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第三十九話

 結局、私は一ヶ月入院することになった。思った以上に肺炎が酷かったらしく、点滴治療が必要だった。


 入院中、いろんな人がお見舞いに来てくれた。真っ先に父と母がやって来た。母は化粧もせずに来たらしく、私の顔を見るなり子供みたいにわんわん泣いていた。いつも寡黙な父も、隠すことなく涙を垂れ流していた。

 次いでカナミとケンタが来てくれた。私はカナミの泣いているところを今まで見たことがなかった。声を荒げて泣くカナミを見て、あぁ、この子はこんなふうに泣くんだなぁと思った。ケンタは壊れた人形みたいに「よかった、よかった」と何度も何度も呟いていた。泣いているくせに、顔は笑顔で、なんだかムカついた。

 気が付くと、私も泣いていた。私はこんなにも愛されていた。嬉しかった。涙が止まらなくなった。死に直面することで初めて、こんなに大切なことに気付いた。あぁ、私は本当に愚かな人間だった。

「ありがとう」

 私は何度も何度も呟いた。「ありがとう」以外出てこなかった。「ありがとう」が溢れて止まらなかった。それと同時に涙も止まらなくて、私はベッドのシーツで涙を拭いた。

「香坂さん、シーツが汚れるのでやめてください」

 看護婦さんはそう言うと、そっとティッシュを差し出してくれた。

「ありがとうございます」

 私は溢れ出る涙を拭き、豪快に鼻をかんだ。

「マコ、汚いわよ」

「あぁ、汚いな」

「うん、汚い汚い」

「下品よ、マコ」

「ちょ、ちょっとみんな~」

 私は大変顰蹙を買い、大いに笑われた。


       ○


「それじゃ、帰るわね」

「また来るよ」

「うん、ありがとう」

 一時間後、みんなは帰って行った。私の無事な顔を見て安心したのか、帰り際のみんなの顔は、来た時よりも心なしか晴れやかに見えた。


「おねいちゃん、大丈夫?」

「カパパパ、元気か?」

 みんなが帰った後、今度はユウイチ君と人間に化けた河童がやって来た。

「河童!」

 私はベッドから飛び起きた。河童に言いたいことがたくさんある。この胸に溢れる気持ちを伝えたくて、どうしようもない!

「カパパパ。生きていて、何よりだ」

「ありがとう」

 今度はちゃんと言えた。命の恩人に、飾らない、心からの「ありがとう」をすんなり言えた。

「今夜には旅立とうと思う」

「え?」

 河童は唐突にそう言うと、頭を掻いた。

「おまえのおかげで、母の尻子玉と再び出会うこともできた。もう、この町に未練はない」

 そう言うと、河童は尻子玉をやさしい手つきでリュックから取り出し、見せてくれた。

「私まだ、河童に、泳ぎ、教えて欲しい」

 私は子供のように、理由もないただの気持ちをそのまま伝えた。

「僕も僕も! 僕ももっとうまく泳げるようになりたい!」

 ユウイチ君は河童の足にしがみつき、キラキラした瞳で河童の顔を見上げていた。かわゆい。

「おまえたちに教えることはもう、何もない。もうおまえたちはわかっているはずだ。泳ぎの極意は、“水の流れに身を任せる”ということに」

 水の流れに身を任せる。確かに、私はその感覚をなんとなく、掴みかけている。河童のおかげだ。河童のおかげで、もっと速く泳げる確信が見えたんだ。可能性が見えたんだ。それだけでも、感謝の気持ちが溢れてくる。今までの私は、限界に押しつぶされそうだったから。

「じゃあな、マコ、ユウイチ。おまえたちは、なかなか愉快だったぞ。ありがとう」

 そう言うと、河童はユウイチ君の頭をポンポンして、そそくさと帰ろうとした。

「ちょっと待って。河童、私との約束覚えている? オリンピック!」

「あぁ、そんなこと言っていたな」

「忘れないでよね。絶対に、私オリンピックで金メダルを取るから。そして、この町をお祭り騒ぎにしてやるから。そしたら、会いに来て。この町に帰って来て。絶対。約束だからね」

