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てんせヰのゑゐゆう  作者: 皐月雨皐月晴
一章:安寧の日々
10/28

テテ村/壱

 午後、昼食をとって腹の膨れた羅衣とシュルツは家を出て、テテ村の中央村へと向かう。

 玄関をあけると、風が急に音をたてて入ってきた。冷たい風だが——……数日ぶりの屋外は、心なしか以前の凍て付くような寒さが感じられない

 ミラは二人に、防寒を徹底して書類を忘れずに持って行くようにと強調した。


「気を付けてね」


 もう一度、羅衣のバンダナとマフラーを確かめた彼女に玄関まで見送られる。

 鉄の表札には夫婦の名前が刻まれておらず、空欄だった。トート語の平仮名、片仮名、漢字ならば読めたかもしれないが、キテオン語(キテオン族の民族語だという)の知識は皆無だ。彼らの文字は発音も、否、それ以前に読むことさえできなかった。想像するまでもない。

 羅衣は、トカルに大きさを合わせてもらった——おもに羊毛で仕立てられた——異種族用の冬服を着込んでいる。空を連想させる薄い青色で、前を丸い(ぼたん)でとめる種類の上衣(じょうい)(トップス)と長ズボン。トカルはウール生地が防寒に優れると言っていた。どれもキテオンの民族服に似せて織られた特注品だ。

 シュルツはこれらをトカルの店で二着ずつ、あとはシルクで丁寧に作られた黒色の上下一式と合わせて購入した。計三着、その出来栄えは、後日店に受け取りに出向いた彼が、手放しで称賛するほどだった。

 少年が上にはおった——息子のお下がりだというコートは、腕の裾と首回りが毛皮で覆われている。山で遭難していたあの朝と比較すれば、この服装は涙が出てくるほど温かい。

 シュルツとミラが帰りの時間について話している今も、家の庭にある小規模な果樹園を元気に走り回っている。二股に分かれた樹々に、冬であっても赤く細長い果物がよく実っていた。

 ミラは、羅衣たちとともに村には行かないそうだ。


 ——お一人で、大丈夫かな。

 泥棒とか……。


 外出の折、彼女が一人で留守番をすることを少年は随分心配していたが、夫婦二人は一言「大丈夫」と言って、獣人の特徴らしい、羅衣よりも尖っている白い犬歯を見せて笑った。

 魔獣なんて生物が山をうろついている、この世界に生きているのだから、彼らも自衛の手段は有しているのだろう。家には魔紋がそこかしこに刻まれていて、教えてくれないが、あれも家の防衛のためなのだと予想している。

 ここ数日は吹雪が酷く、羅衣の容態もまだ万全ではなかったため、シュルツも仕事を断念して家にいる日が多かった。それゆえ、少年はこれほど心配しているのだ。が、近隣にもシュルツたちと同じように中央村の周囲——郊外に住まう人々の住宅が立ち並び、夫婦は羅衣に培った信頼関係、30年来の近所付き合いこそが最大の防犯になると言いきった。

 郊外で暮らすキテオン族は儂らだけではないよ。というシュルツの言葉に、案外自分は心配性だ、そう自覚した少年は安心した。







「ミラさーん。いってきま~す!」


 玄関前でも挨拶したというのに……、一軒家が果物より小さく見えるここからでも、羅衣はミラに手を振っていた。自分には目を細めても見えないが、赤系統の色合いを追加された彼はこうしているのだから、彼女も同じようにこちらを見送っているのだろう。

 中央村に住んでいないキテオン族が、一万人以上いるのは事実だ。


 ——もっとも、30年村に寄り付きもしなかったのは、儂ら夫婦だけだろうがな。


 続けて喉から出掛かった言葉はのみこんだ。

 今日はよく晴れた。日本晴れと呼ぶのだろう。共通語の辞書に語源が載っていれば、この『日本』という……たびたび出会う単語の意味を知れるというのに、心にもやもやが残る。

