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外国人労働者の失踪事件を追う市役所職員

この物語は、地方都市の市役所で労働相談を担当する職員が、一人の外国人労働者の失踪をきっかけに、街の奥深くへ隠されていた労働の仕組みを追っていく社会派サスペンスです。


私たちの暮らしは、多くの人の仕事によって支えられています。


毎日店頭に並ぶ食品。時間どおりに届く荷物。きれいに保たれる建物。止まることなく動き続ける工場。


けれど、その便利さを支えている人の名前や顔を、私たちはどれほど知っているでしょうか。


名簿に名前があるからといって、その人の暮らしや権利まで守られているとは限りません。


反対に、名簿から名前が消えたとき、その人が本当にいなくなったとは限りません。


主人公の三浦梨沙は、市役所の相談窓口で日々、多くの悩みを受け止めています。


しかし行政の窓口にできることには限界があり、相談者を別の機関へ案内するだけで終わってしまうことも少なくありません。


そんな梨沙のもとへ、差出人不明の音声が届きます。


「助けて。名簿から消される」


その声の主は、食品工場で働いていた技能実習生でした。


彼はどこへ消えたのか。


なぜ勤務記録と給与明細の会社名が違うのか。


なぜ失踪事件が起きると同時に、外国人労働者を非難する情報がSNSで拡散されたのか。


梨沙は、失踪した同僚を捜すグエン・ミン、地方紙記者の樋口颯太とともに、複数の企業、行政、仲介会社、情報発信者をつなぐ見えない線をたどっていきます。


本作では、外国人労働者を一括りの「被害者」として描くのではなく、それぞれに希望や判断を持つ一人の人間として描くことを大切にしました。


また、問題の原因を特定の国籍や立場に求めるのではなく、責任が細かく分けられ、誰も全体を見ようとしなくなる仕組みに焦点を当てています。


企業には企業の事情があります。


行政には行政の限界があります。


報道機関にも、地域社会にも、働く人自身にも、それぞれの迷いや恐れがあります。


だからこそ、この物語では、一人の悪人を倒せばすべてが解決するという形にはしていません。


真実が明らかになったあと、何を変えなければならないのか。


声を上げた人を、どのように守るのか。


同じことを繰り返さないために、契約や相談窓口、監査や補償をどう運用していくのか。


その部分まで含めて描いています。


本作品はフィクションです。


登場する人物、企業、団体、自治体、事件などはすべて架空であり、実在する個人や組織とは関係ありません。


作中には、長時間労働、賃金未払い、差別的な言説、SNS上の誹謗中傷、職場での圧力などの描写があります。


苦手な内容がある方は、無理のない範囲でお読みください。


この街は、誰の労働で回っているのか。


そして、名簿から名前が消えたとき、その人の声を誰が受け取るのか。


梨沙たちとともに、見えなくされていた人々の行方を追っていただければ幸いです。


見えない名簿


朝霧颯


【小説家になろう投稿用・短縮版】


目次


第一章 失踪の夜

第二章 見えない勤務表

第三章 拡散される怒り

第四章 通訳者の証言

第五章 善意の契約書

第六章 記事にならない真実

第七章 名簿の穴

第八章 圧力

第九章 公開前夜

第十章 それでも働く人々

エピローグ 明日の名簿


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


第一章 失踪の夜


 午前零時を回っても、冷凍食品工場のラインは止まらなかった。


 チャン・ドゥック・アンは、流れてくるトレーへ鶏肉を並べ続けていた。青い手袋の内側は汗ばんでいるのに、指先は冷たい。壁の勤務表では、アンの勤務は零時で終わっている。


「スピード、落ちてるぞ」


 現場責任者の森岡が言った。


「予定は十二時までです」

「予定は予定だ。注文が残ってる」

「でも、勤務表は――」

「おまえらの勤務表は協栄が管理してる。俺に言うな」


 工場に聞けば協栄サポートへ行けと言われ、協栄に聞けば現場の指示だと言われる。給与明細に、聞いたことのない会社名が印刷される月もあった。


 午前一時四十七分、ようやくラインが止まった。清掃を終えたアンは休憩室へ入り、ロッカーの陰でスマートフォンの録音を始めた。


「これを聞く人へ。今日も、名前がない。勤務表には十二時まで。いま、二時前です。給与の会社も違う。明日、手帳を持って市役所へ行く」


 隣の冷凍庫で扉が開き、警告音が三回ずつ鳴った。


「助けて。名簿から消される」


 録音を止めようとしたとき、ドアが開いた。協栄サポートの管理担当、黒田が立っていた。


「アン、事務所に来い。送迎の変更だ」


 アンは音声ファイルだけを、市役所の相談窓口へ送信した。宛名も本文も入れる時間はなかった。


「スマホを出せ。配置が変わる。規則だから預かる」

「どこへ行きますか」

「話は事務所でする」


 アンはスマートフォンを渡した。財布と着替えはロッカーに残したままだった。黒い手帳だけは、作業着の内側に入れていた。


     *


 翌朝、グエン・ミンはアンのベッドが空になっていることに気づいた。枕には作業帽だけが置かれている。


 最後のやり取りは前日の夕方だった。


〈明日、一緒に市役所へ行けますか〉

〈午前なら行ける。何を持っていく?〉

〈全部〉


 アンは三か月前から、勤務時間、送迎車の番号、給与会社、控除額を小さな手帳へ書き写していた。機械で指を負傷した同僚が、労災ではなく帰国扱いにされたことも記録している。


 棚には財布と家族写真、在留カードのコピーが残されていた。スマートフォンと手帳だけがない。逃げた人間が、財布を置いていくだろうか。


 ミンは管理室へ走った。


「アンがいません。昨夜、工場から戻りましたか」

「知らないよ。恋人のところへでも行ったんだろ」

「警察へ連絡します」


 黒田は紙コップを机へ置いた。


「会社に迷惑をかけるなら、おまえにも事情を説明してもらう。寮費、渡航費、研修費。契約を途中でやめれば、家族に請求が行くことは分かってるな」


 ミンの家族は、来日前に仲介業者へ払った費用を借金していた。日本で三年働けば返せるはずだったが、給与から引かれる金額は説明より多い。


「アンが勝手に出ていったと、どうして分かるんですか」


 一瞬、黒田の目が止まった。


「仕事へ行け。遅刻も契約違反だ」


 寮の前には、会社名のない白いワゴン車が待っていた。フロントガラスの隅に「A1」と書かれた札がある。


「今日は休みます」


 ミンは車に乗らず、アンが持ち帰った市役所の案内カードを握って歩き出した。


     *


 川ノ瀬市役所の雇用・多文化相談室で、三浦梨沙は相談記録へ「案内済み」と入力していた。


 給与未払い、突然の契約変更、寮費、在留カードの返還拒否。職員にできるのは事情を聞き、担当機関へつなぐところまでだ。企業へ帳簿を出させる権限も、職場へ立ち入る権限もない。


 昼前、差出人も件名もないメールが届いた。添付ファイルは〈help_0214.m4a〉。


 再生すると、機械の低い振動音と、若い男の声が聞こえた。


「今日も、名前がない。勤務表には十二時まで。いま、二時前です。給与の会社も違う。明日、手帳を持って市役所へ行く」


 ピッ、ピッ、ピッ。


「助けて。名簿から消される」


 送信時刻は午前一時五十八分だった。


 梨沙は上司の坂本へ報告したが、本人の名前も勤務先も分からない。


「相談記録を作って、本人確認待ちにしておいて」

「警察へ情報提供したほうが」

「音声だけで事件とは判断できない。いたずらの可能性もある」

「助けてと言っています」

「緊急性を判断するのは警察だ」


 警察も、成人の自主失踪の可能性を理由に、名前が分かれば連絡してほしいと答えた。


 梨沙は処理区分の「案内済み」「連絡待ち」「対応終了」を見つめた。どれも選べなかった。


 そこへ地方紙『川ノ瀬新報』の記者、樋口颯太が訪ねてきた。


「外国人労働者の失踪について、相談は入っていませんか」

「誰が失踪したんですか」

「天野フーズ第二工場の技能実習生です。チャン・ドゥック・アン、二十三歳。会社は無断離職と見ています」


 樋口は「外国人の集団離職で住民に不安」という記事を準備していると言った。


「今回確認できているのは一人ですよね」

「一般的な傾向としてです」

「逃げたと決める前に、何から逃げたのかを見てください」


 梨沙の言葉に、樋口のペンが止まった。


     *


 夕方、若い男が相談室へ来た。


「僕はグエン・ミンです。アンがいなくなりました」


 ミンは流暢な日本語で、空のベッド、残された財布、黒田の対応を説明した。


「今日の未明、市へ音声が届きました。声を確認してもらえますか」


 梨沙が再生すると、ミンは最初の一言で顔を上げた。


「アンです。間違いありません」


 冷凍庫の警告音が鳴る。


「この音も第二工場です。扉が開いていると、三回ずつ鳴ります」

「送信時刻は午前一時五十八分です」

「勤務表では、アンは十二時に終わっています。でも、いつも違います」


 ミンは給与明細、寮費の請求書、勤務表の写真を机へ並べた。給与の支払者には、協栄サポート、北辰人材開発、KSパートナーズという三つの社名がある。勤務先は書かれていない。


「アンと僕は記録を集めていました。でも、僕は怖くて、市役所へ行くのを延ばしました」

「今は、アンさんを探すために必要なことをしましょう。あなた一人の責任ではありません」

「警察は動きますか」

「名前と勤務先が分かりました。もう一度連絡します。ただ、危険がないとは言えません」


 梨沙は安易に「大丈夫」とは言わなかった。


 ミンは疲れた顔で、ほんの少し笑った。


「会社の人は、いつも大丈夫と言います。大丈夫ではないときも」


 警察へ再度連絡すると、担当者が事情を聞きに来ることになった。


 帰り際、ミンは勤務表を指した。


「工場では、名前がある日とない日があります。名前がない日は、別の会社から来た人になると言われます。でも、同じ工場で同じ仕事です」


 梨沙は庁内の相談記録で「協栄サポート」を検索した。


 三か月前の相談が一件あった。


〈給与明細の会社名が毎月変わる。残業時間が記録されない〉


 相談者へ二度連絡したがつながらず、「本人連絡不能」として処理されている。添付された給与明細の隅には、手書きで四人の名前があった。


 その一人が、チャン・ドゥック・アンだった。


 三か月前から、アンの名前は市役所の中にあった。相談は届いていた。それでも誰も、彼を見つけられなかった。


 画面の右上には、緑色の文字で表示されている。


〈対応終了〉


 梨沙は処理区分を「再確認」へ変更し、保存ボタンを押した。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


第二章 見えない勤務表


 翌朝、梨沙は三か月前の相談記録を調べた。相談者ファム・クアン・フイは、給与会社の変更、消える残業、過大な寮費、負傷者が帰国扱いになったことを訴えていた。担当した佐伯は会社へ一般的な改善要請を送ったが、本人と連絡が取れなくなり、記録を閉じていた。


「終わらせたくて終わらせたわけじゃない」


 佐伯は、立入権限も捜索権限もない窓口の限界を語った。それでも梨沙には、制度の限界という言葉が、消えた人の代わりにはならないと思えた。佐伯は協力を約束しながら、内部記録を外へ持ち出さないよう忠告した。


     *


午前十時、ミンは約束どおり市役所へ来た。

 昨日より大きな封筒を抱えている。


「警察には話しました。会社にも連絡したそうです」


「会社の反応は?」


「アンは自分で寮を出た、と言っています」


「昨夜、工場を出た記録はあるんでしょうか」


「送迎車に乗ったと言います。でも誰も見ていません」


 面談室で、ミンは封筒の中身を机へ広げた。

 給与明細が七か月分。寮費と水道光熱費の請求書。勤務表を撮影した写真。食堂の壁に貼られた送迎車割当表。タイムカードの画面をこっそり撮った動画の静止画像。


「これはアンの給与明細です」


 ミンは順番に並べた。


「七月と八月は協栄サポート。九月は北辰人材開発。十月と十一月はKSパートナーズ。十二月はまた協栄です」


「勤務先はずっと同じ工場?」


「昼は同じことが多いです。夜は別の倉庫へ行く日があります」


「契約書に書かれていますか」


「最初の契約書には、天野フーズ第二工場と書いてあります。新しい紙は、日本語だけで、署名を求められました。説明は僕がしました」


「あなたが通訳したんですか」


「会社から、この紙は仕事を続けるために必要だと伝えろと言われました。でも、細かい意味は僕にも分かりませんでした」


 ミンは視線を落とした。


「みんなは、僕が大丈夫と言ったから署名しました」


「会社が用意した説明を伝えたんですよね」


「でも僕の声で言いました」


 梨沙は返す言葉を探した。


「今、その記録を持ってきたのも、あなたの判断です」


 ミンは何も言わず、次の紙を差し出した。


 自作の比較表だった。左に実際の出勤時刻と退勤時刻、中央に勤務表の記載、右に給与明細の労働時間。色分けされ、差分が計算されている。


 アンは一か月で二百三十八時間働いていた。

 給与明細に記載された労働時間は百六十時間。残業は十二時間だけ。差額に相当する金額は支払われず、「研修費」「生活支援費」「立替金」「特別管理費」といった名目で合計六万三千円が控除されていた。


「この計算は、あなたが?」


「ベトナムにいたとき、物流会社で配車の補助をしていました。表計算はできます」


「元のデータは残っていますか」


「クラウドにあります。パスワードは会社に知られていません」


「すごく重要な資料です。ただし、これだけで会社が意図的に不正をしたと断定はできません。勤務時間の原本や契約関係の確認が必要です」


「分かっています。だから工場の勤務表を見てください」


 写真を拡大すると、従業員の名前が縦に並び、横に時間帯が書かれていた。アンの名は二十三時まで黒い線が引かれ、その後に手書きで「延長」とある。


「これはいつ撮りましたか」


「失踪した日の夕方です」


「原本は今もありますか」


「会社が変えなければ」


 梨沙は時計を見た。

 昨日、坂本課長へ、正式な相談確認として勤務先へ聞き取りに行きたいと申し出ていた。調査ではなく、相談者が示した事実について会社側の説明を聞くという位置づけなら認められる。


「午後、工場へ行きます」


「僕も行きます」


「会社に資料を出したことが分かる危険があります」


「アンがいないのに、いつもどおり働くほうが危険です」


 梨沙は数秒考えた。


「面談には同席させられません。でも、工場の外で待っていてください。何かあればすぐ連絡できるように」


     *


天野フーズ第二工場は、市の郊外を走る国道沿いにあった。

 正門には「食の安心を、地域の未来へ」と書かれた看板が掲げられ、植え込みは冬でもきれいに刈り込まれている。駐車場の一角に、会社名のない白いワゴン車が四台並んでいた。


 梨沙は公用車を降り、庁名の入った身分証を首から提げた。

 受付には、外国人従業員が笑顔で料理を持つ写真が飾られている。その下に「多文化共生優良事業所」の市長表彰状があった。


 応接室へ現れた工場長の田辺は、最初から用意していたように書類を机へ並べた。


「チャン君の件ですよね。こちらも心配しています」


「最終勤務時刻を確認させてください」


「二十四時です」


「午前一時五十八分に、工場内と思われる音声が市へ届いています」


 田辺の指が一瞬止まった。


「工場内と、なぜ分かるんですか」


「背景音について、同僚の証言があります」


「その同僚というのは、グエン君ですか」


 梨沙は答えなかった。


「勤務表を見せていただけますか」


「個人情報がありますので、そのままお見せすることはできません」


「アンさん本人の部分だけで構いません」


 田辺は、机に置いた一枚を差し出した。

 印刷された勤務表には、チャン・ドゥック・アンの名前がなかった。


「在籍していないんですか」


「当社の従業員ではありません。協栄サポートから請負業務を受けていますので」


「この工場で働いていたことは認めますか」


「請負先の配置までは、当社が個別に管理する立場にありません」


「現場で作業指示を出していたのは誰ですか」


「作業の品質基準は当社が示します。人員への指揮命令は請負責任者が行います」


「昨夜、残業を指示したのは?」


「残業があったとは確認していません」


 梨沙は、ミンが撮影した写真を鞄から出した。

 個人情報を隠した複製だった。


「昨日の夕方、工場内に掲示されていた勤務表です。アンさんの名前と、延長の記載があります」


 田辺は写真を見ても表情を変えなかった。


「現場が便宜上作った作業配置表かもしれません。公式な勤務記録ではありません」


「今、その掲示物を確認できますか」


「衛生区域ですので、事前の手続きが必要です」


 梨沙は立ち上がった。


「手続きします。入口から見える範囲だけでも――」


 応接室のドアが開いた。


「市役所の三浦さんですね」


 入ってきた男は、田辺より十歳ほど若く見えた。濃紺のスーツに、目立たない銀色のネクタイピン。髪には白いものが混じっているが、姿勢はまっすぐだった。


「天野地域産業グループの天野恒一です」


 名刺には、執行役員・地域共生推進本部長とある。


「急なことで、現場も混乱しています。私からご説明します」


 天野は田辺の隣ではなく、梨沙の斜め向かいに座った。対立する位置を避けたように見えた。


「アンさんについて、グループとして警察の確認には全面的に協力します。ただ、現時点では本人が自主的に職場を離れた可能性が高いと聞いております」


「その根拠は何ですか」


「寮に不満があったという話や、転職を考えていたという証言です」


「誰の証言ですか」


「個人に関わることですので、ここでは控えます」


「市へ届いた音声では、名簿から消されると訴えています」


 天野の目が、ほんのわずかに細くなった。


「名簿、ですか」


「ご存じありませんか」


「外国人材の受け入れには、在留、研修、勤務、生活支援と多くの書類があります。本人がどれを指したか分からない以上、推測で話すべきではありません」


 正しい答えだった。

 だからこそ、梨沙は警戒した。


「勤務時間と給与明細に大きな齟齬があります」


「一部に事務処理上の誤りがあれば、当然、是正します」


「支払会社が月ごとに変わることも事務処理ですか」


「協栄サポートは複数の関連事業者と連携しています。契約形態については先方へお問い合わせください」


「御社の工場で働く人について、御社には責任がないと?」


「法的な雇用責任と、地域企業としての道義的責任は分けて考える必要があります」


 天野は穏やかな声を崩さなかった。


「私たちは市へ寄付を行い、日本語教室を支援し、毎年、多文化交流会も開いています。日本人を含めて二千人以上の雇用を守っている。一部の事務ミスをもって、現場全体が人を搾取しているように扱われれば、働いている方々が最も傷つきます」


