第二章 彼女が最後に追っていた事件
翌朝、学校へ行く道はひどく静かだった。
雨は夜のうちに上がっていたが、道路の端にはまだ水たまりが残っていた。車が通るたびに、濁った水が細く跳ねる。ガードレールの下に落ちた桜の葉が、濡れたアスファルトに貼りついている。
六月の朝は、本来ならもっと明るいはずだった。湿った空気の中に、夏へ向かう熱が混じり始める。けれどその日は、世界全体が何かを遠慮しているように見えた。通学路を歩く生徒たちの声も小さい。誰も笑っていないわけではない。だが、笑い声は途中で途切れる。大きな声を出すことが、どこか不謹慎に思えるのだろう。
花浅ほのかが死んでから、初めての登校日だった。
校門の前には、いつもより多くの教師が立っていた。登校指導という名目だったが、生徒の服装を見ている者はいなかった。誰もが、生徒たちの顔色をうかがっている。泣き出す者がいないか。騒ぎを起こす者がいないか。余計なことを口にする者がいないか。
倉橋先生もいた。
黒いスーツではなく、いつもの紺色のジャケットに戻っていた。だが、葬儀場で見たときよりも顔色が悪い。目の下に薄い影があり、口元だけが不自然に引き締まっていた。
僕が校門をくぐると、先生は一瞬だけこちらを見た。
声はかけてこなかった。
それが逆に気になった。
昨日、あれほど「大人に任せろ」と言った人間が、今日は僕を避けている。僕の鞄の中に、ほのかのノートが入っていることを知っているのかもしれない。いや、知っていると考えるほうが自然だった。ほのかの母親が僕にノートを渡した場面を、先生は見ていた。
校舎に入ると、靴箱の前で何人かの生徒が立ち止まっていた。
ほのかの靴箱には、白い花が一輪置かれていた。
誰が置いたのかはわからない。紙コップに水を入れ、そこに差してある。花の名前もわからなかった。小さな白い花だった。清楚というより、どこか頼りない。少し触れただけで折れてしまいそうだった。
靴箱の扉は閉じられていなかった。
中には、彼女の上履きがそのまま残っていた。
それを見た瞬間、胸の奥が詰まった。死んだ人間にも、靴は残る。席も残る。名前が書かれたロッカーも、読みかけの本も、借りたままの傘も残る。なのに本人だけがいない。
人がいなくなるというのは、空白が生まれることではない。
残されたものが、急に居場所を失うことなのだと思った。
「真島くん」
声をかけられて振り向くと、白瀬凛が立っていた。
昨日の葬儀のときと同じように、目元が少し赤い。だが制服の襟は整っており、髪もきちんと結ばれていた。悲しみを外に出しすぎないよう、自分に命じている人間の顔だった。
「来たんだ」
「学校には来るだろ」
「図書室にも?」
僕は答えるのに少し時間がかかった。
「行く」
「そう」
白瀬は短く言った。
そのまま教室へ向かおうとしたが、数歩進んでから振り返った。
「ノート、持ってきた?」
僕は鞄の持ち手を握り直した。
「持ってきた」
「誰にも見せてない?」
「見せてない」
「倉橋先生にも?」
僕は首を横に振った。
白瀬はそれを確認すると、少しだけ息を吐いた。
「ならいい」
「どうしてそんなことを訊く」
「ほのかなら、そう訊くと思ったから」
それだけ言って、白瀬は歩き出した。
僕はその背中を見送った。
ほのかなら、そう訊く。
その言葉は奇妙に胸へ残った。
ほのかがいないのに、ほのかならどうするかを考えている。白瀬も、僕も。たぶん、これから何度もそうなる。探偵がいなくなったあと、残された人間は、探偵の影をなぞるしかない。
けれど、影をなぞって歩いた先に、本当に真実があるのだろうか。
朝のホームルームは、異様に短かった。
倉橋先生は教卓の前に立ち、花浅ほのかの死について話した。学校としては、突然の事故で大切な生徒を失ったことを深く悲しんでいる。生徒には心のケアを行う。何か不安があれば担任や養護教諭に相談してほしい。噂に惑わされず、落ち着いて行動してほしい。
