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1章 灯り③夜明け

前回のあらすじ

ヴィールの襲撃によって滅びゆく辺境の村。死を受け入れかけていた元ラピス教徒のカタリーナの前へ、全身を血に染めた瀕死の青年が現れる。彼は常識を超えた再生能力で傷を癒し、そのまま再び怪物との戦いへ身を投じていった。別れ際、彼が漏らした「俺は……死ねないんだよ」という諦めにも似た言葉と、寂しげな瞳はカタリーナの胸へ深く刻まれる。一方リヒトもまた、彼女との出会いによって生まれた理解できない感情を抱えながら、命を削る戦いへ身を投じていくのだった。

 永遠を刻むような穏やかな風がリヒトの頬を優しく撫でる。草木が耳元で心地よく揺れ、葉擦れの音が静かに重なり合っていた。 夢心地のような涼やかな木陰の中、ゆっくりと目を開けると木漏れ日が降り注いでいた。柔らかな光がまるで今日という日を祝福しているかのように地面へ踊っている。暖かい……。静かだ。


 すると、草木を柔らかく踏みしめる足音が近づいてくる。軽やかな音が心地いい。それはリヒトの隣へ来るとそっと腰を下ろした。横目で見る。視界に入ったのは風に揺れる白いスカートだった。透明感のある白い脚が覗く。恐らく女性だろう。胸の奥がじんわり暖かくなっていく。不思議なこともあるもんだ……。そんなこと今まで一度もなかったのに。この時間だけ世界から切り離されたようだった。

 

 その時。突然、強い風が吹き荒れた。草木が激しく揺れ、穏やかだった空気が一瞬で掻き乱される。リヒトは反射的に目を閉じた。瞼越しの光が陰る。急激に空気が冷えていくのを感じた。まるで世界から温度だけが奪われていくように。


 次の瞬間、どさりと重たい何かが身体へ倒れ込んできた。重い。湿っている。……何だ?リヒトはゆっくり頭を起こし、目を開いた。突如、心臓が壊れそうなほど脈打った。目の前には首から血を噴き出した身体があった。滴る血。穢れのない白がじわじわと赤に侵食されていく。さっきまで感じていた温もりが急速に冷えていく。視界の端から色が消えていく。待て……。リヒトは震える手を伸ばした。指先があと少しで届きそうだった。だが、世界が暗転する。彼女にその手は届かない。世界が途切れた。


 リヒトは息を吹き返すように目を覚ますと無意識に夜空へ手を伸ばしていた。指先が星の瞬きに向かって宙を掻く。熱を帯びた身体が冷え切った地面にゆっくりと熱を預けていく。その冷たさが火照った意識を落ち着かせ、現実に引き戻した。


 握り込んだ手の隙間から星明かりが零れ落ちていく。リヒトは胸の奥へ沈殿していた重苦しさを吐き出すように長く息を吐いた。闇夜を掴んだままの手が額へ落ちた。


「よかった。目を覚まされたのですね」


 静かな声が耳へ届く。リヒトはゆっくり頭を起こした。視界の先には白い修道服を纏った人間の背中が。


 弾かれたように立ち上がる。腰からバルムガンを抜き、流れるような動作で照準を定めた。鋭い眼光と銃口が目の前の人間の頭部を正確に捉える。妙な動きをすればその瞬間に撃ち抜ける。


「お前……俺に何をした」


 リヒトは銃口を動かさぬまま、視線だけを周囲へ走らせた。大きな円状の暖かな光に囲われている。焚き火のような淡いオレンジ色の光。その外側では無数のヴィールが蠢いている。それらが光へ触れた瞬間、接触した箇所が崩れ落ちた。肉が崩壊し、黒い塵となって消えていく。

 

「なんだ、これは……」


 銃口が小さく垂れる。


「私は……何もしていません。放っておくことができなかっただけです」


 その声を聞いた瞬間、リヒトの瞳に再び鋭さが宿る。わずかに緩んだ空気が一瞬で張り詰めた。銃口が再び彼女の頭に向く。


「その服装……ラピス教徒で間違いないな」


 警戒を強め、静かな声でそう言った直後。


「だから違うって言ってるじゃないですか!」


 感情が漏れ出るように彼女が振り返った。艶のある桃色の髪。晴天を閉じ込めたような空色の瞳。その顔を見た瞬間、リヒトは思い出す。先ほど吹き飛ばされた時、小屋にいた女。彼女は耐えるような表情を浮かべていた。


 それでもリヒトは銃を下ろさない。細めた目の奥に未だ強い猜疑心が残っている。その装束だけで敵と見なすには十分だった。その時、彼女の顔が苦しげに歪む。


「すみません……もう限界です。あなただけでも逃げて……」


 その言葉と同時だった。周囲を囲っていた暖かな光が煙のように空中へ霧散していく。空気が変わり、闇が濃くなる。


 次の瞬間、待ち構えていたヴィールたちが一斉に襲い掛かった。しかし、リヒトは一切臆さない。先に身体が動いていた。バルムガンが夜を裂く。コアが砕け、肉が爆ぜた。距離を詰めてきたヴィールへ、今度は拳を叩き込んだ。鈍い感触と共にコアが飛び散った。リヒトの表情は冷え切っていた。そこには高揚も恐怖もない。星が瞬く空へ、ヴィールたちの断末魔が吸い込まれていく。やがて、この場にいたヴィールは一匹残らず地面へ沈んだ。