「まだ、搾取という言葉は使っていません」


 田辺が天野を見た。

 天野は一拍置き、微笑した。


「失礼。最近、そうした決めつけが多いものですから」


「私が確認しているのは、アンさんが昨夜何時まで、どこで働いていたかです」


「確認して回答します」


「いつまでに?」


「一週間以内に」


「行方が分からない人の最終確認です。今日中にお願いします」


 天野の微笑が消えた。


「三浦さん。行政と企業は、敵ではありません」


「そうである必要はありません。でも、同じ側である必要もありません」


 部屋に沈黙が落ちた。


 工場を出ると、ミンが国道沿いのコンビニ前に立っていた。


「勤務表は?」


「新しいものが出てきました。アンさんの名前はありません」


「昨日までありました」


「写真がなければ、存在しなかったことになります」


 ミンは唇を結んだ。


「まだ終わりではありません」


 梨沙は言ったが、自分へ言い聞かせる響きになった。


 駐車場を出る白いワゴン車が目に入った。フロントガラスに青い札がある。


「B3」


 ミンが小さく言った。


「何ですか」


「送迎車の記号です」


「班の名前では?」


「違います。A1は寮から第二工場。B3は物流センター。K7は……」


 ミンは写真の勤務表を開き、アンの名前を拡大した。

 欄の右端に、細い赤字で「K7」と書かれていた。


「K7はどこですか」


「分かりません。乗ったことがありません。でも、Kの車に乗る人は、夜に戻らないことがあります」


     *


市役所へ戻ると、梨沙の机に天野グループからの回答書が届いていた。


〈チャン・ドゥック・アン氏について、当社施設における最終作業終了時刻は二十四時である。以後の行動について当社は把握していない〉


 添付資料には、作業責任者の確認印が押されていた。


 梨沙は音声ファイルの送信時刻を並べた。


 午前一時五十八分。


 二時間近い空白がある。


 回答書の末尾には、〈請負事業者の従業者に関する個別情報については、雇用主である協栄サポートへ照会されたい〉とある。


 協栄サポートへ電話すると、担当者は「アンは二十四時に送迎車へ乗せ、寮へ戻した」と説明した。


「誰が運転しましたか」


「委託運転手です」


「氏名は?」


「個人情報なので回答できません」


「同乗者は?」


「確認中です」


「車両番号は?」


「確認中です」


「寮への到着時刻は?」


「通常なら零時半頃です」


「通常ではなく、その日の記録を聞いています」


「確認して折り返します」


 電話はそのまま切れた。


 一時間後、協栄からファクスが届いた。


〈送迎記録は車両端末の不具合により保存されていない〉


 工場には二十四時までいた記録がある。

 寮へ戻したという説明がある。

 だが、その間をつなぐ運転手、車両、同乗者、到着時刻は一つも残っていない。


 記録がない場所にだけ、人が消えるための道ができていた。


 その頃、樋口颯太は新聞社の編集会議で、自分の記事を三度目に否定されていた。


「失踪者一人、賃金トラブルの証言一件。これで企業名を出すのは無理だ」


 社会部デスクの大城が、原稿を机へ滑らせた。


「企業名を出さずに、技能実習制度の構造として書きます」


「だったらニュースじゃない。解説記事だ」


「失踪当日の勤務時間を会社が説明できていません」


「市役所が正式発表したのか」


「していません」


「警察が事件として捜査してるのか」


「行方不明者として確認中です」


「じゃあ書けない」


 大城はパソコンの画面を回した。

 そこには別の見出し案が表示されていた。


〈外国人実習生が相次ぎ失踪 住民に広がる不安〉


「相次いでいません。今回の一人だけです」


「県内全体では増えている」


「今回の事件と直接関係がない」


「読者が知りたいのは制度論じゃない。近所は安全なのか、税金がどう使われてるのかだ」


「失踪した人が危険人物だという証拠はありません」


「危険人物だとは書いてない。住民が不安だと書く」


「不安を作ってから、不安があると記事にするんですか」


 会議室の空気が固まった。


 大城は椅子へ深く座った。


「樋口。おまえ、最近数字が取れてないだろ」


「数字?」


「電子版の閲覧数だよ。理屈の長い記事は読まれない。読まれない正義に何の意味がある」


 樋口は原稿を回収した。


「読ませるために、事実を曲げる意味はもっとありません」


「曲げろとは言ってない」


「一人を相次ぐに変えるのは、曲げることです」


 大城は何も言わなかった。


 会議室を出た樋口は、自席へ戻らず、社用車の鍵を取った。

 数日前、国道で起きた追突事故の写真を整理していなかったことを思い出した。事故現場は天野フーズの工場から五キロほど離れている。外国人労働者を乗せた白いワゴン車が渋滞に巻き込まれていた。


 撮影データをノートパソコンへ読み込み、一枚ずつ拡大する。

 潰れた軽自動車。警察官。救急車。野次馬。反対車線で停車する白いワゴン車。


 フロントガラスの隅に、札が見えた。

 黄色い地に黒い文字。


〈K7〉


 樋口は写真の撮影時刻を確認した。午後十一時十二分。

 車は工場へ戻る方向ではなく、市の北側へ向かっていた。


 前後の写真を開くと、ワゴン車の後部座席に、人影が五つ見えた。全員が同じ白い作業帽を膝に置いている。

 運転席の男は、携帯電話を耳に当てていた。


 樋口は地図を開いた。

 事故現場から北へ進むと、天野グループの物流センターがある。だが、その手前で県道を西へ曲がれば、別会社の大型倉庫へ行ける。


 写真の次の一枚には、交通整理のため迂回するK7の後ろ姿が写っていた。

 方向指示器は左に点滅している。


 物流センターは右だった。


 左の道の先にあるのは、北関東ロジスティクス川ノ瀬倉庫。

 登記上、天野グループとは関係のない会社だ。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


第三章 拡散される怒り


 朱里がその動画を最初に見たのは、朝の電車の中だった。


 川ノ瀬中央駅へ向かう各駅停車は、高校生と通勤客で身動きが取れないほど混んでいた。三浦朱里は吊り革につかまったまま、片手でスマートフォンを操作していた。友人の莉子が送ってきたメッセージには、赤い感嘆符が三つ付いている。


〈これ昨日の工場じゃない? 怖くない?〉


 十五秒の縦長動画だった。

 工場の門の前で、外国人らしい若い男が管理担当者へ詰め寄っている。男は何度も腕を上げ、声を張っていた。周囲には同じ作業着を着た人が数人いる。


 字幕が大きく点滅する。


〈外国人労働者が集団で暴動〉

〈仲間の逃亡を助けた疑い〉

〈川ノ瀬市は事実を隠蔽中〉


 最後に、黒い背景へ白字が出た。


〈あなたの街は安全ですか?〉


 再生数は十二万を超えていた。投稿からまだ四時間しか経っていない。


 コメント欄には、怒りの言葉が途切れず流れている。


〈税金で面倒を見る必要ない〉

〈日本のルールを守れないなら帰れ〉

〈市役所は外国人ばかり優遇している〉

〈近くの学校に通わせて大丈夫なの?〉


 朱里は工場の名前に見覚えがあった。姉の梨沙が昨夜、夕食中に電話を受けて席を立った。戻ってきたとき、「天野フーズ」という言葉を小さく口にしていた。


〈お姉ちゃんの部署かも〉


 莉子へ送ると、すぐ既読が付いた。


〈役所なら何か知ってるんじゃん〉

〈今日聞いてよ〉


 朱里は動画を保存し、自分のアカウントで共有した。

 深い考えがあったわけではない。みんなが見ているから、自分も見たと示したかった。何も知らない側に置いていかれるのが嫌だった。


 共有ボタンを押した瞬間、画面の数字が一つ増えた。

 それだけだった。


     *


動画に映っていたのはミンだった。


 前日の午後、工場から出てきた黒田へ、アンの最終勤務時刻を聞こうとした場面が切り取られていた。


「病院へ連れていってくださいと言ったんです」


 市役所の面談室で、ミンは元の動画を探しながら説明した。


「アンではなく、別の人です。ラインで腕を切った人がいて、会社は寮で休ませると言いました。僕は出血が多いから病院へ行くべきだと言った。それで黒田さんと口論になりました」


「動画は誰が撮ったんですか」


「分かりません。道路の反対側からです」


 投稿されている動画は、ミンが腕を上げて黒田を指したところから始まり、黒田の胸元へ一歩近づいたところで終わる。けが人も、救急車を呼ぶよう求める声も映っていない。


 梨沙は投稿元を開いた。

 アカウント名は「川ノ瀬安全通信」。プロフィールには〈地域の安全と暮らしを守る市民ニュース〉とあるが、運営者名も連絡先もない。


「暴動という事実はありません。市として訂正を出せませんか」


 ミンが尋ねた。


「広報課と協議します」


「協議は、どのくらいかかりますか」


 梨沙は答えに詰まった。


 そのとき、面談室の外で電話が鳴った。続けてもう一台。さらに別の電話。

 相談室へ戻ると、職員全員が受話器を取っていた。


「はい、川ノ瀬市雇用・多文化相談室です」


「いいえ、市が失踪を隠しているという事実は確認しておりません」


「外国人だけを優先して支援している制度ではありません」


「動画の内容については、現在確認中です」


 保留ランプが一列に点滅している。


 梨沙の机の電話も鳴った。


「税金で犯罪者を匿ってるんだろ」


 名乗らない男の声だった。


「そのような事実はありません」


「じゃあ、なんで発表しない」


「個人の相談情報については――」


「都合が悪いと個人情報か。日本人が困っても何もしないくせに」


「日本人、外国人を問わず、労働や生活の相談を受けています」


「嘘つけ。おまえら反日だろ」


 電話は切れた。


 次の着信まで三秒もなかった。


 午前十一時には、抗議電話が百件を超えた。市の代表番号から転送されるものもあり、通常の相談がつながらない。窓口には二組の相談者が待っていた。


 フィリピン出身の母親と小学生らしい女の子が、番号札を握って座っている。母親は解雇通知の紙を持っていた。


 入口近くにいた年配の男が、二人を見て舌打ちした。


「こういうのばっかり助けるから、日本人が後回しなんだ」


 梨沙が席を立った。


「相談者への発言はお控えください」


「何だよ。事実だろ。テレビでやってたぞ」


「ここは誰でも利用する相談窓口です」


「犯罪者の仲間もか」


 女の子が母親の腕へしがみついた。

 母親は小さな声で「帰ります」と言った。


「お待ちください。別室をご用意します」


「大丈夫です」


 母親は通知書を鞄へ押し込み、女の子の手を引いた。梨沙が追いかけたときには、エレベーターの扉が閉じていた。


 助けを求めて来た人が、窓口でさらに傷つけられて帰っていく。

 電話の向こうの怒りを処理するために、目の前の相談が消えた。


「三浦さん」


 坂本課長が手招きした。


「アンさんの件、外部への個別対応をいったん止める」


「なぜですか」


「市長部局から指示が来た。情報が錯綜している。広報を一本化する」


「ミンさんの相談は継続中です」


「相談対応はする。ただし、工場への追加確認、記者への接触、SNSについての発言は止めてくれ」


「偽情報が広がっています」


「だからこそ、個人で動かないでほしい」


「公式発表はいつ出ますか」


「警察と調整してからだ」


「調整しているあいだに、現実の被害が出ています」


「分かっている」


 坂本は疲れた顔で言った。


「分かっているから、これ以上広げないために止めるんだ」


 梨沙は、何を止めるのかと聞きたかった。

 調査か。情報か。怒りか。それとも、助けを求める人の声か。


     *


樋口は、加工動画を広げた投稿の時刻を表にした。動画が公開される三分前から、同じハッシュタグと同じ文面が複数のアカウントで使われている。発信元の一つ「川ノ瀬安全通信」は地域ニュースを装い、過去には天野グループの催しを繰り返し紹介していた。


 自然に生まれた怒りではなく、怒る方向まで準備されていた可能性がある。だが、疑いだけでは記事にできない。事実を確かめている間にも、嘘の再生数は増え続けていた。


     *


朱里の不安には、動画を見る前から形のない下地があった。


 父が家を出てから、母は食品スーパーの惣菜部門で働く時間を増やした。店舗ではセルフレジが導入され、来月からパートのシフトが減るかもしれないと話していた。梨沙は公務員で、家賃や学費を心配する様子を見せない。母も「子どもが気にすることじゃない」と笑った。


