厄
――「書いていい」。
その言葉は、僕にとって抗い難い魅力的な言葉だった。
僕が見た「くろいくねくね」がなんであるのかはともかく、その噂の出所や伝播など、今まで知ったことを僕は書いていいのだろうか。
怖い。確かに怖い。
けれど、好奇心は抑えられないし、その好奇心で知ったことをみんなに見せたい。認知させたい。
それは僕にとって、まるで息をするような欲望で、生態で、本能だ。
書きたい。
でも。
ああ、書きたい。
元々危険でなければ書きたいと思っていた。
危険とわかった以上、書けないと思った。
それを、義兄は「書いていい」と言う。
「……僕、書き――書きたい、です」
「――そうか」
ぽん、と肩を叩かれて、全身から力が抜けた。
背中を丸めて、震える肺をなんとか宥める。
言った。――言ってしまった。
背中をさすってくれる義兄の骨ばった手の感触が、とても温かく感じる。
全身がひどく冷えているのに、なぜだか汗が止まらない。
「そうと決まったら、部屋からパソコン取ってこよう。書き上がるまで付き合うから」
「……っ、はい」
なんとか顔を上げ、震えそうになる足を励まして立ち上がる。
部屋の隅を、黒い影がスウっと滑って消えた。
◆ ◆ ◆
《最近話題となった「くろいくねくね」について、自分なりに情報を集めたことをもとに考察してみた》
《僕の考察が正しいとすれば、この現象はSNSによる情報伝播のスピードに乗って伝染する可能性が極めて高い》
《そのため、ここから先の考察については、閲覧を自己責任とさせてもらいたい》
《この先の文章を読み、何かしらの異常を体験したとしても、僕は一切の責任を負うことができない。その旨、どうかご承知おきいただきたい》
書き上げた文章を、義兄に読んでもらう。間違った用法や誤字をいくつか指摘してもらって、直す。
そんなやり取りがしばらく続いて。
「うん、これなら投稿できそうだね」
静かにそう言われたところで、僕は傍らに置いた水の入ったコップに手を伸ばす。目測を誤って指がコップの縁にぶつかる。
「あっ――」
ひょいっと伸びた義兄の指が、倒れかけたコップを支える。
「……すいません」
謝って、受け取った水を一気にあおった。そのまま腕を伸ばしてパソコン越しにコップを遠くへ押しやってから、タッチパッドを操作して公開ボタンにカーソルを合わせる。
「…………」
さかえ義兄さんは、何も言わなかった。
僕がしたいことも、そうすることで何が起きるのかも、僕は知っている。
閲覧は自己責任。どうか気を付けて。
そう繰り返し書くことなんて、免罪符にもならないことを僕はしようとしている。
それでも――。
僕は、義兄と、もう一つ不思議な気配を背後に感じながら、公開ボタンを――タップした。
しばし、重苦しい沈黙がリビングに落ちる。
「書いちゃい……ました」
「うん、書いちゃったねぇ」
「僕、読んだ人に何かあったら――」
言葉を遮るようにくしゃ、と僕の髪をなでて、義兄はささやく。
「言っただろ、他人は他人でどうにかする。はるちゃんが気に病むことじゃない。それにね」
ことさらに明るい声で、義兄はへらへらと笑った。
「くねくねに出会ったって誰も彼も狂うわけじゃないさ。俺みたいに『まあいっかー、気のせいかー』で済ませる人に怪異は手出しできないもんだよ」
本当にそれでいいのか、僕は義兄のように、簡単に割り切ることはできない。
それでも、そう祈るしかなかった。
どうか、僕のもとからあの「くろいくねくね」がいなくなってくれますように。
どうか、その「くろいくねくね」の引越し先が、義兄の言う性格の持ち主でありますように。
――投稿して閲覧数が「0」から「1」になった直後から、リビングにまで垂れこめていたはずの「黒い人影」の気配は急速に薄れていった。
そして翌日、その投稿に初めての「いいね」が付いたころには、その気配は完全に晴れていた。
あの「流行り神」は僕の手を離れてしまった。これ以上僕ができることは、本当になくなってしまった。
そう、だから祈るしかないのだ。
――この記事を読んだあなたも、どうか「気のせい」で済ませられる人でありますように、と。




