に隠したのか? なぜ今回に限って宝生麻耶は捕まったのか? なぜ現場に生物兵器の欠陥品を残したのか? なぜアリスとクレアは俺たちを深追いして来ないのか? なぜ黒装束のリノアなる生物兵器はキリアを狙ってきたのか?
いや、違う。
そもそもバルザック社はどうして俺に依頼する必要があった?
この国だけでも優秀な現役情報屋は複数存在する。それどころかバルザック社なら世界一優秀な情報屋を雇えるだろう。いくら政府諜報部からの推薦とはいえ、現役を退いた元情報屋を雇い入れる理由がわからない。
「はあ」
深い溜め息が俺の精神を磨り減らしていく。不意に携帯端末が震動した。気分転換も兼ねて相手の確認もせずに通信を繋げる。
「京介か?」
野太い中年男の声が漏れ聞こえてきた。グリッドである。
「ただいまおかけになった番号は、可愛らしい女性の声しか受け付けておりません」
「ふざけるなら切るぞ? 情報はいらないんだな?」
「な、俺の完璧な音声案内を見破ったのか?」
「とりあえず死ね。そして情報がほしいなら謝罪しろ」
「とりあえず死んだ。そして今、床に額を減り込ませながら謝罪している」
「本当に口の減らない野郎だぜ。まあいい」
電話口でグリッドが咳払いする音が聞こえた。
「不要な説明はなしだ。ララフェルについては京介のほうが詳しいだろうからな」
「前置きはいいから早く教えろよ」
「ララフェルが膨大な研究費をどこから得ていたか知っているか?」
「さあな。裏社会の研究所だから国から予算が出ることはないだろうね」
適当に感想を述べておく。
「妙にララフェルに詳しい連中もそこだけは知らなかった。膨大な収入源を誰も知らない。どう考えても不自然だろ? この方面から探れないかと思ってな」
確かに悪くない案だった。
「探りを入れるべき組織は掴んでいるのか?」
「いや、それに関してはまだわかっていない」
「わかった。とにかく助かったよ」
礼を告げて通信を切る。
電脳端末に視線を戻して結衣から受け取った資料を読み返す。
生物兵器研究所にて世界最高峰の頭脳集団ララフェルが行っていた研究と実験。
主に軍事産業を視野に入れた生物兵器の開発は、DDDウイルスの完成により大きく前進した。しかし人体に多大な影響を与えるウイルスは世界を敵に回してしまった。
ほとんどは概ね俺の知っている情報が羅列されているに過ぎない。
「ふむ……やれやれだ」
俺は開かずの扉を開けて仕事部屋に入る。幻影の第三階位に位置する超高性能電脳端末を起動して電網上の海へ潜入した。あらゆる情報が洪水となって頭の中へ押し寄せてくる。それは人間の脳で処理できる許容範囲を超えた領域だった。しかし幻影と同調している俺は操作というより動作に近い感覚で膨大な情報を取り込んでいく。
電子の海を泳いで目的地を目指した。
ふとハンコック事務所の所有する生物兵器研究所の記録を閲覧すればなにかわかるかもしれないと考えたのである。裏社会にも一般常識が適用されているならば、資金提供に対して費用の内訳を明細あるいは報告書で提出しているはずだ。もしそういった記録が残っていれば「繋がり」が見えてくる可能性がある。
ほとんどの場合、重要な情報は防御壁によって守られている。しかし幻影と同調している俺は頭の中で攻略する必要がない。なぜなら五感すべてを使って防御壁の綻びを探ることができるからだ。そしてそこからこっそりと内部へ侵入する。綻びに亀裂を走らせて防御壁を破壊することもできるが、それは相手を刺激して警戒させるだけなので得策ではない。
複数の防御壁を潜り抜けて情報の保管されている深部へ進む。
「なにをしている?」
その声で現実に引き戻される。