「あぁ、約束しよう」

「おねいちゃん、金メダル取れるの? 金メダルって、世界で一番にならないとダメなんだよ?」

 ユウイチ君が生意気な顔で鼻を鳴らしている。にくたらしい顔だこと。

「ユウイチ、安心しろ。マコは絶対に金メダルを取る。なんせ、俺の弟子だからな。河童の弟子に、他の人間がかなうはずがないだろう?」

「うん、師匠の顔を汚しはしない」

「その通り、負けたら許さんからな」

 そうだ、私は世界で唯一の『河童の弟子』なんだ。そう思うと、他の人間には負ける気はしなかった。

「じゃあな」

「河童……」

 私はとても名残惜しい気持ちでいっぱいだった。言葉は出てこないけど、何か言わなきゃ、そう思いながら、河童を見つめた。

「俺の名前は、河童ではない。俺の名前は『ぐぁわら』だ」

 すると、河童は改めて振り返り、私達に名前を教えてくれた。

「ぐぁわら?」

 ユウイチ君は不思議そうな顔で首をかしげている。

「河童、あんた名前教えていいの?」

「おまえ達なら、問題ないだろう」

 ――それに、すぐに忘れてしまう。

「え? 今何か言った?」

 私は河童が小声で言ったことを聞き取れなかった。

「いや、なんでもない。じゃあ、今度こそ本当にサヨナラだ。マコ、ユウイチ、元気でな」

「バイバイ、ぐぁわら!」

 ユウイチ君は元気に大きく手を振っている。

「うん、サヨナラ、ぐぁわら」

 私は河童の名前を呼んだ。人間には発音しづらい名前だなぁ、と思った。一生、絶対に、この名前を忘れない。そう思った。


       ○


「しんみりしてるとこ悪いけど、失礼するよ」

 ぐぁわらと入れ替わりに入って来たのは魔女だった。

「別に、しんみりなんてしてないわよ。河童とは、四年後にこの町でまた、会えるから」

 私はぐぁわらと約束したんだ。だから、さみしくなんてない。嘘じゃない。

「残念だが、その約束は叶わないだろう」

「え、どういうこと」

「もう、魔法は解けてしまった――ということだ」

「あんた、何かしたの」

 私は敵意の目で魔女を睨んだ。

「私はこれでもお嬢ちゃんに感謝しているんだよ。お嬢ちゃんのおかげで、必要な『素材』がようやく揃った。だから、忘れてしまう前に、教えてあげようと思ってねぇ。わざわざ重い腰あげてここまで来てやったんだよ」

 魔女はにやにやと笑っている。不気味だ。もしかしたら、またよからぬことを企んでいるのかも知れない。私に怪しい魔法をかけるつもりなのかも知れない――そんな考えが浮かんだけど、すぐに頭を振ってその考えを消した。

私は魔女には感謝している。だって、『龍』からこの町を救ってくれたんだから。

「そうだったの。ありがとう。私、魔女には感謝してるの。『龍』から町を救ってくれたから。ほんとうに、ありがとう」

 私は深く頭を下げた。ユウイチ君も一緒になって頭をぺこりと下げた。

「礼はいらんよ。私は別に、町を救おうとしたわけじゃない。私には別の目的があって、その目的を達成するために、川の水を奪ったに過ぎない」

「それでも、私は感謝している」

 ユウイチ君は私のマネをして、キリリとした顔で「かんしゃしている」と言っている。なんだかかわいい。

「じゃあ遠慮なく、感謝されておこうかねぇ」

 魔女はそう言うと、笑うのをやめた。

「そろそろ本題に入ろう」

 その声は鋭くて、私は思わず背筋を正した。

「お嬢ちゃんはもうすぐ、河童のことを忘れてしまうんだ。正確には、“あの”河童のことを認識できなくなってしまう」

「どうして?」

「順を追って、話そう。この世にはねぇ、『自然』と『不自然』の二つが存在する」

 自然と不自然。河童も同じことを言っていた。

「人間は不自然に属し、河童は自然に属する。ここまではいいかい?」

 私は頷く。魔女は話しを続ける。

「人間はね、本来、自然を覚えることはできないんだ。正確には、自然の一部を特別なものとして認識することはできない、ということだ」

「どういうこと? 私、自然を覚えることできていると思うけど。外に咲いている花とか、春に見た桜とか、ちゃんと覚えてるよ?」

「それはね、自然を不自然に変換して、覚えているに過ぎないんだよ。自然を自然のまま、覚えているわけじゃないんだ。たとえば、野原一面に広がる花畑の中から、たった一つの花を『特別なもの』として認識するためには、その中の一つを摘み取って、不自然な状態にしなければならないんだ。それをしなければ、漠然とした『花畑』としてしか、花を認識できないんだ。言っている意味、わかるかい?」

