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番外編③(終) それからの夏のこと


 夏の冒険というのは、いついかなるときでも始まり得る。

 たとえば、お偉い貴族の家の中でも。



 ひとりの少女が、ひっそりと部屋の扉を開け放つ。

 これから冒険に出るんだから、家庭教師に出された宿題なんてやらなくたっていいはずなのに、生真面目な彼女はそれをすっかり終えて、ノートもペンも机の上。


 置き去りにして、そっと扉を開いている。

 外の世界に、続く扉を。


 といって、それはそんなに大したことでもない。

 貴族と言っても、所詮はまだまだ年端もいかない子どもだから。いきなり外に、なんてことはない。窓から靴を持って飛び出して、なんてこともない。ただ普通に、本当だったら先生が来るのを大人しく待つはずの時間に、廊下に出てみただけ。誰がすれ違っても、気にも留めない。本人だけがドキドキ胸を高鳴らせている、見方によってはちょっと損な時間。


 なのに彼女は、不思議と開いている扉を見つけてしまう。

 中を覗き込んでも、誰の姿もなかった。閉め忘れだろうか。几帳面な彼女は少しだけ、部屋の中に踏み込んでみる。誰の姿もないことを確かめる。


 そして、大きな大きなカバンが、そこに口を開けているのを見つける。


 人によっては、それはこうも見えるかもしれない。

 自分を待っていた、と。




卍  卍  卍




「うわああぁぁ……」


 スランプに陥った芸術家ほど見苦しいものはない。

 実際、ミティリスは床につっぷしてうめき声だって上げたりしている。



 それは、ちょうどいい夏の出来事だった。

 ちょうどいい夏とは何かというと、朝と夜は窓を開けて寝ていればそれなりに涼しく、日中はやや暑く、川べりに足を浸していれば気分が良くなる。直射日光は激しいが木陰を歩けば風が爽やかで、セミは今年も無事にミンミンと鳴き、たまには雨も降るので畑のナスもピーマンもみずみずしく実っている。そんな感じの気候のことである。


 フェリアーモ領、という小さな子爵領がある。

 眩しい夏のまっただなか、とてものどかなその土地で、ミティリスは床を見つめていた。


「やる気が……出ない……」


 わざわざそんなことを言葉にしてしまうような有様で。


 ひとりきりの家の中だった。

 ミティリスはここしばらく――馬鹿騒ぎの後の一年くらいの間を――こうして一人暮らしの家で過ごしている。なぜそうなったのかは色々な経緯もあるが、特に今の状態に関係はない。それよりもっと関係のあるものが床に散らばっている。


 無数の楽譜が、真っ白な湖のように床を満たしている。

 窓から差し込む光が、その紙面に跳ね返って、天井にも湖を作っている。


 その湖面が揺れる。ミティリスがそのうちのひとつを掴んだ。首を上げた。音符を見た。じーっと見た。


 それから、呟いた。


「……飽きた」


 あー。

 どうでもいい溜息みたいな声にすら美しさを宿しつつ、ごろんと彼は寝返りを打った。


 こうなったのは、昨日今日のことではない。

 ここ三ヶ月くらいの集大成としての無気力だった。


 ミティリスは、かつて著名な聖歌隊に所属していた歌手であり、音楽家である。

 美声に加えて端麗な容姿。所属当時は花形と言って差し支えのない活躍をしていた。それがある出来事を切っ掛けに引退。そこからさらに紆余曲折あって、今は作曲の仕事をしている。


 それに、飽きた。


 始めたばかりのころは、それはもう楽しかった。前からやってみたかったのだ。自分の音楽センスをもっと試してみたかった。実際、その試しは相当上手くいった。すぐに話題になった。どんどん仕事を頼まれた。頼まれるがままに引き受けて、自分の考えた曲が、人に響いていくことが楽しかった。


 でも、飽きた。

 同じような曲ばかりだから。


 これが生活していくってことなんだろうか。天井を見つめながらミティリスは考える。依頼の手紙にはいつも「こんな感じで!」と過去作のタイトルが併記されている。「こんな感じで!」と言われたら「こんな感じに!」はできる。過去の自分にできたことなのだから、作り方はわかっている。けれど二曲三曲四曲五曲と積み重なっていくうちに思う。


 これ、何か作ってるか?

 新曲って呼べるか?


 こんな悩みを抱えるくらいなら「こんな感じで!」に「嫌です!」「これでも食らえ!」と全く違うものを叩きつけてしまえばいいはずなのだが、それがミティリスにはできない。だって、期待されたものを期待されたとおりに出すのが仕事だという気がするから。リンゴくださいと言われてオレンジを出してくる店は長続きしない。というか単に、お客が可哀想になる。そう思うから「こんな感じに!」してしまう。好きなことを仕事にするってこんな感じなんだろうな、他の作曲家もみんなこんな感じなんだろうな、じゃあまあ仕方ないよな。そんな風に思って、ここしばらくを過ごしてきた。