 ギュ、ギュ、と、二人が履いている——太股付近まで覆う革のブーツが雪道で音を出す。


「晴れた、ね」

「ああ、すごしやすくなった。春に近付いたのだな」

「え。まだ1月、だよ?」

「ん……? ——ああ。この世界では神地の四季の巡りは、その地に坐す神様が決めておられるのだ。この地域、テテ村周辺ではテテライヤ様が好まれる秋が長く続き、冬は短いのだよ。梅月2月中旬には気温も上がって春になり、ここいらの雪もまず融けているだろう」

「へ~。それじゃあ神様、冬、は嫌いなのかな」

「どうだろうなぁ」


 しばらく会話が途切れる。

 羅衣は玉手箱を家に置いてきた。出発前に、とくに必要はないだろうと話し合ったからだ。あの箱を背負うと何をどうしても目立つ。今日の目的にも必須ではあるまい。

 村の役場で、羅衣の住民登録を行うのである。

 中央村の住民だけでなく、郊外で暮らす者にも滞在者としての登録は義務であり、これには誰一人として例外はない。当面は孤児の保護という形を認めてもらえるだろうが、いずれ羅衣が成長すれば、職に就き、働いて、稼いで、税を納め、結婚して、そして……。


(所帯を持つのだ)


 そうなれば本当に素晴らしい、シュルツは思う。


 ——異種族間の結婚には障害も多いが、偉大な愛の力で必ずのりこえられよう。

 ……まあ、この子にとってはまだまだ先のことか。


 自分もそうだった。

 疲れはてるぐらいに遊んだ少年時代があった。

 子どものころは、何を考えて生きていただろうか。

 少なくとも……儂が結婚するなど想像もしていなかった。

 女の子と、ミラと手を繋ぐことすら恥ずかしがっていたというのに、いつのまにか、だ。

 一度大人になってしまえば、二度と子どもには戻れない。

 良くも悪くも、年月が人をかえていく。かわってしまえば、戻れなくなる。


 ——かわるといえば……、保護者と被保護者の関係ではなく、もしもこの子が望んでくれるのならば——……。


 何気なく、隣を見る。

 いない。


「! ——羅衣……っ」


 顔を(ゆが)めて辺りを見渡すと、少年は道沿いの樹の根本で、何やら自分に手招きをしていた。


「おーい、来てぇー」

「何を、しとるのだ」


 ふー、と白い息を吐き、安心したやら呆れたやらで、彼は肩を落として近寄った。

 見ると、左腕に小さな動物を抱えている。

 狐色の毛並みの良い体毛、背中には黒い線が入っていた。豊かな尾で体を丸めている。

 こんなにも間近で観察した記憶はないが、見間違えようがなかった。


「これは、アテウ、ではないか……」

「ここで、ぐったりしてた」

「……ううむ」


 外傷は見られないが、体調でも悪いのだろうか。少年が頭や背を撫でても、何も反応を返さない。耳は垂れ下がり、口元に三本長く伸びた細い(ひげ)が風に揺れて、丸い硝子玉のような目も今は閉じかけている。細い両肢(りょうあし)は、体毛とは異なり黒い毛色。左の前肢(ぜんし)で数回顔を擦った。