 私は首をかしげた。

「野原に花畑があった、ということを覚えていても、その中の一輪一輪の花の色の違いや輪郭や揺れ方は覚えていないだろ? でも、その中から一つだけ摘み取って、愛しい人にプレゼントしたら、その花のことをずっと覚えていられるだろ? 花畑の状態は『自然』で、摘み取って花束にして愛しい人に渡すことは『不自然』なことだ。自然なものは『漠然』としか記憶できないが、不自然なものは『特別な一個』として記憶できる。自然と不自然にはそういう性質がある――とりあえずはそう理解すればいい」

 私はまだよくわからなかったけど、頷いた。

「だから、本来、不自然である人間には、河童は認識できないんだ。野原一面に広がる花畑の中から、『特別な一輪』を認識して覚えることができないのと同じように、自然の中にいる河童を人間は認識できないんだ。たとえ視界に入っていても、それが『特別な何かである』と認識できない。漠然とした自然の一部として認識してしまうのだ。だから、河童を認識するためには、花を摘むように、河童を『不自然な状態』にするか、もしくは、河童と同じ『自然』に属するしかない」

「じゃ、じゃあ、私はどうして、河童を認識できていたの?」

 私は花を摘むように河童を『不自然な状態』にした覚えはないし、私は不自然に属する人間なのだから、自然に属してもいない。

 なのになぜ、私は河童を――ぐぁわらを認識できたのだろうか?

「お嬢ちゃんは、どこか楽観主義なところがあるみたいだけど、おかしいと思わなかったかい? お嬢ちゃんは川に閉じ込められ、ずっと川にいたんだよ。それなのに、川の近くを歩く人間は、お嬢ちゃんのことを気にもとめていなかっただろ? 本来なら、もっと噂になっていてもおかしくなかったと思わないかい? なんなら、テレビの取材が来てもおかしくなかっただろう。女子高生が川に閉じ込められたんだぞ? それはとんでもないことだ」

 確かに、私も少しおかしいとは思っていた。魔女の言うとおり、もっと大ごとになっていてもおかしくなかったはずだ。

「私はお嬢ちゃんに魔法をかけた。それは、お嬢ちゃんを『川に閉じ込める魔法』ではなく、お嬢ちゃんを『川という自然の一部にする魔法』だった――マコ、おまえはずっと、自然の一部になっていたんだ。だからお嬢ちゃんは川から出ることなどできなかったんだ。お嬢ちゃんは川の一部だったのだから、川から離れられるわけがない、それが道理だ。お嬢ちゃんは川の一部だったから、体が濡れても寒くなかったし、皮膚がふやけることもなかった。お嬢ちゃんは自然の一部になっていた――だから自然に属する“あの河童”を認識できていたんだ」

「私が、自然の、一部、だった?」

「そうだ。だから、お嬢ちゃんのことを見ても、だれもお嬢ちゃんのことを認識していなかったんだ。お嬢ちゃんが川にいることは自然なことで、気にとめるまでもなかったということだ。お嬢ちゃんは、川にある岩や水草を見て、何かおかしいぞ? と違和感を感じるか? 岩や水草は川にあって当たり前のものだ。お嬢ちゃんも同じだった。川にいて当たり前だから、道行く人たちは、特に不思議には思わなかったんだ」

「じゃ、じゃあ、なんでママやカナミやづかちょん先輩やケンタは私を認識できたの? 人間は自然を認識できないんでしょ? おかしいじゃない」

「それは、そいつらにとってお嬢ちゃんが『特別』だったからだ。野原一面に広がる花畑の中から一輪だけ花を摘むのと同じことだ。そいつらは、“卍川”の中から“お嬢ちゃん”を摘み取った。そして、“自然に属するお嬢ちゃん”を“不自然なお嬢ちゃん”に変換した。だから、お嬢ちゃんのことを認識できたんだ」

「それじゃあ、ユウイチ君は? ユウイチ君はどうして私や河童を認識できたの? 私はユウイチ君の命の恩人だから、特別だったのかも知れないけど、河童は違うでしょ? 河童も自然の一部なら、認識できないはずじゃないの?」

 ユウイチ君は確かに、河童を認識していた。ちゃんと見えていた。それは、なぜ?