どれも正しい言葉だった。
正しい言葉は、ときどき何も言っていないように聞こえる。
先生が話している間、教室の誰もがほのかの席を見ないようにしていた。窓際の一番後ろ。彼女の机には、花も写真も置かれていない。ただ、いつものように机と椅子があるだけだった。
机の上は空だった。
その空っぽさが、何よりも彼女の不在を示していた。
「花浅さんの席については、しばらくこのままにします」
倉橋先生が言った。
「各自、落ち着いて授業を受けるように」
生徒の一人が鼻をすすった。誰かが机の下でハンカチを握っている。誰も先生に質問しない。
僕も黙っていた。
本当は訊きたいことがあった。
先生、花浅ほのかは本当に事故で死んだんですか。
先生、どうして死因欄だけが空白なんですか。
先生、ほのかが最後に調べていたことを、本当に知らないんですか。
だが、教室でそれを訊くことはできなかった。質問はときに、答えよりも人を傷つける。僕がその場で口を開けば、ほのかの死を悼む空気は壊れる。白瀬が言ったように、好奇心で死を汚すなと誰かに言われるかもしれない。
それに、僕自身もまだ怖かった。
真実が知りたいのか。
それとも、ほのかに許されたいだけなのか。
その区別がつかなかった。
授業はほとんど頭に入らなかった。
数学の教師は黒板に数式を書き、現代文の教師は教科書を読ませ、英語の教師はいつものように小テストを配った。日常は、驚くほど簡単に再開する。誰かが死んでも、チャイムは鳴る。宿題は回収される。出席番号は呼ばれる。
ただ一度だけ、英語の教師が出席簿を見て、花浅ほのかの名前を読みかけた。
「花浅……」
そこで声が止まった。
教室の空気が凍った。
教師は慌てて次の名前に移った。誰も何も言わなかった。
それだけのことなのに、僕は自分の机の下で拳を握っていた。
名前が呼ばれなくなる。
それが死ぬということなのかもしれない。
昼休み、僕は弁当を開けずに図書室へ向かった。
図書室は校舎の三階の端にある。廊下の突き当たりに近く、昼休みでもあまり人が来ない。静かな場所が好きな生徒や、授業の課題を片づけたい生徒が数人いる程度だった。
ほのかはよくそこにいた。
窓際の奥から二番目の席。
図書委員でもないのに、彼女は本の配置をほとんど覚えていた。推理小説の棚、郷土史の棚、医学辞典、新聞縮刷版、古い卒業アルバム。必要な資料がある場所を、教師よりも正確に知っていた。
白瀬はすでに来ていた。
彼女はほのかがよく座っていた席ではなく、その向かいに座っていた。まるで、そこに見えない誰かがいるとでもいうように。
「早かったね」
「弁当、食べる気がしなくて」
「私も」
白瀬の前には、購買のパンが置かれていた。袋は開いていない。
僕は鞄からノートを取り出し、机に置いた。
白瀬の視線がすぐにそこへ吸い寄せられた。
「読んだ?」
「少しだけ」
「最後まで?」
「飛ばして、最後のページは見た」
白瀬は目を伏せた。
「何て書いてあった?」
僕は答えるべきか迷った。
真島律は、私に嘘をついている。
それを言えば、白瀬は僕を疑うだろう。すでに疑っているかもしれない。けれど、隠せばほのかの言葉をまた裏切ることになる。
僕は静かに言った。
「僕が嘘をついている、と」
白瀬は驚かなかった。
「やっぱり」
「やっぱり?」
「ほのか、最後のほう、あなたのことをよく気にしてたから」
「何を」
「律は逃げてるって」
胸の奥に、小さな針が刺さったような痛みが走った。
「何から」
「それは、私には言わなかった」
白瀬はノートに手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「見てもいい?」
僕は頷いた。
白瀬は表紙を開いた。彼女の指は、紙に触れる寸前でほんの少し震えていた。泣きそうなのか、怒っているのか、僕にはわからなかった。
