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【完全版】この世界で探偵を失った僕たちは (We Who Lost Our Detective in This World)  作者: アコンプリスの人


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第一章 探偵が死んだ日

 花浅ほのかの死亡診断書には、ひとつだけ空白があった。

 死因欄。

 探偵と呼ばれた少女の死に、理由だけがなかった。

 その紙を最初に見たとき、僕は何かの冗談だと思った。病院の書類に冗談などあるはずがないと頭ではわかっていたのに、それでもそう考えなければ、目の前の白い空白を受け止められなかった。

 氏名、花浅ほのか。

 年齢、十七歳。

 死亡日時、六月十七日、午後五時四十二分。

 死亡場所、桜ヶ丘総合病院。

 その下に続くはずの言葉だけが、そこにはなかった。

 死因。

 人が死ぬとき、世界は必ず理由を求める。病気、事故、自殺、他殺。どれほど乱暴でも、どれほど不完全でも、そこには何かしらの名前が与えられる。名前を与えられた死だけが、ようやくこの世から片づけられる。そういうものだと思っていた。

 けれど、ほのかの死は片づけられていなかった。

 理由のない死。

 あるいは、理由を書けない死。

 そのことに気づいた瞬間、僕は葬儀場の薄い空調の音を聞いた。換気口の奥で、乾いた風が低く鳴っている。読経の声も、親族のすすり泣きも、焼香の匂いも、すべて遠くへ引いていった。

 目の前には白い紙がある。

 その中に、彼女の死だけが、黒く塗りつぶされずに残っていた。

「律くん」

 名前を呼ばれて、僕は顔を上げた。

 花浅さん、とは呼べなかった。ほのかの母親は、僕の前に立っていた。喪服の襟元が少しだけ曲がっている。いつもの彼女なら、きっとそんなことには気づかなかった。いや、気づいていても直さなかったかもしれない。娘を棺に入れたばかりの人間に、服装の乱れを整える余裕などあるはずがない。

 けれど、ほのかなら気づいただろう。

 そして、黙って見過ごすことはなかっただろう。

 あの子は、そういう人間だった。

「ごめんなさいね。こんなものを見せて」

 ほのかの母親は、書類を封筒に戻そうとした。僕は思わず手を伸ばし、その動きを止めていた。

「どうして、空白なんですか」

 自分の声が、自分のものではないように聞こえた。

「死因欄だけ、どうして」

 母親は答えなかった。答えられなかったのだと思う。彼女はほんの少しだけ唇を動かし、何かを言いかけ、それから諦めたように目を伏せた。

 葬儀場の隅で、担任の倉橋先生がこちらを見ていた。黒いネクタイをきっちり締め、背筋を伸ばし、いかにも教師らしい顔をしている。悲しんでいるようにも、困っているようにも見えた。だが、そのどちらでもないようにも見えた。

 僕はその視線から逃げるように、ほのかの遺影を見た。

 写真の中の彼女は、少し斜めに首を傾けて笑っていた。制服のリボンは左右の長さが合っていない。本人は気づいていたはずだ。ほのかは、そういう細かい乱れを見落とす人間ではなかった。

 たぶん、わざとだった。

 人は、完璧に見えるものよりも、少しだけずれたものに目を留める。彼女はそう言っていた。

「証拠って、目立ちすぎても駄目なんだよ。見ようとした人だけが見つけるくらいがちょうどいい」

 そう言ったときの彼女の顔を、僕は今でも覚えている。

 花浅ほのかは、学校で探偵と呼ばれていた。

 最初にそう呼んだのが誰だったのか、正確には知らない。たぶん、僕ではなかったと思う。けれど、その呼び名が定着するまでに、長い時間はかからなかった。

 中学から高校に上がってすぐの春、クラスで財布がなくなった。持ち主は半泣きになり、担任は全員に机の中と鞄を確認させた。盗難という言葉は誰も口にしなかったが、教室の空気はすでに誰かを疑っていた。