「人間は、生まれたときはまだ、自然の一部なんだ。人間は成長と共に少しずつ不自然になっていく。そして、完全に不自然になることを、大人になるというのだ。ときに子供は、変な行動を取ることがあるだろう? 急に奇声を発したり、飛び跳ねたり、逆立ちしたり、泣いたかと思えば笑ったり――どうしてこんな変なことをするのだろうかと大人が思う行動だ。それらは、子供の自然の部分がそうさせているのだ。不自然な大人に理解できない行動のすべては、“自然の行動”なんだ。そして、子供は成長と共におとなしくなり、変な行動をしなくなる。それは自然がなくなり、不自然になるからに他ならない。時々、人間はいつもはやらないことを『気まぐれ』でやることがあるだろう? あれは、自然のなごりと言われている。不自然な大人になってしまっても、人間の体にはごく僅かだが、自然の部分が残っている。その『僅かな自然』が、『気まぐれ』を起こすのだ。自然とは、気まぐれなものだからな」

 気まぐれ――河童もそんなことを言っていた。自然は気まぐれだって。

「また、赤ちゃんのころの記憶が曖昧なのは、自然だったからだ。自然は漠然としか覚えていられない。だから、幼いころの記憶はどこかおぼろげなのだ。ユウイチはまだ大人になりきっていない。自然の部分がまだ残されている。だから、ユウイチは河童を認識できたのだ。いずれ成長すれば認識できなくなるし、忘れてしまうだろうがな」

「意味分かんない……頭パンクしそう」

 私はあまりの情報の多さに、頭を抱えた。

「つまりは、そいつらはみな、お嬢ちゃんのことが好きだったということだ。それに、時が経てばそいつらもお嬢ちゃんのことを認識できなくなっていただろう」

「え? どいうこと?」

 魔女は眉をひそめ、咳払いをした。そして、申し訳なさそうな顔で、話を続けた。

「お嬢ちゃんは『自然帰り』という現象を知っているかい? 『神隠し』や『天狗攫い』とも言う」

 私は頷いた。『神隠し』なら聞いたことがある。人が突然いなくなってしまう現象のことだ。

「時々、魔法の力を使わなくても、自然の一部になってしまう人間がいる。自然の一部になってしまった人間は、不自然に属する人間には認知されなくなる。そこにいるのに、誰も気付けなくなる。それが『自然帰り』であり、『神隠し』のメカニズムだ」

「つ、つまり……私があのまま川にずっといたら、わ、私は『神隠し』になっていたということ?」

「そうだ」

 背筋に悪寒が走った。

「世間では、お嬢ちゃんは失踪したということになっていただろう。お嬢ちゃんは川にいるにもかかわらず、誰もお嬢ちゃんのことを見つけられなくなっていただろう」

 私は思わず枕を魔女めがけて投げた。呼吸が荒くなって、猛牛みたいに鼻で息をした。

そんなに恐ろしい魔法だと知っていながら――私に魔法をかけた――それが、許せなかった。

「お嬢ちゃんには本当に申し訳ないことをしたと思っている」

 魔女は頭を下げた。私の怒りはそれでも収まらなかった。怒りが沸騰している。でも、私は冷静にならなければならない。だって、結果的に魔女は、私を利用して、町を救ってくれたのだから。私は、このこみ上げる怒りを収めなければいけない。

 ――これは、必要なことだったんだ。

 私は自分に言い聞かせた。

「枕……投げてごめんなさい」

 私は深呼吸をした。ユウイチ君が枕を拾って持ってきてくれた。ユウイチ君は小声で「怒っちゃダメだよ」と言った。ユウイチ君のかわいい顔を見たら、少しだけ、怒りが引いた。

「話し、続けて」

 魔女はもう一度深く頭を下げてから、話を続けた。

「……お嬢ちゃんを選んだのは、魔が差したというか、突発的な思いつきだった。私は十年をかけて、必要な素材を集めて世界を回った――そう、死んだ息子と再び会うために必要な素材を求めてね」

 魔女は初めて、望みを吐露した。私はそれを、黙って聞いた。

「そして、残る素材は『卍川の水』だけというところまで、ようやく来たんだ。『卍川の水』さえ手に入れれば、もう一度、あの子に会える。私の気持ちは逸った。しかし、『卍川の水』を手に入れるためには、尻子玉が必要だった。だから私は、河童に頼み込んだ。でも、河童は尻子玉を譲ってはくれなかった。無理やり奪おうにも、腕力では河童に勝てないし、そもそも私は肺の機能のほとんどが失われているから、泳げない。魔法でどうこうしようにも、私は河童の名前を知らなかったから、魔法をかけることはできなかった。それに、十年の旅の中で、いろんなものを失いすぎた。もう、魔法を使うために失えるものなど、ほとんどなかった」