振り向くと寝間着姿のキリアが後ろに立っていた。画面を覗き込みながら興味深そうな表情をしている。両腕の中には眠そうな顔のキキョウが抱かれていた。
「情報収集だよ。防御装置を上手く回避して情報源を目指している途中だった」
俺は立ち上がって恭しく席を譲る。好奇心旺盛な少女はキキョウを抱えたまま着席した。
「解析と処理速度に頼った機械的な作業と違って、こいつを使うと端末と融合して電子の世界へ入り込むことができるんだ。似たような防御壁でも視覚で確かめると製作者それぞれの個性が読み取れる。罠の配置や隙を見破って情報源へ近付くわけで、こうなってくるともう技術力というより心理戦だな。つまり様々な駆け引きを乗り越えなくてはならないわけだ。なかなかに興味深いだろう?」
「そうだね」
奏でるように端末を操作していたキリアの指が止まる。なんと情報処理が終了していた。
「ぽぉ!」
「なぜ奇声を発する?」
「俺の説明を一瞬で無駄にしやがるからだよ」
ともあれキリアが仕事をしてくれるならそれはそれでありがたい。
後ろから指示を出して端末の操作は少女に委ねる。
瞬く間に三十分が経過した。
俺は電脳端末の画面を眺めて唸る。想定していたことだがハンコック事務所への侵入は困難を極めた。黒背景の中に白文字の羅列が表示されている。もっと有体な言い方をすれば暗号だった。ともかくこれを突破しないことにはどうにもない。
「要領は公開鍵暗号と同じだね」
「解けるか?」
ふふんとキリアは鼻先で笑った。それから謎の式を展開する。
「N=P×Qかな。PとQは素数」
「なんだそれは?」
「暗号を解く式だよ」
キキョウを抱いて随分と上機嫌なのに、どういうわけか解答を教えてくれない。
「素数って割り切れない数字のことだよな? ということは……うーん……うーむ……とにかく、さっぱりわからないということだけはわかった」
しばらく悩んだ素振りを見せたあと、俺は正直にわからないことを告げた。少女の視線は胸元のキキョウに注がれている。
「この式を解くには膨大な処理が必要なんだよ。ボクの演算能力を用いても百年以上かかるかもしれないね。キミだと――やるだけ無駄かな」
にこやかに言うなよ。というか、ちょっとはこっちを見なさい。
「せめて数字で表してくれよ。最初から諦めるなんてキリアらしくないぞ」
「じゃあ、二十万年くらい。長生きしないとね」
ぷにぷにとキキョウの小さな肉球を押しながらの適当な返答だった。
「たまたま目が覚めただけだろ? もうちょっと寝かせてやれよ」
とりあえず話の矛先を変更。苦肉の策である。
「存在する価値もないキミにしてはとてもいいことを教えてくれたね。睡眠を邪魔するなんて愚劣な行為だよ。気が付かなくてごめんね」
寝間着姿の少女は謝りながらキキョウの頭を撫でる。愛猫を見つめる瞳は優しくて穏やかだった。仕事場を出て足早に専用の寝床へ仔猫を運んでいく。
戻ってきたところで俺は言ってやった。
「俺に対するキリアの言葉も愚劣だよね?」
「わかっているなら確認しなくていいよ」
確信犯宣言頂きました。
キリアは床に三角座りをして膝の上に顎を乗せた。物憂げな表情も可愛らしいのだが、見惚れている場合ではない。俺は席に着いて超高性能電脳端末と向き合う。
「とにかく次の手を考えないとな」
超電脳端末級の演算能力でも解けない暗号を技術屋でもない俺が解けるとは思えない。それなら人間らしい合理的な方法を試してみるだけだ。俺は端末を手早く操作。キリアが訝しげな表情を向けてくる。しばらくは黙認していたようだが、やがて好奇心が勝ったのか質問を投げかけられた。
「なにをする気なの?」