 そうしたら、ふっとすべてのやる気がなくなった。


 今は、夏に身を任せている。


 みーんみーん。セミは元気だなあ。セミも飽きないのかな新曲とか作らなくて。飽きないか。ちょっとずつアレンジが違うからな。それに一夏の曲だしな。私もそういう細かなテクニック部分や場所の限定性みたいなものに目を向けられればもっと気分も違うのかな。何か建設的なことをしたいな。でもできないな。それにしても暑い。夏だから。あっついあっつい。さっきからずっと暑い。


 窓開けよ。

 どうせ、何を演奏するわけでもないんだし。


 よいしょと立ち上がってかららと窓を引くと、すっかり夕暮れだった。

 籠っていた空気が、一気に部屋の外に出ていく。入れ替わるように、焼けた陽の匂いがミティリスの鼻腔に届く。二羽の鳥が、橙色の空を横切って森に帰っていくのを見た。もうすぐ一日が終わる。


 それにしても、何もしていない一日だった。

 何かしなきゃと思っているうちに、過ぎ去っただけの。


 まあいいか、と思う一方で、ミティリスは若者特有のあの感覚に苛まれもする。


 こうして、私の人生は終わっていくんだろうか。


「……ん?」


 そのとき、ふと耳に届いた。

 彼の聴覚は、それだけやる気をなくしても鋭敏なままだった。すごく遠いところで落ちた針の音だって聞き分けられるかもしれない。小さな子爵領の隅。農作業以外の音が、遠くで響くのを彼は捉えた。


 そして、遠くにあったはずのものが、二秒後、目の前に現れた。



「あ、」

「うわーっ!!!!」


 交通事故みたいなことが起こった。



 まあ、ないでもない。荷車を引く馬が大暴走して人に突っ込んで来てドカーン! いや~この馬にも困ったもんですなタハハひひーんみたいなことは、この子爵領でも起こらないではない。街道に出れば、なくもない。


 ただ、人が突っ込んできたのは初めてだった。

 咄嗟に身を引いたミティリスの横、窓から凄まじい勢いで人が飛び込んできた。


 ガシャン、パリーン!!!!


「…………」

「…………」


 ごろごろごろ……。

 ぴたり、とその飛び込んできた人は床の上で静止する。


 驚くべきことに、ミティリスはその人物に心当たりがある。

 むくっ、と彼は起き上がって、


「勢い余った」

「余り過ぎですよ!」


 何の問題もないと言わんばかりの仕草で立ち上がる。黒く長い髪を結んだ彼は、本当に驚くべきことに、ガラスに突っ込んでおいて怪我のひとつもない。きょろきょろと室内を見回すと、


「すまない。箒はどこだろう」


 なんて、今更過ぎるというかちょっとズレた気遣いだって口にする。

 はあ、とミティリスは頭を抱えて溜息を吐く。口角だけは、けれど少し上がっている。


「大丈夫ですから、座っていてください」


 シオくん、と。

 友人の名前を呼びながら。




卍  卍  卍




 ミティリスは、かつて歌手であり、今は作曲家であり、その間に忍者であったこともある。


 忍者。

 もう一度言うと、彼は忍者だったことがある。


 といって、それは原義の通り「東洋の国で主君に仕える隠密だった」とか、あるいは文字通り「人生の苦難にめっちゃ耐え忍んでた」とか、そういうことを意味するわけではない。話すと長くなってしまうから簡単にまとめると、世の中にはたくさんの貴重な宝石が取れる不思議な洞窟があり、そこを探索する者を冒険者と呼び、その中でも特に気配を消して歩き回ることを得意とした人間を忍者と呼ぶ。


 そう、ミティリスはかつて忍者であり、つまり冒険者だった。

 ほんの短い二ヶ月の間のこと――けれど、仲間だっていた。



「相変わらず暴れん坊ですね、シオくんは……」

「いや、こんなつもりではなかったんだが」


 その中のひとりが、この窓ガラスが破れていること以外は非常に落ち着いた家で、ゆったりと座って洗面器みたいなサイズのティーカップでお茶を飲んでいる青年、シオだった。


 まるで大酒飲みが樽から直接飲むようなやり方で、シオはカップを傾ける。傾け終えると、うむ、と頷いて、


「果実の匂いが豊潤で、良いお茶だと思う」

「生産者に伝えておきますよ。喜ぶと思います。……って、そうじゃなくて」


 彼のペースに巻き込まれそうになったミティリスは、気を取り直して、


「どうしたんですか。急に人の家の窓を破って」

「良い景色だと思って走っていたら、つい夢中になり、ブレーキをかけるのを忘れた」

「いや、そっちじゃなくて」


 そっちも気になってはいましたけど。

 そう言いつつ、相変わらずだなこの子は、と呆れるやら懐かしくなるやら。ミティリスは少し笑って、


「どうして私の家に――あれ、」


 それから、ふと気が付いた。

 シオは、身ひとつでこの場所まで来たわけではなかった。窓を破ったとき、それからガラスを片付けたり窓を埋めたりしているとき、彼が抱えていたものが、そして今は床の上に置かれているものがあった。