最初のページ。
もし私が死んだら、事故だと思わないで。
白瀬はその一文をしばらく見つめていた。
「ほのからしい」
彼女は小さく言った。
「こんなときまで、結論から書くんだ」
僕は返事ができなかった。
白瀬はページをめくる。
そこに並ぶ言葉を、二人で確認していった。
理科準備室。
保健室記録。
屋上鍵。
職員会議。
六月十七日、非常階段。
どれも単独では意味を持たない。だが、ほのかがそれらを同じページに書いたという事実が、すでにひとつの意味を持っていた。
「理科準備室って、何だと思う」
僕が訊くと、白瀬はすぐには答えなかった。
「薬品」
「薬品?」
「五月の終わり頃、ほのかが言ってた。理科準備室の薬品棚の鍵の記録がおかしいって」
「何でそんなこと、ほのかが知ってるんだ」
「理科係の子に訊いたみたい。棚を開けた時間と、鍵の貸出表が合わないって」
僕はノートの該当箇所を探した。
五月二十日。理科準備室の薬品棚、鍵の貸出記録と実際の開閉履歴が合わない。
たしかにそう書かれている。
「でも、鍵の貸出表なんて生徒が見られるものなのか」
「普通は無理。でも、ほのかは普通じゃなかった」
白瀬の声に、わずかな誇らしさが混じった。
「先生に直接頼むわけじゃない。理科係の子が提出物を運ぶときに、ちらっと見えた内容を覚えてもらう。掃除当番の子に、いつ棚が開いていたか聞く。そうやって少しずつ集めるの」
「探偵というより、聞き込み屋だな」
「ほのかはそれを嫌がってた」
「何を」
「探偵って呼ばれること」
意外ではなかった。
でも、改めて聞くと胸が痛んだ。
「じゃあ、どうしてあんなことを続けてたんだ」
白瀬はノートから顔を上げた。
「見つけちゃうから」
「見つける?」
「みんなが見ないふりをしているものを、ほのかだけが見つけちゃう。だから放っておけなかったんだと思う」
僕は窓の外を見た。
校庭では、昼休みだというのに誰も遊んでいなかった。雨上がりで地面が濡れているせいもあるが、それだけではない。教室の中も廊下も、今日は学校全体が音を落としている。
ほのかがいたら、この静けさをどう見ただろう。
悲しみと呼ぶだろうか。
それとも、都合の悪いことをやり過ごすための沈黙と呼ぶだろうか。
白瀬はさらにページをめくった。
六月三日。
倉橋先生、一年前の事故について質問すると、表情変化。左手でネクタイを直す癖あり。
白瀬が指を止めた。
「一年前の事故」
僕は呟いた。
「やっぱり、そこに戻るんだな」
「あなたも知ってるんだ」
「少しだけ」
「どこまで?」
白瀬の声が鋭くなった。
僕は彼女を見た。
「去年、生徒が倒れた。持病による発作だって説明された。救急車で運ばれて、そのあと転校した」
「名前は?」
「覚えてない」
「本当に?」
僕はすぐには答えられなかった。
白瀬は僕の顔を見て、静かに言った。
「有坂芽衣」
その名前を聞いた瞬間、記憶の中で何かが小さく動いた。
有坂芽衣。
隣のクラスの生徒だった。小柄で、いつもマスクをしていた。図書室で何度か見たことがある。ほのかと一緒にいたこともあった。二人で何かを話していて、ほのかが珍しく声を立てて笑っていた。
「ほのかの親友だった」
白瀬が言った。
「少なくとも、ほのかはそう思ってた」
「だった?」
「有坂さんは、あの事故のあと転校した。今はどこにいるのか、ほのかも知らなかった」
白瀬はノートのページを戻し、別の箇所を指差した。
五月二十八日。三枝先生、保健室来室記録の一部を手書き台帳から転記せず。
三枝。
その名前にも覚えがあった。
三枝沙織。養護教諭ではなく、学校医として週に何度か来ている若い医師だった。健康診断や保健指導のときに顔を見たことがある。白衣姿で、いつも落ち着いていた。生徒に対して優しいというより、距離を保っている印象だった。
「保健室記録って、普通は養護の先生が管理するんじゃないのか」