 だから朱里は、誰にも聞けなかった。

 自分が大学へ行く頃、家に金はあるのか。

 仕事はあるのか。

 母の働く場所がなくなったら、誰が助けるのか。


 その日の現代社会の授業で、教師が工場の外国人労働者について話題にした。


「人手不足を補うため、地域の産業には外国人材が必要です。一方で、労働環境や地域との摩擦も課題です」


 教科書どおりの説明だった。


 後ろの席の男子が手を挙げた。


「外国人を入れる前に、日本人の給料を上げればいいんじゃないですか」


「それも重要な視点です」


「安く働く人を入れるから、給料が上がらないんですよね」


「原因は一つではありません」


「でも、うちの父親の会社、外国人を増やして日本人を減らしたって言ってました」


 教室がざわついた。


 別の生徒が、「外国人は寮を会社に用意してもらえるから得だ」と言った。誰かが「税金で日本語教室もやってる」と続けた。


 教師は、支援制度の目的や技能実習制度の仕組みを説明しようとした。しかし言葉が増えるほど、生徒たちの顔から関心が失われた。


「結局、必要なんですか、危ないんですか」


 問いに、教師は「二者択一ではありません」と答えた。


 正しい答えだった。

 朱里には、答えを避けているように聞こえた。


 昼休み、莉子が言った。


「大人って、都合悪いと複雑って言うよね」


「うちのお姉ちゃんも」


「役所だから外国人の味方しないといけないんじゃない?」


「知らない」


「日本人差別って言葉もあるらしいよ」


 莉子が見せた動画では、配信者がカメラを真っすぐ見ていた。


〈あなたが苦しいのは努力不足ではありません。国が外国人を優遇し、日本人を後回しにしているからです〉


 朱里は、その言葉に少し救われた。

 母のシフトが減るかもしれないことも、自分の将来が分からないことも、家族に気を遣って質問できないことも、自分の弱さではないと言ってもらえた気がした。


 配信者は数字をいくつも示した。出典は小さく、画面の端へ一瞬出るだけだった。

 外国人住民の増加率。日本語教育の予算。生活相談件数。


 すべて事実のように見えた。

 それらが何と比較されているかを、朱里は確かめなかった。


     *


市の広報会議では、動画への訂正文を出すかどうかで一時間が過ぎた。


 広報課は、〈暴動の事実は確認されていない〉という文案を示した。警察は捜査中の個別案件に触れないよう求め、産業振興課は企業名を出せば風評被害になると反対した。


「企業名を出さなければ、どの動画の訂正か分かりません」


 梨沙が言った。


「市が動画を公式に取り上げることで、かえって拡散する可能性がある」


「すでに二十万回以上見られています」


「数字の裏付けは?」


「公開画面で確認できます」


「再生数が実視聴者数とは限らない」


 正しい指摘が、また何もしない理由に使われる。


 最終的に、市はホームページの目立たない場所へ、〈SNS上の未確認情報にご注意ください〉という一般的な文章を掲載した。動画も、ミンも、寮への投石も書かれなかった。


 投稿から三十分後、川ノ瀬安全通信はその文章を引用した。


〈市は具体的な否定を避けた。疑惑は深まるばかりだ〉


 梨沙は画面を見て、正しい情報を出すことと、受け取られる形で出すことの違いを思い知った。


 曖昧な文章は中立ではない。

 すでに強く広がった物語を、そのまま残す側へ働く。


 樋口は市の発表と拡散投稿を並べた短い解説記事を書いた。見出しには「暴動」という語を入れず、〈加工動画、市は具体的説明を避ける〉とした。


 記事は派手に読まれなかった。

 しかし、元動画を探していた数人から情報提供が届いた。その一つが、後に朱里が見つける長い映像の保存先へつながった。


 夜、梨沙が帰宅すると、朱里は居間のテレビへスマートフォンの画面を映していた。


 母はパートの夜勤で不在だった。食卓には、梨沙が朝作っておいたカレーが温められずに置かれている。


「お姉ちゃん、これ知ってる?」


 例の動画だった。


「どこで見つけたの」


「みんな見てるよ。再生二十万超えてる」


「それは切り取られた動画。暴動ではない」


「なんで分かるの」


「確認しているから」


「役所が?」


「詳しいことは言えない」


「ほら、やっぱり隠してる」


「隠しているんじゃない。相談には守秘義務があるの」


 朱里は動画を止め、コメント欄を見せた。


「この人、失踪した外国人が窃盗グループに入ったって言ってる。工場の人から聞いたって」


「根拠は?」


「だから工場の人」


「誰。名前は。いつ、何を見たの」


「そんなの動画で全部言わないでしょ」


「言えないなら、事実かどうか判断できない」


「お姉ちゃんだって何も言えないじゃん」


 朱里の声が鋭くなった。


「役所は外国人に家を用意して、生活費も出してるって。本当?」


「制度による。外国人だから無条件に出すわけじゃない」


「じゃあ日本人と同じ?」


「原則は同じ。でも在留資格や支援事業によって――」


「難しい言い方でごまかさないで」


 梨沙は息を吐いた。


「ごまかしてない。制度は簡単じゃないの」


「動画の人は簡単に説明してたよ。人手不足って言って外国人を入れて、税金で助けて、日本人の給料が下がるって」


「一分の動画で説明できるほど、働く人の生活は簡単じゃない」


「でも、みんな不安なんだよ」


「不安なら、誰かを犯罪者にしていいの?」


「してない。可能性を言ってるだけ」


「その可能性で、今日、相談に来た親子が帰った」


 守秘義務に触れない範囲だと思ったが、口にした後で後悔した。


 朱里は視線を逸らした。


「お姉ちゃんは、いつもそっち側だよね」


「そっち側って何」


「困ってる外国人の側。日本人が怖いって言うと、差別だって怒る側」


「私は差別だなんて言ってない」


「顔が言ってる」


 朱里はスマートフォンを取ろうとした梨沙の手を払った。


「これ以上、その動画を拡散しないで」


「私のスマホでしょ」


「人を傷つけてるの」


「お姉ちゃんに分かるの? 学校で何かあったら、毎日守ってくれるの?」


「何があったの」


「別に」


「朱里」


「今さら聞かないで」


 朱里はスマートフォンを握って二階へ上がった。ドアが閉まる音が家中に響いた。


 梨沙は冷えたカレーの前に座った。

 正しいことを言ったはずだった。

 けれど、朱里が何を怖がっているのか、一度も尋ねていなかった。


     *


午後十一時過ぎ、ミンから電話がかかってきた。


「寮に石が投げられました」


 梨沙はコートを掴み、車で寮へ向かった。


 玄関脇の窓ガラスにひびが入り、床に拳ほどの石が落ちていた。外壁には白い紙が貼られている。黒い油性ペンで〈帰れ〉と書かれていた。


 寮の住人たちは食堂に集まっていた。誰も大声を出さない。カーテンの隙間から外を見ている者、家族へ電話する者、荷物をまとめる者もいた。


「警察へ連絡しましたか」


「管理担当者は、騒ぎを大きくするなと言いました」


 ミンは紙を剥がさず、そのまま写真を撮っていた。


「証拠を残すんですね」


「アンから学びました」


 梨沙は警察へ通報し、被害届の手続きを説明した。警察官が来るまで、石に触れず、住人の名前と目撃情報を整理した。


 黒田は三十分後に現れた。


「こんなことで市役所まで呼んだのか」


「窓ガラスが割られています」


「ひびだろ。誰がやったか分からない」


「だから警察に確認してもらいます」


「外国人寮があると、こういう反発も起きるんだ。刺激しないほうがいい」


 ミンが立ち上がった。


「刺激したのは、動画を作った人です」


「おまえが工場前で騒ぐからだろ」


「けが人を病院へ連れていけと言いました」


「勝手な判断をするな」


 梨沙は二人の間に入った。


「今は器物損壊と脅迫的な貼り紙への対応です。労務上の話は別にしてください」


 黒田は梨沙を睨み、電話をかけるため外へ出た。


 警察の聞き取りが終わったのは午前一時近くだった。

 梨沙はミンを市役所近くのNPOが管理する一時相談室まで送ることを提案したが、ミンは首を振った。


「みんなを残して行けません」


「あなたが狙われる可能性があります」


「僕だけ安全な場所に行けば、会社はほかの人に聞きます」


「一人で守れる人数ではありません」


「分かっています」


 寮の前に立つ二人の吐く息が白く重なった。


「三浦さん」


「はい」


「アンが怖がっていたのは、日本人ではありません」


 梨沙は黙って続きを待った。


「会社の中の人です。名前を全部書いた手帳を見つけられることを怖がっていた。だから、外の人が怒っても、会社には都合がいいです。みんなの目が、違うところへ行くから」


 窓の向こうで、寮の住人が割れたガラスへ段ボールを当てていた。


 怒りは、投げた人の手から離れた後も、誰かの部屋に残る。


     *


自宅へ戻ったのは午前二時だった。

 玄関灯の下に、白い封筒が落ちていた。


 宛名はない。

 中には、三か月前の相談記録のコピーが一枚入っていた。


 庁内システムから印刷された書式。右上には内部管理番号がある。一般の人が入手できるものではない。


 赤いペンで一行だけ書かれていた。


〈守秘義務を忘れるな〉


 梨沙は反射的に家の二階を見上げた。

 朱里の部屋のカーテンは閉じられ、灯りは消えている。


 封筒を持つ指が震えた。


 これは自分への警告だけではない。

 内部文書を持ち出せる誰かが、勤務先を知り、自宅を知り、家族がいることも知っている。


 梨沙は封筒を透明な袋へ入れ、玄関の鍵を確かめた。

 一度閉めた鍵を、もう一度引いた。


 その夜、眠ることはできなかった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


第四章 通訳者の証言


 ミンが日本へ来る前、働いていたのはハノイ郊外の物流会社だった。


 大型倉庫の片隅に置かれた机で、一日中、トラックの現在地を表へ入力した。道路が混めば到着予定を組み替え、荷物が増えれば空いている車を探した。運転手から怒鳴られ、顧客から急かされ、それでも地図の上でばらばらだった点が一本の流れになる瞬間が好きだった。


 日本語を学び始めたのも、その仕事がきっかけだった。

 日本企業から届く発注書には、細かい時間指定が並んでいた。午前九時必着。荷下ろし十五分以内。遅延時は即時連絡。几帳面で、冷たいほど正確な指示だった。


 日本で物流を学べば、家族へ送金しながら、いつか国際輸送の仕事ができる。

 仲介業者はそう言った。


 実際に来日して任されたのは、冷凍食品のトレーに鶏肉を並べる仕事だった。


 最初は、それでもいいと思った。日本語を覚え、三年間働き、次へ進めばいい。

 半年後には、会社から通訳を頼まれるようになった。


「残業は研修の一部です」

「寮費が上がったのは、光熱費が高くなったからです」

「別の工場へ行くのは、技術を学ぶためです」

「署名しないと、契約を続けられません」


 黒田が日本語で言ったことを、ミンはベトナム語へ直した。

 同僚たちは会社の言葉ではなく、ミンの顔を見て頷いた。


 そのたびに、言葉が口から出た後、自分のものではなくなる感覚があった。

 正確に訳すほど、誰かを追い詰める。

 訳さなければ、通訳として信用を失う。


 アンだけは、説明の途中でよく質問した。


「ミン、この紙に研修と書いてありますか」

「ここには業務支援とあります」

「業務支援は、研修と同じですか」

「同じではない」

「では、なぜ研修と言いますか」


 答えられないと、アンは小さな黒い手帳へ何かを書いた。


     *


多文化共生NPO「かわのせリンク」の相談室は、古い商店街の二階にあった。


 入口の表示は、日本語、英語、ベトナム語、タガログ語、インドネシア語で書かれている。事務所には小さな会議室が二つあり、窓には外から中が見えないフィルムが貼られていた。


 梨沙は、市役所ではなくここで会うことを選んだ。

 自宅へ届いた内部文書のことは、坂本課長と警察へ報告した。坂本は「誰が持ち出したのか確認する」と言ったが、庁内調査が始まれば、梨沙の閲覧履歴も調べられる。相談記録を正当に確認しただけでも、別の意味を与えられるかもしれない。


 会議室には梨沙、ミン、樋口のほか、NPO職員の水野佳代がいた。

 水野は五十代半ばで、外国人相談に二十年以上関わっている。テーブルの中央に録音機を置き、最初に確認した。


「今日の話は、ミンさんの同意がない限り、外へ出しません。市役所、新聞社、NPOで、それぞれ立場が違います。途中で答えたくない質問があれば、答えなくて大丈夫です」


「録音は、僕も持てますか」


「終わったら同じデータを渡します」


「お願いします」


 ミンは椅子へ深く座り直した。


 樋口がK7の車を撮影した写真を示した。


「この倉庫へ行ったことはありますか」


「あります。二回」


「工場から、どういう指示で?」


「夜十一時頃、ラインが終わると、名前を呼ばれます。着替えないで車に乗る。倉庫では、冷凍食品ではなく、通販の箱を分けます。朝三時か四時に寮へ戻ります」


「給与は?」


「工場だけの日と同じです。倉庫で働いた時間は、明細にありません」


「誰が指示を出しますか」


「工場では森岡さん。車では協栄の人。倉庫では、別の会社の腕章をした人です」


「会社名は」


「北関東ロジスティクス。でも給与明細はKSパートナーズでした」


 梨沙は三つの名称を紙へ書き、矢印で結んだ。


「契約上の実習先は天野フーズ。実際に指示を受けるのは三つの組織。給与はまた別の会社から出ることがある」


「はい」


「送迎車の記号は、その組み合わせを示している?」


 ミンは大きな紙を広げた。

 手書きの表があった。


〈A1 第二寮→天野フーズ第二工場/協栄〉

〈A4 第一寮→天野フーズ第一工場/協栄〉

〈B3 第二工場→北関東ロジ/KS〉

〈C2 第三寮→給食センター/北辰〉

〈K7 第二工場→北関東ロジ→不明〉


「この表はいつ作ったんですか」


「昨日からです。覚えている車と、乗った人を全部書きました」


「K7だけ、行き先が二つあるように見える」


「倉庫の後、何人かが別の車へ移されます。僕は倉庫に残ったので、その先は分かりません」


「アンさんは、K7へ乗ったことがありますか」


「あります。失踪の前にも」


「帰ってきたとき、何か話しましたか」


 ミンは少し迷った。


「工場より危ない仕事だと言いました。金属の部品を作るところ。音が大きい。油の匂いがする。県を越えたと思う、と」


「なぜ県を越えたと?」


「車の中でスマホの地図を見たからです。でも途中でスマホを預けさせられた」


 樋口が地図を開いた。


「K7が物流倉庫から西へ向かうなら、県境まで四十分くらいです」


 ミンは頷いた。


「記号は、会社だけではありません。車、現場、給与の名前です。月末に変わります」


「どうして変える必要があると思いますか」


「一つの会社で長く働いた記録を残さないためです」


 水野が尋ねた。


「それは会社から説明されたことですか。それとも、ミンさんの推測ですか」


「推測です。でも数字があります」


 ミンは自作の勤務比較表を出した。


「僕たちが一つの場所で二百四十時間働いても、会社を三つに分けると、一つの会社では八十時間ずつになります。給与は百六十時間だけ。残りは研修、移動、手伝いと言われます」


 樋口は表を見ながら、確認済みと推測を別々のページへ書いた。


「この仕組みを、アンさんも理解していた?」


「アンが最初に気づきました」


     *


三か月前、同僚のフイが箱詰め機へ右手を挟まれた。


 血が手袋の中へ溜まり、床へ落ちた。日本人のパート従業員が救急車を呼ぼうとしたが、森岡は「大げさにするな」と止めた。黒田が車でフイを診療所へ運び、その日の夕方には寮へ戻した。


 翌週、フイのベッドは空になった。


「帰国した」と黒田は説明した。

 だが、別れの挨拶も、荷物をまとめた跡もなかった。


 アンは食堂の掲示板にあった名簿を撮影した。前の週までフイの名前があった欄は、紙ごと差し替えられていた。


「事故がなかったことになる」


 アンはミンへ言った。


「病院の記録はあります」


「会社の事故ではないと言います。フイはその日、別会社の研修だったことになる」


「どうして分かりますか」


 アンは給与明細を見せた。事故の月だけ、支払会社が北辰人材開発に変わっている。


「みんなの名前が、一つの紙に揃えば、嘘が分かる」


 それからアンは手帳を持ち歩くようになった。

 日付、時刻、場所、車の記号。誰が一緒だったか。給与を払った会社。けがをした人、突然いなくなった人。


「そんなものを見つけられたら危ない」


 ミンが言うと、アンは笑った。


「見つからなければ、僕たちが危ないままです」


 失踪する前日、アンは手帳のページを見せた。

 名前は四十人を超えていた。


「明日、市役所へ持っていく」


「一人で行かないで。午前なら僕も行ける」


「もし僕が遅れたら、先に来てください」


「なぜ遅れますか」


「会社は僕が何をしているか知っているかもしれない」


 ミンは冗談だと思いたかった。

 だから、「考えすぎです」と答えた。


 その言葉を、今も後悔していた。


     *


NPOには、ミンの証言を聞いた同僚たちからも相談が届き始めた。


 一人は、すぐ帰国したいと言った。


「会社からお金が戻らなくてもいい。家族に会いたい」


 別の一人は、今の工場へ残りたいと話した。


「仕事を変えると、在留の手続きが難しい。班長は悪い人ではない」


 インドネシア出身の女性は、別の会社へ移りたいが、同じ寮に住む妹を残せないと悩んでいた。


 水野は、全員へ同じ解決を勧めなかった。

 帰国便と未払い賃金の請求を同時に進める人。現在の職場で契約だけを是正する人。緊急避難する人。記録を残すだけで、今は動かない人。


 梨沙は相談票を見ながら、自分が「保護」という言葉で一つにまとめようとしていたことに気づいた。


「会社から離れることが、安全とは限らないんですね」


「離れた後の住居も仕事もなければ、別の仲介業者に頼るしかなくなる」


 水野が答えた。


「助ける側が、本人の希望より早く結論を出すと、会社と同じことをします」


 ミンは同僚の通訳を頼まれたが、断った。


「僕は事件の当事者です。会社に怒っています。正しい通訳ができないかもしれません」


 代わりに、外部通訳へ工場の用語や送迎記号を説明した。


 自分にできることと、するべきでないことを分ける。

 以前のミンは、頼まれた言葉をすべて引き受けることが役に立つことだと思っていた。


 今は、断ることも専門性の一部だと知り始めていた。


 聞き取りを一度中断し、水野が温かい茶を入れた。


「続けられますか」


「はい」


 ミンは茶に口をつけず、地図を見た。


「アンは、手帳を市役所へ持っていくと言っていた。会社はそれを止めたかった。僕はそう思います」


「その可能性はあります」


 梨沙は慎重に答えた。


「ただ、アンさんがどこにいるかを突き止めるには、K7の行き先を特定しなければなりません」


 樋口が物流倉庫の企業情報を示した。


「北関東ロジスティクスは、市から雇用創出補助金を受けています。五年前にこの倉庫を建てたとき、地元雇用百二十人を条件に三億円の支援を受けた」


「外国人労働者を使うことが違反なんですか」


 ミンが聞いた。


「それ自体は違反ではない。でも、申請した雇用人数と実際の働き方が違う可能性がある。請負なら、誰が雇用しているかを確認する必要もある」


 梨沙は市の公開資料を検索した。

 補助対象施設の現地確認報告には、従業員名簿を確認したと書かれている。確認日は昨年の九月。担当部署は産業振興課。


「名簿がある」


 梨沙は言った。


「市が確認した名簿と、工場の勤務記録を比べられれば、人がどこにいることになっているか分かります」


「閲覧できますか」


「補助金の担当部署なら保管しています。ただ、個人情報を含むので、私が自由に見られるものではありません」


「正式に照会してください」


「理由が必要です」


「人が消えています」


 ミンの声には怒りがなかった。

 怒りより固いものがあった。


「それ以上の理由がありますか」


 梨沙は返事をせず、照会文の下書きを作り始めた。


     *


ミンの記憶を地図へ落とす作業は、思っていたより難しかった。


 夜間の送迎車では、カーテンが閉められていた。スマートフォンを預ける日もある。疲れて眠ってしまうことも多く、道路標識を正確に見ていたわけではない。


 それでも、身体が覚えているものがあった。


「工場を出た後、最初に右へ曲がります。十分くらいで、道路が少し悪くなる」


「国道ではなく旧道かもしれない」


 樋口が地図の道路種別を切り替えた。


「その後、踏切を渡ります。警報の音が大きい。左に赤い看板の店があります」


「コンビニ?」


「いいえ。タイヤの店です。大きなタイヤが屋根にあります」


 航空写真で探すと、国道沿いに巨大なタイヤの看板を掲げた中古車用品店があった。


「ここなら、北関東ロジの手前です」


 ミンは頷いた。


「倉庫を出た後は、山が近くなります。川の上を長く走る。橋の床が金属で、車が震えます」


 候補の橋は三つあった。


「橋を渡る前に、運転手が電話で『七番、二枠追加』と言いました」


「七番はK7、二枠は二人追加か」


「たぶん。倉庫で二人、別の車から乗りました」


 ミンは目を閉じ、車内を思い出した。


 隣に座った男は、介護施設の制服の上へ工場用の上着を着ていた。靴も作業に向かない白い運動靴だった。どこへ行くのか尋ねると、「研修」とだけ答えた。


「男の名前は?」


「知りません。でも胸の名札に、カタカナでラシードとありました」


 梨沙は四十二人の一覧を検索した。


 アフマド・ラシード。介護施設勤務。三か月前、自己都合退職。所在確認不可。


「同じ人かは確認が必要です」


「写真があれば分かります」


 樋口が公開されている介護施設の職員紹介を探した。古いキャッシュに、ラシードという男性の写真が残っていた。


「この人です」


 ミンは迷わず指した。


 介護施設を退職したことになった人が、夜間の部品工場へ運ばれている。

 業種の違いは、移送網にとって意味がないらしい。必要なのは資格や経験ではなく、その夜に空いた「枠」だった。


 地図上の候補ルートを車で走ることにした。

 樋口が運転し、梨沙とミンが後部座席で記録する。日中で、車窓も開けている。それでもミンは、同じ道へ入ると呼吸が浅くなった。


「止めますか」


 梨沙が聞いた。


「大丈夫です」


「大丈夫でないときは、そう言ってください」


 ミンは少し間を置いた。


「少し、怖いです。でも続けます」


 中古タイヤ店。物流倉庫。金属床の橋。川を越えた先に、二本の道がある。


「左です」


「標識は?」


「見ていません。でも右へ曲がるときは身体が外へ動きます。あの日は、窓のほうへ押されました」


 車は左へ曲がった。

 山間部へ入ると、古い研修施設の案内板が草に埋もれていた。


〈天野地域技能研修センター この先三キロ〉


 閉鎖されたはずの施設へ、まだ道案内が残っている。


 さらに先へ進むと、県境の表示と東亜精密部品の大型看板が現れた。


 ミンは窓の外を見たまま言った。


「アンが言った油の匂い、ここです」


 工場から風に乗って、金属加工油の甘く重い臭いが流れていた。


     *


正式な証言記録を作る前に、水野はミンへ「通訳者を付けるか」と尋ねた。


「日本語で話せます」


「話せるかどうかではなく、重要な内容をどの言葉で考えたいかです」


 ミンは迷った。


 会社では、日本語ができることを評価されてきた。分からないと言えば、通訳なのにと責められた。日本語で説明できる自分が、ほかの同僚より少し安全な場所にいると思ったこともある。


「ベトナム語の通訳をお願いします」


「分かりました。ミンさんが話した日本語を、そのまま記録したい部分はそう言ってください」


 外部通訳がオンラインで参加した。

 質問は一つずつ行われた。


「契約外の現場へ行くことを、断ることができましたか」


 ミンは日本語で答えかけ、ベトナム語へ切り替えた。

 母語で話すと、自分が「断れなかった」と思っていた場面に、もっと細かな段階があったことが分かった。


 最初に黒田から、「みんな行く」と言われた。

 次に、「断ればシフトを減らす」と言われた。

 さらに、「実習態度として報告する」と言われた。

 車の前で迷うと、同僚たちを待たせていると責められた。


 誰かに腕を掴まれたわけではない。

 選べるように見える言葉を重ね、断った結果だけを重くした。


「同意したと思いますか」


 質問に、ミンは長く考えた。


「車には自分で乗りました。でも、行きたいとは言っていません」


 通訳が日本語へ訳した。


 梨沙は、その一文を証言記録の中心に残した。


 人が自分で動いたという事実だけを見れば、自由な選択に見える。

 その前に並べられた脅しや不利益を見なければ、同意という言葉もまた、人を隠す名簿になる。


     *


会議を終え、ミンが事務所の階段を下りたとき、スマートフォンが振動した。


 通知は、アンが使っていたメッセージアプリからだった。

 本文はない。

 地図の位置情報だけが送られている。


「待ってください」


 ミンの声に、梨沙と樋口が振り返った。


 位置を開く。

 川ノ瀬市の西端、山間部。市街地から車で一時間ほどの場所に赤い印がある。


 梨沙は住所を検索した。


〈天野地域技能研修センター〉


 企業の公式サイトでは、三年前に閉鎖されたことになっていた。

 航空写真には、山林に囲まれた細長い建物と、裏手の広い駐車場が映っている。


「アンが送ったんでしょうか」


 樋口が聞いた。


「アカウントを使えるのが、アンだけとは限りません」


 梨沙は答えた。


 ミンは画面を見つめた。


「アンは地図を送るとき、いつも場所の名前も書きます。位置だけは初めてです」


「罠の可能性もあります」


「それでも、ここに何かあります」


 赤い印は、地図の上で動かなかった。


 三人のスマートフォンに同じ場所が表示されている。

 名前の消えた人から届いた、名前のない場所だった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


第五章 善意の契約書


 閉鎖された研修施設へ向かう県道は、途中から街灯がなくなった。


 梨沙の車の前を樋口の軽自動車が走り、その後ろをNPOが手配した車がついていた。ミンは梨沙の助手席に座り、スマートフォンの地図を膝の上で見ている。


「あと二キロです」


 窓の外には、杉林しか見えなかった。路肩には数日前の雪が黒く残り、タイヤが踏むたび湿った音を立てた。


「警察には連絡したんですか」


「位置情報が届いたことは伝えました。ただ、アンさん本人が送った証拠がなく、施設内にいることも確認できないので、すぐの立ち入りはできないそうです」


「会社へ確認すれば、移されます」


「だから私たちも中には入りません。公道から確認するだけです」


 ミンは納得していない顔をしたが、頷いた。


 施設は錆びた金網の向こうにあった。

 二階建ての細長い建物。正面玄関にはチェーンがかけられ、看板の文字は半分剥がれている。外から見れば、長く使われていないように見えた。


 だが、二階の端の窓だけに、黄色い灯りがあった。


「閉鎖されているんですよね」


 ミンが言った。


「市の届出上は三年前に」


 樋口が望遠レンズを向けた。


 建物の裏でエンジン音がした。

 白いワゴン車がゆっくり出てくる。フロントガラスの札は外されていたが、後部バンパーの右側に長い擦り傷がある。


「K7です」


「札がないのに分かるんですか」


「事故の写真に同じ傷があります」


 樋口がカメラを連写した。


「追いますか」


 ミンがドアへ手をかけた。


「追いません」


 梨沙は言った。


「ここで気づかれたら、アンさんに危険が及ぶかもしれない。車両番号と時刻を記録します」


「今、乗っているかもしれません」


「だからこそ、私たちだけで止められません」


 ワゴン車は三台の前を通過した。後部の窓には濃いフィルムが貼られ、中は見えない。


 ミンは通り過ぎる車を目で追った。

 追わないという判断が正しいことは分かっている。それでも、正しさは車を止めなかった。


 翌朝、アンのアカウントから位置情報は消えていた。メッセージアプリにログインしようとすると、「このアカウントは存在しません」と表示された。


     *


研修施設の土地と建物を所有していたのは、一般社団法人「川ノ瀬国際人材育成協会」だった。


 法人の代表理事は二年前に交代している。現在の代表は天野地域産業グループの元人事部長。所在地は天野本社ビルの一室。過去の事業報告には、施設運営費として市と県から助成を受けた記録があった。