 ほのかはそのとき、窓際の席で頬杖をついていた。

 彼女は騒ぎが一段落するのを待ってから、財布の持ち主に訊いた。

「今日、体育あったよね」

「うん」

「更衣室で財布を鞄に入れた?」

「入れたと思う」

「思う、じゃなくて。指で触った?」

 その問い方が妙に印象に残っている。

 触ったかどうか。

 見たかどうかではない。

 持ち主はしばらく考え、首を振った。ほのかはそのまま体育館へ行き、跳び箱の裏から財布を見つけて戻ってきた。持ち主は体育の前、手に持っていた財布を無意識に跳び箱の上へ置き、そこから落ちたらしい。

 事件ですらなかった。

 けれど、その一件で、ほのかは教室の空気を変えた。誰かが犯人になる前に、疑いそのものを終わらせた。

 それからも、似たようなことは何度もあった。

 壊された花瓶。

 匿名で送られた悪意あるメッセージ。

 図書室の本に挟まれた脅迫めいた紙片。

 保健室に行ったことを隠していた生徒の怪我。

 ほのかはいつも、問題を大きくする前に見つけた。教師に言うべきことは言い、言わなくていいことは言わなかった。正義感が強いのかと訊けば、たぶん彼女は笑っただろう。

「正義って、たいてい声が大きいから苦手」

 ほのかは一度、そう言った。

「じゃあ、どうして首を突っ込むんだよ」

 僕が訊くと、彼女はシャープペンシルの芯を一本だけ出し、机に立てようとした。芯はすぐ折れた。

「放っておくと、嘘って増えるんだよ」

「嘘?」

「うん。最初はひとつだけなのに、それを隠すために次の嘘がいる。次の嘘を守るために、その次の嘘がいる。そうやって、誰かの居場所が少しずつなくなる」

 彼女は折れた芯をティッシュで包み、筆箱にしまった。

「だから、増える前に止める」

「それが探偵?」

「違うよ」

 ほのかは少し笑った。

「探偵は、本当はもっと格好いいものだと思う」

 今ならわかる。

 彼女は自分のことを探偵だとは思っていなかった。少なくとも、最初はそうだった。

 それでも僕たちは、彼女を探偵と呼んだ。

 呼び名はときに、人間の形を決めてしまう。花浅ほのかは、探偵と呼ばれ続けるうちに、探偵であることを引き受けてしまったのかもしれない。

 そして、探偵であることをやめられなくなった。

 六月十七日は、朝から雨だった。

 梅雨らしい、細くてしつこい雨だった。校舎の窓ガラスに水滴が幾筋も流れ、教室の床には湿った靴跡が残っていた。制服の袖口は乾かず、黒板のチョークは少し湿って、文字の端が滲んでいた。

 その日、僕はほのかとほとんど話していない。

 ほとんど、ではない。

 一言も話していない。

 朝、教室に入ったとき、ほのかはすでに自分の席にいた。窓際の一番後ろ。彼女の定位置だった。机の上にはいつもの黒いノートが開かれていて、そこに何かを書いていた。髪は肩の少し上で揃えられていて、雨の日には毛先が外へ跳ねる。彼女はその癖を嫌っていたが、僕は嫌いではなかった。

 目が合った。

 ほのかは何か言いかけた。

 僕は視線を逸らした。

 それが、僕たちの最後の会話になった。

 会話ですらなかった。

 昼休み、僕のスマートフォンにメッセージが届いた。

 送信者は、ほのか。

 本文は短かった。

「今日、全部わかる。放課後、非常階段に来て」

 僕はそのメッセージを開いたまま、しばらく見つめていた。

 非常階段。

 校舎裏にある、普段はほとんど使われない鉄製の階段だった。避難訓練のときだけ教師が鍵を開けるが、それ以外は外から回り込まなければ近づけない。雨の日には錆の匂いがする。足を乗せると、古い金属が低く鳴る。

 そこへ来いと、ほのかは言った。

 今日、全部わかる。

 何がわかるのか、僕には心当たりがあった。

 ここ数週間、ほのかはある事件を調べていた。一年前に起きた、生徒の急病搬送。公式には持病による発作とされた。誰も深く追及しなかった。僕もそうだった。そういうこともあるのだと思っていた。学校で起きる出来事の多くは、教師の説明によって形を与えられる。生徒はそれを信じるか、信じないふりをするか、どちらかしかない。