「管理人に電子メールを送ろうと思ってね。そもそも根本が間違っていたんだよ。俺の目的は暗号を破ることじゃない。情報を得ることだろ?」
目を丸くして黙り込む少女。俺は事実を告げておく。
「まあ、正直に言うと相手がハンコック事務所だからというのもある」
「……それは順序が逆じゃないかな? 普通は先にメールを送るべきだよ」
「細かいことはいいんだよ」
「細かくないよ!」
怒っている顔も可愛いなと思いつつ、俺は電子メールの送信を完了させた。
さてと。
「一段落着いたし恒例の『よくわかる人間講座』でも始めようか?」
「結構です」
「なにその丁重な断り方! 調子が狂うじゃないかよ」
「それを狙っているんだよ」
三角座りの膝上には憮然とした顔が乗せられていた。どんどん嫌な性格へと成長していきやがる。二の句を継げずにいると、珍しくキリアから話を振られた。
「ボクは一度見た光景を絶対に忘れない。正確には瞳に映り込んだ人物や風景が映像記録のように蓄積されていくんだ。一度得た映像は意識の中で終わることもなく劣化することもなく延々と残されている。これがどういうことかわかる?」
真剣な眼差しに俺は押し黙ってしまった。軽口を叩く余裕もない。
「ボクの中ではなにも終わらない。決して終わることはないんだよ」
それはどこまでも素直な――嘆きだった。
「すべてを忘れてしまいたい。なにもかも消えてしまえばいい」
そうか――俺は少女が不安に陥っている心境を理解した。
最強の生物が怯える日。
「……キリア……」
相応しい言葉がどこを探しても見つからなかった。俺は無言のままキリアの髪に触れて頭を撫でる。言葉にできないなら態度で示せばいい。その気持ちが伝わったのか少女は髪に触れられることに不快感を示さなかった。
ゆったりとした時間が流れる。
キリアは俺を必要としてくれる。俺はキリアを必要としている。
しかし同時に拒絶もしている。酷く歪んでいる感情だ。
いつか俺は眼前の少女に捨てられるだろう。理由もわかっている。
俺はキリアを必要としながら彼女と向き合おうとしていない。
刻々と午前零時が近付いてくる。明日は少女にとって危惧すべき日なのだ。
「どうして危険請負人なんかになったの?」
完全停止状態に入る前にキリアは蚊の鳴くような声で独りごちた。すでに寝台の上で仰向けになって天井を見上げている。聞こえていない演技をしようと思ったのだが、この時期の相方は素直で愛らしいのでなんとなく答えてしまう。
「最愛の女を捜し出すためだよ。キリアと出会う前は危険請負人と言っても主に情報の売買を生業にしていたんだ。こう見えても大手の警備傭兵会社や危険請負人事務所から熱烈な勧誘を受ける程度には有能だったんだぜ」
「勧誘する以上は京介単独で働くより儲かる条件を提示してくれたんだよね?」
「ああ、条件は悪くなかった。でも金の問題じゃない。俺は自由にやりたかったんだよ」
「不自由な自由だね」
的を得た意見である。本当にその通りだ。
「ボクも同じだよ」
「キリアも?」
目を伏せるキリアに俺は疑問符を投げかけていた。
「最強だけど一人では生きていけない」
何度も聞かされた少女の口癖である。
例えば通常の状態なら生物は睡眠中であっても命の危機に遭遇すれば目を覚ますだろう。しかしキリアの場合――七十二時間を周期に六十五時間は自由に行動できるが残りの七時間に関して完全な昏睡状態となってしまう。DDDウイルスによる副作用であり抗う術のない不自由だ。この七時間を狙われれば三流の殺し屋にさえ太刀打ちできない。それどころか、ちょっとした災害や事故にも対応できず命を落としてしまうだろう。
ゆえに一人では生きていけない。
「京介は今――幸せ?」
おいおい。なんの冗談だそれは?