     *


包括協定の起案資料には、削除された条項があった。


 文書管理システムの版履歴を辿ると、初期案には〈受入事業者に対する定期的な労務状況確認〉と〈外部相談窓口の周知〉が記されている。最終案では、その二項目だけが消えていた。


 修正理由欄には、〈既存法令及び関係機関の所管と重複するため〉。


 企業側の意見書には、監査が過重な負担となり、人材受け入れを萎縮させるとあった。市側はそれを受け入れ、代わりに交流事業と日本語教育を拡充した。


 予算も、監査よりイベントのほうが通りやすかった。

 参加人数、料理の出店数、アンケートの満足度。成果を写真と数字で示せる。


 未払い賃金が減ったか、契約を理解できたか、相談後に不利益を受けなかったか。それを測る仕組みは最初から作られなかった。


 梨沙は削除前後の文書を保存し、佐伯へ見せた。


「誰かが悪意で消したわけではない」


「ええ。面倒で、所管が違って、予算がなくて、企業が嫌がった」


「それで一番必要なところが消えた」


 善意の契約書は、書かれた言葉より、削られた言葉によって形を決められていた。


 梨沙は庁内文書システムで法人名を検索した。

 数十件の文書が表示され、その中に「外国人材の受け入れと地域共生に関する包括協定」があった。


 五年前、市と天野グループ、国際人材育成協会が締結したものだ。

 冒頭には、色とりどりの国旗を背景に、市長と天野会長が握手する写真が添えられている。


〈相互理解を促進する〉

〈生活上の不安を軽減する〉

〈日本語学習の機会を提供する〉

〈地域住民との交流を深める〉


 文言はどれも正しかった。

 しかし、給与の支払い、契約変更、寮費、現場移動については一行もない。第三者監査も、匿名通報も、相談者への報復を禁じる条項もなかった。


 共生という言葉が、祭りと教室だけでできている。

 働く時間と金の話が、きれいに抜け落ちていた。


「この協定、相談室も関わっていますよね」


 梨沙は佐伯へ尋ねた。


「最初の案には意見を出した。生活相談の項目を入れてほしいと」


「労務監査は?」


「それは労働局の仕事だと言われた」


「補助金の実績確認は市です」


「産業振興課は、雇用人数と事業継続を確認する。契約の中身までは見ない」


「相談室は調査権限がない。産業振興課は契約を見ない。労働局は相談者本人から申告が必要。会社は請負先に聞けと言う」


 梨沙は文書を指でなぞった。


「その間にいる人は、誰が見るんですか」


 佐伯は答えなかった。


 しばらくして、自分の机の引き出しから古いファイルを出した。


「前にも似た相談があった」


 給与控除、寮費、配置転換、在留カードの預かり。日付は四年前から続いている。会社名は違うが、連絡先や担当者名に協栄サポートが何度も現れた。


「なぜシステムに全部入っていないんですか」


「電話だけで終わったもの、相談者が記録を拒否したものもある。上へ報告した一覧は別に作った」


「どこにありますか」


 佐伯は周囲を見た。


「消したことになってる」


「なってる?」


「数年前、市長部局と企業側の意見交換会があった。雇用を不安定にするような誤解を招く資料は、外へ出さないようにと言われた。正式な命令じゃない。だから、みんな自分で判断したことになってる」


「佐伯さんも従ったんですか」


「従った」


 佐伯はまっすぐ梨沙を見た。


「工場が撤退すれば、外国人だけじゃなく、日本人のパートも取引先も困る。違法と断定できない段階で騒げば、市が企業を追い出したと言われる。そう説明されて、私は納得した」


「今も納得していますか」


「分からない」


「アンさんが失踪しています」


「分かってる」


「分かっていた相談が、前からあった」


「分かってる!」


 佐伯の声が相談室に響いた。

 ほかの職員が顔を上げる。


 佐伯はすぐ声を落とした。


「だから眠れないの」


 梨沙は責める言葉を飲み込んだ。

 佐伯を切り捨てれば、自分は正しい側に立てる。だが、佐伯一人を責めても、文書から抜け落ちた条項は戻らない。


「一覧を見せてください」


「まだ持っているとは言ってない」


「持っているんですね」


 佐伯はファイルを閉じた。


「今は答えられない」


     *


週末の「川ノ瀬多文化共生フェスタ」は、各国の料理と衣装、子どもたちの踊りでにぎわった。天野グループは最大の協賛企業で、市長は「違いを力に変える街」と語った。


 しかし舞台裏では、名札のない外国人労働者がテントや荷物を運び、作業が終わると番号札の付いた車へ乗せられていた。


 梨沙は天野恒一に、監査のない共生協定と失踪者について問いただした。天野は、人手不足、価格競争、二千人の雇用を守る責任を語る。


「誰も安い労働を望んではいない。しかし、安くなければ発注されない」

「だから、名簿から人を消してよい理由にはなりません」

「正義で工場を止めた後の責任を、あなたは取れるのか」

「見なかった側の責任から、逃げたくありません」


 華やかな共生宣言の拍手の中で、二人の言葉だけが冷たく残った。


     *


佐伯が保管していた古い内部メモには、四年前の庁内会議の記録があった。


 正式な議事録ではない。会議に出席した佐伯が、自分用に書いた箇条書きだった。


〈外国人相談の増加について〉

〈企業名が共通する案件あり〉

〈市長部局:投資計画への影響を懸念〉

〈産業振興:不確定情報で企業照会は困難〉

〈相談室:匿名で傾向を共有したい〉

〈結論:個別案件として関係機関へ案内。横断一覧は作成しない〉


 横断一覧を作らない。

 その一文が、四十二人を別々の相談として閉じ込めた。


「誰が言ったんですか」


 梨沙が尋ねると、佐伯は首を振った。


「みんなで決めた。だから、誰の発言かは残してない」


「企業から圧力があった?」


「天野さんが会議に来たことはある。でも、相談を消せとは言わなかった」


「何と言ったんですか」


「雇用の安定を損なわない対話をお願いしたい、と。外国人材への偏見につながる情報発信は慎重に、と。全部、反対しにくい言葉だった」


「その後、一覧を作らないと決めた」


「私たちが決めた」


 佐伯はそこを譲らなかった。


「圧力があったと言えば、自分たちは被害者になれる。でも、実際には、企業と揉めたくない、仕事を増やしたくない、違法と断定して責任を取りたくない気持ちもあった」


「佐伯さんだけではありません」


「だから危ないの。悪い人が一人なら、その人を外せば終わる。善意の人が、正しい理由を一つずつ持ち寄って、何もしない結論を作った」


 梨沙はメモの写しを正式な内部通報資料として保全する手続きを確認した。


 会議の結論に署名はない。

 誰も命令していない。

 だからこそ、誰も責任を負わない。


     *


樋口は協栄サポートの契約先を登記簿から洗い出していた。


 北辰人材開発、KSパートナーズ、東栄ビジネスサービス、かわのせキャリア。代表者も所在地も違う。だが、入手できた業務委託契約書を並べると、同じ誤字があった。


〈受託者は、従業者の適切な指導を図るため、必要な対処を取るものとする〉


 「措置を講じる」ではなく、「対処を取る」。川ノ瀬安全通信の投稿群にもあった不自然な表現だ。


 さらに、契約解除条項の番号がすべて第十二条から第十四条へ飛んでいる。印刷位置、行間、ページ番号のずれまで同じだった。


 別会社を装っていても、同じひな型から作られている。


 作成者欄には、行政書士でも弁護士でもない個人名があった。


〈高瀬信夫〉


 検索すると、五年前まで天野グループ法務室に在籍していた人物だった。現在は協栄サポートの顧問。


 樋口は資料をまとめ、編集部へ送った。

 返ってきた大城の言葉は短かった。


〈会社が同じひな型を使うこと自体は違法ではない。もっと取れ〉


 もっと。

 証拠は増えているのに、掲載への距離は縮まらない。


     *


月曜日の夕方、佐伯は梨沙を地下駐車場へ呼び出した。


 監視カメラの死角になる柱の陰で、古いUSBメモリーを差し出した。表面のロゴは擦れて消えかけている。


「何が入っていますか」


「相談一覧」


「消したことになっている?」


「そう」


「持ち出して大丈夫なんですか」


「大丈夫なわけない」


 佐伯の手は震えていた。


「私がまとめた。過去四年分。給与控除、配置転換、連絡不能。正式な相談にならなかった人も入ってる。原本の所在が分かるものには番号を付けた」


「なぜ今、渡すんですか」


「三浦さんが正しいからじゃない」


 佐伯は言った。


「正しい人に渡せば安心できると思っているなら、違う。私は、自分が持っているのが怖くなっただけ」


「それでも、渡してくれた」


「褒めないで。もっと前に出すべきだった」


 梨沙はUSBを受け取った。


「適法な内部通報として扱えるよう、弁護士に確認します。勝手に公開はしません」


「中を見れば、戻れなくなる」


「もう戻れる場所があるとは思っていません」


 自宅ではなく、NPOの管理端末でUSBを開いた。

 ウイルスチェックの後、表計算ファイルが一つ表示された。


 四十二行。

 国籍、氏名、相談日、勤務先、給与名義、最終確認日。


 状態欄には赤字が並んでいた。


〈帰国〉

〈転職〉

〈連絡不能〉

〈所在確認不可〉


 チャン・ドゥック・アンの名前もあった。

 最終確認日の欄は、失踪した夜。

 状態は〈所在確認不可〉。


 ミンが画面を見て、息を呑んだ。


「フイもいます」


 帰国済みとされるファム・クアン・フイの名もある。その横には、別の会社の社員番号が記されていた。


「四十二人」


 樋口が数えた。


 梨沙は一覧の一番下までスクロールした。

 赤い文字で、佐伯のメモが残っている。


〈同一人物が複数名簿に存在する可能性。統合照合を要す〉


 四十二人が消えたのではない。

 四十二通りに分けられ、別々の紙へ移され、追えなくなっている。


 梨沙はUSBを暗号化した複製へ移した。


 画面に並ぶ名前は、告発の材料ではなかった。

 一人ずつ、どこかで働き、眠り、家族へ金を送り、明日の予定を持っていた人間だった。


 その全員が、同じ赤い文字で処理されている。


〈所在確認不可〉


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第六章 記事にならない真実


 樋口は、四十二人の一覧を記事の材料としてではなく、疑うべき資料として受け取った。


 USBに入っていた表には市役所内部の管理番号があり、相談日や会社名も具体的だった。だが、内部資料らしい見た目は、それだけで内容の正しさを保証しない。作成者の記憶違い、入力ミス、意図的な改変。どれか一つでも見落とせば、記事は事実を暴く道具ではなく、別の偽情報になる。


 樋口は一覧を印刷せず、暗号化した端末で一行ずつ確認した。


 一人目、レ・ティ・ホア。

 記録上は二年前に帰国。氏名を日本語、ローマ字、母国語表記で検索すると、昨年公開された介護施設の求人動画に似た女性が映っていた。映像だけでは本人確認できない。


 二人目、アグス・プラセティヨ。

 転職済み。転職先不明。半年前の地域清掃活動の集合写真に同名の名札を着けた男性がいる。


 三人目、ファム・クアン・フイ。

 帰国済み。だが、部品工場の採用紹介動画の端に、右手へ手袋をした男性が映り込んでいた。顔は三秒しか出ない。


 樋口は、見つけるたびに確認済みの印を付けたくなる衝動を抑えた。


〈同一人物の可能性〉

〈本人確認未了〉


 断定できないことを、断定しない。

 地味で、時間がかかり、読者には見えない作業だった。


 樋口は過去記事、企業の広報動画、行政資料、SNSの公開写真を集めた。NPOを通じて本人へ接触できたケースについては、取材の目的と匿名化の方法を説明した。


 四十二人のうち、六人と直接連絡が取れた。


 全員が、名簿上の所属と実際の勤務先が違う時期があったと答えた。

 ただし、経験は同じではなかった。


「工場を変わったほうが給料が高かったから、自分で同意した」と話す人もいた。

「契約書は分からなかったが、帰国したくなかったので署名した」という人もいる。

「会社に助けてもらったこともある。悪いことだけではない」と強く言う人もいた。


 樋口は、その言葉も記録した。

 被害者として分かりやすく整えることは、会社が人を「稼働枠」にしたのと別の形で、本人の意思を削ることになる。


     *


編集会議に提出した原稿は、一万二千字あった。


 仮見出しは〈四十二人の空白――川ノ瀬市で繰り返される名義変更と労働者移送〉。


 会議室には大城デスク、編集局長の倉本、法務担当、デジタル編集長がいた。普段の企画会議より人数が多いことが、記事の危険度を示していた。


 倉本は原稿を読み終え、眼鏡を机へ置いた。


「公益性はある」


 樋口は息を吐きかけたが、倉本は続けた。


「だからこそ、このままは出せない」


「どこが不足していますか」


「ほぼ全部だ」


 大城が言った。


「四十二人の一覧は市の内部資料だが、公式な調査結果ではない。名簿が違うことは確認できても、違法な人材移送を誰が指示したか分からない。天野グループと協栄の資本関係もない」


