ああ、やっぱりアレが勇者なのか……。
前回のあらすじ
ゴードグレイス聖王国に認められし勇者は、新たなる旅立ちを前に……緊縛されたエミルを見つめて、喜びの鼻血を流していた……。
ゴードグレイス聖王国から、勇者ルージュは無事、何事もなく、すこぶる健全に和やかに旅立ちを迎えた……と、いうことになったその数刻後のこと。
もはや日常と化した魔族への警戒はあれど、それまで実に平和だった帝都スタングローヴでは、今、帝城と呼ばれる小さな砦に不穏を知らせる使者の影が迫っていた。
その影の正体は、帝都に常勤する一人の兵士であった。とくに取り立てて功績があるわけでもないごく普通の一兵卒である。
その男は走らせていた馬を下りると、厚ぼったい兜を小脇に抱え、なにか非常に慌てた様子で帝城へと駆け込んだ。
「皇帝! 皇帝! 至急ご報告せねばならない事案がございます!」
兵士が駆け込んだのは、このハルグリア帝国では謁見の間と呼ばれるべき場所である。
他国のそれと比べれば貧相という言葉で表現したくなるが、小さな砦の中にあって比較的広々としたスペースを作り、なんとか見栄えだけは整えたというような玉座がある。
駆け込んだ兵士はその勢いのまま跪いたため、石畳に触れた鋼の膝当てがゴリゴリと不吉な音を立てながら全身がややスライドする。
そして体がぴたりと制止するや、兵士は君主に判断を仰ぐべく顔を上げた。
「何事だ!! 魔族が現れたか!!」
果たして、皇帝ディネイトの姿はそこにあった。彼自身を象徴するが如く、力強く鋭い声が室内にこだまする。
その声は謁見の間の中央から響いた。
見れば、そこには眉間に深く刻んだ皺を大量に流れる汗で彩った、まさに形相というべき真剣な顔つきで兵士を見据えるディネイトの姿がある。
短い知らせを受けただけで、帝都に迫る危機を早くも鋭敏に察知しているのか……。流石はハルグリア帝国の現皇帝だ。隙がない。ゴクリ……。
……だなどと、兵士は微塵も思わなかった。
何故なら皇帝ディネイトは、上半身素っ裸という実にはしたない姿で、よりにもよって謁見の間のど真ん中でせっせと腕立て伏せに励んでいたからである。
ディネイトは大男であり、兵士は男性平均よりも小柄な男であった。そのためディネイトが体を持ち上げるたびに、滝のような汗をぽたぽた零す真っ赤なディネイトの顔面が視線の高さに現れては消えていった。
玉座はある。だが、皇帝がそこに腰掛けるとは言っていない。
ましてや立つとも言っていない。
あたかもそんな主張を体言しているかのようなディネイトを前にして、駆け込んできた兵士は、
「いいえ! 魔族ではありません!」
なんとノーリアクションで何事もなかったかのように華麗にスルーした。
帝都スタングローヴで働く兵士たちにとって、ディネイトが広々とした謁見の間を王族専用のトレーニングルームか何かとしか考えていないことなど明白であり常識であったのである。
「ほう? そうか。しかし魔族が現れたのでないとすれば、お前の言う至急の事案とはいったい何事だ?」
兵士の言葉に、ディネイトは安堵したように息を吐く。
ハルグリアという国において、緊急事態とは即ち魔族の襲来のことを差す。
前回の魔王であるバロールが倒れてから、まだ日は浅い。
特に人界の盾を自負するハルグリア帝国は、まだ前回の戦争で刻まれた傷痕が完全に癒えてはいない。疲弊した民が英気を養い、次の戦に備えるためには、まだ幾ばくかの時間が必要である。
にも拘らず、魔王が復活したのだとすれば、ましてや人界へのゲートを開くまでに力を蓄えていたのだとすれば、それは帝国のみならず人界全体に関わる最悪の知らせとなる。
だが、そうではないらしい。
ほんの僅かに気を抜いたディネイトは、少し速度を緩めながらもそのまま筋トレを継続した。よく見ると、上半身を支えているのは手のひらではなく二本の親指であった。腕立て伏せと言うよりは指立て伏せとでも言うべきだろう。それに気付いた兵士は「うわあ、よくやるよ……」と若干引いた様子を見せたが、気を取り直して答えて言った。
「ハッ! わたしは先ほどまで帝都の正門で警備をしていたのですが、つい先程、そこに二名の不審な人物が現れました。
