エピローグ
リヒトたちがここに移住してから十年という歳月が過ぎ去った元ラピス教国の跡地。かつて激しい戦場だったこの地には今や一つの街として人々の賑わいがあった。アトルサから真っ直ぐに引かれた一本の鉄路が、物資と共に人々の希望を運び、かつての惨劇の記憶を活気ある市場の声と耕された土の匂いが塗り替えていった。この地は驚くほどに土壌が良く、黄金色に輝く稲穂が豊かに実る。国と呼ぶにはまだ小さいがそこに息をする確かな自治と平穏。その復興の象徴であり街の立役者となったのはマリークだ。旅を終えて戻ってきた彼女の厳格さと慈愛が強固なコミュニティへと繋ぎ合わせていったのだ。
街から少し離れた場所にある一面を色鮮やかな花々に埋め尽くされた三階建ての木造邸宅。かつてリヒトとカタリーナが種を蒔いた庭には、今では金属製のブランコや滑り台が置かれていた。
そんな穏やかな場所にどたばたと板を鳴らす軽快な足音と、空気を震わせる鋭い怒鳴り声が響き渡る。
幾分表情が柔らかくなり、穏やかな雰囲気のリヒトがホースの先を摘み水を撒いていると、家の扉が勢いよく開いた。二人の子供が弾かれたように飛び出して、青ざめた顔をしながらリヒトの背後へと回り込む。
扉の奥からぬるりと姿を現したのは、眉を吊り上げ、激しい形相を浮かべた女性。あどけなさが消え、たおやかさと強さを備えた大人の女性へと成長したカタリーナだった。リヒトのズボンを掴んでいる子供たち。かけがえのない宝物だ。
少し背の高い姉のセレスはリヒト譲りの艶のある黒髪を長く伸ばしカタリーナにそっくりな空色の瞳を潤ませている。その隣で眉上まで切り揃えられた黒髪を揺らす弟のアルトも同じ空色の瞳を震わせてプルプルと震えていた。
「セレス! アルト! お母さん、お部屋の片付けをしなさいって言ったよね! これ以上言うことを聞かないならおもちゃ全部外に放り投げるからね!」
「ひぃっ!」と小さな悲鳴が重なり二人は同時にリヒトを見上げてくる。その縋るような瞳にリヒトは困ったような、だが至福を噛みしめるような微笑を浮かべ、小さな二つの頭を汚れていない手で交互にそっと撫でた。
「お母さんの言うことを聞きなさい。ちゃんと片付けないと本当に捨てられちゃうかもしれないな」
諭すような口調に二人ががっくりと肩を落とした。リヒトは蛇口を閉め、ホースから溢れる水を止めた後、二人の元にしゃがみ込んだ。耳元で彼女らだけに聞こえる小さな声で囁く。
「ちゃんと片付けられたらお父さんの隠してある特別なお菓子を出してあげてもいいぞ」
その瞬間、俯いていた二人の顔にパッと太陽のような光が差した。顔を見合わせた二人は「わかった!」と叫び、我先にと言わんばかりの勢いで家の中へと飛び込んでいく。
嵐が去った後のような静けさの中、腕を組んでご立腹な様子のカタリーナにリヒトは歩み寄った。
「もう……。本当に最近言うこと聞かないんだから。……まったく誰に似たんだろうね」
嘆息と共に向けられた細めた目。その奥に澄み切った青空のような美しい瞳があることをリヒトは知っている。
「いつもありがとう。カタリーナのおかげで子供たちはいい子に育ってるよ」
「そういうとこ。ずるい……」
不意を突かれたようにカタリーナは頬を林檎のように赤らめて視線を逸らした。家の中からは「これはアルトのでしょ!」「違うって!僕のはこれ!」と騒がしい声が聞こえてくる。その時、リヒトの腹の虫が鳴る。
「片づけが終わったら休憩にしよう。またあれ作ってほしい」
「またコロッケパン食べるの? 飽きないね〜」
笑いを含みながらカタリーナは言った。その味はかつて二人で分け合った時よりも、ずっと家庭的で温かい味。それがたまらなく好きだった。
「嫌いか?」
リヒトが少し意地悪そうに彼女の顔を覗き込んで問いかけると、カタリーナはふっと柔らかく笑った顔を見せた。
「いや。私も大好き」
やがて、家族全員が互いに向き合うよう円を作り、ウッドデッキに腰を下ろした。揚げたてのコロッケを挟んだパンを頬張りながら、目の前に広がる一面の花畑を眺める。風が吹き抜けるたび、色鮮やかな花びらが揺れ、葉っぱが囁くような音を奏で、豊かな土の匂いが鼻をくすぐる。顔を綻ばせたリヒトは心地よい陽光を全身に浴びるようにデッキの上に寝そべった。
「お父さん……眠い」
「僕も……」
遊び疲れたようにセレスとアルトがリヒトの脇に潜り込むようにしてころりと寝転がった。小さな二つの寝息が、右耳に心地よく飛び込んでくる。視線を感じふと顔を向けるとカタリーナが横目でチラチラとリヒトを伺う。
「あぁ。なんだか私も眠たいな~っと」
わざとらしく欠伸をした彼女の手をリヒトは優しく引いた。重なる彼女の体温。顔を上げたカタリーナは、照れくさそうにリヒトの胸に顔を埋める。
「重くない?」
「心地いいよ。これ以上の重みなんてこの世にないくらいだ」
カタリーナがドン!とリヒトの胸を叩く。その強さは相変わらずで、リヒトは幸せな痛みに顔を歪めた。
失ったものはあまりに多く、歩んできた道は血と涙で濡れていた。しかし今、この腕の中に確かな鼓動がある。守るべき愛しい存在が増えた。カタリーナとセレスとアルト。彼女たちの幸せのために生きる。リヒトが見つけた幸せの道だった。
見上げた空にはどこまでも透き通るような蒼穹が広がっている。天高くから家族を見守るよう包み込む柔らかな光は、彼らが共に歩む未来の路をどこまでも、どこまでも明るく照らし続けていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
せっかくなので、作品の裏話でもしようと思います。
あまり作者自身がこういう場で語ると、作品にノイズが走ってしまうのであまり自分語りはしたくないという考えを持っていますが、一度だけやってみます。お付き合いください。
1,000,000timesを構成する大きなテーマは「愛とは何か」です。愛とはひどく抽象的な概念のくせに、愛は大事と。まるでそれがなければ人でなしのように言われる気がします。
家族愛、隣人愛、恋人との愛。たくさんの愛の種類があれど、共通しているのは見返りがないということではないでしょうか。
例えば、リヒトがカタリーナを救いたい、彼女の幸せのために苦しんでいるのも「愛」
ビリアがリヒトを生かしたいというのも一種の「愛」
カタリーナ(ラナ)がビリアとリヒトのために施設を出たのも「愛」
ちなみにリヒトの再生能力はビリアが望み、ビリアの消滅する力はカタリーナが望み、カタリーナの防御壁の力はリヒトが望んだものです。三つ巴の愛が拗れましたね。
「愛」が時に呪いだと言われるのもそのせいでしょう。一方通行ですから。
ご愛読してくださった皆様も一度は愛を注がれたことはないでしょうか。ご家族やご友人。一度はあるはずです。
しかし、一度意識してしまうと愛というのは実にシンプルであって、ひどく難しいと思います。
今の所、僕の考える「愛」の定義は
「愛」とは、心から相手の幸せを祈ること。
今後生きていく上でまた変わるかも知れません。普遍的な正解などありませんし、ご自身の定義でいいと思います。
長くなりましたが1,000,000timesをご愛読いただきありがとうございました。 白モン