「契約書の作成者は天野の元法務職員です」


「元、だ。現在の指揮命令を示すものじゃない」


「研修施設は関連法人の所有です」


「所有者が犯罪を指示した証拠にはならない」


「犯罪とは書いていません。偽装請負の疑いと――」


 法務担当が原稿の一部を指した。


「『意図的に責任を分散させた』という表現は、意図の立証が必要です。『結果として責任の所在が不明確になった』まででしょう」


「そこを直します」


「情報源の安全は?」


「匿名化します」


「市の内部資料を提供した職員が特定される可能性が高い。入手経路の適法性も確認が要る」


 倉本が窓の外を見た。


「それに、天野グループは当社の年間広告売上の一割近い」


「広告の話を編集会議でするんですか」


「現実の話をしている」


「広告主だから記事を止めるなら、読者にそう説明しますか」


「会社がなくなれば記事も出せない」


「出すべき記事を出さずに残る会社は、新聞社ですか」


 倉本は樋口を見た。


「きれいな言葉で経営はできない。君の給与も印刷代も、誰かが払っている」


「工場の労働者にも、同じことを言うんでしょう。会社がなくなれば給料が出ない。だから黙れと」


 会議室の空気が変わった。


 大城が机を指で叩いた。


「感情的になるな。記事を止めると言ってるんじゃない。証拠を取れと言ってる」


「どこまで取れば出すんですか」


「相手が否定できないところまでだ」


「否定する権利は相手にあります。証拠があっても否定はできます」


「なら、読者が判断できる形までだ」


 その言葉だけは、樋口も否定できなかった。


 会議は掲載見送りで終わった。


     *


自席へ戻った樋口は、過去に自分が書いた記事を検索した。


 三年前、来日したばかりの頃に担当した短い記事。


〈外国人実習生のごみ出しトラブル 自治会が対策〉


 事実誤認はなかった。指定日以外にごみが出された。自治会が多言語の案内を作った。記事には、散乱したごみの写真と、困った顔の自治会長のコメントを載せた。


 だが、実習生の寮には案内が配布されていなかったことを、樋口は知っていた。記事の締め切りに間に合わず、その背景を一文だけに縮めた。


〈外国人住民へのルール周知も課題となっている〉


 記事は電子版でよく読まれた。

 見出しに「外国人」と「トラブル」が入ると数字が伸びると、当時のデスクに褒められた。


 今、その記事の画像が、川ノ瀬安全通信の投稿に使われている。


〈以前から続く外国人問題。行政は何をしてきたのか〉


 樋口は画面を閉じた。

 嘘を書かなければ責任はないと思っていた。事実のどこを大きくし、どこを小さくしたかも、記事の一部だとは考えなかった。


 自分も、この情報環境を作った一人だった。


     *


直接連絡が取れた六人の証言は、同じ方向を指しながら、同じ物語にはならなかった。


 レ・ティ・ホアは、現在も介護施設で働いていた。市の一覧では帰国済み。本人は、帰国したことになっていると聞いて笑った。


「私、毎日ここで夜勤しています」


「なぜ帰国扱いになったと思いますか」


「前の会社を辞めたとき、在留の手続きを会社に任せました。新しい施設へ移るから大丈夫と言われた。でも、新しい契約書には違う名前の会社があります」


「働く場所を変えたいですか」


「いいえ。利用者の人を好きです。施設も、全部悪いわけではありません。でも、夜勤のお金は払ってほしい」


 アグス・プラセティヨは、自動車部品工場で働いていた。取材を受ける条件として、会社名を出さないよう求めた。


「前の工場より今のほうが給料は高いです。移動したことを問題にされたら、僕は今の仕事を失いますか」


「移動そのものが直ちに問題だと書くつもりはありません。説明と同意、契約が一致していたかを確認しています」


「同意しました。日本に残りたかったから」


「断った場合の説明は?」


「帰国です」


 樋口は質問を止めた。


 選択肢が「移動」か「帰国」だけなら、それを自由な同意と呼べるのか。記事で結論を押しつけず、本人の言葉を残した。


 別の男性は、会社に助けられた経験を話した。


「子どもが病気のとき、前借りさせてもらいました。社長は悪い人ではありません」


「給与明細の会社名が変わったことは?」


「変わりました。でも、お金は来ました」


「勤務時間より少なくありませんでしたか」


「少ないです。でも母国より多い」


 その比較を、樋口は記事の都合で否定できなかった。

 待遇が不当であることと、本人がそこに価値を感じたことは同時に成り立つ。


 六人目の女性は、取材の途中で席を立った。


「やっぱり話しません」


「分かりました。録音とメモは破棄します」


「記事にしないと約束できますか」


「あなたから聞いた内容は使いません」


「ほかの人が同じことを話したら?」


「ほかの資料で確認できた事実は書く可能性があります。ただ、あなたが情報源だと分かる形にはしません」


 女性はドアの前で振り返った。


「新聞に出ると、会社が悪くなりますか」


「分かりません」


「良くなりますか」


「それも約束できません」


「では、なぜ書きますか」


 樋口はすぐ答えられなかった。


「今、会社と行政だけが持っている情報を、働く人も知って判断できるようにするためです」


「判断して、何も変えられなかったら?」


「そのとき、何が変えられなかったかも書きます」


 女性は納得した顔をしなかった。

 それでも、録音を消すところを確認してから帰った。


 樋口は、記事に使わない取材にも時間をかけた。

 話した人の勇気を称賛するより、話さない選択を守るほうが難しいことを知った。


     *


音声解析では、数字のほかにもう一つ、かすかな音が見つかった。


 アンが数字を読み上げた直後、遠くで男の声がする。


〈七番、北辰で切れ〉


 完全には聞き取れない。技術者は「推定」と明記した。


「北辰は給与名義の会社です」


 梨沙が言った。


「『切れ』は何を意味する?」


「勤務記録をそこで終わらせるのかもしれない。契約を切るのかもしれない。断定はできません」


 樋口は原稿へ直接書かず、取材の方向を決める情報として使った。


 北辰人材開発の請求書番号を追うと、市の補助金だけでなく、天野グループ三社から同じ月に支払いがあった。


 名目はそれぞれ違う。


〈研修支援費〉

〈生活定着業務〉

〈繁忙期業務協力金〉


 振込先は同じ口座だった。


 口座からは翌日、協栄サポート、ノースリンク・メディア、山間部研修施設の管理会社へ金が分かれている。


 人の名簿は分割されているのに、金は一つの口座へ集まり、また目的別に分けられていた。


 樋口は資金の流れを図にした。

 上に市と天野グループ。中央に北辰人材開発。下に協栄、PR会社、施設管理会社。


 四十二人の名前は図のどこにも書かなかった。


 金の流れを証明する図で、人を再び数字にしないためだった。


 樋口は会社を通さず、二人の専門家へ検証を頼んだ。


 一人は労働法を専門とする弁護士、榊原誠。もう一人は、県内大学でデジタル調査を研究する准教授、久野真理だった。


 榊原は契約書と給与記録を三時間かけて読み、ホワイトボードへ三つの円を描いた。


「雇用契約、請負契約、実際の指揮命令。この三つがずれています」


「違法ですか」


「違法の可能性は高い。ただし、個別の現場ごとに事実認定が必要です。『偽装請負である』と断定するなら、工場側が労働者へ直接指示した証言や記録が要る」


「現場責任者の指示を複数人が証言しています」


「それなら証言の独立性を確認する。互いに相談して同じ説明になったのか、別々に同じ経験を話したのか。記事では、その区別を書いたほうがいい」


「会社名義を変えることは?」


「名義変更自体が直ちに違法とは限らない。しかし、労働時間や社会保険の負担を免れる目的なら問題になる。目的の証明には、請求書や社内連絡が必要です」


 久野はSNS投稿の時系列を分析した。


「動画公開前に同じハッシュタグが動いている。これは自然発生では説明しにくい。ただし、予約投稿の時間差かもしれません」


「運営会社を特定できますか」


「公開情報だけでは断定できない。でも、広告識別子が共通しています。ノースリンク・メディアが管理する広告アカウントを経由している可能性が高い」


「可能性、ばかりですね」


「調査はそういうものです」


 久野は笑わなかった。


「推測を事実に見せる人ほど、答えを早く出します。あなたが追っている相手と同じ方法を使いたくないなら、遅さを受け入れるしかない」


 樋口は原稿を一行ずつ直した。


〈組織的な世論工作を行った〉を、〈複数アカウントが同一の広告識別子を使用していた〉へ。

〈人身売買のように労働者を移送した〉を、〈本人の同意の有無が確認できない現場移動が行われたとの証言がある〉へ。


 刺激は弱くなった。

 記事は強くなった。


     *


ノースリンク・メディアの元契約社員は、声を変える条件で取材に応じた。


「最初は普通の広報でした。多文化フェスタの告知、外国人スタッフのインタビュー、地域の成功事例」


「川ノ瀬安全通信を運用していましたか」


「私は投稿していません。でも、同じ管理画面にアカウントがありました」


「誰が管理していた?」


「危機対応チームです。協栄から問い合わせが来て、外国人の失踪が表に出るかもしれないと」


「どんな指示がありましたか」


 元社員は手元の紙を見た。


「企業名を前面に出さない。住民不安と行政責任を中心にする。外国人への直接的な差別表現は避ける。でも、コメント欄で自然に出る分には削除しない」


「加工動画は?」


「外部から提供された素材を短くしたと聞きました。字幕案は社内です」


「虚偽だと認識していた?」


「暴動ではないと分かっていた人もいたと思います。企画書では『感情的対立場面』と呼んでいました」


「なぜ止めなかったんですか」


「契約社員でした。指示された投稿文を作る仕事です」


「その説明を、工場の人もしています」


 樋口が言うと、相手は黙った。


「責めるために言ったのではありません。ただ、組織の指示だったという事実と、自分が何をしたかは、両方記事に書きます」


「名前は絶対に出さないでください」


「会社があなたを推測する可能性はあります」


「分かっています」


「提供資料は、入手経路を確認できるものだけ使います。持ち出しが禁止された個人情報は受け取れません」


 元社員はUSBではなく、自分宛てに送られた業務指示メールの印刷物を出した。受信日時、送信者、添付資料名が残っている。


〈目的:雇用スキームへの論点集中を回避〉


 樋口はその一文を見ても、すぐに勝ったとは思わなかった。

 情報源の生活を危険にし、記事を出せば、元社員もまた「会社のせい」と「自分の判断」の間で責任を問われる。


「公開前に、引用する箇所を確認してもらいます」


「私に記事を止める権利はありますか」


「事実の誤りは直します。記事全体を止める約束はできません」


 樋口は、できることとできないことを伝えた。

 支援も取材も、曖昧な安心を与えた瞬間に、別の支配へ近づく。


 ノースリンク・メディアの決算公告と、天野グループの地域共生キャンペーンの発注資料を照合すると、金の流れが見え始めた。


 天野グループからノースリンクへ、「地域共生広報業務」として年間二千四百万円。

 協栄サポートからノースリンクへ、「危機対応広報支援」として三百八十万円。


 協栄の支払いは、動画が拡散される二週間前に契約されていた。


 契約書の業務内容には、こうある。


〈外国人材に関する地域不安の収集及び適切な情報発信〉

〈SNS上の論調分析〉

〈有事におけるステークホルダー向けメッセージ設計〉


 違法な世論工作とは書かれていない。

 だが、川ノ瀬安全通信の投稿文と、ノースリンクが企業へ納品した過去の危機管理資料には、同じ言い回しがあった。


〈行政の説明責任を問う〉

〈地域の不安に寄り添う〉

〈対処を取る〉


 契約書とSNS投稿に残った、同じ不自然な誤字。


 樋口はノースリンクへ質問状を送った。

 返答は、〈個別の取引については守秘義務上回答できない。当社が虚偽情報の発信を行った事実はない〉だった。


 否定の範囲が狭い。

 アカウントの運用を否定せず、虚偽情報の発信だけを否定している。


     *


樋口は再び編集局長室へ入った。


「ノースリンクと協栄の契約を確認しました。動画拡散前に危機対応広報を受注しています」


 倉本は資料を読んだ。


「これでも、投稿を指示した証拠ではない」


「分かっています。だからそう書きます」


「四十二人の一覧は?」


「六人の本人確認、九人の画像照合、三社の勤務記録を取りました。残りは確認中です」


「天野側の反論は」


「質問状を送ります」


「出すつもりか」


「記事を止めるなら、調査記録を社内コンプライアンス窓口へ提出します。広告主との関係も含めて」


 倉本の顔が硬くなった。


「会社を脅すのか」


「会社を残すために、新聞をなくすつもりですか」


 長い沈黙の後、倉本は窓のブラインドを閉めた。


「四十八時間」


「何ですか」


「四十八時間で追加検証を終えろ。外部弁護士にも見せる。掲載判断はその後だ」


「分かりました」


「勘違いするな。掲載を約束したわけじゃない」


「判断するところまで戻した。それで十分です」


 樋口が出ようとすると、倉本が言った。


「昔、俺も広告主の記事を止められたことがある」


 樋口は振り返った。


「止められて、辞めなかった。辞めなかったから今、局長をしている。君には、それを卑怯だと言う権利がある」


「言いません」


「なぜ」


「四十八時間をくれたからです。その後は分かりません」


 倉本は苦く笑った。


     *


追加検証の最後に残ったのは、アンが送った音声だった。


 樋口は音響分析を行う技術者へ、原本データの複製を渡した。ノイズ除去後の波形を見ていた技術者が、音声の末尾を指した。


「ここ、声があります」


「『名簿から消される』の後ですか」


「その後、録音が切れるまで二・七秒。機械音に埋もれていますが、数字を読んでいる」


 速度を落とし、特定の周波数を弱めた。


 アンの息遣いの下から、かすかな声が浮かんだ。


「……七、三、二、一、九……四」


「車両番号?」


「六桁あるようです」


 樋口はK7の車両登録、社員番号、契約番号を照合した。どれにも一致しない。


 梨沙へ音声を送り、市の資料に同じ数字がないか確認を頼んだ。


 一時間後、梨沙から電話があった。


「協栄サポートの請求書番号です」


「何の請求ですか」


「外国人材定着支援費。市の補助金書類に添付されています」


「請求先は?」


「北辰人材開発です。でも登記上、従業員はいません」


「金額は」


「一千二百万円」


 樋口は立ち上がった。


「決裁したのは誰ですか」


 電話の向こうで、梨沙が黙った。


「三浦さん」


「私の上司です」


「坂本課長?」


「支出決裁欄に、坂本課長の印があります」


 アンは、音声に助けを求めただけではなかった。

 自分が消されても、金の流れをたどれるよう、番号を残していた。


 そしてその流れは、企業から架空会社へ、市の補助金から同じ架空会社へ、二つの方向から集まっていた。


 樋口は原稿の見出しを開いた。

 四十二人の空白。


 そこへ、新しい一文を加えた。


〈市の公金が、実体を確認できない会社へ支出されていた〉


 記事にならない真実が、ようやく記事になり得る形を持ち始めていた。


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第七章 名簿の穴


 同じ人間が、三つの名簿に載っていた。


 市の相談者一覧では、グエン・ミンは天野フーズ第二工場の技能実習生。

 補助金対象者名簿では、北辰人材開発の生活支援対象者。

 企業の勤務記録では、協栄サポートの請負スタッフ。


 生年月日と在留カード番号の下四桁は同じだった。所属会社と社員番号だけが違う。


 梨沙とミンは、NPOの会議室の壁いっぱいに三種類の表を貼った。名前を色付きの糸で結ぶ。赤は相談記録、青は補助金、黄色は勤務先。


 最初は一本ずつだった糸が、作業を進めるほど交差した。


「人ではなく、糸のほうが多いですね」


 ミンが言った。


「一人が複数の会社にいることになっているから」


「反対もあります」


 補助金名簿の一人を指した。


 ドー・ヴァン・ナム。生活支援費の対象者として三年間計上されている。しかし、企業の勤務記録にも、相談一覧にも、監理団体の公開情報にも同じ人物がいない。


「架空名義の可能性があります」


「実在するけれど、別の地域にいるかもしれません」


 梨沙は注意書きを付けた。


〈所在・本人確認未了〉


 四十二人の一覧を社員番号順に並べると、別の規則が見えた。


〈174-A1-KS〉

〈182-B3-KS〉

〈204-K7-HK〉


「前の数字は本人の番号ではありません」


 ミンが表計算ソフトの並べ替えを繰り返した。


「同じ人でも月ごとに変わります。でも、最後の部分は給与の会社。KSはKSパートナーズ。HKは北辰」


「中央は送迎ルート」


「はい。最初の数字は現場です。百番台は食品、二百番台は部品、三百番台は物流」


「つまり社員番号ではなく、配置情報」


「人の名前ではなく、今月どこで使うかを表しています」


 ミンは自分の番号を見つめた。

 社員として与えられたと思っていた数字が、自分を運ぶための暗号だった。


「月末になると、元の工場へ戻されます」


「なぜ?」


「監理団体が見に来る日があります。写真を撮り、名簿を確認します。その日だけ、契約どおりの場所に全員を集める」


 梨沙はカレンダーと配車記録を重ねた。

 確かに、月末の二日間だけK7とB3の運行が減り、A1が増えている。


「監査のために現実を名簿へ合わせる」


「普段は、名簿を現実に合わせません」


 四十二人の中で、社員番号の中央が空欄になった人が七人いた。


〈193- -KS〉


「空欄は何ですか」


「僕にも分かりません」


 ミンはアンの言葉を思い出した。


 空いている番号に気づいた。

 名前がない日を数えている。


「たぶん、移した記録を残せない人です」


「けが、在留資格の問題、相談した人……」


「フイも空欄です。アンも最後の日が空欄」


 名簿の穴は、入力ミスではなかった。

 仕組みにとって都合の悪い人を、一時的にどこにも属さない存在にするための印だった。


     *


三つの名簿を照合するうち、数字の違いだけでは説明できない人が出てきた。


 補助金対象者として二年連続で計上されている「ドー・ヴァン・ナム」は、生年月日が毎年同じなのに、在留カード番号の末尾だけが変わっていた。添付された本人確認書類の写真は、顔の輪郭が微妙に違う。


「同じ名前の別人かもしれません」


 梨沙が言うと、ミンは写真を見比べた。


「一枚目の人を知っています。第一寮にいました。二枚目は分かりません」


「一人目は今どこに?」


「一年以上前に帰国しました」


「帰国後も同じ名義で補助金が出ている」


 さらに、企業名簿には日本人と思われる名前が三人あった。


 佐藤一郎。

 鈴木太郎。

 高橋健。


 住所はすべて同じ社員寮。生年月日は一月一日、四月一日、七月一日。連絡先は協栄サポートの代表番号だった。


「仮名ですね」


「どうして外国人支援の名簿に日本人名が?」


「空いた枠を埋めるためかもしれません」


 補助金は支援対象者一人あたりで計算される。実在の労働者が帰国や転職で対象外になっても、名簿上の人数を維持すれば、同じ額を請求できる。


 梨沙は推測と確認済みを分けた。


〈氏名・生年月日・連絡先に不自然な共通性〉

〈本人確認未了〉

〈架空名義の可能性〉


 樋口が、名簿に書かれた日本人名の一人を住民基本情報の公開可能範囲で確認したが、該当する人物はいなかった。


「名前まで交換可能な枠になっている」


 ミンが言った。


 壁の糸を見ていると、NPOへ日本人の元工場従業員が訪ねてきた。


 天野フーズ第二工場で十七年働いた、川島恵美という女性だった。記事の取材募集を見て連絡したという。


「外国人の人だけの問題にされると困るんです」


 最初の言葉だった。


「どういう意味ですか」


「私たちも勤務表を直されてました。繁忙期はタイムカードを押してから清掃。外国人の子たちは、その後さらに別の車へ乗せられてた」


「知っていたんですか」


「見てた。でも、関わるなって言われた」


「誰に?」


「森岡さん。あの人たちは別会社だから、話すと指揮命令になる。休憩中も仕事の説明をするなって」


「同じラインで働いているのに?」


「作業のやり方は教えろ。でも会社の指示だと思わせるな。無理でしょう」


 川島は、ロッカーから持ち帰った古い連絡ノートを出した。


〈外国人スタッフへの直接指示は禁止。請負責任者を通すこと〉


 その下に、別の筆跡で書かれている。


〈ライン停止時は国籍に関係なく森岡の指示に従う〉


「現場では止める暇がない。機械が詰まれば、目の前の人に直してって言う。会社はそれを分かってる。でも書類では直接指示してないことにする」


「なぜ今、話そうと思ったんですか」


「動画でミンさんが暴れたって言われたから。けが人を病院へ行かせろって言ってたの、私も見てた」


「証言を記録してもいいですか」


 川島はすぐには頷かなかった。


「私、来月で契約を切られるかもしれない。夫も取引先で働いてる」


「匿名化と情報提供先を限定できます」


「外国人の人は家族の借金まで脅されてるんでしょう。私だけ怖いって言えない」


「怖さを比べる必要はありません」


 水野が言った。


「話すかどうかは、ほかの人より勇敢かで決めないでください」


 川島は連絡ノートを見た。


「今日はコピーだけ置きます。証言は家族と話してから決めます」


 梨沙はそれを受け入れた。


 事件は、外国人労働者だけが閉じ込められた別世界で起きていたのではない。同じラインの日本人も、見てはいけないことと、従わなければならないことの間で働いていた。


     *


梨沙は副市長室へ呼ばれた。副市長、産業振興部長、人事課長、法務担当、坂本が並び、内部資料を新聞記者へ渡した疑いを追及した。


「未確認だから、監査へ提出しようとしています」

「提出の判断は上司がする」

「その上司の印が、疑義のある支出書類にあります」


 市側は地域経済への影響を理由に、梨沙を一時的に担当から外すと告げた。梨沙は決定理由と出席者を文書で残すよう求めた。口頭の圧力を記録へ変えれば、誰が決めたかを消せなくなる。


 会議後、坂本は住宅ローンや家族、訴訟、失業への恐れを初めて口にした。


「君のように一つだけを見られない」

「私も怖いです。怖くないから進むんじゃありません。止まった先に、アンさんがいないからです」


 さらに梨沙は、実体の確認できない会社へ一千二百万円を支出した決裁について説明を求めた。坂本は、提出書類が整い、担当部署の審査も終わっていたと答えた。手順は守られていた。だからこそ、誰も実際に働く人を見ていなかった。