一人は目に見えるほどの不気味な魔力を纏った、赤い髪をした旅装の少女。もう一人は、その少女よりも更に幼いと思われる翡翠色のローブを着た少年だったのですが……」
「おお! そうか! ついに来たか! よくやった! それは確かに火急の知らせだな! その二人組の風貌は、ゴードグレイスの使者から伝え聞いた通りのものである。間違いない。その少女は勇者だ。当代の勇者だ。速やかに手厚く迎え入れよ」
「はぁ。その、確かにその二人組のうちの少女のほうは『自分は勇者だ』と名乗っているのですが……」
「そりゃあ勇者なのだから、勇者だと名乗るだろう。なんだ。何かが問題なのか? そもそもお前、その勇者たちはどうした。まさか置いてきたのか?」
「皇帝陛下。わたしはあの二人組について、うまく説明する言葉が見つかりません。なので、わたしが見たままのことをご報告したいのですが」
「許す。言ってみよ」
「ハッ! まずローブ姿の少年のほうですが、我々の前に現れた時には既に身動きが取れぬよう、ローブの上から全身あまさずギッチギチに拘束されておりました!」
「は?」
活発に収縮していたディネイトの筋肉がぴたりと活動を停止した。
「ですからギッチギチに拘束されていたのです。縛っていたのは獣の革か何かのようでしたが、まともに動かせるのは両足ぐらいのものでした。そして少年の拘束具には大量の荷物が括り付けられており、その状態で仰向けに倒れたまま、自分の力では起き上がることもできずにジタバタと暴れていたのです」
「…………どうやってそこまで来たのだ? いや、うむ、ゴードグレイスの『送還』ならば可能か……。いやしかし、よりにもよってなぜそのような格好で……」
「わたしも本人から事情を聞きたかったのですが、少年の口には棒状の口枷が嵌められており、自由に言葉も発せない様子でした。しかも周囲を恐ろしい形相で睨みつけており、近寄ることすら躊躇する有様でして……。
続いて、少女のほうですが」
「ああ、うむ、少し呆けていた。構わん、続けろ」
「ハッ! その少女ですが、槍を構えて包囲する我々をまったく意に介す様子もなく、ただひたすらに拘束されて倒れる少年のほうを見つめながら、大量の鼻血を零していました」
「…………」
「続けます。どのくらいの量かと言いますと、いま皇帝が流しておられる汗のおよそ三倍を上回る量でした。常人ならば失血死を疑う量でしたが、にも関わらずその少女はぐすぐすと咽び泣きながら、しきりに女神への感謝を口にしていました。少女は笑っており、どうやら嬉し泣きをしているようでした」
「…………敬虔な……少女なのか……?」
「どうでしょうか。少なくともわたしが見たのは、少年の股を通った黒革のベルトにめくり上げられたローブの裾から覗く少年の素足と、暴れるたびに更に少しずつめくれ上がっていく裾を見つめて、『尊い……尊い……』と涙と鼻血を流して祈りを捧げる少女の姿です」
「…………」
「その後我々は暴れる少年を遠巻きに監視しつつも、そこから少し離れた場所まで少女を誘導して話を聞きました。その少女は自らのことを勇者ルージュだと名乗りましたが、正直どう見ても不審者か性犯罪者にしか見えなかったために現在詰所で詳しい話を聞いています。
ようぎ……少女の名前はルージュ、自称勇者。ひが……少年はエミルという名前だそうです。移動手段はゴードグレイス聖王国から『送還』されてきたのだと供述しています。
正直我々も、当代勇者が強大な魔力を纏った女性だという噂は聞き及んでいるのですが、状況から見て現場だけで判断することができませんでした。そのため、ゴードグレイスからの使者殿と直接話をされていた陛下にどうかご判断を仰ぎたく……」
最後に「報告は以上です」と締めくくると、兵士はディネイトをじっと見つめた。
「……うむ」
ディネイトはとっくにやめていた腕立て伏せの姿勢をやめ、すっくと立ち上がって考える。
(おそらく、勇者だろう。十中八九その少女は勇者だ。目に映るほどの魔力というのも、勇者の特徴だ。何をやらかすのかまるで予想もできないあたり、間違いなく勇者だ……と、思う。思うのだが、しかし……)