 けれど、ほのかは信じなかった。

 彼女は、あれは発作ではないと言った。

 事故でもないかもしれない、と。

 僕は最初、その言葉を笑った。

「何でも事件にするなよ」

 そう言ったとき、ほのかは怒らなかった。ただ、静かに僕を見た。

「律は、事件じゃなかったら安心する?」

「そりゃ、事件じゃないほうがいいだろ」

「本当に?」

 その問いに、僕は答えられなかった。

 彼女が調べていた一年前の出来事には、僕の兄が関わっているかもしれなかった。

 真島亮介。

 僕の七つ上の兄は、かつてこの学校で非常勤講師をしていた。短い期間だった。半年にも満たなかったと思う。家ではその話題は避けられていた。兄は突然学校を辞め、その後、教育関係の仕事には就いていない。

 ほのかは、兄の名前を出した。

「一年前の職員会議の記録に、真島亮介って名前がある」

 そのとき、僕は初めて彼女に強い声を出した。

「兄貴は関係ない」

 ほのかは驚いた顔をした。

 僕はその顔を見て、すぐに後悔した。けれど、謝らなかった。

 それから、僕は彼女を避けるようになった。

 彼女が何を調べているのか、知りたくなかった。兄が本当に関係しているのか、確かめたくなかった。ほのかが真実に近づくたびに、僕の中で何かが削れていった。

 だから六月十七日の昼休み、僕は彼女からのメッセージに返信しなかった。

 既読だけがついた。

 放課後、僕は非常階段へ向かった。

 正確には、向かいかけた。

 昇降口で靴を履き替え、傘立てから自分の傘を取った。外へ出ると、雨は朝より少し強くなっていた。校庭の砂は黒く濡れ、排水溝に細い水の流れができていた。

 非常階段は校舎の裏手にある。そこへ行くには体育館横の通路を抜け、用務員室の前を通る必要がある。

 僕は途中まで歩いた。

 そこで足を止めた。

 用務員室の窓に、ぼんやりと自分の顔が映っていた。濡れた前髪が額に貼りつき、目だけが妙に暗かった。僕はその顔を見て、急に怖くなった。

 ほのかに会えば、何かを聞かされる。

 聞いてしまえば、知らなかったことにはできない。

 兄のことかもしれない。

 学校のことかもしれない。

 誰かが嘘をついていることかもしれない。

 そのどれも、僕は聞きたくなかった。

 スマートフォンを取り出すと、ほのかのメッセージが画面に残っていた。

「今日、全部わかる。放課後、非常階段に来て」

 僕は返信欄を開いた。

 行けない。

 そう打って、消した。

 ごめん。

 そう打って、消した。

 結局、何も送らなかった。

 そして、引き返した。

 その二時間後、花浅ほのかは校舎裏の非常階段下で倒れているのを発見された。

 発見したのは、用務員だったと聞いた。雨のせいで血はほとんど流れていなかったように見えたらしい。けれど、階段の下にうずくまるように倒れた彼女は、すでに意識がなかった。

 救急車が来た。

 教師たちが走った。

 生徒たちは教室に戻され、校内放送で下校指示が出た。理由は「校内設備の点検」とされた。誰もそんな説明を信じていなかったが、誰も逆らわなかった。

 僕は家に帰ってから、ほのかが病院へ運ばれたことを知った。

 そして夜、死んだことを知った。

 学校からの連絡は短かった。

 花浅ほのかさんが事故により亡くなりました。

 事故。

 その二文字を見たとき、僕は吐き気を覚えた。事故なら、僕が行かなかったことは関係ない。事故なら、彼女のメッセージに返事をしなかったことも、非常階段へ行かなかったことも、ただの偶然になる。

 偶然。

 その言葉にすがりたい自分がいた。

 だから僕は、彼女の死を疑わなかった。

 疑わなかったのではない。

 疑いたくなかった。

 葬儀は三日後に行われた。

 小さな斎場だった。学校の生徒も何人か来ていたが、長居する者はいなかった。泣いている者もいれば、泣くことに戸惑っている者もいた。人の死は、親しい者以外には扱いが難しい。悲しむ資格があるのかどうか、誰もが自分の立ち位置を測っているように見えた。