     *


協栄サポートの関連会社の一つ、東栄ビジネスサービスの登記住所は、駅裏の古い雑居ビルだった。


 樋口と梨沙が訪ねると、三階の部屋は空室だった。曇ったガラス扉には、剥がした会社名の糊だけが残っている。


 一階の郵便受けには、四社の名前が透明テープで重ねて貼られていた。


 協栄サポート。

 東栄ビジネスサービス。

 かわのせキャリア。

 北辰人材開発。


 郵便受けは一つしかない。


 隣の印刷店の主人に写真を見せると、月に一度、五十代の男が郵便を回収すると話した。


「会社の人?」


「さあな。スーツで、いつも黒い革鞄。封筒を全部まとめて持っていくよ」


 樋口が高瀬信夫の公開写真を見せた。


「この人ですか」


 主人は老眼鏡をかけ、画面へ顔を近づけた。


「ああ、この人だ。髪はもう少し白かった気がするけど」


 元天野グループ法務室、高瀬信夫。

 契約書の作成者であり、四社の郵便物を一人で回収している。


「写真を記事で使っていいですか」


「俺の名前は出すなよ。面倒はごめんだ」


「証言の内容を確認するため、後日もう一度お話を聞くかもしれません」


「会社と喧嘩するつもりはないからな」


 誰も会社と喧嘩したいわけではない。

 ただ、会社の名前が違うだけで、責任が別人になる仕組みを確かめようとしている。


     *


配車表と請求書の写しは、受け取っただけでは証拠にならなかった。


 樋口は山下に、いつ、どこで、どのように保管したかを確認した。原本を複写した機械、ファイル名、作成日時。梨沙は弁護士を通じ、資料のハッシュ値を記録し、以後変更されていないことを示せる形にした。


「こんな数字が必要なんですか」


 ミンが長い英数字を見た。


「同じファイルだと証明するためです」


「アンの手帳にも付けますか」


「見つかったら、原本の保全手続きをします。写真だけでなく、誰が回収し、誰へ渡したかも記録する」


「会社は、紙が偽物だと言いますか」


「言う可能性があります」


「僕の証言も嘘と言う」


「だから一つだけに頼らない。配車表、写真、位置情報、給与明細、別々に取った証言を重ねます」


 ミンは壁の名簿を見た。


「僕たちの話は、信じてもらうために、何個必要ですか」


 梨沙は答えに迷った。


「本当なら一つで足りるべきです。でも、権限を動かすには裏付けが要る」


「会社の名簿は、一つで本当になります」


「その差を小さくする仕組みを作らないといけません」


 ミンは納得しなかった。

 納得できないままでも、資料の保全作業へ加わった。


 正しさがすぐ信用されない不公平と、確認せずに権力を動かせない必要性。その両方を抱えたまま進むしかなかった。


 決定的な配車表は、北関東ロジスティクスの元従業員から届いた。


 樋口の記事について取材を受けた一人が、退職前に廃棄を命じられた書類の写しを保管していた。自分を守るためだったという。


「人を乗せる車なのに、配車表には名前がなかった」


 元従業員の山下は、喫茶店の奥で封筒を渡した。


「番号と人数だけ。K7、六枠。B3、四枠。荷物と同じだと思った」


「行き先は?」


「倉庫で積み替え、じゃなくて、乗り換えさせる。K7は県境の東亜精密部品へ行ってた」


「天野グループとの関係は」


「東亜は天野の取引先だよ。正式な人材契約はないはずだけど、繁忙期だけ夜勤を送ってた」


「誰の指示でしたか」


「協栄の高瀬。現場では黒田」


 請求書には、人件費ではなく〈稼働枠提供料〉と書かれていた。

 一枠、一時間二千八百円。

 労働者に支払われる時給は千円前後。差額は複数会社の業務管理費と研修費に分けられている。


「人の名前を使わない理由を聞いたことは?」


「入れ替わりが多いから、枠で管理したほうが楽だって」


 山下はコーヒーへ砂糖を入れ続けた。


「俺も楽だった。名前を覚えなくていいから。今になって、顔だけ思い出す。夜中に眠そうに車から降りてきた顔」


 配車表には、K7の経路が一本の線で記されている。


 天野フーズ第二工場。

 北関東ロジスティクス。

 山間部研修施設。

 東亜精密部品。


 アンの位置情報と、樋口の写真と、ミンの記憶が、一枚の紙でつながった。


     *


その夜、ミンの匿名メッセージアプリへ一枚の写真が届いた。


 送信者名は、数字と記号の羅列だった。

 写真には、暗い休憩室の壁時計が写っている。時刻は午後九時十七分。机の上には、その日付の新聞が置かれていた。


 画面の下から、左手が差し出されている。

 人差し指の付け根に、小さな火傷の跡があった。


「アンです」


 ミンは声を震わせた。


 手のひらには、黒いペンで書かれていた。


〈42+1〉


「四十二人に、自分を足した」


 梨沙は写真のメタデータを確認した。位置情報は消されている。撮影機器の情報もない。


 樋口は壁時計のガラスに映る反射を拡大した。

 反対側の壁に、黄色と黒の縞模様。安全標識の一部。さらに、窓枠に貼られた企業ロゴが左右反転して見える。


「東亜精密です」


 会社の求人動画に映る休憩室と比較すると、時計、窓、標識の位置が一致した。


「警察へ今すぐ」


 梨沙が電話を取ろうとした。


「待ってください」


 ミンが止めた。


「待てません。アンさんは生きています」


「不十分な情報で会社へ確認したら、また移されます」


「場所は特定できています」


「写真だけでは、今もそこにいるか分かりません」


「だからこそ急ぐんです」


「アンは、証拠を送っています。見つけてほしい。でも会社より先に、助ける人へ届くようにしている」


 二人の声が重なった。


 水野が間に入った。


「どちらも正しい。安全確保と証拠保全を同時に考えましょう」


 NPOの顧問弁護士、労働関係機関、警察の担当者へ、同じ資料を同時に提供する。誰か一人の判断で会社へ問い合わせない。立ち入りの法的根拠と、アン以外の労働者の保護先を準備する。


「私が直接行きます」


 梨沙が言うと、弁護士は首を振った。


「市職員に捜査権限はありません。無断で敷地へ入れば、証拠の問題だけでなく、あなた自身が排除されます」


「では何をすれば」


「資料を整理し、正式な窓口へ渡す。誰がいつ受け取ったか記録する。保護後の住居と通訳を確保する。それがあなたの仕事です」


 正義のために危険な場所へ踏み込むことが、勇気だと思っていたわけではない。

 それでも、机の前で書類を整えることが、アンを助ける行動になるとは信じにくかった。


 ミンが言った。


「僕も工場へ行きません。場所の説明をします」


「行かなくていいんですか」


「行きたいです。でも、僕が捕まれば、配車のことを説明する人がいなくなる」


 梨沙は頷いた。

 一人で背負うことと、責任を取ることは同じではない。


     *


帰宅した梨沙は、玄関前の茶封筒を見て足を止めた。


 また警告かと思った。

 しかし、中に入っていたのは市役所の人事異動通知だった。


〈三浦梨沙 市民生活部雇用・多文化相談室から資産管理課施設係へ、翌週付で異動〉


 通常、人事異動は年度末に発表される。今は二月。理由欄には〈組織運営上の必要〉とだけあった。


 私物のスマートフォンが鳴った。

 ミンからだった。


「僕にも来ました」


「何が?」


「母の家の写真です」


 母国語のメッセージが添えられていた。


〈証言を撤回しろ。そうしなければ、家族名義の借金を回収する〉


 写真には、ベトナムの実家の門と、外で洗濯物を干す母親の後ろ姿が写っていた。


 梨沙は異動通知を握ったまま、言葉を失った。


 圧力は、同じ形では来ない。

 行政職員には人事として。

 労働者には家族の借金として。


 どちらも、正式な命令や露骨な暴力を使わず、「自分で諦めた」と言わせるために届く。


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第八章 圧力


 異動通知が届いた翌朝、梨沙の庁内アカウントは停止されていた。


 パソコンへパスワードを入力すると、赤い文字が表示された。


〈このアカウントは現在利用できません。管理者へお問い合わせください〉


「まだ異動日は来週です」


 梨沙が坂本課長へ言うと、彼は目を合わせなかった。


「引き継ぎ準備のため、相談記録へのアクセスを制限した」


「私が担当している案件があります」


「佐伯さんへ引き継ぐ予定だったが、佐伯さんは今日から休職だ」


「なぜですか」


「事情聴取を受けている。本人から体調不良の申し出もあった」


「USBのことですね」


 坂本は答えなかった。


「課長、私の異動は誰が決めたんですか」


「通常の人事だ」


「通常の時期ではありません」


「組織運営上、必要と判断された」


「誰が?」


「人事課だ」


「人事課へ確認します」


「三浦さん」


 坂本はようやく顔を上げた。


「これ以上、自分の立場を悪くするな」


「立場を守るために、相談者の記録へ触れないほうがいいということですか」


「君が触れば、情報漏えいを疑われる」


「漏えいしたのは、私の自宅へ相談記録を入れた人です」


「調査中だ」


「その調査結果を見る権限も、来週なくなります」


 周囲の職員はキーボードへ目を落としていた。話を聞いていないふりをしている。昨日まで梨沙へ相談を回していた同僚も、コピー機の前で背中を向けた。


 孤立は、誰かに囲まれて怒鳴られることではなかった。

 同じ部屋にいる全員が、こちらを見ないことだった。


 梨沙は机の私物を段ボールへ入れた。

 相談者からもらった折り紙の花。多言語ガイドの試作品。朱里が中学生のときにくれた小さな猫のクリップ。


 公的記録には触れられない。

 だが、相談者本人から適法に預かった資料の写し、NPOで作成した証言記録、樋口が公開情報から集めた資料は残っている。


 組織から外されても、事実まで消えるわけではない。


     *


ミンは母親の写真を、何度見ても消せなかった。


 ベトナムの実家は、道路から少し奥まった場所にある。写真は門の外から撮られていた。母親は撮影されたことに気づいていない。


 来日前に借りた金は、日本円で百二十万円ほどだった。土地を担保にし、仲介業者の親族が保証人になっている。契約書には、途中帰国や契約違反の場合、残金を一括請求できると書かれていた。


 日本の弁護士は、その条項が有効とは限らないと言った。

 だが、法律上無効でも、実家の前へ人が来ることは止められない。


〈証言を撤回する〉


 ミンは返信欄へ入力した。

 送信ボタンの上で指が止まった。


 アンの手の写真が別の画面にある。

 四十二プラス一。


 自分が黙れば、母を守れるかもしれない。

 自分が黙っても、会社が約束を守る保証はない。

 証言を続ければ、アンを助けられるかもしれない。

 続けても、間に合わないかもしれない。


 どちらを選んでも、誰かを危険にする。


 ミンは小さな鞄へ着替えを入れた。

 NPOの避難先を断り、会社にも支援者にも行き先を告げず、遠くの町へ移ろうと思った。自分がいなくなれば、会社は少なくとも今すぐ母へ圧力をかける理由を失う。


 寮の裏口を出たところで、水野が待っていた。


「どこへ行くの」


「少し、一人で考えます」


「一人で考えるために、連絡を切るの?」


「僕の家族です。僕が決めます」


「そう。決めるのはミンさん」


 水野は道を塞がなかった。


「でも、選択肢を全部知ってから決めて。弁護士が母国の支援団体と連絡を取った。ご家族の家へ、相談員が行ける。借金についても、現地で法的支援を受けられる」


「会社の人が先に行きます」


「その可能性はある。だから緊急避難先を用意した。日本での住居、在留手続き、仕事の相談も同時に進める」


「なぜ、そこまでしますか」


「支援団体だから」


「僕はお金を払っていません」


「相談する権利に、先払いはいらない」


 ミンは鞄を持ったまま立っていた。


「助けてもらうと、また誰かの言葉を聞かなければならない気がします」


「私たちの提案を断ってもいい。支援は命令じゃない」


 水野は車の後部ドアを開けた。


「一人で決めることと、一人になることは同じじゃないよ」


 ミンは長い時間をかけて車へ乗った。


     *


朱里のクラスでは、寮へ石を投げた動画が笑い話として共有されていた。


 投げたのは同じ学校の卒業生らしい、という噂があった。暗い映像の中で、若い男たちが「命中」と叫び、笑っている。割れた窓の向こうに人影が見えた。


「これ、やばくない?」


 莉子が言った。口調は深刻というより、刺激の強い動画を見つけた興奮に近かった。


 朱里は再生を止めた。


「中に人いるよ」


「でも石一個じゃん。外国人も暴れてたし」


「暴れてた動画、前が切れてるかもしれない」


「急にそっち?」


「そうじゃなくて」


 朱里は、自分が共有した投稿を開いた。

 再生数は五十万を超え、元投稿から複製された動画が無数にある。自分の共有には、同級生から十五件の反応が付いていた。


 削除ボタンを押した。

 確認画面が出る。


〈この投稿を削除しますか〉


 削除すれば、自分の画面からは消える。

 けれど、莉子のスマートフォンにも、知らない誰かの端末にも、もう保存されている。


 朱里は削除した後、最初の投稿まで遡った。

 投稿者の動画は十五秒。だが、画面の端に元映像の長さを示す「2:46」という表示が一瞬見えた。


 元動画がある。


 動画の一部を画像として検索し、同じ工場名を含む投稿を探した。削除済みのページ、転載、引用。二時間ほど追うと、小さなアカウントが投稿した二分四十六秒の映像が見つかった。


 再生すると、ミンが工場の門へ走ってくるところから始まった。


 作業着の男が腕へタオルを巻き、地面に座っている。ミンは黒田へ向かい、「血が止まりません。病院へ連れていってください」と言っていた。


 黒田は「寮で休め」と答える。


「傷が深いです。救急車を呼びます」


「勝手なことをするな」


「命の問題です」


 そこでミンが腕を上げ、黒田を指す。

 拡散された動画は、ここから始まっていた。


 朱里は何度も見た。

 姉が言ったとおりだった。


 正しいから悔しいのではない。

 自分が確かめずに、人を危険な人物だと決めたことが怖かった。


     *


「見て」


 その夜、朱里は梨沙の部屋へ入った。


 梨沙は段ボール箱の横で、資料を分類していた。


「ノックして」


「ごめん。でもこれ」


 スマートフォンで元動画を再生した。


 梨沙は最後まで黙って見た。


「どこで見つけたの」


「転載を辿った。元の投稿は消えてたけど、別の人が保存してた」


「樋口さんへ送ってもいい?」


「うん」


 朱里は床へ座った。


「私、最初の動画を拡散した」


「知ってる」


「見たの?」


「あなたの公開アカウントだから」


「どうして何も言わなかったの」


「言ったでしょう。拡散しないでって」


「そうじゃなくて、私が何で信じたか」


 梨沙は資料から手を離した。


「学校で、日本人の親が外国人の子ばかり支援されるって話してた。莉子も、将来仕事を取られるって。私、何も分からなかった。でも動画の人は全部、原因を一つにして説明した。外国人が増えたからだって」


「それで安心した?」


「少し。悪い人が分かれば、自分は悪くないから」


 朱里は膝を抱えた。


「石を投げた動画を見て、あれも私が押した共有の続きかもしれないと思った」


「石を投げたのはあなたじゃない」


「でも、見た人が怒るようにした」


「一人で全部の責任を背負う必要はない。でも、なかったことにもできない」


「ごめんなさい」


 梨沙はすぐに「いいよ」と言えなかった。

 謝罪で消えない被害がある。

 ただ、朱里が正しさに負けて謝っているのではなく、自分の行動を見ようとしていることは分かった。


「私もごめん」


「何が?」


「正しいことを説明すればいいと思ってた。あなたが何を怖がってるか聞かなかった」


 朱里が顔を上げた。


「お姉ちゃん、今も私のこと嫌い?」


「嫌いになったことはない。腹は立った」


「私も」


 二人は少し笑った。


 梨沙は元動画をパソコンへ保存した。


「一緒に調べてくれる?」


「何を?」


「加工動画を広げたアカウント。同じ人が動かしている証拠が欲しい」


「私、高校生だよ」


「だから、無理なことはしない。公開情報だけ。個人を特定しようとしない。樋口さんと専門家に渡せる形にする」


「お姉ちゃんよりSNSは詳しい」


「それは知ってる」


 姉妹は同じ画面を見た。

 敵味方を決めるためではなく、何が起きたかを確かめるために。


     *


ミンが避難先へ移った後、最初にしたのは母親へ電話をかけることだった。


 現地支援団体の相談員が、すでに実家を訪ねていた。母親は驚いていたが、無事だった。


「なぜ、知らない人が来るの」


「僕がお願いしました」


「あなた、会社で問題を起こしたの?」


「問題を話しました」


「同じでしょう」


 母親の声は責めているのではなく、怯えていた。


「借金の人が、家の写真を撮りました」


「見ました」


「お金をすぐ返せと言われたら、土地を売るしかない」


「弁護士が契約を調べています。今は払わないでください」


「日本の弁護士は、ここまで来てくれない」


「現地の相談員が一緒に行きます」


「そんな人を信じていいの?」


 ミンは言葉を失った。

 自分も水野に同じ質問をしたばかりだった。


「分かりません。でも、一人で会わないでください。書類に署名しないで。僕にも写真を送ってください」


「帰ってきなさい」


 母親は初めて、はっきり言った。


「お金は何とかする。あなたがいなくなるほうが困る」


「アンを置いて帰れません」


「アンさんの家族も、同じことを言うでしょう」


「だから助けたいです」


「助ける人は、死んではだめです」


 ミンは目を閉じた。


「分かっています」


 本当は分かっていなかった。証言を続けることを、正しさのために危険を受け入れることだと思っていた。

 母親にとっては、正しいかどうかより、息子が明日も電話に出ることのほうが重要だった。


「避難する場所にいます。弁護士と支援の人が一緒です」


「一人ではない?」


「はい」


「なら、毎日一度、連絡して」


「約束します」


 電話の後、ミンは水野へ、家族との連絡時間も保護計画へ入れてほしいと頼んだ。


 証言者保護は、本人を秘密の部屋へ移すことだけではない。家族への連絡、仕事、在留、医療、食事。危険が過ぎるまで生活を止めずに続けられるようにすることだった。


     *


梨沙は、市の業務から外されたことで初めて、自分がどれほど職員という立場に頼っていたか知った。


 工場へ照会文を送ることもできない。庁内の会議室を予約することも、相談者の受理番号を確認することもできない。名刺に市役所の名があっても、権限が停止されれば、ただの紙になる。