「うちは少し特殊みたい。三枝先生が学校医として定期的に確認してる。特に去年の事故のあとから」
「去年の事故と関係あるってことか」
「ほのかはそう考えてた」
白瀬はノートを閉じなかった。両手をページの上に置いたまま、しばらく黙っていた。
「私、有坂さんが倒れた日、見てる」
僕は白瀬を見た。
「見てるって」
「倒れたところ」
図書室の空気が、少し重くなった気がした。
白瀬はゆっくり話し始めた。
「去年の六月。放課後だった。私は委員会があって、廊下を歩いてた。有坂さんが保健室のほうから出てきて、ふらふらしてた。顔が真っ白で、汗をかいてて」
「声をかけたのか」
「かけた。でも、大丈夫って言われた。いつものことだからって」
「いつものこと?」
「そう言ってた。でも、数歩歩いたところで倒れた」
白瀬は唇を噛んだ。
「私が先生を呼んだ。倉橋先生と、三枝先生が来た。救急車も来た。でも、そのあと、学校は持病の発作だったって説明した」
「違うのか」
「わからない」
白瀬は首を横に振った。
「でも、ほのかは違うって言ってた」
「根拠は?」
「有坂さんは、その日、保健室で何かを飲まされていたかもしれないって」
僕は思わず声を潜めた。
「飲まされた?」
「薬品かどうかはわからない。でも、ほのかは理科準備室の記録を調べてた。保健室の記録も。だから、たぶん繋がってる」
理科準備室。
保健室記録。
有坂芽衣。
一年前の事故。
それらが少しずつ線で結ばれていく。だが、その線の先に何があるのかはまだ見えない。
「でも、どうして今になってほのかは調べ始めたんだ」
「今になって、じゃない」
白瀬が言った。
「ずっと調べてたんだと思う。ただ、最近になって何かを掴んだ」
「何かって?」
「屋上鍵」
白瀬はノートの文字を指した。
屋上鍵。
その単語だけが、他の項目より強く書かれていた。筆圧が深い。紙の裏に跡が残るほどだった。
「ほのかが死んだのは非常階段だろ。屋上と何の関係がある」
「非常階段は、屋上につながってる」
「でも普段は鍵がかかってる」
「だから、鍵の記録が必要だった」
白瀬は鞄から一枚の紙を取り出した。
コピー用紙だった。何度か折り畳まれており、角が傷んでいる。そこには手書きで日付と名前が並んでいた。
「それは?」
「ほのかから預かってた」
「いつ」
「死ぬ三日前」
僕は紙を受け取った。
屋上鍵貸出記録。
そう書かれていた。正式な書類のコピーではない。誰かが手で写したものらしい。日付、時間、貸出者、返却時刻。教師の名前が並んでいる。
六月十七日の欄には、倉橋先生の名前があった。
貸出時刻、午後四時十分。
返却時刻、空欄。
「返してない?」
「少なくとも、ほのかが写した時点では空欄だった」
「これ、どこから」
「ほのかは言わなかった」
「白瀬は中身を見てたのか」
「見た。でも、意味はわからなかった。ほのかは、もし自分に何かあったら律に見せてって言ってた」
僕は紙を見つめた。
午後四時十分。
ほのかが僕にメッセージを送ったのは昼休み。放課後に非常階段へ来いと言った。彼女が倒れたのは、夕方。死亡時刻は病院で午後五時四十二分。
倉橋先生が屋上の鍵を借りた時刻は、その少し前だった。
「先生がほのかを呼び出したのか」
「わからない。ほのかが先生を呼び出したのかもしれない」
「どっちにしても、先生は非常階段に行けた」
「そう」
白瀬の声は低かった。
「でも、それだけじゃない」
彼女はノートを開き、別のページを示した。
六月十七日。放課後。律を呼ぶ。倉橋に確認。白瀬はまだ言えない。三枝は嘘をついている。
僕はその一文を読んで、白瀬を見た。
「白瀬はまだ言えないって、何だ」
白瀬は視線を逸らした。
「私にも、わからない」
「嘘だろ」
「真島くんに言われたくない」
静かな声だった。
だが、その言葉は鋭かった。
僕は何も言えなくなった。