「病気? それとも、お腹、すいてるの?」

「わからん……。儂も、アテウをこの距離で観察するのははじめてだ」

「この子の耳と尻尾、シュルツさんたちのに、似てるね。色も」

「似ているのではなく、伝承ではまったく同じだそうだ」

「同じ?」


 キテオン族は、狐人(きつねびと)とも呼称される獣人である。

 この『狐』とは、羅衣が抱きかかえている()(じゅう)アテウのことだ。

 その昔、この地に降臨した一族の主神テテライヤは、自神の容姿と先住民の動物の姿を混ぜ合わせ、一つの種族を創りだしたとされている。

 それが、キテオン族。獣人である彼らは狐色の髪と耳と尾、本紫色の眼が特徴で、土地神に与えられた尙御霊という名の加護、幻惑の炎を操る。


「ほう。ほう。凄いね」


 少年には、随分と興味深い話だったらしい。


「じゃあ、この子は俺が助ける! だめ……かな……?」

「いや、駄目というわけでは」


 樹の上や周辺にも、羅衣の腕のなかにいる一匹のほかにはアテウは見つからない。

 そもそもとても用心深い彼らは、滅多に人前には姿を現さないために、キテオン族であってもその生態については詳しくないのだ。単独で生活し、シュカンの枝木や木の実、小さな虫を好んで食べると聞く。知識としてはそれぐらいであった。


「看病して、元気になったら、山に帰すよ。——今度は、俺の番だね」

「そうか」

「ん」


 ——この子もいろいろと、物事を考えている。

 成長、しているのだな。


 温かい目で見つめるシュルツの前で、羅衣はミラのマフラーを首から解き、コートの下で胴とアテウにぐるぐる慎重に巻き付け、器用に背中と首と第一釦を外した上着の前で固定した。


「これでよし」


 満足そうに両手を腰に当てて、頷く。胸の隙間に小さな鳥の巣ができたようだ。

 その巣に収まったアテウは薄目で羅衣の顔を見上げると、少し湿っている黒い鼻先をすんすん鳴らして彼の胸に擦り付け始めた。


「……! シュルツさん! 早く村に行って、早く帰ろ」

「はははは……。うん、わかった。そう引っ張るな」


 まだ自分の胸にも届かない——小さな少年に手を引かれながら、シュルツは歩きだす。


 ——これまでは早く村に行きたいと騒いでいたというのに、今では早く帰ろう、か。


 こっそり笑う彼の背を、暖かい日光が照らしていた。







 テテ村は、200年ほどまえまでは狐人、キテオン族だけの閉ざされた集落だった。

 パプラの傘下に入ったことで交易や民族間の交流が始まり、この神地に移住を求める異種族人が増えたものの、現在でも人口の比率でいえば彼らはほんの数%にすぎない。

 キテオン族の伝承では、今から約700年前に神テテライヤが柱星と成り、天に昇ったのちに——……彼らは主神の愛したこの地に集い、村を築き始めたそうだ。

 信仰心に溢れていた祖先たちは、北に悠然と(そび)える一番巨大なシュカンの樹を神樹として崇め、神の()(しろ)として祈りを捧げてきた。

 種族の初代族長は、当時の村人から投票で選出されたと記されている。その家の長男は、子孫代々住民に選ばれて村の頭目を引き継ぎ、村長としての役割をはたしてきた。

 キテオンの歴史は順風満帆ではなかった。険しい山々に守られているとはいえ、同地方に根を生やす多種族との小競り合いや、国家間の戦争に巻き込まれた過去も、両の指では数えきれない。戦乱の渦にのまれた命、さぞ未練があっただろう。若者は成人せずに死んでいった。

 終わらぬ戦いに明け暮れ、惨状に(こく)したシュルツの曽祖父、第十四代族長は決断したのだ。アガララス地方一帯で、当時から最も強大な軍事力を誇っていた連合国家パプラの傘下に加わるのだと。

 荒れた交渉過程や憤る住民の反発は、記録文書として村の大書庫にまとめられており、歴史をふりかえると過去、先人たちがいかに種族の先を考え行動し、迷い、苦悩したのかを読みとれる。


 ——祖先は、皆立派だった。

 一族で儂だけだ。




 辛い出来事があったからと、全てをなげだし、逃げだした男は。







(でっかい)


 南門から足を踏みいれるとまず目に入るのは、遠目に見ても圧倒される巨大なシュカンの樹、神樹ライヤだ。そこいらに生えている樹の幹かと見まごう枝樹、緑の葉はゆらりと風に(なび)き、悠然と人々を見下ろしている。雪の王冠を頂く、威風堂々とした姿。 