 NPOの水野は、梨沙へ言った。


「今まで、相談者に『関係機関へ行ってください』と言ってきたでしょう」


「はい」


「今度は三浦さんが、支援を受ける側です。弁護士に相談して、組合へ連絡して、人事措置への不服申立てを確認する」


「私は公務員です。相談者とは違います」


「困った人が、制度の使い方を一人で知っている必要はないという点では同じです」


 梨沙は職員組合へ連絡した。

 これまで組合費を払いながら、活動にはほとんど参加していなかった。自分は規則を守って働けば守られると思っていた。


 組合の担当者は、異動通知、アクセス停止の時刻、事情聴取の内容を一つずつ記録した。


「内部通報後の不利益取扱いに当たる可能性があります」


「通報はまだ正式に受理されていません」


「だから受理経路を確保します。人事異動の効力をすぐ止められるとは言えませんが、理由を記録させることはできます」


「担当へ戻れますか」


「戻ることだけを目標にしないほうがいい。戻ってもアクセス権限や上司の指示で動けなければ同じです」


 梨沙は、坂本へ文書で求めた「異動理由」の回答を見た。


〈組織内の情報管理及び円滑な業務運営のため〉


 具体的な違反行為は書かれていない。


 組合担当者は言った。


「曖昧な理由は、後から何にでも使えます。質問してください。どの情報管理上の問題か。いつ発生したか。本人へ弁明機会を与えたか」


 梨沙は質問書を作った。


 相談者へ記録を取るよう勧めてきたのに、自分のことになると、怒りだけで相手へ向かおうとしていた。

 記録は、冷たさではない。力の差がある相手と、同じ事実を見続けるための手すりだった。


     *


朱里は樋口とともに、加工動画を広げたアカウント群を調べた。同じ誤字、同じ短縮リンク、秒単位でそろった投稿時刻。複数のアカウントは、一つの管理画面から運用された形跡を残していた。


 樋口が入手したノースリンク・メディアの内部資料には、〈雇用スキームへの関心を分散する〉という目的が記されていた。住民不安を強調し、行政への怒りを増やし、発注企業の名を前面に出さない。外国人への批判は目的ではなく、企業へ向かう視線をそらす手段だった。


     *


天野は梨沙と非公開で会い、協栄サポートとの契約解除と内部改善を条件に、公表を見送るよう求めた。全貌が出れば取引停止が相次ぎ、数千人の雇用が危うくなるという。


「補償する。改善する。だが、企業を潰しても労働者は救われない」

「非公開の改善を、誰が確認するんですか」

「市と協議する」

「市はこれまで確認できませんでした」


 梨沙は、公表の目的は企業を潰すことではなく、働く人を守る仕組みを作ることだと答えた。そのためには、何が起きたかを隠せない。


「公表後の雇用を守る案があるのか」

「企業、労組、自治体、支援団体を入れた補償と再発防止の枠組みを作ります」

「理想論だ」

「公表しない改善より、実現可能です」


 天野は答えなかった。


     *


避難先へ移ったミンの電話が、非通知で鳴った。


 水野と弁護士が同じ部屋にいることを確認してから、通話に出た。


「もしもし」


 雑音の向こうで、息をする音がした。


「ミン」


「アン?」


「大きい声、だめ」


 声はかすれていた。


「どこですか。けがは?」


「東亜。夜、働く。外、出られない」


「警察が行きます。場所は分かっています」


「手帳、捨てる場所に隠した」


「どこ?」


「廃棄物の建物。青いドラム缶の後ろ。床、鉄の板」


 遠くで誰かが叫んだ。


「アン、待って。明日まで動かないで」


「明日の夜、みんな別の場所へ行く」


「どこへ?」


「分からない。ミン、僕の名前――」


 通話が切れた。


 十七秒だった。


 ミンは電話を握ったまま、何度もアンの名を呼んだ。


 樋口は記事の公開予約を、翌日午後十一時に設定した。

 梨沙は行政監査、労働関係機関、弁護士、NPOへ同時送信する資料を作り始めた。


 誰か一人の端末が止められても、別の場所から届くように。

 誰か一人が黙らされても、証拠が消えないように。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


第九章 公開前夜


 公開まで残り十二時間。樋口は記事を、確認済みの事実、複数証言、推定の三層へ分けた。給与明細、勤務表、配車表、契約書、補助金書類、SNS運用資料を一つずつ照合し、断定できない箇所には限界を明記した。


 情報源の名も見直した。ミンはアンの安全が確認されるまで匿名を選び、梨沙も内部通報者として記事には出ない。名前を多く載せることが、記事の強さではない。話さない選択を守ることも、報道の責任だった。


     *


梨沙は自宅の食卓で監査資料を整えた。相談者から受領した資料、NPOの証言、佐伯が正式な内部通報として託した一覧。市の失敗も隠さず、過去の相談を閉じた経緯と、自分の部署に調査権限がなかった事実を記した。


 朱里は、自分が加工動画を共有し、元動画を見て考えを変えた経緯を匿名で投稿した。正義を語るのではなく、分からない不安を、断定してくれる誰かに預けてしまったと書いた。


     *


東亜精密部品への立ち入りは、午後十時に決まった。


 労働関係機関は、複数の労働者からの申告、配車表、勤務時間記録を根拠に臨検の準備を進めた。警察は、アン本人からの通話と行方不明者届、連絡制限の証言を受け、安全確認のため同行する。


 ミンはNPOの会議室から、施設の見取り図を説明した。


「K7の車は西側の搬入口へ入ります。作業場所は一階。休憩室は南の端。廃棄物保管庫は別棟です」


「手帳の場所は?」


「青いドラム缶の後ろ。床の鉄板の下」


「同行しますか」


 警察官に聞かれ、ミンは首を振った。


「行きません」


 以前の自分なら、アンを助けるために行かなければ卑怯だと思っただろう。

 今は、正確に情報を渡し、安全な場所で待つことも役割だと分かっていた。


「アンを見つけたら、僕がここにいると伝えてください」


     *


午後九時十五分、天野恒一は協栄サポートの高瀬から電話を受けた。


「今夜、東亜へ行政が入る可能性があります」


「なぜ分かった」


「関係先から連絡が来た。人と資料を移します」


「どこへ」


「県外の研修先です」


「止めろ」


 自分の声が、思ったより大きく出た。


「今動かせば、証拠隠滅になります」


「置いておけば、グループ全体が終わります」


「すでに終わりかけている。これ以上、悪くするな」


「天野さん、数字を見て承認してきたのはあなたでしょう。急な増産も、人員削減も、稼働枠で何とかしろと言った」


「違法な移送をしろとは言っていない」


「安く、早く、止めるな。方法は聞かない。十分な指示ですよ」


 天野は言葉を失った。


 高瀬の言い方は、自分が部下へ使ってきた言葉と同じだった。

 目標だけを示し、手段は現場に任せる。問題が起きれば、指示していないと言う。


「現場へ連絡する」


「何をするつもりですか」


「立ち入りを妨害するなと伝える。労働者を動かすな。資料を捨てるな」


「裏切るんですか」


「今まで、誰を守ってきたと思っている」


「自分でしょう」


 電話は切れた。


 天野は役員室の窓から、夜の工場群を見た。

 保身のために止めるのか、被害を広げないために止めるのか、自分でも区別できなかった。


 広報部へ、午後十一時から緊急会見を開くよう指示した。

 用意された最初の文案には、〈当社グループは一切関与しておりません〉と書かれていた。


 天野はその一文を削除した。


     *


公開当日の午後、新聞社へ一本の匿名電話が入った。


「チャン・ドゥック・アンは犯罪をして逃げた」


 男はそう言った。


「何の犯罪ですか」


 樋口が尋ねると、倉庫から商品を盗み、外国人仲間へ売ったと答えた。


「被害届は出ていますか」


「会社が内々に処理した」


「いつ、どこで、何を盗んだんですか」


「詳しいことは言えない」


「あなたは誰ですか」


「工場の人間だ。記事を出せば、犯罪者を英雄にすることになるぞ」


 通話は切れた。


 十分後、編集部の代表メールへ、倉庫の防犯カメラ画像らしい静止画が届いた。アンに似た男が段ボール箱を持っている。件名は〈失踪者の本当の姿〉。


 大城が画面を見た。


「掲載を止めるための材料かもしれない」


「本物かもしれません」


「今から確認できるか」


「確認します」


 樋口は画像の撮影日時とファイル情報を調べた。メタデータは削除されている。箱の側面に商品番号が見えた。


 北関東ロジスティクスへ質問すると、広報は「個別の防犯映像には回答できない」とした。元従業員の山下へ画像を送ると、箱の色が通常の出荷品と違うと指摘した。


「これは廃棄品です。破損した商品を、廃棄場所へ運ぶときの箱」


「持ち帰った可能性は?」


「この通路の先は廃棄物置き場です。出口じゃない」


 倉庫の公開された避難経路図と照合すると、男が向かっている方向は確かに廃棄区画だった。


 画像自体は本物かもしれない。

 だが、「盗んでいる」という説明が後から付けられている。


「記事に入れますか」


 大城が聞いた。


「入れません。アンが盗んでいないと断定する材料もありません。今回の記事の事実関係とも別です」


「公開後に相手が出してくるぞ」


「そのとき確認して報じます。今、反論のために取り込めば、相手が設定した論点へ移ります」


 樋口は匿名電話と画像を別の記録として保存した。


 告発される側は、告発者が完全な人間ではないことを示せば、告発内容まで無効にできると思う。

 だが、アンが過去に何か間違いをしたかどうかと、勤務時間や移送記録が改ざんされたかどうかは別の問題だ。


     *


東亜精密部品の別棟で、アンは移送の準備を命じられていた。


 小さなスポーツバッグが床へ並べられ、一人ずつ番号を呼ばれる。自分の荷物を持っている人は少なかった。工場へ来るとき、「二日だけの研修」と言われたからだ。


「どこへ行きますか」


 ラシードが管理者へ尋ねた。


「新しい研修先」


「いつ戻りますか」


「説明は向こうである」


 同じ答えだった。


 アンは、黒い手帳を廃棄物保管庫へ隠した後、記憶だけを何度も確認した。


 四十二人の名前。

 K7の運行日。

 北辰の請求書番号。

 けがをしたフイの時刻。


 手帳が見つからなくても、自分が話せるように覚えた。


 スマートフォンを使えたのは、管理者が席を外した十七秒だけだった。ミンへ電話した後、履歴を削除する前に黒田が戻り、端末を取り上げられた。


「誰にかけた」


「間違えました」


「番号を見れば分かる」


 黒田は発信履歴を確認したが、非通知設定になっていた。アンは殴られると思った。黒田は殴らなかった。


「明日になれば、全部終わる。余計なことをしなければ、新しい契約で働ける」


「終わるのは、何ですか」


「問題だ」


「僕が問題ですか」


「おまえが問題を作った」


 黒田は端末をポケットへ入れた。


「会社は仕事を用意した。寮も、送迎も、病院も。おまえらだけでは日本で何もできない」


「だから、名前を消していいですか」


「名前はある。契約先が変わるだけだ」


「僕の名前が、どこにあるかを僕が知りません」


 黒田は答えず、ドアを閉めた。


 アンは窓の外を見た。

 工場の照明が、暗い駐車場の一部だけを白く照らしている。柵の向こうには道路がある。車が通る。コンビニの看板も遠くに見える。


 物理的には、街から数百メートルしか離れていない。

 それでも、契約書と借金と知らない住所が、国より遠い距離を作っていた。


 午後九時五十分、管理者たちの動きが急に慌ただしくなった。


「移動は中止」


「資料を事務所へ集めろ」


「社印はどこだ」


 誰かの電話から、天野という名前が聞こえた。


 アンは、外で何かが動いたと感じた。


 自分の手帳が見つかるかは分からない。

 ミンが通話を信じたかも分からない。


 それでも、名前と数字を外へ出した。

 自分ができることは、もうそれだけだった。


     *


立ち入り前の打ち合わせでは、アンだけでなく、同じ施設にいる全員の安全確認、住居、在留、未払い賃金の相談先まで担当を決めた。曖昧な「支援する」ではなく、誰が何をするかを記録した。


 午後十時、東亜精密部品への立ち入りが始まった。新聞社の公開予定ページには不自然な大量アクセスが集中したが、樋口たちは紙面、提携媒体、複数サーバーへ同時に配信できるよう準備した。


 別棟でアンを含む労働者が発見された。外出と連絡を制限され、「契約違反の研修」と称して働かされていた。廃棄物保管庫の青いドラム缶の裏から黒い手帳が見つかり、勤務表の原本、複数会社の社印、署名済みの空白契約書も保全された。


〈本人の安全を確認。手帳を保全〉


 連絡を読んだミンは、声を出さずに泣いた。


     *


アンが保護されたという連絡の後も、記事の公開判断は変わらなかった。


「本人が見つかったなら、失踪事件としての緊急性は下がったのでは」


 経営担当役員が尋ねた。


 倉本は答えた。


「一人が見つかったことで、記事の必要性がなくなるなら、最初から一人の行方しか見ていなかったことになる」


 樋口は原稿へ、アンの発見を短く追記した。


〈関係機関は今夜、県境の部品工場でアン氏の安全を確認した。現場では複数の勤務記録と手帳が保全された。内容の検証は継続中である〉


 救出されたという言葉は使わなかった。

 本人がどの程度自由を制限されていたか、法的評価はまだ確定していない。劇的な言葉で記事を完成させるより、未確定の部分を残すことを選んだ。


 午後十時五十五分、天野グループから最終回答が届いた。


〈当社は協栄サポート及び関連事業者の個別労務管理へ関与する立場にない。一方、取引管理上の不備がなかったか外部専門家を交えて調査する〉


 さらに、ノースリンクの資料を保全し、関係機関へ提出するとの一文がある。


「天野が動いた」


 大城が言った。


「責任を認めたわけではありません」


「でも資料を残すと言った。記事に入れるか」


「相手の回答として全文へのリンクと要旨を載せます」


「見出しは変えない?」


「変えません」


 相手が最後に一歩動いたからといって、それまでの事実が消えるわけではない。

 同時に、完全な悪として固定するため、動いた事実を隠す必要もない。


 公開画面には、記事本文、取材経過、企業と市の回答、資料の検証方法が別々のタブで用意された。


 読者に結論だけを渡すのではなく、どの事実から何を言えるかを追える形にする。


 樋口は、自分の名前が著者欄へ大きく表示されているのを見た。


「連名にしてください」


「誰と?」


「データ検証班と社会部取材班。記事末尾に専門家と通訳の協力も、同意がある範囲で記載します」


「スクープを取った記者が遠慮するな」


「一人で取っていません」


 倉本は著者欄を修正させた。


 記事の功績を分けることは、責任を薄めることではない。

 誰がどの部分を確認したかを示すことだった。


 午後十時五十八分。


 川ノ瀬新報のウェブサイトへ、通常の三十倍を超えるアクセスが集中した。公開前の記事URLがどこかから推測され、接続が不安定になっている。


「延期するか」


 倉本が言った。


「しません」


 樋口は紙面用のPDF、提携メディアへの配信文、SNS用の要約を確認した。


「サイトが落ちても、同時に三経路で出ます」


「攻撃かもしれない」


「だから分散させました」


 大城が公開ボタンの前に立った。


「手帳の回収は記事へ入れるか」


「確認が取れた事実だけ、追記します。中身の詳細は保全手続きが終わるまで書かない」


「スクープなのに?」


「証拠です。見せ物ではありません」


 大城は頷いた。


 梨沙のパソコン画面には、監査資料の送信予約が表示されている。


〈送信まで 00:01:00〉


 朱里の投稿も、同じ時刻に公開される。


 天野グループは緊急会見の開始を発表した。


 午後十時五十九分五十秒。


 梨沙は、アンの最初の音声を思い出した。

 助けて。名簿から消される。


 あの声を受け取ってから、十二日が過ぎていた。

 遅すぎたのかもしれない。

 それでも、今、届かせるしかない。


 時計が十一時を示した。


 梨沙が送信ボタンを押した。

 同時に、樋口の記事が公開された。


〈消された四十三人――川ノ瀬市・偽装雇用網の記録〉


 画面の向こうで、街の夜が動き始めた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


第十章 それでも働く人々


 記事が公開された翌朝、川ノ瀬市は二つの怒りに挟まれていた。


 一つは、天野地域産業グループへ向けられた怒りだった。

 スーパーでは関連商品の棚へ「買わない」という紙が置かれ、本社前には抗議する人が集まった。SNSには工場名、役員名、社員の自宅らしい住所まで投稿された。


 もう一つは、外国人労働者へ向けられた怒りだった。


〈不正に補助金を受けた外国人を全員追放しろ〉

〈犯罪企業で働いた者も共犯だ〉

〈日本人の雇用を奪った責任を取れ〉


 記事には、補助金を受け取ったのは企業側であり、労働者本人が不正を計画した証拠はないと書かれている。それでも、見出しだけを切り取った投稿が広がった。


 真実を公開すれば、嘘が消えるわけではなかった。

 怒りの向きが自動的に正しくなるわけでもない。


 梨沙はNPOの臨時相談室で、電話対応に追われていた。


「天野の工場で働いています。今日から来なくていいと言われました」


「寮を出ろと言われました」


「日本人のパートです。工場が止まったら、来月の給料はどうなりますか」


「子どもが学校で、親は犯罪者だと言われました」


 国籍も立場も違う相談が、同じ電話へ入ってくる。


 告発した瞬間に事件は終わらない。

 むしろ、それまで一つの仕組みの中へ押し込められていた生活が、いっせいに外へこぼれ出した。


     *


アンは市外の医療機関で保護されていた。


 ミンと再会したのは、立ち入りから二日後だった。


 面会室のドアが開くと、二人はしばらく立ったまま互いを見た。


「遅いです」


 アンが先に言った。


「あなたが場所を一つずつしか送らないからです」


「スマホを一分しか使えませんでした」


「電話は十七秒でした」


「十分です」


 ミンが笑い、アンも笑った。

 次の瞬間、二人は抱き合った。


 梨沙と水野は、少し離れて待った。


 アンの説明では、工場の事務所へ呼ばれた後、配置転換の同意書を示されたという。拒否すれば、研修費、寮費、契約違反金として三百万円を請求し、家族にも連絡すると言われた。


「車に乗ることを、僕は同意しました」


 アンは通訳を介さず、日本語で話した。


「でも、どこへ行くか、何日いるか知りませんでした。スマホを取られました。外へ出ると契約違反と言われました」


「暴力は?」


 警察の聞き取りに、アンは首を振った。


「殴られていません。ドアは開くこともありました。でも外へ出れば、違約金。警察へ行けば在留資格がなくなる。家族の借金を取りに行く。そう言われました」


 鍵と鎖だけが自由を奪うのではない。

 契約書、借金、在留資格、家族。法律のように見える言葉を壁にして、本人に動かないことを選ばせる。


「帰国したいですか」


 支援員が尋ねた。


「今は決めません」


「日本に残る場合、転職支援ができます」


「それも今は決めません」


 アンは手帳のコピーを握った。


「会社も、支援する人も、みんな早く決めてと言います。僕は、自分で考える時間がほしいです」


 梨沙は頷いた。


「その希望を記録します」


 アンは被害者として保護されたからといって、次の選択まで他人に渡す必要はない。


     *


天野グループの緊急会見は、当初予定の三十分を超え、二時間続いた。


 天野恒一は壇上で、協栄サポートへの管理が不十分だったと謝罪した。


「当社グループが違法な人材移送を指示した事実は、現時点で確認されておりません」


 用意された回答だった。


 記者席から質問が飛んだ。


「研修施設は関連法人の所有です。利用を把握していなかったのですか」


「一時的な研修に使用されているとの報告は受けておりました」


「連絡手段を取り上げた労働者がいることは?」


「把握しておりませんでした」


「協栄の顧問、高瀬氏は元法務室職員です。架空会社とされる四社の契約書を作成しています」


「退職後の活動について、当社が指示する立場にはありません」


「ノースリンク・メディアへの支払いは?」


「地域広報業務として正当な契約です」


「協栄から同社へ、危機対応広報費が支払われたことは知っていましたか」


「個別取引については――」


 別の記者が、記事に掲載された内部報告書を掲げた。


「天野さん宛ての月次報告に、『外国人材の横断活用』『稼働枠の最適化』とあります。内容を確認せず、原価率の改善だけを評価したのですか」


 天野は答えを止めた。


 会場が静かになった。


「私は」


 用意した紙を閉じた。


「方法を詳しく報告されていないことを、知らなかった理由にしようとしていました」


 広報担当者が横から何か囁いた。天野は首を振った。


「人員不足を解消しろ。原価を下げろ。生産を止めるな。私は何度もそう指示しました。手段について質問しなかった。相談や問題の報告を受けても、現場または契約先の問題として先送りした。それは、指示していないという言葉だけでは免れない責任です」