図書室のカウンターでは、司書教諭が返却された本にバーコードを読み込ませていた。機械の小さな電子音が、やけに大きく聞こえる。近くの席にいた一年生が、僕たちのほうをちらりと見て、すぐに目を伏せた。
白瀬は声を落とした。
「私にも、言えないことはある。でも、ほのかを殺してない」
「そんなこと、まだ訊いてない」
「でも、疑ってる」
否定できなかった。
ほのかのノートには、白瀬の名前があった。
白瀬はまだ言えない。
その一文だけで、疑うには十分だった。だが同時に、白瀬がほのかを失って本当に傷ついていることもわかった。演技かもしれないと考えれば、すべてが疑わしくなる。ミステリとは、そういう病気に似ている。一度疑い始めると、誰の涙にも理由が必要になる。
ほのかは、ずっとそんな場所にいたのだろうか。
誰かを信じたいと思いながら、信じるために疑い続ける場所に。
「白瀬」
僕は言った。
「ほのかが死んだ日、何をしてた」
白瀬はすぐに答えなかった。
「委員会」
「何委員」
「図書委員」
「何時まで」
「四時半くらい」
「そのあと?」
「家に帰った」
「誰か見てる?」
「たぶん、図書委員の子が」
「たぶん?」
白瀬は少しだけ怒ったように僕を見た。
「あなたは?」
「僕?」
「あの日、非常階段に行ったの?」
その問いが来ることはわかっていた。
わかっていたのに、喉が詰まった。
僕は窓の外を見た。校庭の水たまりに、灰色の空が映っている。そこに風が吹き、空の形が崩れた。
「途中まで行った」
白瀬の表情が変わった。
「途中?」
「昇降口を出て、体育館横まで行った。でも、引き返した」
「どうして」
「怖くなった」
「何が」
僕は答えなかった。
白瀬はしばらく僕を見ていた。
「ほのかは、あなたを待ってたかもしれない」
「わかってる」
「わかってない」
白瀬の声が震えた。
「あなたが行ってたら、ほのかは一人じゃなかったかもしれない」
その言葉は、昨日から僕の中にあった。誰かに言われなくてもわかっていた。だが、他人の口から聞くと、痛みは別の形になった。
「僕が行ってたら、死ななかったって言いたいのか」
「わからない」
「じゃあ」
「でも、行かなかったんでしょう」
白瀬はノートを閉じた。
「私も言えなかった。あなたも行かなかった。先生たちも隠した。たぶん、みんな少しずつ何かをして、ほのかは死んだ」
その言葉を聞いたとき、ほのかのノートに書かれていた最後の一文が頭に浮かんだ。
真島律は、私に嘘をついている。
僕だけではないのかもしれない。
白瀬も、倉橋先生も、三枝先生も、兄も。
この学校全体が、彼女に嘘をついていたのかもしれない。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
僕たちは同時に顔を上げた。
白瀬はコピー用紙を僕のほうへ押し出した。
「これは持ってて」
「いいのか」
「ほのかが、あなたに見せろって言ったから」
「白瀬は?」
「私は別のものを探す」
「別のもの?」
「保健室記録」
僕は思わず声を低くした。
「そんなもの、どうやって」
「ほのかがやろうとしてた方法を考える」
「危ないだろ」
「危ないから、ほのかは死んだのかもしれない」
白瀬は立ち上がった。
「でも、だから何もしないなら、本当に事故で終わる」
その言葉を残して、彼女は図書室を出ていった。
僕はしばらく席を立てなかった。
机の上には、ほのかのノートと屋上鍵貸出記録の写しがある。紙の上の文字は、どれも静かだった。声を荒らげたり、泣いたり、訴えたりしない。ただそこにあるだけだ。
証拠とは、そういうものなのだろう。
人間がどれほど嘘をついても、紙は声を上げない。
ただ、見つけられるのを待っている。
午後の授業が終わる頃には、空はまた暗くなり始めていた。六月の天気は変わりやすい。窓の外に垂れ込めた雲は低く、校舎の上から押し潰すようだった。
放課後、僕は職員室へ向かった。