 白瀬凛は、斎場の入口近くに立っていた。

 彼女はほのかと同じクラスで、僕とも顔見知りだった。成績は良く、教師からの信頼も厚い。人当たりがよく、誰とでも話せるが、誰かに深く踏み込むことは少ない。そんな印象だった。

 その白瀬が、僕を見るなり近づいてきた。

「真島くん」

 声が硬かった。

「ほのかから、何か聞いてた?」

 僕は首を振った。

「何も」

「本当に?」

 白瀬の目は赤かった。泣いたあとだった。けれど、僕を見つめる視線は弱くなかった。

「何も聞いてない」

 もう一度言うと、白瀬は唇を噛んだ。

「じゃあ、どうしてほのかは、最後にあなたを呼んだの」

 心臓が嫌な音を立てた。

「知ってるのか」

「見たから」

「何を」

「ほのかのスマホ。あなたに送ったメッセージが残ってた」

 僕は何も言えなかった。

 白瀬は僕の沈黙を見て、ほんの少しだけ目を細めた。責めているのか、確かめているのか、わからなかった。

「行ったの?」

 僕は答えなかった。

「非常階段」

 答えるべきだった。

 行かなかった、と。

 途中まで行って引き返した、と。

 そう言えばよかった。

 けれど、僕の口から出たのは別の言葉だった。

「覚えてない」

 白瀬の表情が変わった。

 その瞬間、僕は自分が決定的な間違いをしたことに気づいた。覚えていないはずがない。ほのかからの最後の呼び出しを、忘れられるはずがない。

 白瀬もそれをわかっていた。

「そう」

 彼女は短く言った。

「じゃあ、思い出して」

 それだけ言って、白瀬は僕の前から去った。

 焼香の順番が来て、僕は祭壇の前に立った。遺影のほのかは、やはり少しだけリボンを曲げて笑っている。僕は抹香をつまみ、香炉に落とした。煙が細く立ち上る。指先に残った匂いが、いつまでも消えなかった。

 棺の中の彼女を見る勇気はなかった。

 焼香を終えたあと、ほのかの母親に呼び止められた。

「律くん、少しいい?」

 僕は頷いた。

 案内されたのは、親族控室の隅だった。畳の上に低い机があり、その上に白い布で包まれたものが置かれていた。母親はそれを丁寧に開いた。

 黒いノートだった。

 表紙の角が少し擦れている。見覚えがあった。ほのかがいつも持ち歩いていたものだ。授業中も、休み時間も、放課後の図書室でも、彼女はそのノートに何かを書いていた。

「あの子が、あなたに渡してほしいって」

 母親はそう言った。

「僕に、ですか」

「ええ」

「どうして」

「わからない。でも、何かあったら律くんに渡してって。そう言っていたの」

 何かあったら。

 その言い方が、胸の奥に刺さった。

 ほのかは、自分に何かが起きるかもしれないと考えていたのか。

 それなら、なぜ僕は行かなかったのか。

 なぜ、彼女のメッセージを無視したのか。

 母親はノートの上に手を置いたまま、しばらく黙っていた。それから、封筒を取り出した。中に入っていたのが、死亡診断書の写しだった。

「これも、見てほしいの」

 そうして僕は、空白を見た。

 死因欄。

 そこだけが、ぽっかりと抜け落ちていた。

「病院に訊いたんですか」

 母親は頷いた。

「でも、はっきりしたことは言ってもらえなかった。転落による外傷だろうって。でも、それならそう書けばいいでしょう」

 その通りだった。

 転落事故なら、転落による頭部外傷なり、外傷性ショックなり、何かしらの言葉が入るはずだった。僕に医学の知識などない。それでも、死因欄が空白のままでいいはずがないことくらいはわかった。