 記者のキーボード音が一斉に響いた。


「辞任しますか」


「役員としての処遇は、外部調査の結果を受けて取締役会に委ねます。ただ、辞任だけで未払い賃金は戻りません。当社は補償基金を設け、調査対象となる全労働者の給与と控除を第三者に検証してもらいます。取引先への支払いも見直します」


「企業存続のためのパフォーマンスでは?」


「そう見られて当然です。だから、当社だけで運用を決めません」


 完全な告白でも、完全な改心でもなかった。

 天野は会社を守ろうとしている。そのために初めて、監視されることを受け入れようとしていた。


     *


市は第三者調査委員会を設け、補助金審査の形式化、相談記録の分散、部署間の情報共有不足、企業への過度な配慮を認めた。坂本は処分対象となったが、梨沙は個人を切って終わらせず、同じ手順なら誰が担当しても再発する仕組みを改めるよう求めた。


 樋口の連載第二回は、安い商品、短納期、最低価格を優先する公共調達が、見えない労働を必要とした流れを描いた。新聞社も広告部門から編集判断を独立させる規定を公表した。


 朱里は学校で、自分が動画を共有した経緯を話した。ミンは「外国人代表」としてではなく、会社から給料を受ける通訳が、同僚の自由な意思を伝えられなかった問題について語った。


     *


公開から一週間後、市民説明会が開かれた。


 会場となった市民ホールは、開場前から長い列ができた。天野グループの従業員、外国人寮の近隣住民、労働組合、支援団体、取引先、記者。入口では互いの立場を示すプラカードが並んだ。


〈搾取企業を許すな〉

〈工場を潰すな〉

〈外国人優遇反対〉

〈未払い賃金を返せ〉


 同じ事件について集まった人々が、別々の事件を見ているようだった。


 梨沙は市の説明者として壇上に座った。

 最初の質問者は、工場近くに住む男性だった。


「失踪した外国人を市が匿って、企業だけを悪者にしたんじゃないですか」


「アンさんは本人の意思に反する連絡制限を受けていた可能性があり、現在は関係機関の保護と支援を受けています。市が事実を隠していたという点については、相談対応の不備を調査中です」


「外国人にはすぐ保護がある。日本人が会社を辞めても、誰も助けない」


 会場の一部から拍手が起きた。


 梨沙は反射的に否定しかけ、言葉を変えた。


「日本人への支援が不足しているなら、外国人への支援をなくすのではなく、必要な人が使えるよう広げるべきです。今回の相談窓口の改善は、国籍を問わず対象にします」


「きれいごとだ」


「そうならないよう、受理番号と対応期限を設けます。制度の効果も公開します」


 次に、天野グループの日本人従業員が立った。


「記事が出てから注文が止まりました。来月のシフトが半分です。正義をした人たちは、私たちの給料を払ってくれますか」


 会場が静かになった。


「市が全額補償できるとは約束できません」


 梨沙は答えた。


「では、私たちは見捨てられるんですか」


「企業には休業補償と雇用維持を求めています。市も国・県の制度を使い、離職や減収への支援窓口を設けます。ただ、すべてを以前と同じに戻せるとは言えません」


「告発したのに、何も考えてなかったんでしょう」


 その言葉は痛かった。


「公開前に十分な支援策を用意できませんでした」


 梨沙は認めた。


「だから今、働いていた方々と一緒に作らせてください」


「一緒に、って言えば責任を分けられると思ってる」


「分けるのではなく、私たちが決めた制度で生活が変わる人を、決める場から外さないためです」


 完全に納得した人はいなかった。

 それでも、後半の意見交換では、日本人従業員と外国人労働者が同じテーブルへ座った。


 ある日本人の班長は、自分が外国人作業員へ残業を頼んだことを話した。


「断れると思ってた。『できます』って言うから。でも断ったらシフトを減らされるって、後で知った」


 インドネシア人の元作業員は答えた。


「班長さんが怖いだけではありません。みんなが残って、自分だけ帰ると、次の日の仕事が難しい。会社のルールは、紙だけではないです」


 制度の条文だけでは捉えられない圧力が、初めて同じ机の上で言葉になった。


     *


アンは退院後、手帳の事実確認に協力したが、事件の象徴として話すことは断った。「僕は四十三人の代表ではありません」と言い、自分の将来を決める時間を求めた。


 補償基金の交渉では、未払い賃金だけでなく、不当控除、移送時間、休業中の生活費、帰国・転職支援をどこまで含めるかで対立した。完全な補償には届かなかったが、少なくとも会社に記録がないという理由だけで申告を退けない仕組みができた。


 三者協定には、母語を含む契約書、給与の直接払い、控除の上限、現場移動時の本人同意、統一名簿の照合、独立通報窓口、不利益取扱いの禁止、第三者監査が盛り込まれた。


 天野は企業側の署名者として監視される立場を受け入れた。閲覧履歴を本人も確認できる名簿にするという梨沙の案へ、運用費が高いと反対したが、最後には修正案へ署名した。


「これまで払わなかったコストです」


 工場の一部停止と雇用不安は残った。それでも説明会では、日本人従業員もタイムカード後の清掃や低賃金を語り始めた。誰も急に仲間にはならない。だが、国籍が違っても、同じ仕組みに別の形で押し込められていたことが、少しずつ言葉になった。


     *


佐伯は三か月の休職を経て、相談室へ戻った。


 以前と同じ席ではなく、新設された内部通報・記録管理担当になった。


「人と話す窓口から、記録を見る仕事になった」


 佐伯は苦笑した。


「嫌ですか」


「向いているかもしれない。消される記録を見てきたから」


 最初の仕事は、過去五年分の終了案件を再点検することだった。


 連絡不能で閉じられた相談。

 関係機関を案内して終わった相談。

 本人が記録を拒否したため、統計に入らなかった相談。


「全部を追い直すのは無理です」


「そうですね」


「また、できないことばかり」


「優先順位を決めましょう。生命・身体の危険、在留カードの預かり、所在不明、給与名義の変更。複数の兆候があるものから」


 梨沙は言った。


「できないから閉じるのではなく、できない理由と次に確認する日を残します」


 佐伯は新しいシステムへ入力した。


〈再確認予定日〉


 以前の画面にはなかった項目だった。


「私がもっと早くUSBを出していれば」


「違う結果になったかもしれません」


 梨沙は慰めるための否定をしなかった。


「でも、これから遅らせない仕組みを作ることはできます」


 佐伯は静かに頷いた。


 工場の一部は停止した。

 取引を打ち切る企業もあり、仕事を失った人もいた。補償金の支払いは遅れ、外部監査への不満も続いた。


 すべてが良くなったわけではない。


 補償説明会で、日本人の元パート従業員が発言した。


「外国人だけが特別にお金をもらうんですか」


 会場がざわついた。


 続けて彼女は言った。


「私は十年、サービス残業してきた。外国人の人が記録してくれたから、自分の時間も調べてもらえると分かった。なら、同じ表に入れてください」


 外国人労働者の一人が手を挙げた。


「僕も、日本人の人は会社の人だから助けてくれないと思っていました。でも同じラインで、同じ時間、働いていました」


 誰も急に仲間にはならなかった。

 しかし、自分だけが不当に扱われたのではなく、同じ仕組みに違う形で押し込められていたことを、少しずつ話し始めた。


     *


半年後、協定の運用開始日。


 梨沙は再編された雇用・多文化相談室の端末で、新しい統一名簿を開いた。


 最初の画面に、国籍別の色分けはなかった。

 本人が希望する名前、連絡先、勤務先、契約言語、相談時に希望する言語、緊急連絡の可否が並んでいる。


 閲覧者と閲覧理由も、自動で記録される。


 チャン・ドゥック・アンの欄を開く。


〈保護中〉から、状態が更新されていた。


〈本人の希望により転職支援中〉


 その文言を決めたのは、アン自身だった。


 梨沙は画面を閉じず、次の行を確認した。

 グエン・ミン。物流資格取得支援。NPO通訳補助。


 名前は、ただ載せればよいのではない。

 誰が見るか、何のために使うか、本人が修正できるか。その運用がなければ、名簿は人を守るものにも、消すものにもなる。


 窓の外では、朝の工場へ向かう車が動き始めていた。

 事件の前と同じように、街は働く人々によって回っている。


 同じではないのは、その一人ひとりを見えないままにしてよいと、もう言い切れなくなったことだった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


エピローグ 明日の名簿


 半年後の相談窓口には、以前なかったものが増えていた。


 入口の棚には八言語の案内が並び、壁には匿名通報用のQRコードが貼られている。通訳は予約制だけでなく、緊急時に外部の専門通訳へ直通できる。相談を受け付けると番号が発行され、本人はスマートフォンから対応状況を確認できた。


 以前の梨沙なら、制度が整ったことに安心したかもしれない。


 今は、案内紙の残部、通訳の待ち時間、受理から初回連絡までの日数、未処理案件の理由を毎週確認していた。

 制度は、作った日ではなく、使われない日から弱くなる。


「受理番号K-0187、企業から回答がありません」


 若い職員が報告した。


「期限は?」


「昨日です」


「再照会と監査担当への共有を。相談者にも、遅れていることを連絡してください」


「回答が来てからでなくていいんですか」


「待っている人には、何も起きていない時間ではありません」


 職員は頷き、端末へ戻った。


 梨沙の机には、古い猫のクリップが置かれていた。異動の段ボールから戻したものだ。


     *


ミンは週に二日、NPOで通訳補助をしていた。


 以前のように、会社の説明を一方的に伝える仕事ではない。相談者が何を理解し、何を望んでいるかを確かめ、分からない法律用語は専門家へ戻す。


「通訳は答えを作らない」


 水野から何度も言われた。


 最初は難しかった。

 相談者が困っていると、自分の経験からすぐ助言したくなる。会社を疑うべきだ、記録を取るべきだ、署名してはいけない。だが、同じ状況に見えても、帰国したい人、転職したい人、今の職場で改善を求める人がいる。


 ミンは物流管理の資格試験の勉強も続けていた。

 配車表を見ると、今でもK7の札を思い出す。それでも、人を番号で運ぶ仕組みではなく、荷物と運転手の安全を同時に守る仕事をしたいと思った。


 アンは別の県で働く準備をしている。

 すぐに日本へ残ると決めたわけではなかった。母国へ一度帰り、家族と話し、また来日する道を選んだ。


 黒い手帳の原本は証拠として保全されている。アンはコピーを、労働相談員の研修資料へ使うことに同意した。


〈名前だけを見ないでください。時間と場所を一緒に見てください〉


 研修資料の最初に、アン自身の言葉が載った。


 樋口は「見えない労働」の連載を続けていた。

 介護、建設、物流。取材先からは、告発だけでなく、「うちも疑われるのか」という反発も届く。樋口は一社ずつ、確認できたことと、まだ分からないことを分けて書いた。


 朱里は学校のメディアリテラシー活動に参加し、動画の元情報を探すワークショップを開いている。

 自分の失敗を毎回話すわけではない。失敗を肩書きにすることも、別の逃げ方になる気がしたからだ。


 天野グループでは外部監査が続いていた。

 未払い賃金と不当控除の補償額は当初見込みを大きく上回り、複数の事業が売却された。天野は役員を退き、補償委員会への出席だけを続けている。


 痛みがあることは、改革が正しい証明ではない。

 だが、これまで誰かへ押しつけて見えなくしていた費用が、初めて帳簿へ戻ったことは確かだった。


     *


新しい窓口にも、うまくいかない日はあった。通訳の予約は埋まり、匿名通報には嫌がらせも混じる。企業からは照会が多すぎると苦情が来た。それでも、対応期限と担当者、本人への連絡を記録する運用は続けられた。


 ある朝、介護施設で働く外国人女性が相談に来た。契約書にない夜勤が増え、転職すれば家族への送金が止まると訴えた。


 以前の梨沙なら、まず担当機関と制度を説明したかもしれない。今は本人へ尋ねた。


「あなたは、どうしたいですか」

「仕事は続けたいです。でも、夜勤を減らしたい。給料も正しくほしいです」


 梨沙は希望を相談票へ入力し、受理番号を発行した。名前を名簿へ載せるだけでは足りない。その人が声を上げたとき、誰が受け取り、いつ動き、どう守るのかまで決めて、初めて人は見える。


 窓の外では、配送車、給食車、介護送迎車が朝の街を行き交っていた。


 梨沙は画面を相談者のほうへ向けた。


「違うところはありますか」


 女性は一行ずつ読み、首を振った。


「では、この内容で受理します。最初から聞かせてください」


 女性はゆっくり頷き、働き始めた日のことから話し始めた。


――完――


最後まで『見えない名簿』をお読みいただき、本当にありがとうございました。


この物語は、一人の外国人労働者の失踪から始まりました。


けれど、梨沙たちが追いかけていたものは、失踪した一人の行方だけではありません。


給与明細と勤務記録の食い違い。

名義だけが異なる複数の会社。

誰も責任を取らない契約。

都合の悪い相談を別の窓口へ送り続ける行政。

不安や怒りを利用して拡散される情報。


そうした一つひとつの小さな歪みがつながったとき、人は名簿の中から消えていきます。


それは、名前が削除されるという意味だけではありません。


働いた時間が記録されない。

訴えた声が正式な相談として残らない。

誰の責任で雇われているのか分からなくなる。

困っていることを説明しても、制度の対象外だと言われる。


記録の中に存在していても、一人の人間として見てもらえなければ、その人は社会の中で見えなくなってしまいます。


本作では、問題を特定の国籍や一部の悪人だけに帰すのではなく、人を見えなくする仕組みそのものを描こうとしました。


企業には、経営を続けなければならない事情があります。


行政には、権限や予算、担当範囲の限界があります。


報道機関にも、組織を維持するための事情があります。


働く人にも、家族への送金や在留資格、借金、将来への不安があります。


それぞれの事情には、理解できる部分があります。


しかし、事情があることと、誰かの権利を奪ってよいことは同じではありません。


「自分の担当ではない」

「契約上は問題ない」

「地域経済のためには仕方がない」

「確かな証拠がないから動けない」


その言葉を多くの人が繰り返した結果、誰も全体の責任を取らなくなる。


本作で描きたかった「敵」とは、そのような責任の分断でした。


主人公の梨沙は、最初から勇敢な告発者だったわけではありません。


彼女は正しいことを言いながらも、制度の外へ踏み出すことを恐れ、自分にできないことの多さに無力感を抱いていました。


ミンも、最初から迷いなく証言できたわけではありません。


家族への責任、自分の将来、仲間の安全の間で何度も揺れています。


樋口も、報道の正義だけを掲げられる記者ではありません。


過去に自分が書いた記事が、偏見を強める材料として使われていた事実と向き合うことになります。


朱里もまた、悪意から偽情報を広めたわけではありません。


不安を抱えていたとき、迷いなく断定してくれる言葉に安心を求めてしまいました。


人は、いつでも正しい情報だけを選べるわけではありません。


自分に余裕がないときほど、複雑な説明よりも、敵を一人に決めてくれる言葉のほうが分かりやすく感じられます。


だからこそ、情報を受け取る側にも、発信する側にも、一度立ち止まる仕組みが必要なのだと思います。


物語の最後で結ばれた協定も、すべてを解決する魔法ではありません。


契約書を多言語化しても、読める時間が与えられなければ意味がありません。


相談窓口を設けても、相談した人が不利益を受けるなら利用できません。


監査制度を作っても、書類だけを確認するのであれば、同じ問題が繰り返されます。


制度は、作っただけでは人を守りません。


誰が受け取り、誰が確認し、いつまでに動き、動かなかった場合にどうするのか。


そこまで決め、実際に運用し続けることで、初めて制度は人を守るものになります。


「共生」という言葉も同じです。


交流イベントを開くことや、外国の料理や文化を紹介することは、とても大切です。


けれど、共生を支えるものは、善意だけではありません。


適正な賃金。

理解できる契約書。

安全な住居。

自由に相談できる窓口。

転職や退職を選べる権利。

不当な扱いを受けたときの補償。


そうした地味で具体的な仕組みがあってこそ、異なる背景を持つ人々が同じ地域で暮らしていけるのだと思います。


タイトルの『見えない名簿』には、二つの意味を込めました。


一つは、企業や行政の記録から意図的に消された人々の名簿です。


もう一つは、私たちの暮らしを支えながら、その存在を意識されることのない人々の名簿です。


商品が棚に並ぶまで。

荷物が家に届くまで。

建物が清潔に保たれるまで。

食事が用意されるまで。


その裏側には、必ず誰かの労働があります。


けれど、便利さが当たり前になるほど、その人の名前や生活は見えにくくなっていきます。


この作品を読み終えたあと、日常の中にある仕事や、その仕事を支えている人について、ほんの少し立ち止まって考えていただけたなら、作者としてこれ以上うれしいことはありません。


なお、本作品はフィクションです。


登場する人物、企業、団体、自治体、事件、制度上の運用などは、物語のために創作・再構成したものであり、実在する個人や組織とは関係ありません。


社会問題を題材としていますが、特定の国籍、職業、企業、行政機関などを一括して批判することを目的とした作品ではありません。


梨沙たちの行動も、唯一の正解として描いたものではありません。


同じ状況に置かれたとしても、人によって選ぶ道は異なるはずです。


声を上げる人。

離れることを選ぶ人。

家族を守るために沈黙する人。

組織の中から変えようとする人。


どの選択にも、それぞれの事情があります。


大切なのは、その人が自分で選ぶための情報と安全が守られていることではないでしょうか。


最後まで梨沙、ミン、アン、樋口、朱里たちの物語にお付き合いいただき、ありがとうございました。


感想や評価、ブックマークなどで応援していただけると、今後の創作の大きな励みになります。


皆さまの日常の中で、これまで見えなかった誰かの仕事や声が、少しだけ見えるようになることを願っています。


朝霧颯


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