白瀬には言っていない。言えば止められると思った。
倉橋先生に訊く。
その必要があった。
職員室の扉を開けると、湿った紙とコーヒーの匂いがした。教師たちはそれぞれの机に向かい、書類を整理したり、電話をかけたりしている。花浅ほのかの死があっても、学校の仕事は止まらない。むしろ、こういうときほど書類は増えるのかもしれない。
倉橋先生は自分の机で何かを書いていた。
「先生」
声をかけると、先生はペンを止めた。
「真島か。どうした」
「少し、話があります」
先生は周囲を見た。
「ここでいいか」
「できれば、外で」
先生の目が一瞬だけ細くなった。
「進路のことか」
「違います」
「なら、手短にしなさい」
先生は立ち上がり、職員室の外へ出た。廊下には誰もいなかった。放課後の校舎は、昼間とは別の建物のように静かになる。遠くで運動部の掛け声が聞こえるが、それも壁を隔てると現実味が薄い。
「何だ」
先生は言った。
僕は鞄から屋上鍵貸出記録の写しを取り出した。
それを見た瞬間、先生の顔から表情が消えた。
「これをどこで」
「ほのかが残していました」
嘘ではなかった。
「六月十七日、先生は屋上の鍵を借りています。返却時刻は空欄です」
「それがどうした」
「ほのかが倒れた非常階段は、屋上につながっています」
「避難経路の確認だ」
先生はすぐに言った。
「梅雨時期は滑りやすい。設備点検の一環で確認した」
「それなら、どうして返却時刻が空欄なんですか」
「記入漏れだろう」
「先生が?」
「人間は記入漏れくらいする」
その言い方は冷静だった。
だが、冷静すぎた。
「ほのかは、先生に何を確認しようとしていたんですか」
「知らない」
「一年前の事故についてですか」
先生の顎がわずかに動いた。
「誰から聞いた」
「ほのかのノートに書いてありました」
「そのノートを見せなさい」
命令口調だった。
僕は一歩下がった。
「嫌です」
「真島」
「これは、ほのかが僕に渡したものです」
「花浅は亡くなった。残されたものをどう扱うかは、大人が判断する」
「また大人ですか」
思ったより強い声が出た。
廊下の空気が張り詰めた。
先生は僕をじっと見た。
「君は、自分が何をしているのかわかっているのか」
「わかりません」
僕は正直に言った。
「でも、先生が何かを隠していることはわかります」
「根拠は」
「先生は、ほのかのことを一度も名前で呼びません」
先生の眉が動いた。
「昨日からずっと、花浅、花浅って。先生はいつも、生徒を下の名前で呼ぶこともあった。でも、ほのかのことだけは距離を取ってる」
「それが根拠か」
「違います」
僕は紙を握りしめた。
「先生は昨日、僕たちの好奇心で死を汚すなと言いました。でも、僕はまだ何も言ってなかった。先生は、ほのかが何かを調べていたことを知っていた」
倉橋先生は黙っていた。
沈黙は、ときどき肯定よりもはっきりした答えになる。
「先生」
僕は言った。
「ほのかは、何を知りすぎたんですか」
先生の目が、初めてはっきりと揺れた。
ほんの一瞬だった。
だが、僕は見逃さなかった。
ほのかなら、きっともっと早く気づいただろう。もっと正確に、もっと冷静に、相手の癖や呼吸まで読んだはずだ。僕にはそこまでできない。ただ、その一瞬だけはわかった。
先生は何かを知っている。
そして、その何かを言うつもりがない。
「真島」
先生は低い声で言った。
「花浅は、余計なことを知りすぎた」
僕は息を止めた。
その言葉が、廊下の床に落ちたように感じた。
「先生、今」
「聞かなかったことにしなさい」
「できません」
「できる。君は今までそうしてきた」
胸を殴られたようだった。
先生は僕を見ていた。
「君も、来なかったんだろう」
廊下の音が消えた。
遠くの運動部の声も、職員室のざわめきも、窓の外の風も、すべて遠ざかった。
「何で、それを」