 魔女はゴホゴホと咳き込む。苦しそうに息を吸う。呼吸をするだけでも苦しい体と引き替えに、どんな魔法を使ったというのだろうか。苦しさを受け入れてでも、息子に会いたいのだろうか。

 魔女の気持ちを考えたけど、私にはわからなかった。

 咳が治まった魔女は、話しを続ける。

「ある日、どうしたら尻子玉を手に入れることができるだろうかと考えながら北卍の川岸を歩いていると、男の子が溺れているのを見つけた――そのとき、死んだ息子の姿がフラッシュバックした。私の息子は――川で溺れて死んだ。ちょうど、今のユウイチと、同じくらいの年だった――。私はどうにかして、溺れている少年を助けなければいけないと思った。息子を助けてやれなかった。だから、せめてこの男の子だけは助けてあげたい。そう思った。でも、私は肺を悪くして、泳げない。魔法も使えない。どうしたらいいの――。私は再び、息子を亡くしてしまうのか――そう思ったとき、お嬢ちゃんが天津橋にやって来た。私は、わらにもすがる思いで、叫んだ。子供が溺れていると、伝えた。そしたら、お嬢ちゃんは、まったく躊躇することなく、橋の上から川に飛び込み、華麗な泳ぎで、いとも簡単に溺れていた男の子を助けた」

 そうだ。思い出した。確かにあのとき、私は誰かの声を聞いた。その声のおかげで、ユウイチ君が溺れているのに気付けたんだ。

 あの声は、魔女だったんだ――でも、あの声はもっと、若い女性の声だったような気がするのだけれど……気のせいだろうか。

 記憶があやふやだ。

「そのとき、私は男の子が助かってよかった――とは思わなかった。私は、理不尽だと思った。どうして、私の息子は溺れて死んだのに、今目の前にいる男の子は、簡単に救われたんだ? どうして、この泳ぎの得意なお嬢ちゃんは、私の息子を助けてくれなかったんだ? このお嬢ちゃんは、ユウイチを助けて、私の息子を助けなかった――なんて理不尽な奴だ――そう、思ってしまったんだよ」

 魔女の目は、鋭く光っていた。その目にはきっと、憎悪とか憤りといった感情が宿っているのだろう。その目を見るのが、ちょっとだけ、怖かった。だから私は、思わず目をそらした。

「気が付いたら、私の頭に、ある計画が浮かんだ。そう、マコ、おまえを川に閉じ込めて、尻子玉を奪うために利用してやろう。この理不尽な小娘を理不尽に利用してやろう――そう思ったんだ。そして、気が付いたら、私は魔法を使っていた。魔法で、マコを、閉じ込めていた――すまない。魔が差したんだ。すまない」

 魔女は頭を下げた。

「ちょ、ちょっと待って。あんたさっき、魔法は使えない。魔法を使うために失えるものは何もないって言ってなかった?」

 私は疑問だった。

 魔女は逡巡したのち、観念したような口調で答えた。

「……一つだけ、失えるものがあった。それは、『寿命』だよ」

「じゅ、寿命……」

「そうだ。私は、寿命を失った。私は、お嬢ちゃんに嘘をついた。私は、お嬢ちゃんを川に閉じ込めるために、“一日”を失ったと言ったが、本当は、五十年だ」

「え?」

「お嬢ちゃんの言っていたことは正しかったのさ。お嬢ちゃんの一日は、私の十年に等しい。だから、お嬢ちゃんを五日間川に閉じ込めるために、私は五十年の寿命を失った。私は本当は、まだ四十歳だった。お嬢ちゃんに魔法をかけたあの瞬間に、私はおばあさんになったんだよ」

 私は初めて魔女に会ったときのことを思い出す。

 最初、魔女はフードをかぶっていて、顔がよく見えなかった。あのときはまだ、魔女は四十歳くらいのおばさんだったということ? そして、そのあと、私に魔法をかけて、五十年の寿命を失って、今のおばあさんの姿になった――そういうこと……らしい。

「魔女と聞いて、だれもが老婆を思い浮かべるだろ? それにはちゃんと理由がある。魔女はみんな、自らの寿命を使って魔法を使っていたんだ。だから、魔女のほとんどは、老婆の姿をしているんだ。私は望みを叶えるために、寿命を失うわけにはいかなかったから、寿命以外のものを失って、ここまで来た。でも、残る素材はあと一つだけだった。だから、今なら寿命を失ってもいいと、判断した。一刻もはやく、もう一度あの子に会いたかった。だから、寿命を使って、お嬢ちゃんに魔法をかけたんだ」

