第2話 五里霧中(ごりむちゅう)
ひとまずこんな場所からは一刻も早く離れようと、三匹のネズミをポケットに入れて姫様と一緒に神殿の外へ出る。
いつの間にか外の森には薄い霧が立ち込めていた。
肌にへばりつくじめっとした空気が、密生した薄暗い森と背後の朽ちた小神殿と相まり、より一層得体のしれない雰囲気を醸し出している。
今日はホントにツイてないな……。
姫様と二人、互いを見失わないように並んで霧の中を歩きだした。順調に歩みを進められたのは最初だけだった。道を進むにつれ、霧は少しずつ濃くなっていく。
遠く森の奥を霞ませていた霧は数メートル先もぼやけるほどに密度を増し、さらにはお互いがぎりぎり見える程度にまで濃くなった。
このまま進むのはさすがにまずいか……?
この場にいるのは子供だけ。教師たち大人もここにはいない。遭難の二文字が頭を過ったが、それでもあの神殿にだけは戻りたくなかった。たとえ、屋根と壁のある場所で霧が晴れるのを待つのが最善の策だとしても。
どうすればいいんだろう。二の足を踏んで姫様と顔を見合わせる。
次の瞬間、突如霧を割いて何かが飛びかかってきた。
咄嗟に半身を返して攻撃を避けつつ、腰を落として短剣を構える。
こんな時に魔物に出くわすなんて!
姫様を背後に庇いつつ魔物を観察する。見たこともない姿の魔物だ。森にこんな危険な生き物がいるなんて、今まで一度だって聞いたことがない。
激しい動きにチューチューと苦言を呈するポケットの中のネズミたちを無視して短剣を振るう。数度の斬り合いでなんとか魔物を退けると、不思議なことに霧が薄れていった。
目の前の危険を回避はしたが、いつまた魔物が現れるかわからない。
何も起こらないことを祈りつつ先を急ぐ。けれど薄まった霧は少しずつ視界をぼかしていき、願いも虚しく、再び濃霧が道を閉ざした。
霧から現れる魔物と戦っては退け、霧が薄まり、また濃くなっては魔物が飛び出す。戦闘を繰り返しているうちに道を外れ、足元は舗装された道から草と土へと変わる。足場が悪くなっても魔物の手が休まることはなく、立ち止まることもできない。
何度目かの交戦を経たところで、短剣を振り切った勢いで足元がふらついて地面に手をつく。すぐに立ち上がろうとしたが、なぜか立つことができない。どういうことかと周りを見ようとしたのに首も動かせず、さらには正面を見ることもできない。自分の左右が同時に見える奇妙な視野に気持ちが悪くなる。
少し遅れて、三匹のネズミが上からぽてんと降ってきた。妙に大きなネズミを前にして内心で首をひねった直後、瞳に反射した自分の姿を見て驚愕する。
な、なんだこれ!? カエルになってる!?
飛び跳ねてみたりぐるぐると回ってみたりしたが何も変わらない。今日は本当に厄日だ。
困惑した様子の姫様にネズミたちと一緒に拾い上げられたが、さすがに四匹で手のひらは狭かった。ぎゅうぎゅうと押し合い一匹のネズミが落ちそうになったところで、ネズミたちは姫様の鞄へ、自分は手に乗せられて運ばれていく。
木々の間から森の外が見えたのはそれから間もなくのことだった。どこを進んでいるのかわからなくなっていたが、きちんと外へ近づけていたようだ。
森を抜けてみれば、出たのは学校の前ではなかった。
何度も何度も踏みしめ固められた茶色い地面の先には谷。大陸を縦断するかのような深く広い谷には長い長い吊り橋がかけられ、傍には吊り橋を見張る管理塔が建っている。管理塔は見張りも兼ねており、吊り橋のずっと先、谷の向こうでうっすらと霧に包まれている壮麗な城の守備に一役買っている。
見慣れたこの国の風景。雄渾な自然と優美な城が一望できると、百景にも選ばれた景色。
それが今や陰惨な空気に満ちていた。
管理塔の脇に無造作に積み上げられていたのはドレスやタキシード、お仕着せといったお城の関係者たちの持ち物。どれもが無残に切り刻まれ血に塗れている。
異様な光景に唖然としていると、また霧が濃くなってきた。すわ魔物かと身構えるものの、カエルの姿で一体何ができるというのだろう。すべてを姫様に任せることしかできないなんて。
姫様の手のひらに乗せられたまま一面を染め上げる白を睨んでいると、霧の向こうから誰かの声を聞いた気がした。
魔物が飛び出してくることもなく霧が晴れていく。
ぼんやりと見えてくる遠くのお城を視界に収め、ふと違和感に気がつく。
目線が……高い?