 小さく息をつき、リヒトは身体の中を流れるエネルギーに意識を集中させる。彼の身体が淡い青色に輝き始めた。傷がゆっくりと閉じ、肉体が修復されていく。その最中、リヒトの視線は顔を俯かせている彼女へ向いていた。


「俺だけ助けられたのでは気分が悪い。……さっきの光はラピス教のものか」


 目の前の女は睫毛を伏せている。


「……これはラピス教徒だからできるものではありません。私……なのか。この石のおかげなのか」


 そう言って、彼女は掌を静かに開いた。その瞬間だった。周囲の音が消える。全神経が彼女の掌の瑠璃色へ吸い寄せられた。塞がりかけていた傷の修復が止まり、心臓が脈打つ。リヒトはおぼつかない足取りで彼女の元へ歩き出した。


 桃色の髪の女の前で膝をつき、震える手を伸ばした、その時。彼女は静かに掌を閉じた。


「申し訳ありませんが……。これはお渡し出来ません」


 もし違ったら。それでも確かめずにはいられない。リヒトは胸元へ手を突っ込み、瑠璃色のペンダントを首から外した。


 指先が震えている。吊るされた石が不規則に揺れ、淡い光を反射した。リヒトはゆっくり彼女の閉じた指へ触れる。壊れ物を扱うみたいに、優しく。そして彼女の掌を開き、自分の石を重ねた。


 ――ぴたり。


 二つの欠片が寸分の狂いもなく重なった。まるで最初から一つだったみたいに。リヒトの瞳が大きく揺れる。胸の奥で、何かが軋んだ。遠い記憶の底で凍りついていた何かが微かに脈打つ。もう一つ。あと一欠片あればこの石は完全な球になる。


 探し求めていたもの。失った過去へ繋がる手掛かり。その全てが突然目の前へ現れた気がした。


 リヒトは切れ長の目を見開いたまま彼女を見つめる。胸の奥がじんわりと熱を帯びていく。それと同時に締め付けられるように苦しかった。手を伸ばせば届きそうなのに、霧の向こうへ消えていくような感覚。なぜこんな気持ちになる。なぜ女性を見ていると心が揺れる。リヒトは答えを探すように、思考の海へ沈んでいった。


「あの……。これは……」


 彼女の少し迷うような声でリヒトはようやく我に返る。しかし言葉が出てこない。ようやく見つけた。ずっと探していた過去への手掛かりを。それなのに何を聞けばいいのか分からなかった。何を知りたいのか。その輪郭すら曖昧だった。


 長い沈黙の後、リヒトは低く問いかける。


「名は?」

「カタリーナ……です」

「……ラピス教徒ではないと言ったがそれは本当か」

「だから何度も言っているように私はもう信者ではありません」


 カタリーナはまくし立てるように事を返した。リヒトは彼女から目を逸らさない。表情。瞳の動き。呼吸。声色。そこから少しでも事実を拾い上げようとしていた。その言葉が真か偽か。それがこの先を決める。アストラを持っていない……。嘘ではないのか……? もし本当に信者ではないのなら……。


 風が止まる。静寂が辺りを包み込み、またもや世界から切り離されたように感じる。リヒトは再び思考の海へ沈む。眉間に深い皺を刻み、表情には数え切れないほどの感情が滲んでいた。迷い。警戒。焦燥。そして――微かな期待。


「あなたがどうしたいのか。それを素直に言ってみてはいかがです?」その言葉にリヒトの思考が止まる。「目の前にいる私は敵ではありませんよ」


 顔を上げるとカタリーナが口元に小さな笑みを浮かべ、真っ直ぐこちらを見つめていた。その瞳には恐れも打算も感じない。ただ静かにリヒトという存在を見つめている。リヒトが迷いを断ち切ったように立ち上がる。


 傷の残る左手をカタリーナへ差し出した。


「一緒に来い。役に立てばお前のことは俺が守ってやる」どこかぎこちない言葉だった。それでもその声には確かな意思が宿っていた。


 カタリーナは目を丸くする。何度か瞬きをして、小さく笑った。


 彼女はリヒトの掌へ瑠璃色の石を置き、その上から真っ白な手を重ねる。


「……随分と不器用ですね。折角のお誘いですから、ありがたくお受けします」


 彼女の手は温かかった。カタリーナは傷の治りきっていないリヒトへ負担をかけないよう、自分の足で静かに立ち上がる。

 

 やがて闇に覆われていた空の彼方に淡い薄明かりが滲み始めていた。


 リヒトは空を見上げる。止まっていた何かがようやく動き始めた気がした。そして二人は新たな朝へ向かって静かに歩き出したのだった。


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