1章 灯り②祈りと呪い
前回までのあらすじ――
記憶を失った青年リヒトは、ラピス教国襲撃任務のため巨大な城壁から夜の荒野へ降り立つ。ヴィールと呼ばれる怪物を次々と屠る中、彼は戦いの瞬間だけ自分が“生きている”と感じていた。やがて辿り着いた廃村で、ラピス教の修道士と遭遇。信仰と祝福を語る男を斬り伏せるが、その死を契機にヴィールたちは狂ったように共食いを始める。そして無数の肉とコアが融合し、一体の巨大な異形が誕生した。援軍を待てという制止を無視し、リヒトは通信を切る。胸に残る空虚を埋めるように、彼は静かに剣を構えた。
“強さとは何か”。
その答えを知らないまま、孤独な戦いが始まろうとしていた。
爆発音や戦闘の音が断続的に鳴り響く、薄明かりに照らされた村。古い木造建築の小さな平屋の中で薄汚れた白い修道服を纏ったカタリーナは光を失いかけたアストラをじっと見つめていた。彼女の空色の瞳が小さく揺れている。指先に乗せたアストラが今にも消えそうなほど弱々しく明滅していた。まるで命の灯火そのもののように。やがてその光が果てるようにふっと尽きる。同時に小屋の灯りも落ち、冷たい闇が室内を満たす。
遠くでは未だ戦闘音が響いていた。何かが爆ぜる音。地面を揺らす咆哮。まるで世界の終わりを告げているようだった。カタリーナはアストラを強く握り締める。次の瞬間、彼女はそれを床へ乱暴に投げ捨てた。乾いた音が小屋の中に響く。絹糸のように細い桃色の髪が大きく揺れた。艶のある唇を強く噛む。もう、自分を騙すのは嫌……。どうせ食われるなら最後ぐらい自分の信じたいものを信じさせて……。
カタリーナはゆっくり床へ膝をついた。胸の前で透き通るような白い指を交叉させる。そっと瞼を閉じた。不思議と耳に届いていた騒がしさが遠ざかっていく。彼女は小さく息を吐いた。
もし生まれ変われたら、私に……。私として生きる自由を……。
彼女がぱっちりとした二重の瞼を静かに開けたその時。凄まじい衝撃音が小屋を貫いた。壁が爆ぜる。木片が弾丸のように飛び散り、冷たい夜風が一気に室内へ吹き込んできた。月明かりが粉塵を白く照らし、舞い上がった埃が視界を覆う。カタリーナの細身の身体がびくりと跳ね、咄嗟に顔を両腕で覆った。死。その文字が脳裏にちらつく。潤いを帯びた唇が震えながら固く結ばれる。心臓が痛いほど脈打つ。でも……。死ぬのは怖い……。
身体を強張らせ、強く目を瞑っている。しかしいつまで経っても痛みは来なかった。代わりに耳へ飛び込んできたのは荒く掠れた呼吸音。カタリーナは恐る恐る目を開けた。そこにいたのは黒い服を纏った精悍な顔立ちの男性だった。体から血を流し、左腕は見るからに不自然な方向へひしゃげている。
突然の出来事に呆然としていたカタリーナだったがすぐに我へ返る。慌てて彼に駆け寄り、修道服の比較的汚れていない裾を引きちぎる。震える指で傷口へ当てようとしたその瞬間。パンッ!と乾いた音が小屋に響いた。カタリーナの手が強く叩き落とされる。
「触るな」低く掠れた声だった。「お前……。ラピス教徒だな。殺されたくなければ妙な真似はするな」
鋭い眼光で射抜かれる。しかし目の前の男性は依然として浅い呼吸を繰り返していた。カタリーナは叩かれた手を胸元へ引き寄せ、小さく息を呑む。固く結んでいた唇からゆっくり力を抜く。
「私は……ラピス教徒で……した。でも――今はもう違います」
「ならばお前に用はない。さっさとどこかへ行け。ここにいたらヴィールに食い殺されるぞ」
彼は突き放すようにそう言うと、無理やり立ち上がった。身体が大きくふらつく。精悍な顔立ちが激しく歪み、呼吸も乱れていた。
「待ってください!今動いたら死んでしまいます!そんな体で……どうやって……」
陰っていた月明かりが雲の隙間から静かに差し込んだ。淡い光が小屋の中を照らす。カタリーナは目を大きく見開いた。空色の瞳が小さく揺れる。彼が静かに目を閉じ、深く息を吐いた瞬間だった。彼の身体が幻想的な青い輝きを放ち始める。すると裂けていた傷口がゆっくり塞がっていく。拉げていた左腕も、骨が音もなく修復され、元の形へ戻っていった。血に濡れていた身体から傷だけが消えていく。
カタリーナは息を忘れた。恐怖でもない。理解が追いつかなかった。
その直後。夜空を割るようなヴィールの咆哮が遠くから轟いた。静寂が破られる。彼は小屋の中へ視線を走らせ、床へ転がっていた金属の筒を拾い上げた。それを勢いよく振るう。青白い光が刃を形作り、薄暗い室内を照らした。