 見た限り、羅衣が激突したシュカンよりも二倍、いや三倍以上は大きいのではないか。

 彼ははじめて訪れた村の賑わいに、目を白黒とさせた。

 前方でわいわい盛り上がっている人だかりは、車輪付きの移動式舞台の上で行われている、何かの劇を鑑賞している見物人だった。立って眺めている客も後方にいるが、前方には簡易な木の椅子が用意されており、子どもから老人まで狐耳を揺らして楽しそうにしている。

 上から箱をあけたように、外装が後ろに限界まで倒れ、人々の前に現れている広い舞台には照明下で輝く多色の衣装。キテオン語らしき字幕が、上部の黒い板に白い文字で流れている。

 子連れの夫婦が娘を挟んで座っており、その間で6、7歳ぐらいの少女が「頑張れ、勇者様~!」と役者に声援を送っていた。


(勇者……、今は村に劇団が来てるって、出掛けるまえミラさんが言ってたっけか)


 村の外は危険がいっぱいなのに、この時期に移動劇団が公演に来るなんて豪胆ね。と、ちらしを読んで感想を口にしていた。


 ——あの舞台は、魔力で回る車輪で動くんだろうな。

 それじゃあ、あれが魔輪車っていう魔法機なんだ。


 この村を訪れるにあたっては、北東の鋪装されている公道を利用したのだろうが……全長は一軒家ほどの大きさがあるこの物体が、動いて道を走る光景を羅衣には想見できない。

 劇団員は多種族人ばかりだ。鱗をまとう者、角が伸びている者、翼が生えている者までいた。キテオン族は今のところ一人しか見つけられない。

 あの車に乗って、広い広い大地を、旅してきたのだろう。

 悪役が剣で斬られて歓声を上げる観客を、二人はそそくさと横切った。

 今までシュルツたち以外では、近所に住む老人としか接した経験がなかった。それが、この村には人、人、人であふれている。この身とは、違う。容姿が違う。彼らと自分は違うのだ。

 老若男女、キテオン族ばかりであった。

 ごく稀に種族のわからない外見の者とすれちがい、思わず顔をまじまじと見つめてしまう。

 それと同時に、俺もさぞ目立っているんだな、と気を引きしめる。

 悪いことをしているわけでもないというのに、周りの視線が突き刺さり、身のおきばがない思いだ。きっと言葉もつうじまい。会話ができなければ、危険ではなくともこの身は亜人とかわらないだろうか。

 その一方で、これは自分の勘違いと、ただ自意識過剰なのかもしれない、という気もした。

 村人たちは、少年の上の釦を外した上着の隙間からのぞく、アテウの鼻先を見ている可能性もあるではないか。願望というほどのものでもあるまいが、そうであって欲しいとは思う。

 (はぐ)れたらお終いだと考えて、先導するシュルツの手を握った。彼は羅衣を気にしながらも大股で歩くので、子どもの歩幅では付いて歩くのも大変であった。

 前を歩くシュルツは村に着いてから、上着のフードを心なしか目深に被り直し、俯いて歩いている。朱星の光が眩しいから、という理由でもないだろう。


(何か、理由があるのかな)


 入口の大きな門をあけてくれた門番たちも、シュルツには敬礼し、(うやうや)しい態度を一度も崩さなかった。警吏の二人だと説明された、彼らの黒く角張った帽子(制帽だという)は心の琴線(きんせん)に触れた。

 夫婦には、まだ羅衣に語っていない過去があるのかもしれない。が、それを聞きだそうと試みたことはない。今後もそうしようとは思うまい。


(部外者が、余所様の家の事情に軽々しく首を突っ込むなんて)