「学校は、事故だって」

「先生たちも、そう言っているわ」

 母親の声は静かだった。

「でも、あの子は前の日、私に言ったの。もうすぐ終わるって」

「終わる?」

「ええ。全部、終わらせるって」

 僕はノートを見た。

 黒い表紙。

 擦れた角。

 閉じられたページ。

 そこに何が書かれているのか、知りたいと思った。同時に、知りたくないとも思った。

 母親はノートを僕のほうへ押し出した。

「読んであげて」

「僕が読んでいいんですか」

「あの子が、そう望んだから」

 僕はノートを受け取った。

 重かった。

 紙の束にすぎないはずなのに、ひどく重かった。

 控室を出ると、廊下に倉橋先生が立っていた。まるで僕を待っていたようだった。

「真島」

 先生は低い声で言った。

「少し話せるか」

 僕はノートを鞄に入れ、頷いた。

 斎場の外は雨が上がっていた。湿ったアスファルトに街灯の光が滲んでいる。倉橋先生は喫煙所の近くまで歩き、そこで足を止めた。煙草は吸わなかった。ただ、ポケットに手を入れたまま、斎場の入口を見ていた。

「花浅のことは、残念だった」

 先生は言った。

 その言葉は正しかった。教師として、葬儀の場で、生徒に向ける言葉として、何も間違っていなかった。

 だからこそ、少しも心に入ってこなかった。

「事故なんですか」

 僕は訊いた。

 先生はすぐには答えなかった。

「学校としては、そう聞いている」

「学校としては?」

「真島」

 先生の声が少し強くなった。

「今は、余計なことを考えるな。君たちは受験もある。花浅のことは、学校できちんと対応する」

「きちんとって何ですか」

「大人に任せろということだ」

 大人。

 その言葉が、ひどく遠く聞こえた。

 ほのかなら、きっとここで笑っただろう。大人に任せれば嘘が増えないなら、探偵なんていらないよ、と。

 僕は鞄の中のノートを意識した。

「先生は、ほのかが何を調べていたか知っていますか」

 倉橋先生の表情は変わらなかった。

 だが、目だけが一瞬止まった。

「知らない」

「本当に?」

「真島」

 先生は僕を見た。

「花浅は、少し物事を深く考えすぎるところがあった。悪いことではない。だが、何でも疑えばいいというものではない」

「何を疑っていたんですか」

「だから、知らないと言っている」

 その声には、もう教師らしい柔らかさはなかった。

「ただ、これだけは言っておく。花浅の死を、君たちの好奇心で汚すな」

 好奇心。

 僕はその言葉を聞いた瞬間、腹の奥が冷えた。

 ほのかがやっていたことを、先生は好奇心と呼んだ。

 死んだ生徒が残した問いを、余計なものとして片づけようとしている。

 それがわかった。

「僕たち?」

 僕は訊いた。

「先生、今、君たちって言いましたよね」

 倉橋先生は答えなかった。

「僕以外に、誰のことを言ってるんですか」

「もう帰りなさい」

 先生はそれだけ言い、斎場の中へ戻っていった。

 僕はしばらく、その場に立っていた。

 雨上がりの空気は冷たかった。濡れた植え込みから土の匂いがした。道路の向こうを車が通り過ぎるたび、水の膜を踏む音がした。

 鞄の中で、ノートが重かった。

 家に帰ると、母は僕の顔を見るなり何か言いかけたが、結局何も言わなかった。父はまだ帰っていなかった。兄は、家を出て一人暮らしをしている。兄の部屋はもう物置のようになっていて、ドアの前には使わない掃除機が置かれている。