彼はそのまま外へ向かう。小屋を出る直前。一度だけ歩みを止めて振り返った。青みがかった黒髪が揺れる。月明かりに照らされた黒い瞳。その目はどこかひどく寂しそうだった。
「俺は……死ねないんだよ」細く掠れた声だった。その響きにカタリーナの胸が強く締め付けられる。
彼はそのまま夜の中へ走り去っていく。彼の濡れた瞳、そして細く掠れた声はカタリーナの胸に強く焼き付く。星々が静かに瞬きを取り戻す中、カタリーナはただ壊れた壁の向こうを見つめていた。
リヒトは視線の先いる自分を遠くまで吹き飛ばしたヴィールを鋭く睨みつけながら、地面を砕く勢いで駆ける。踏み込むたびに土が弾け、乾いた夜気が頬を叩いた。眉間には深い皺。苛立ちを押し潰すような大きな舌打ちが漏れる。
「くそ……気分が悪い」
吐き捨てるように呟く。胸の奥がざわつく。理解できない感情が戦闘の熱に混じって纏わりついていた。
リヒトは煩わしさを振り払うようにふっと強く息を吐き、そのまま標的のヴィールへ飛び掛かった。怪物の鋭い爪が迫る。
空気を裂く轟音。リヒトは体を捻り、紙一重で回避。その腕の上を走り、切り刻んでいく。青白い刃が肉を裂き、赤黒い飛沫が夜へ舞った。胸の奥で静かに殺意が燃える。
リヒトはヴィールの頭上へ跳び上がり、バルムセイバーを全力で振り下ろした。一筋の青白い光が闇夜を裂く。しかし手応えが浅い。
次の瞬間。猛獣のような咆哮が炸裂した。空気そのものが爆ぜるたように。凄まじい衝撃波が無防備なリヒトを襲った。咄嗟に腕を交差させ、防御。衝撃が全身を軋ませ、足が地面を擦りながら大きく後退する。
靴底が土を抉り、火花のように石片が散った。意外と素早いな……。
リヒトは息を整えながら、ヴィールを睨み据える。巨大な身体。異常な再生能力。まとめて全部ぶっ飛ばす何かじゃないと……。
そう考えながらも不思議と恐怖はなかった。むしろ身体の奥が熱を帯びていく。リヒトは余計な感情を切り捨てるように深呼吸をした。そしてもう一本のバルムセイバーを取り出す。
低く構え、重心を落とした。そして地面を爆ぜさせる勢いで疾走する。ヴィールの凶暴な爪が迫る。紙一重で躱す。風圧が頬を裂き、黒髪が激しく揺れた。
リヒトはそのまま低く潜り込み、丸太のような両足首へ刃を叩き込む。肉が裂け、骨が砕ける。ヴィールが地団太を踏むように暴れ狂った。
それでもリヒトは止まらない。しなやかに躱し、斬り裂き続ける。胸に残るざわつきを全部この怪物ごと切り裂くように。
重量のある身体を支えきれなくなったヴィールが大きくよろめき、そのまま仰向けに倒れ込んだ。土煙が舞い上がる。リヒトの瞳に鋭い光が宿った。跳ぶようにヴィールへ踏み込み、両手のバルムセイバーを巨大な手に突き立てた。青白い刃がその巨体を地面へ縫い付ける。
ヴィールが絶叫した。大気を震わせる咆哮。もがき暴れるヴィールの身体を踏みつけ、乾いた瞳で見下ろした。その口元には薄い笑みが浮かんでいた。
リヒトはバルムガンを抜き、躊躇なく引き金を引いた。閃光。青白い光弾がヴィールの胸部へ何度も撃ち込まれる。怪物の身体が地上へ打ち上げられた魚のように激しく跳ねた。それでもこのヴィールは死なない。
リヒトは弾倉からゆっくりとバルムカプセルを取り出した。淡く脈動する光。残量は元の一割程度。
掌へ乗せそれをじっと見つめる。指先へ伝わる熱。……まだちょっと多いが。リヒトに迷いはなかった。これなら確実か……。
その時だ。傷の修復を終えたヴィールが身体をよじるように暴れ始める。獣のような咆哮が夜空を裂き、暴風のような吐息がリヒトの髪を激しく揺らした。顔にある単眼のようなコアが不気味に脈打つ。しかし、リヒトは目を逸らさない。静かに息を吐き、覚悟を決めたような面持ちでバルムカプセルを強く握り込む。そして、拳を大きく振り上げた。
「じゃあな」それは別れを告げるような声だった。
次の瞬間。リヒトはコアへ、全力で拳を叩き込む。握っていたバルムカプセルが砕け散った。眩い閃光。溢れ出た青白いエネルギーが暴走するように膨れ上がる。一瞬、世界から音が消えた。その直後。地を揺るがす大爆発。轟音と衝撃波が夜を吹き飛ばし、村全体を激しく震わせた。
リヒトの身体が宙へ放り出される。焼けるような熱風。その先でヴィールのコアが砕け散っているのが見えた。巨体が内側から爆ぜ、赤黒い肉片が夜空へ舞い上がる。
リヒトの薄い唇がわずかに歪む。そして、身体が地面へ叩きつけられる。骨を砕くような衝撃。全身を引き裂く激痛。肺の空気が吐き出され、視界が揺れる。やっぱり……多すぎた、か……。
星の瞬きが霞んでいく。リヒトの意識は静かに闇へ沈んでいった。