ディネイトはその少女が本当に勇者であると半ば確信しつつも、しかし中々煮え切らない様子を見せた。
悩むほどのことではなかった。ディネイトはつい先日、ゴードグレイスの使者の口から、当代の勇者がどんな人物なのかを粗方聞いている。それはまるで喜劇から飛び出してきた創作中の人物のようで、だからこそディネイトは、その時はまるで無責任な観客のように大笑いしていたのだが……。
部下から判断を迫られた皇帝ディネイトの脳裏を過る言葉はただ一つ。
認めづらい。
という思いである。
ごくり、とディネイトの喉が鳴る。顔面を、運動後の爽やかな汗とは違った種類の汗が伝う。
考えてもみてほしい。到着早々兵士たちから不審者と間違われ、詰所に囚われるような少女を「それは勇者だ。手厚く遇せよ」と断言するというのは、なんというか、物凄くハードルが高くはないだろうか。
皇帝としての威厳が損なわれたりはしないだろうか。
というか、ここまでの報告を受けて「それは勇者だ! 間違いないっ!」などと言われるのはそもそも勇者としてどうなのだろうという思いがある。かなりある。
それに兵士からの目もある。いったい使者からどういう話をされていたのかと白い目で見られる恐れもある。ディネイトは戦場では何者をも恐れない豪胆な男であったが、部下であり配下である者たちから白い目で見られるのは、その豪胆さを持ってしても堪え難い種類のものである。
何か。
何かないものか。
ディネイトは意味もなく視線を迷わせる。
せめて、何かもう一つ。その少女が勇者であるという、決定的な情報はないものか。
ディネイトが目に力を込めてちらりと兵士の様子を伺うも、兵士は跪いたままディネイトを無言で見上げるのみだ。兵士は、報告は以上だと言った。この兵士からは新たな情報は望めないようだ。
ディネイトは、まるで退路を断たれた撤退戦を指揮しているような絶望感に襲われた。
しかしその時である。突然、思わぬ救いの手がディネイトへと差し伸べられた。
謁見の間に新たに姿を現したのは、使者の世話役としてつけていた侍女の一人であった。
「皇帝陛下。ゴードグレイス聖王国の使者さまより言伝をお預かりして参りました」
「なに! 本当か!」
「きゃあ!」
思わぬ朗報に諸手を上げて喜びを示したディネイトに、侍女が悲鳴をあげて後ずさる。
無理もない。ディネイトは未だに筋骨隆々とした立派な身体を晒したままである。そんな格好をした汗だくの大男に勢いよく迫られれば、女性でなくたって悲鳴を上げるに違いない。
顔を真っ赤に染めて恥じらう侍女に、ディネイトは早くはやくと話の続きを急かす。
「それで! 使者は! アグニ殿からどんな言葉を預かってきたのだ!?」
今にも地団駄を踏んで石畳をぶち抜きそうな様子のディネイトに、侍女は慌てて答えた。
「は、はい! 『勇者殿の匂いがする。彼女が帝都にいる可能性が高いので、登城の際には共にお目通り願いたい』とのことです!」
女神よ!
完璧だ! なんと完璧な情報なのだ!
ディネイトは思わず大きくガッツポーズをした。帝国式の女神への祈りのポーズである。反動で汗が飛び散り、侍女がわひゃあと悲鳴をあげて退避する。
その直後、「匂い……?」と呟いて首を捻るも、しかし今は気を取り直して、ディネイトはうろんな目で自身を見上げている兵士へと振り返ってこう言った。
「どうやら使者も、来たる勇者の気配を機敏に感じ取ったらしいな。間違いない、その少女こそ、女神に選ばれし当代の勇者、エイピアのルージュに違いない!
兵よ! 今すぐ正門の詰所へと戻り、勇者ルージュを手厚く迎え入れるのだ!!」
「はい」
意気高く宣言するディネイトとは裏腹に兵士は、「ああ、やっぱりアレが勇者なのか……」と、下がり切ったテンションのまま頷いたのだった。
突然正門前に現れたカオス!
なおその頃エミルは、
「(竜化する! 竜化する! 今すぐ竜化するぞ! 今すぐ竜化して全員ぶっ殺す!)」
『(こらえろ! こらえろ! 頼むから耐えろエミル! いまここで暴れるのはまずい! ルージュにもあのクソ王にもいつか絶対落とし前付けさせるからあ!)』
と、賢明な説得を受けていたという……。