 僕は自室に入り、制服のまま床に座った。

 机の上に、ほのかのノートを置く。

 すぐには開けなかった。

 開けば、何かが始まる気がした。もう事故だったことにはできなくなる。ほのかの死が、名前を持ち始める。理由を求め始める。

 それが怖かった。

 でも、開かずにいられなかった。

 表紙をめくる。

 最初のページには、ほのかの字でこう書かれていた。

 もし私が死んだら、事故だと思わないで。

 その一文を見た瞬間、喉が詰まった。

 字はいつものほのかのものだった。少し右上がりで、ところどころ角が鋭い。丁寧なのに、急いでいるようにも見える字。

 僕はページの端をつまんだまま、動けなかった。

 死ぬつもりで書いたのか。

 死ぬかもしれないと思って書いたのか。

 それとも、誰かに殺される可能性を本気で考えていたのか。

 次のページには、箇条書きでいくつかの言葉が並んでいた。

 理科準備室。

 保健室記録。

 屋上鍵。

 職員会議。

 六月十七日、非常階段。

 そして、その下に小さく書かれていた。

 律には、まだ言わない。

 僕は息を止めた。

 なぜ、僕には言わなかったのか。

 いや、違う。

 言おうとしていたのだ。

 彼女は、最後に僕を呼んだ。

 来て、と。

 今日、全部わかる、と。

 僕が行かなかっただけだ。

 ページをめくる手が震えた。ノートには、学校内の出来事が細かく記録されていた。日付、時間、人名、場所。ほのかは感情をあまり書かない。事実だけを積み上げる。だが、その事実の並べ方に、彼女の怒りや焦りが滲んでいた。

 五月二十日。理科準備室の薬品棚、鍵の貸出記録と実際の開閉履歴が合わない。

 五月二十八日。三枝先生、保健室来室記録の一部を手書き台帳から転記せず。

 六月三日。倉橋先生、一年前の事故について質問すると、表情変化。左手でネクタイを直す癖あり。

 六月八日。白瀬凛、何かを知っている。けれど、言えない。

 六月十二日。真島亮介の名前。律にはまだ確認しない。

 兄の名前を見たとき、胸の中のどこかが冷たくなった。

 やはり、兄は関係している。

 その事実を、僕はノートの文字から突きつけられた。

 僕はページを閉じようとした。これ以上読めないと思った。だが、指は勝手に最後のほうのページをめくっていた。

 空白のページが続いたあと、最後の一枚だけに文字があった。

 そこには、こう書かれていた。

 真島律は、私に嘘をついている。

 視界が揺れた。

 僕はノートを落とした。

 床に落ちたノートは、開いたまま動かなかった。白いページの上に、黒い文字がある。ほのかの字。間違いなく、彼女の字だった。

 真島律は、私に嘘をついている。

 僕は嘘をついた。

 白瀬に。

 倉橋先生に。

 ほのかの母親に。

 そして、ほのかに。

 自分は知らないふりをしていた。

 行かなかっただけだと思っていた。何もしていないのだから、罪ではないと思おうとしていた。けれど、ほのかは見抜いていた。

 僕が何から逃げているのか。

 僕が誰を守ろうとしているのか。

 僕が、彼女よりも自分の平穏を選んだことを。

 スマートフォンが震えた。

 床に座り込んだまま、僕は画面を見た。

 白瀬凛からだった。

 どうして彼女が僕の連絡先を知っているのか、一瞬わからなかった。クラスのグループから拾ったのだろうか。そんなことを考えている場合ではないのに、頭は妙にどうでもいいことを処理しようとした。

 メッセージは一行だけだった。

「ほのかのノート、受け取った?」

 僕は返信できなかった。

 すると、すぐに次のメッセージが届いた。

「読んだなら、もうわかるよね」

 さらに一行。

「ほのかは事故で死んでない」

 僕は画面を見つめた。

 指が動かない。

 白瀬から、またメッセージが届く。

「明日、図書室に来て。放課後。あなたが来なくても、私は調べる」

 そこで通知は止まった。

 僕はスマートフォンを握ったまま、床に落ちたノートを見た。

 ほのかは死んだ。

 その事実は変わらない。

 けれど、彼女が残した問いは死んでいなかった。ノートの中で、空白の死因欄の中で、未返信のメッセージの中で、まだ息をしている。

 探偵はいない。

 もう、僕たちの前を歩いてくれる人はいない。

 それでも、行かなければならない場所がある。

 あの日、僕が引き返した場所へ。

 非常階段へ。

 僕はノートを拾い上げた。

 最後のページをもう一度見る。

 真島律は、私に嘘をついている。

「そうだよ」

 声に出して言うと、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。

「僕は、嘘をついた」

 窓の外で、また雨が降り始めていた。

 細い雨だった。

 六月十七日の朝と同じような、しつこくて、どこまでも静かな雨。

 僕はほのかのノートを閉じ、机の上に置いた。

 逃げるのは、もう終わりにしなければならなかった。



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