「花浅のスマートフォンに、君へのメッセージが残っていた」
「警察が見たんですか」
「学校も確認した」
「そんなこと」
「事故の状況確認だ」
先生の声は硬かった。
「君は呼ばれていた。だが、行かなかった」
僕は何も言えなかった。
先生は少しだけ声を落とした。
「だから、もう関わるな」
「それは、脅しですか」
「忠告だ」
「誰のための」
先生は答えなかった。
そのとき、廊下の角に人影が見えた。
白瀬だった。
彼女はいつからそこにいたのかわからない。手には数枚の紙を持っている。顔色が悪かった。
「白瀬」
僕が声をかけると、彼女は倉橋先生を見た。
「先生」
「何だ」
「保健室に、去年の記録がありませんでした」
先生の表情が変わった。
白瀬は紙を握りしめたまま続けた。
「手書き台帳からも、電子記録からも、有坂芽衣さんの来室記録だけが消えています」
「白瀬、それをどこで」
「でも、消し忘れがありました」
白瀬は僕のほうを見た。
その目は震えていた。
「三枝先生の控えに、一行だけ残ってた」
「何て」
白瀬は息を吸った。
「六月十七日。花浅ほのか、保健室来室。右手首に圧迫痕あり。本人、転倒ではないと主張」
僕は言葉を失った。
六月十七日。
ほのかが死んだ日。
右手首に圧迫痕。
転倒ではないと主張。
つまり、ほのかは倒れる前に保健室へ行っていた。
誰かに手首を掴まれたあとで。
倉橋先生は、白瀬の紙を見つめていた。
その顔に、もう教師らしい余裕はなかった。
「白瀬、その紙を渡しなさい」
「嫌です」
「これは学校の記録だ」
「消された記録です」
白瀬の声は震えていたが、退かなかった。
倉橋先生は一歩近づいた。
その瞬間、僕は白瀬の前に立っていた。
自分でも驚いた。
昨日の僕なら、きっと動けなかった。面倒なことになると思い、誰かに任せようとしたはずだ。だが今は違った。違うと思いたかった。
「先生」
僕は言った。
「ほのかは事故で死んだんじゃないんですね」
先生は僕たちを見た。
長い沈黙があった。
そして、先生は言った。
「帰りなさい」
それだけだった。
けれど、その短い言葉の中に、答えはほとんど入っていた。
僕と白瀬は職員室前を離れた。階段を下り、誰もいない渡り廊下まで来て、ようやく足を止めた。白瀬は壁にもたれ、深く息を吐いた。
「怖かった」
彼女は小さく言った。
「私も、逃げたくなった」
「逃げてもよかった」
「ほのかは逃げなかった」
「だから死んだのかもしれない」
僕がそう言うと、白瀬は顔を上げた。
怒られると思った。けれど、彼女は怒らなかった。
「そうかもね」
白瀬は言った。
「でも、逃げなかったから、ここまで残せた」
彼女は手の中の紙を見た。
「ほのか、死ぬ前から誰かに掴まれてたんだ」
右手首に圧迫痕。
その言葉が頭から離れなかった。
僕はほのかの手を思い出そうとした。シャープペンシルを持つ細い指。ノートの端を押さえる手。雨の日に傘の柄を握っていた手。そこに、誰かの指の跡が残っていた。
誰が。
何のために。
「白瀬」
僕は言った。
「あの日、非常階段にいたのは倉橋先生なのか」
白瀬はすぐに答えなかった。
「先生だけじゃない」
「何?」
彼女は僕を見た。
その目に、ためらいがあった。
そして、怖れも。
「ほのかが死んだ日、非常階段にいたのは、先生だけじゃない」
どこかで聞いた言葉だった。
いや、白瀬は昨日からそれを言おうとしていたのかもしれない。
僕の喉が乾いた。
「誰がいた」
白瀬は答えなかった。
「白瀬」
彼女は僕から目を逸らさなかった。
「あなたもいたよね、律」
心臓が止まったような気がした。
雨の匂いがした。
まだ降っていないのに、雨の匂いがした。
非常階段へ向かう途中で見た、用務員室の窓。濡れた前髪。暗い目。引き返したはずの足。
僕は本当に、途中で引き返したのか。
それとも。
記憶の中で、鉄の階段が低く鳴った。
僕は何も言えなかった。