 羅衣はとまれかくまれ、二人に嫌われたくなかった。

 村郊外の周りは360度、ほとんどを山々で囲まれている。

 例外は国へと続くタエラ公道と、いりくむ流れの速い小川ぐらいであり、石橋から見下ろした——村のあちこちを流れるその川は、底が見えるほどに澄んでいた。

 この村は地形的にも、まさに天然の要塞という表現がぴったりな、有事でも守り易い地形であった。ここら一帯の地図は、一目でわかるがほとんど山と森しかない。

 さらにここ中央村は、その周囲全体を、しっかりと地面深くまで埋め込まれた木の柵で守られている。ちなみにこの柵は6m以上の高さがあり、ぺたぺた触ってみた羅衣の身長では、首を限界まで反らさなくては天辺(てっぺん)が見えなかった。昔の人々が支払った費用も、労力も、並々ならぬものだったはずだ。表面は指で擦れば、キュ、キュ、と音が鳴るまで磨かれており、柵を乗り越えて来るやもしれない侵入者防止のために、塗師(ぬし)が専用の塗料(とりょう)を塗っているらしい。

 正式には、この木柵で囲まれた中心村と周辺の地域を合わせてテテ村と呼称されているが、キテオン族は中央村を『テテ村』、その周辺の住宅地や田畑、山々といった土地広域を『郊外』と分けてよぶ節があるそうだ。

 羅衣とシュルツは家から一番近い南門から村に入ったが、他にも北、東、西門と、公道の門が存在する。

 郊外の浄水場の辺り、湖の(ほとり)にも、シュルツたちの一軒家のように住宅が点在していた。

 彼らが村で暮らさない理由は、たとえばここの税率の高い住民税を毎月払えないという金銭面、郊外に田んぼや畑を持つ農家の職業面の理由が多い。

 テテ村中央村はおもに、東西南北で住宅の集合地や職人の工房、田や畑とおおまかに区切られている。ここ南区には商店街があって、いかにも商業区といった様相だった。

 二人の目的地は北区の巨大なシュカンの樹、ではなく、村の中心区に建てられた村役場だ。

 出店から漂ってくる料理の匂いに後ろ髪を引かれながらも、商店街をするりとぬけた。

 羅衣は速度を落とさずに進むシュルツの背にくっ付いて、家を出てから1時間半ほどで役場に到着した。慣れない革靴でここまで遠出した経験はなかったからか、踵に嫌な違和感を覚えた。靴擦れ以外に思い付かない。

 村の開拓当初から存在するというこの建物は、幾度も改修工事を重ねながら今の立派な外装になった、村で一番大きな建造物。赤茶色の煉瓦と、各階に一列ずつ平行に取り付けられた硝子窓が目立つ五階建てだ。

 村に着いてここをすぐに目にしたのであれば、この大きさにも驚いただろうが……、後方で存在を主張する神樹の印象が強すぎて、あまり迫力がないと感じてしまう(この樹の全長ときたら、役場の倍はあるだろう)。

 一階に二つある入口の扉には、事前に設定しておいた対象物に反応する魔法機——警報機が取り付けてあり、武器の持ち込みには厳格に対応する。これを事前に聞いている。

 役場の横には、これまたどっしりとした四階建てのテテ会館が構えている。会議や講演の場所に利用される石造建築の建物は、内部の通路で役場と繋がっているようだ。

 紫を基調に、青系の色が塗られている石が敷き詰められた、役場の中に入った。魔法機は、どこに設置されているのかもわからなかったが、いわずもがな警報の音は鳴らなかった。

 内部もとても広かった。ここ一階では()(びさし)のみの帽子と制服を着用した職員が忙しそうに動き回り、利用者の対応に追われている。男性は青、女性は赤のストールを首に巻いていた。

 この役場は銀行の役割を兼ねており、向かって右側の金融窓口には長い行列ができている。

 二人は一階中央にある()(すり)の付いた木の階段を登ると(羅衣が掴むには、位置が少し高かった)、三階の窓口で住民登録を依頼した。

 対応してくれた二人の女性職員はシュルツの来訪にとても驚き、少々お待ちください! とでも言ったのだろうか、水晶玉にしか見えない通話機——家にも置いてある魔法機の通信道具だ——を起動すると誰かに連絡しようとしたが、それを老人は首を振っておしとめた。