 魔女はそう言うと、もう一度深く頭を下げて「すまなかった」と呟いた。

 私は何も言わなかった――何も言えなかった。

 顔を上げた魔女の顔は、少しだけ晴れやかになっていた。言うべきことはすべて吐き出した。そんな顔だった。

「お嬢ちゃんの魔法はもう解けた。だから、お嬢ちゃんはもう、自然に属する“あの河童”を認識できなくなる。ハッキリと思い出せなくなる。桜花爛漫を見て感動したときの記憶のように、漠然とした感情は覚えているだろう。河童と一緒にいて楽しかったという、漠然とした感情だけは――。でも、その感情をいったい誰と共有したのか、それは、残念ながら、忘れてしまう」

 嫌だ。私は、忘れたくない。ぐぁわら――この名前を、忘れたくない。

「ねえ、どうにかならないの? あんた魔女でしょ」

「一つだけ、忘れない方法がある」

「教えて」

「それは、常に河童のことを意識することだ。一瞬でも河童から目を離してしまったら、もうお嬢ちゃんは河童のことを忘れてしまうだろう。川の濁流のうねりや岩に砕けて飛び散る水しぶきの一つ一つを、見ている間は覚えていられるだろう。しかし、一度目を離して、もう一度見たとき、先ほどまで見ていたうねりはどんな動きをしていたのか思い出せなくなる。一度でも目を離してしまえば、どんなふうにしぶきが飛び散っていたのか、詳細を思い出せなくなる。それと同じだ。お嬢ちゃんが河童のことを常に見続けていれば、頭の中で常に河童について考えていれば、河童のことを忘れないだろう」

「なんだ、簡単なことじゃない」

 魔女はあきれたような顔でため息をついた。

「脳天気なことを言うな。お嬢ちゃんは四年後、オリンピックで金メダルを取るんだろ? 常に河童について妄想しているような人間が、金メダルを取れると、お嬢ちゃんは本気で思っているのかい?」

「それは……」

 そんなのは無理だ。妖怪のことを考えて現実逃避しているような人間は、絶対に勝てない。練習するときは練習に集中しなければ最大の効果は得られないし、レース中に他のことを考えていたら、ベストパフォーマンスは発揮できない。

 そして、私が挑む舞台は、そんな中途半端で勝てるような場所じゃない。

「お嬢ちゃんは水泳の練習をしているときも、大会で泳いでいるときも、勉強しているときも、彼氏とデートしているときも、常に河童のことを考えられるのかい? お嬢ちゃんには夢があるんだろ? 夢を叶えるためには、河童のことを忘れるしかない。もし、河童のことを忘れたくないと言うのであれば、対価を払う必要がある。この世は等価交換の大原則でできているからね。そして、その対価は、お嬢ちゃんの夢であり、青春の時間だ。夢や青春を諦める覚悟があるのなら、河童のことは忘れずに済むだろう」

 私は下を向いて黙る。

 そんな、理不尽じゃない。夢も河童もどっちも大切なのに、どちらか選べだなんて……。

 私はやっぱり、理不尽でかわいそうだ。

 魔女は黙る私をよそに、話を続ける。

「そして、私のことも、お嬢ちゃんは忘れてしまうだろう。お嬢ちゃんは私のことを常に考えてくれるほど、優しくはないだろう? お嬢ちゃんは私のことを、ただのばあさんとしてしか認識できなくなる。私が魔法を使って見せたとしても、インチキだと思うだろう。お嬢ちゃんはもう、魔法の存在を信じられなくなる。そんなもん、虚構だ、嘘っぱちだと思うようになるだろう。なあーに、案ずる必要はない。ただ、元に戻るだけだ。お嬢ちゃんはずっと、魔法なんて信じていなかった。魔女は絵本の中にしかいないと知っていた。その状態に、戻るだけだ」

 そう言うと、おばあちゃんは私の頭をなでた。

 おばあちゃんの手は暖かくて、私はなんだか気持ち良くなって、うとうとした。眠りたくないと思った。でも、眠くて眠くてしょうがない。

「さあ、お眠り。起きたらもう、お嬢ちゃんは不自然に属する人間に戻っているだろう。河童のことも魔女のことも、忘れている――――」

 私は我慢ができなくなり、そのまま寝てしまった。


      ○


 私は夢を見た。

 登場人物は――魔女と河童と理不尽な私――だった。

 覚えているのはそれだけで、内容は忘れてしまった。でも、なんだか楽しい夢だった。

 それだけは、なんとなく、覚えていた。 


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