傘の夢と首で逆立ち
今度の引越し先はどこだと思う?
その言葉のあまりの軽薄さに僕はぞっとした。義兄が、まるで見た事のない人のように見えた。
「……義兄さん、それ、本気で言ってますか?」
「ん、本気だよ?」
何でもないことのように言う。まるで、「今日はカレーだよ?」とでもいうような調子で。
でも、その本当の意味を、僕は理解している。
それが、どういう結果を招くであろうか、ということも。
◆ ◆ ◆
ただいま帰りました、と玄関先から声をかけると、ドスン、という重い音が出迎えた。そのあとつぶれた、「あ、はるちゃんお帰り、ちょっと助けて」という声が聞こえてくる。
「…………」
僕は無視して洗面所に向かった。
石鹸で必要以上に丁寧に丁寧に、丁寧に丁寧に手を洗い、それからのんびりとスマホのメールをチェックする。
「ねえはるちゃん、聞こえてたよね、ちょっと助け」
「知りません」
もう25歳である僕のことを「はるちゃん」なんてかわいらしい名前で呼ぶ義兄のことなど知ったことか。
おおかたソファで寝落ちして、そのまま落下したに違いない。あの人は芸術的な寝相の悪さなのだ。
何事もなかったかのようにリビングに入ると、案の定。
義兄のさかえさんは、黒のスウェット上下を着たまま首で逆立ちしていた。足を90度くらい開いてバタつかせている。どうにか起き上がろうと必死らしい。
「……義兄さん、どういう原理でそんな風になったんです」
「知らない。なんか風にあおられる傘の夢見て起きたらこうなってた」
どんな夢だ。
「助けようがありませんよ。足を引っ張ったって腕を引っ張ったって、その恰好をどうにかできるわけないじゃないですか」
「えぐえぐ、はるちゃんったらヒドイ、大好きなお兄ちゃんのこと見捨てるのね」
誰が「大好きなお兄ちゃん」だ。
僕は義兄がバタつかせる足を躱しながらカバンを置く。それから起き上がるのに邪魔になっているらしいテーブルを軽くどかしてやった。
そのおかげか何とか起き上がることができた義兄は、にへ、と変に脱力した笑みを浮かべてくる。
「ほらぁ。やっぱりはるちゃんは優しいいい子」
「子ども扱いしないでください」
ため息をついて、僕は言っても無駄であろう抗議を口にした。




