#037「十月九日」
舞台は、朝丘家。
登場人物は、朝丘、渡部、弥生の三人。
「今頃、渡部は、シンガポールで何をしてるんだろう。なぁ、バニ左衛門。ひょっとして、渡部の連絡先を知ってるんじゃないのか? 白状しろ。フム。黙秘権か。よかろう。……はぁ。一人で何やってだ、自分は。――電話だ」
『ハロー。ディスィズ、ヒロミ・ワタナベ』
「シングリッシュでなくていいぞ、渡部」
『無事に繋がったようですね。そろそろ、バニ左衛門に寂寥感を訴えかけてる頃ではないかと思いまして、連絡してみました』
「貴様。バニ左衛門に何か仕掛けたか?」
『カメラも、盗聴器も入ってませんよ。おなかを裂いて出てくるのは、綿花だけです。私が声を聞きたかったので、言ってみただけに過ぎません』
「危うく、切腹させるところだった。それは、さておき。初めての海外生活には慣れたか?」
『毎日が驚きの連続で、慣れませんね。でも、新鮮で、刺激がいっぱいです』
「退屈は、してなさそうだな」
『そちらは退屈なんですか?』
「いや。なし崩しで、文化祭のクラス演劇に出ることになってしまってな」
『今年は、朝丘さんですか。昨年は、山崎さんと吉原さんと私の三人で出たんです』
「そうらしいな。吉原から聞いてる」
『今年は、どのような作品なんですか?』
「まだ、台本を読んでる途中だ。森先生のオリジナルで、タイトルは『八分咲きの桜』だ」
『秋なのに、桜の話なんですね。十月の終わりから、文化の日までの五日間ですよね?』
「そうだ。たしかに季節には、そぐわないな。でも、よく出来た台本なんだ。森先生いわく、法律や条令は、一つを頑固にまもるものではなくて、時々刻々と変化する社会にとって最適な形に、柔軟に対応させるべきものだ、というメッセージが込められているのだそうだ」
『多様性を認めることが、これからの国際社会の鍵と言われてますからね。自国や自民族の文化を尊重しつつ、それを他国や他民族に押し付けない姿勢が大事です』
「シンガポールでは、日本人は、どう見られてるんだ?」
『評価は概ね高くて、たいていは好意を持って迎えられます。でも、宗教や人種の壁は厚いですね』
「嫌がらせや、差別を受けてないか?」
『残念ながら、皆無ではありませんね。先日は、南アフリカ共和国から来た老人に、黄色い名誉白人呼ばわりされましたから。過去に嫌な体験をしたのだと慮って、受け流しましたけど』
「過去は、変えられないものな」
『だからこそ、現在に何をして、未来に負の遺産を残さないことが大切なんですよね』
「拓弥。こっちにきて、衣替えを手伝ってちょうだい」
「はい。すぐ行く。――もっと話したいところだが」
『夏物が、クリーニングから返ってきたんでしょうね。それでは、近々』
「こっちからは、この番号に掛ければ良いのか?」
『そうですよ。国際電話の掛けかたは、ご存知ですか?』
「知ってる。シンガポールの国番号は何番だ?」
『六十五番です。ちなみに時差は一時間で、こちらは、まだ午前中です。また、お話しましょうね、朝丘さん』
「またな、渡部」