「大した用事ではない。ある少年を保護したのだ。儂ら夫婦で面倒を見ると決めたのでな、住民登録をお願いしたい」

「ええ、お話は伺っています。で、ですが、シュルツさん。貴方がこの場に来てくださったのですから、村長にも連絡を——……。あの人もずっと気にして」

「あやつはすでに知っているよ。それに、たてこんでいるだろう。今は特にな。儂はとうに引退した身だ。立場も権限もない、ただの老いた樵にすぎん」

「いえ、そんなっ。私たちは——……」


 重要な話題だと見受けた。話し込んでいるようだ。羅衣はその話を聞こうともしなかったが、理由がある。狐人の民族語で会話をされては、彼には内容をわかりようがない。

 しかし考えてみれば……共通言語トート語を、シュルツとミラの二人が話せたことは非常に幸運だった。村役場で試験を通過して働いている職員や異種族人、学び舎の教員以外でトート語に明るい者は、住民全体では二割にも満たないと教えられたからだ。

 夫婦は自分の言語習得を助けるために、家のなかでは敢えてトート語だけを話してくれた。

 そして。これがなかなか難渋(なんじゅう)だった——紙に書いた文字を読んで話す試みを、禁止された。

 ミラは「ただ本を読んで、文字面を追うだけの発声では足りません。言葉は、相手の目を見て話すのよ。耳で覚えるべきです」と、このように推奨された。事実そのとおりだった。

 羅衣はミラの指導を受けて勉強し、発声して、実際に短期間の学習は実を結んだのだから。


(キテオン族だけで自給自足の生活をしてるから、トート語を話せなくても困らないのかな)


 少年は未だに周辺の地理には理解が及んでいないため、今度はそういった知識も頭にいれなければと思うものだが、この村は山の奇麗な湧き水を利用して、水洗の手洗、水路、浄水場、蒸し風呂がしっかりと整備されており、職人の技術がなお及ばない箇所は魔法機を利用して、生活基盤インフラは問題なく整っている。現村長の功績だ。シュルツはそう言い添えた。

 約200年前から大国との交易を始め、魔法機の作成技術とその効果を用いて村は発展できたと、ミラに借りた歴史書(人物は登場しない、小型の書だ)には小さく記載があった。

 シュルツは、横で所帯なさげに立つ羅衣の肩を軽く叩き「しばらく時間が掛かるから、あの階段近くの席に座っていなさい」と勧めた。


「え……?」


 職員の一人が、身を乗りだして羅衣の姿を確認した。

 どうやら受付の高い机が死角となり、少年の姿を視認できていなかったようだ。


「おやまぁ、かわいらしい!」

「本当ですね。黒髪とは珍しい」

「私、あの髪色ははじめて見ましたよ」


 きゃいきゃいと受付嬢らが盛り上がる。

 シュルツがほほえみながら、羅衣はトート語しか聞き取れない旨趣(ししゅ)を伝える。

 彼女たちのうち、若い女性の一人が羅衣に優しい口調で話し掛けた。


「こんにちは。テテ村へようこそ。君は……えっと、女の子かな? かわいいね」

「違い、ます。俺は男です」


 ぶすっと不貞腐れて訂正すると。


「あ! そうなんだ。ごめんなさい」


 男の子だって! などと、これまた盛り上がる。


(心外だ)


 羅衣は口を尖らせる。アテウの耳を触りながら、背に丸太の束でも背負わされたかのように、のそり、のそりとその場から退散した。


「——さて。それでは」

「あっ、あとは、その、シュルツさん。役場に動物を持ち込まれるのは、ちょっと」

「よいではないか。アテウだぞ、珍しかろう? ——……おお~、そういえば、入口の警報機も音は鳴らんかったぞ」

「……いえ、ご存知でしょう? あれはおもに——……


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