「停止前で弱気になるのはわからなくもないが、そういう今すぐ抱いてほしいみたいな、寂しげな瞳で俺を見つめるのは反則だ。どんな紳士でも過ちを犯すことはある」
「そんな目はしていないよ! ボクは純粋に『幸せ』なのかと聞いている」
「キリアが今すぐ抱いてほしいという視線を送ってくれていたら幸せだったんだが?」
「うるさいよ!」
一蹴された。俺は盛大に肩をすくめる。
「幸せかどうかはわからない。ただ、いつも幸せになりたいとは思ってるよ。というか俺は幸せになれる公式を知っているんだ」
「幸せになれる公式?」
妙に食い付いてくる。これも停止前の影響だろう。
「今回は特別にキリアにも教えてやるよ。即ち『キリア+七(癒し系の性格+思いやり)+高さ÷二+優しさ×愛情×夜の営み=幸せ』だ。意外と簡単だろ?」
「ボクがその公式を解くと絶望になるよ?」
「幸せは人それぞれってことだな」
「…………」
ぐうの音も出ないらしい。
「キミの煩悩を無視しても高さ÷二は必要ないと思うんだけど?」
「必須だね。その式を遊び心と言うんだ」
「……キミは危険請負人より詐欺師に向いているよ」
着物姿の少女はうんざりとした顔をしている。
「人間は奥深いのさ」
「キミを人類に含めるという大前提に間違いがなければね」
「どうしてキリアは根性悪になったんだろうな」
「ボクは根性悪じゃないよ。キミが不愉快になるよう努力しているだけだからね」
「なにその世界で最も不必要な努力っ!」
しばらく罵倒合戦を繰り広げたあと、キリアは憂いの帯びた瞳で懇願する。
「キキョウのことを頼むね」
「大袈裟だ。そういう台詞はこの世を去る人間が言うんだよ。七時間のあいだになんの前触れもなく世界大戦級の戦争が勃発して、どういうわけかこの隠れ家に超弩級の爆弾でも投下されない限りなにも変わらない。いつも通りの朝を迎えるだけだよ」
「そうだね」
目を伏せながら少女は言葉を重ねる。
「でも怖いんだ。二度と目覚めないかもしれないという不安が消えない」
「大丈夫だ。それは俺が保障する」
キリアの表情が少しだけ穏やかになった。
「愛情の反対って憎悪じゃなくて無関心らしいよ。だからボクが京介を傷付けようと努力しているあいだは大丈夫かもしれない。どこへも行かないし、きっとどこへも行けない」
「とりあえず俺を傷付ける努力はやめろ。誰も幸せにならないからな」
でもなんというか、悪い気はしなかった。安心。どこにでもありそうでどこにもないもの。
少女の視線が再び天井を見上げていた。
「ボクが眠っても悪戯しないでね」
「わかっている。添い寝したり太股に頬ずりしたりするくらいに留めておく」
「全然わかってないよ!」
キリアの怒声が飛んでくる。俺は一般常識で対応しておく。
「よくわかる人間講座その五十七。据え膳喰わぬは男の恥と言ってだな、一つ屋根の下、無防備に寝台で眠る女性に対して手を出さないのは失礼に当たるんだよ」
「……嘘吐き……」
「なにを――」
反論しようとしたとき時計の針が午前零時を指し示した。寝台に横たわる少女は完全な昏睡状態に陥る。こうなってしまっては戯言も意味をなさない。俺は卓へ移動してバーボンをグラスに注いだ。独特の香りが鼻腔をくすぐる。酒杯を手に取り口へ運ぶ。ひり付くように喉を焼く琥珀色の液体が胃を熱くさせる。杯を進めていくと思考が麻痺していく。酔いに任せて俺は独りごちていた。
「誰だって一人では生きていけないんだよ」
意識のあるうちに簡易の寝床を用意した。瞳を閉じると深い闇が広がっていく。