表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
29/30

第30話 尊重という名の、本当の資産

第30話 尊重という名の、本当の資産


十二月の終わりだった。


空気は冷たかったが、空はどこまでも青く晴れ渡っていた。


望は朝から台所に立っていた。


窓の外では、近所の子どもたちが冬休みを楽しそうに走り回っている。


吐く息は白い。


遠くから聞こえる笑い声が、静かな住宅街に優しく響いていた。


今日は久しぶりの家族全員が集まる食事会だった。


大晦日を二日後に控えた休日である。


台所には様々な香りが満ちていた。


昆布と鰹節で丁寧に取った出汁。


甘辛く煮込まれた筑前煮。


醤油と生姜の香りをまとったぶりの照り焼き。


炊き立てのご飯。


大根と人参のなます。


そして大きな土鍋では鶏団子鍋が湯気を立てている。


鶏肉の旨味と白菜の甘みが溶け合い、部屋中を温かな香りで包んでいた。


望はエプロンで手を拭きながら鍋の火加減を確認した。


すると玄関から声が聞こえる。


「ただいまー!」


拓也だった。


両手いっぱいに買い物袋を抱えている。


ネイビーのダウンジャケットの肩には、うっすらと白い霜が残っていた。


「おかえりなさい」


「ただいま」


拓也は袋を掲げた。


「特売のいちご見つけたんだ」


「いちご?」


「母さん好きだろ?」


望は思わず笑った。


「ありがとうございます」


「あとみかんも買った」


「買いすぎじゃないですか?」


「年末だから!」


拓也は得意そうだった。


少し前までなら、こういうことはしなかった。


家事も家計も望に任せきりだった。


だが今は違う。


特売日を覚え、買い物もする。


家計簿も一緒に見る。


少しずつ、確実に変わっていた。


昼過ぎになると義母と玲奈もやってきた。


「こんにちは」


玲奈は笑顔だった。


以前のような派手さはない。


ベージュのニットに濃紺のスカート。


髪も自然な感じにまとめている。


だが、その表情は驚くほど明るかった。


「玲奈さん、寒かったでしょう」


「ううん」


玲奈は紙袋を差し出した。


「栗きんとん買ってきた」


「ありがとうございます」


義母が後ろから笑う。


「最近の玲奈、買い物上手になったのよ」


「お母さん!」


「だって本当じゃない」


みんなが笑った。


居間には暖房が効いている。


みかんの甘い香り。


鍋の湯気。


家族の笑い声。


以前はどこか緊張感のあったこの空間が、今は不思議なほど穏やかだった。


夕方。


全員が食卓を囲んだ。


鶏団子鍋。


ぶりの照り焼き。


筑前煮。


ほうれん草の胡麻和え。


炊き立てのご飯。


湯気が立ち上り、窓ガラスを白く曇らせる。


「いただきます」


みんなで手を合わせる。


鍋を囲みながら話が弾んだ。


義母の家計簿の話。


玲奈の仕事の話。


拓也の会社の話。


笑い声が絶えない。


そして食事の途中だった。


義母が鍋を取り分けながら言った。


「本当に美味しいわね」


望が顔を上げる。


「ありがとうございます」


「望さんの料理を食べると安心するの」


義母はそう言って笑った。


玲奈も頷く。


「分かる」


「玲奈まで」


「本当だよ」


玲奈は真面目な顔になった。


「前は全然気付かなかったけど」


望は少し戸惑う。


玲奈は続けた。


「この家を支えてたのって望さんだったんだなって」


部屋が少し静かになる。


望は何と言っていいか分からなかった。


以前なら考えられない言葉だった。


玲奈は続ける。


「料理も」


「家計も」


「みんなの相談も」


「そんなことないですよ」


望は慌てる。


だが玲奈は首を振った。


「あるよ」


その声はまっすぐだった。


義母も頷く。


「本当にそう」


望の胸が少し熱くなる。


昔を思い出した。


何をしても当たり前だった頃。


料理を作っても。


掃除をしても。


節約しても。


誰にも気付かれなかった頃。


まるで空気みたいだと思ったこともあった。


だが今は違う。


食卓の向こうにいる人たちは、ちゃんと見てくれている。


そんなことを考えていると、不意に拓也が箸を置いた。


「望」


「はい?」


拓也は少し照れくさそうだった。


「俺さ」


「うん」


「今まで本当にダメだったと思う」


義母と玲奈が驚いて見る。


拓也は頭を掻いた。


「仕事してればいいと思ってた」


望は黙って聞いていた。


「でも違った」


拓也は真っ直ぐ望を見る。


「家を守ってくれてたのは望だった」


その言葉に胸が詰まる。


拓也は少し笑った。


「いつもありがとう」


たったそれだけの言葉だった。


だが、その言葉は何億円より重かった。


望は思わず目を伏せる。


涙が出そうだったからだ。


窓の外では夕暮れが始まっていた。


西日が差し込み、食卓を黄金色に染めている。


鍋の湯気が光を受けてきらきらと輝いていた。


世界中では相変わらず投資の話題が飛び交っている。


ビットコインが上がった。


下がった。


何億儲かった。


何千万損した。


そんな話はいくらでもある。


けれど今、望の目の前にある光景は、それらよりずっと大切なものだった。


自分の話を聞いてくれる家族。


感謝を伝えてくれる夫。


一緒に笑い合える義母と玲奈。


失われないもの。


暴落しないもの。


誰にも奪えないもの。


それが本当の資産なのかもしれない。


食後。


みんなでいちごを食べながらお茶を飲んだ。


義母が笑う。


「来年もこうして集まりましょうね」


「うん」


玲奈が頷く。


「絶対」


拓也も笑った。


「その時は俺も何か作るよ」


「本当に?」


「たぶん」


みんなが吹き出した。


笑い声が部屋いっぱいに広がる。


望も笑った。


心の底から。


窓の外では夕陽が沈み始めていた。


橙色の光が新しく生まれ変わった家族を優しく包み込んでいる。


望は静かに思った。


自分が本当に欲しかったものは、お金ではなかった。


誰かより優れているという証明でもなかった。


ただ、ここにいていいのだと認めてもらえること。


尊重されること。


愛されること。


それこそが、自分がずっと探していた宝物だったのだ。


その温かさは、どんな相場の暴落にも負けない。


一生かけて積み上げていける、本当の資産だった。


この物語は、投資や家計の話から始まりましたが、最後は「お金そのもの」ではなく、「安心」「信頼」「尊重」に着地したところがとても良かったと思います。望が手に入れた最大の利益は、資産額ではなく家族との関係そのものだったのでしょう。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