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終章 何もないところ

 渡名瀬島から戻って二週間が過ぎた。志帆は通常の仕事に戻り、採録した資料を整理していた。古謡の詞章、グイスの唱え、祭祀の順路、集落図の変遷。それらは民俗資料として報告できる。しかし、道あけの夜に見た家々や人々を、同じ調子で書くことはできなかった。録音には確かに声がある。だが、それだけで見知らぬ家が存在したと証明することは難しい。

志帆は報告書を何度も直し、道あけの項目に『島民の間には、通常認識できない往来を妨げないという観念が伝承されている』と記した。断定を避けた文章だったが、志帆自身は、あの夜の女が志帆に触れた感覚を忘れられなかった。右腕の痕は消えている。消えたあとも、触れられたという記憶だけが残った。

休日の午後、近所のスーパーへ歩いて出かけた。十月末なのに、日差しはまだ強い。住宅街の細い路地へ入ると、古いブロック塀に囲まれた空き地があった。雑草が伸び、錆びた缶が一つ転がっている。以前から知っている場所で、何度も通り過ぎたことがある。

前を歩いていた男性が、空き地の手前でほんの少し進路を変えた。道の真ん中から右へ寄り、空き地を過ぎると元の位置へ戻る。続いてやってきた学生二人も、話しながら同じところを避けた。向こうから自転車が来るわけでも、路面に段差があるわけでもない。誰も空き地を見ていなかった。

志帆は立ち止まった。そういえば自分も、ここでは少し右へ寄って歩いていた気がする。道の真ん中には何もない。試しに中央へ足を踏み出すと、一歩目は普通に置けた。二歩目も問題はない。志帆は小さく息を吐いた。島での出来事を考えすぎなのだろう。

三歩目を出しかけたとき、左足の靴底に妙な感触があった。硬くも柔らかくもない何かが、わずかに押し返している。志帆は足を上げた。そこにはアスファルトがあるだけだった。同じ場所にもう一度足を置こうとしたが、身体が自然に右へ動いた。道の端へ寄ると、胸の奥にあった微かな圧迫感が消えた。

背後から自転車が近づいてきた。志帆がさらに道を譲ると、乗っていた女性は軽く会釈して通り過ぎた。遠くで車が走り、家のどこかから食事の支度をする音が聞こえる。どこにでもある、いつもの午後だった。

志帆は空き地を振り返った。古い塀、雑草、空き缶。何も見えない。そこでようやく、カメの言葉が思い出された。

『自分のものじゃない場所もあるさ。』

島の人は道をあけ、祈りの途中で言葉を止め、何もない場所をそのままにしてきた。何百年も続いた習わしに、いちいち理由を求めるほうがおかしかったのかもしれない。少なくとも、そこを通らずに済むのなら、そのほうがいい。志帆は道の右側を歩き出した。

空き地を過ぎるとき、耳元で小さな音がした。誰かが息を吸ったような音だった。志帆は振り返らなかった。

そこには何もない。少なくとも、此方からは。



此方の余白 了

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