あの時(ひなた編2)/突然崩れ去った日常
もがいている人が乗った車のドアを開けようとした私を制止しようとした男の人に、ちょっと不満げな口調で返した。
「だって、この人、困ってそうじゃないですかっ」
もし、訳のわからない事を言うなら、相手が大人の男の人だろうと、一戦交える覚悟で言った。
「こいつらを外に出したら、とんでもないことになる。
見ろ!」
その男の人は喧嘩している人たちの方を指さした。
「そこら中で起きている喧嘩とこの人が関係あるんですか?」
関係ある訳ないでしょっ! 的な強い口調で言ってみた。
「何がどうなっているのかは分からない。
だが、街には野獣のようになってしまった人たちがあふれているんだよ。
そして、そんな奴が車の中にもいるんだ。
真っ当な人間との違いはドアを自分で開けられるかどうかだ!」
「はい?
車のドアを自分で開けられない人なんているんですか?」
何馬鹿な事言ってるんですか! 的な口調で言い返す。
「何がどうなっているか分からないと言っているだろ。
よく見ろ、そいつを」
今度は私がドアを開けようとした車の中を指さした。
車内でもがいている20代あたりの若い男の目と表情に知性はなく、外に出られないことからくる不安と怒りが浮かんでいる。そして、その体の動きは車のドアを開けようとか、何か操作しようと言う知的行動と言うより、小さな子が駄々をこねている風でもある。
「マジで?」
「ああ。そんな奴らが、そこら中にうようよしている」
改めて、辺りを見渡してみた。
少し離れたところを一人でふらふら歩いている中年のおばさんは、鞄とかも持っておらず手ぶらだ。この人も目を始め動作全体から知性を感じさせない。
「気を付けろ。
奴らは突然襲ってくるぞ。
特に女の子は。
奴らの男は人前だとか、そんな事は関係ない」
よく見ると、喧嘩みたいだと思っていた一団の一つでは、その近くで服を破られた女の子が震えながら泣いている。
ボコられているのが襲った男?
「警察は?」
「連絡がとれない」
「こ、こ、こわい」
そう言ったさくらちゃんは、声だけでなく体も震えている。
とんでもない無法状態。
と言うか、この人たちが知性を失っているとしたら、そもそも法なんてものを理解出来る訳もない。本当に彼らが知性と言うものを失っているとしたら、それはもう本能の下、欲望だけで動く野獣である。
街にあふれる突然、知性を奪われたかのような人たち。
無気力?
恐怖?
欲望?
彼らを動かしいるのは、彼らの精神すべてを飲み込んだ負の力。
さっきまで続いていた平和な日常は、突然崩れ去ってしまった。
今ここでは、平穏な時間は誰も与えてくれない。
生きていくには、自らに生き抜く力が必要だ。
その事をさくらちゃんも感じ取ったのか、さくらちゃんの震えが大きくなった。
「大丈夫だよ。
私がいるじゃない」
さくらちゃんにそう言うと、辺りに目を向けて、武器になりそうなものを探した。近くにあった工事のためのバリケードに使われている金属っぽいパイプの長さは、剣の代わりになりそうな長さは1m強。
桜ちゃんと手をつないだまま、私はそのパイプを取りに行った。
ちょっと重くて太い。
最初に手にした感想はそれだった。
でも、攻撃力はある。問題は重い事による私の体力消耗、つまり持久力になる。
不用意な戦いは避けつつ家に帰る。
私はそう方針を立てると、さくらちゃんの家に向かい始めた。
道々の状況は、さっきの男の人が言ったとおりだった。
さくらちゃんの家に向かう道のりで、野獣と化した人の形をした生き物の何人かが、私たちに襲い掛かってきた。
彼らは言葉もしゃべらないし、言葉での脅しもない。
ただ、「うぉぉぉ」と雄たけびのようなものをあげるだけ。
すでに街のあちこちで流血の事態になっている。怪我をさせたらいけないなんて配慮をしている場合じゃない。そんな甘い事を言えるのは平穏な社会だけ。
今はそんな社会は消え去り、自分の身は自分で守るしかない。
手加減無用で、金属の重く、冷たいパイプで攻撃する。
一応防御本能はあるらしく、振り下ろされるパイプを手で防ごうとする。
でも、勢いよく振り下ろした金属製のパイプの破壊力の前には、人の骨は無力である。
「ぐきゃあ」
と、醜い悲鳴を上げて、逃げていく。
そして、途中の道々で女の人を襲っている野獣の頭を背後から、パイプで殴り飛ばす。極力無用な戦いは避け、体力を温存していきたいと思いつつも、怒りの衝動を抑えられない場合もある。
そんな事を繰り返しながらたどり着いたさくらちゃんの家。
通りにも野獣がふらふら歩いていたりするが、襲ってこない以上、こちらから襲いに行く理由はない。
とりあえず、家の中に入れば安全なはず。
「なんとかたどり着いたよ」
「ひなたちゃん、ありがとう」
ここに来るまでも、その怖さから涙を流していたさくらちゃんだったけど、家にたどり着いた安心感からか、その涙は一層激しくなった。
「うん、気を付けて」
そう言って、手を振る。
「また、あした」その言葉は言える状況にはない。
さくらちゃんが家の中に入って行くのを見届けると、私は辺りを再び見渡した。
あちこちをうろつく野獣たち。
決して、話して分かり合える相手ではない。
油断は禁物。
すでに真っ赤な血に染まり、所々に私に殴り飛ばされた野獣たちの肉片や毛髪がまとわりついているパイプを握る手に力を込めた。
そこから私の家までの道のりもひどいものだった。
でも、守るべきさくらちゃんがいないと言う事と、この状況にもかなり慣れてきた事から、野獣たちを観察する余裕もできてきた。
止まった車の中で出る事もできない様子を見ていると、ガラスと言うものも理解できていないようである。
あちこちで起きている車の事故も、運転中に運転の知識を失ったことで、車を操作できず、事故った。そんな風に思えてきた。
クラクションを自分で鳴らして、怯える姿を見ていると、そうとしか思えない。
人として生きる内に獲得して来たものを失っただけで、生き物として、そもそも持っている生存本能はもちろん、食欲に、性欲などはあるらしい。
性欲のまま、異性を見つける事はできるらしい。ただ、ボタンと言うものは理解できていないらしい。服は破いてはぎ取る。完全に野獣状態。
そして、食欲を満たす食料を見分ける能力は劣化しているらしい。いや、正確には自然界のレベルに戻っているらしく、包装された人工のお菓子とかは見向きもしない。葉っぱ系や、動く動物に襲い掛かっている。
この野獣たちは体は自由に動かせるらしいけど、これまで人としての人生の中で獲得してきた知識と言うものを失い、言葉も失っている。そんな感じだ。
「でも、どうして、突然こんなことに。
何が起きたの?」
そう思いながらも、その答えもヒントも街には無く、答えを得られないままだった。