足元を見下ろせば自分の二本足で地面に立っていた。人間に戻れたと喜んだ直後、急に大きくなった反動からかふらつく。こけないようにと手を伸ばしかけたところで周りが大きくなっていくのが見え、いや、自分が縮んでいっている!
自分はどうやら、不規則に人間の姿とカエルの姿とを行き来するようになってしまったようだ。
ぬか喜びにため息をつきつつ、ぴょんぴょんと飛び跳ねて移動する。いつ人の姿になるかも分からないのに、姫様に運んでもらうことなどできない。
しばらくするとまた人の姿に変わり、そのタイミングで姫様に謎の声について尋ねてみた。しかし姫様は声を聞いていないという。
耳の奥に残る不思議な声が幻だったとはとても思えないのに。あの声は一体なんだったんだ。
それから姫様と相談して近くの街へと向かうことにした。学校があるのは森の反対側だ。お城側に来てしまった以上、もう一度森を抜ける気にはとてもなれない。
到着してみると、街には普段なら見かけない武装した兵士が巡回しており、物々しい雰囲気に包まれていた。お昼時の賑わう時間帯だと言うのに人の気配もほとんどなく、嫌な静けさに支配されている。
姫様は物騒な街の空気に不安そうにしていたが、自分は別の意味で冷や汗をかいていた。こちらは子供だというのに、たまにあるのだ。
職質に合いませんように……。
幸いなことに兵士に見咎められることもカエルに変わる瞬間を見つかることもなく、無事に街の中央にある噴水広場が見えてきた。着いてみると、こちらに気づいた中年女性が一人歩み寄ってくる。どうやら姫様の親戚のおばさんらしい。
二人は軽い抱擁で挨拶をしてから少しだけ話をした。
「どうしたの?」
「お城で異常が起きているみたいなんだけどねぇ」
「城で?」
「この変な霧が出てから兵士が来たんだよ。そのくせ説明の一つもない。まったく、突然でなにがどうなってるんだか」
姫様と顔を見合わせる。異常の原因はお城にあるようだ。
重要な情報が一つわかったところで、ひとまず街を離れることにする。いつ自分の姿が変わるかもわからない。兵士から無用な疑いを買う前に吊り橋の前まで戻ることにした。
お城の様子を窺いに行くかは後で考えればいい。
途中で人間に戻りつつ吊り橋に着いてみると、そこには今いるはずのない人々がいた。執事、料理人、乳母といったお城の関係者たち。ドレスを着ているのは姫様の義姉らしい。
初対面だというのに妙に見覚えがあるのは管理塔の傍に積み上がっている切り刻まれた衣服か理由だろう。血痕こそないものの、どの服も見覚えのあるデザインをしている。
口元に手を当てて悲鳴をのみ込んだ姫様の隣で、自分も顔を顰めた。
吊り橋前でぼんやりと突っ立っている誰も彼もが、到底正気とは思えない虚ろな表情を浮かべていた。生気を感じられない様子はまるで亡霊だ。
どこを見ているかも定かではない人々は、姫様と自分を認めた途端にのっそりと襲いかかってきた。
五人の中でまともに戦えるのは自分だけ。そう意気込むも、短剣を振り下ろそうとしてカエルになり攻撃を避けようとして人になりと、完全にカエル化に翻弄されていた。
姫様は採取用ナイフを持ってはいても温室育ちゆえに戦闘経験などない。逃げに徹する感じだが、それすらいつまで体力が持つか。三匹のネズミたちは亡霊もどきたちの足に齧りついて逃げる姫様をサポートし、意外なほどに善戦している。ネズミにしては、という但し書きはつくが。
結論、この戦局をどうにかできるのは自分だけなのだ。だから頑張らなければならないのに。
なのに、振り返ったすぐ目の前には迫り来る刃がある。
もう駄目なのかよ……!!
痛みを覚悟し短剣を握る手に力を込めた瞬間、自分と敵との間に青と白がうねり混ざり合う奇妙な霧が展開した。なんだこれ、と思う間もなく、踏ん張ることもできずに渦巻く霧へと吸い込まれていった。