 大きなカバン。

 それには、ミティリスにとって見覚えのあるマークがついている。


「郵便?」

「始めてみた」


 郵便配達人の印だ。

 彼らの住む王国には、郵便のネットワークが存在している。元締めは商人ギルドで、多種多様な移動方法を持つ人々が、ギルドからの許可を得て配達人としての仕事に取り組んでいる。


 ちなみに多種多様な移動方法とは、たとえば馬であったり、船であったり、魔法であったり――


「仕事をしながらいっぱい走れて、色んなところでご飯も食べられる。今のところ、すごく楽しい仕事だ」


 あるいは、普通に走ってみたり。


 ああ、とミティリスは頷く。言ってましたもんね。そんな相槌を打つ。


「順調なようで何よりです。シオくんの足なら、速達の仕事が殺到しているのでは?」

「実際、そのとおりだ。この間、商人ギルドで『王国最速』の二つ名をつけてもらった」


 シオもまた、ミティリスと共に、かつては忍者だった。

 その職に相応しく、誰もが目を見張り、見張った目でも捉え切れないほどの俊足の持ち主である。好きなことは食べることと走ること。冒険者を引退して後は、こんな風にその両方を満たす仕事を見つけられたらしい。


「たとえばこの間――」


 それからそんな風に彼が語り始めたのは、何と冒険者時代にも負けず劣らず胸躍るような、ハラハラドキドキの大事件だった。


 曰く、火事の現場から逃げ遅れた生存者を家族の下まで配達せよ。曰く、廃館の決まった魔法図書館から逃げ出した数多の魔法書を全て捕まえ、王都の新図書館に配達せよ。曰く、名怪盗からの盗難予告を受けた国宝を、決して奪われることなく隣国の姫の下まで護送して、友好条約を見事締結してみせよ。


「それから先日は、どうしても出張先から子どもの誕生日のうちに帰りたいという中年男性を背負って山をふたつ――どうした?」

「……いえ、相変わらずだなあと思って」


 ミティリスは、思わず微笑んでいた。

 変わらない友人の近況に……それと引き比べての、自分の現状に。


 シオは、一度首を傾げた。

 何か表情から伝わるものがあったのかもしれない。彼はそこで、ふと話題を変えて、


「そう言うミティリスは、どうなんだ。確か作曲家の――」


 訊ねてから、窓を見た。

 すっかりガラスの割れた場所に、何枚も補修のために貼られた紙。その紙の表面に躍る音符。


 楽譜。


「――仕事を邪魔して、すまない」


 真面目な顔のまま、妙にしょげ返ったような雰囲気で言うから、ミティリスは笑ってしまった。


「いえ。いいんですよ。どうせ上手く形にならなかったものですから」

「割っているのか。楽器を」

「陶芸家みたいに? あはは、違う違う。オズウェンじゃないんですから。普通に依頼を受けて、オーダーを汲んで曲を組み立てて、実際に演奏してみて――」


 してみて、と。

 言いながら、ミティリスはここ数日の自分の無進捗っぷりを思い出して、


「自分の至らなさとくだらなさに落ち込んで……」

「…………」


 ずもももも、と思い出したように沈んでいくミティリスに、シオは意外そうに目を丸めた。

 はぁああああ、と深い溜息をミティリスは吐き、シオの表情に気付き、「あ」と、


「ま、まあ。仕事で悩むなんて誰にでもある話ですから」


 と取り繕って、何か適切な話題の変え先はないかと、辺りを見回してみたりする。

 けれど自分の部屋にあるものなんて、見慣れ過ぎていて大して目に留まらないものだ。だから自然、ミティリスの視線は再びそこに吸い込まれる。


 配達人のカバン。


「そうだ。こっちに来たのは仕事ですか?」


 少しシオは間を開けた後、ああ、と頷く。


「この間まで仕事で王都に行っていた。ついでにそのとき、リーダーに会ってな」

「お嬢様に? 元気でしたか?」

「相変わらず元気そうだった。そのとき、最近は皆どうしているかという話になってな。僕もしばらく会っていないと言ったら、他の三人に渡す手紙を頼まれた」


 なるほど、と今度はミティリスが頷く。


「じゃ、近況確認のついでに来てくれたんですか。ありがとうございます。遠いところをわざわざ」

「気にするな。遠いところの方が楽しい。それで、どうする。もし返事を書くならアルマとオズウェンのところも周りながら僕が届けるが」

「ぜひ、と言いたいところですが……」


 まずはその手紙を読んでみないことには。

 笑ってミティリスが言えば、確かに、とシオは頷く。立ち上がる。床に置いた配達人のカバンを起こして、ジッパーに手をかける。


 じーっ、と開ける。




 中から、子どもが出てきた。




卍  卍  卍




「あ~ん、仕事漬けで肩が凝ってもうたわ~。副会長はん揉んで揉んで~」

「はい。私は新生徒会長様の忠実なるしもべ」

「あんま従順になられてもおもんないわ。もうちょっと嫌々従ってもろてええ?」

「めんどくさ、この後輩……」


 ところで、ミティリスの元にシオが届けた手紙の差出人。

 王都に住み、ミティリスからはお嬢様と呼ばれ、シオからはリーダーと呼ばれるその人物。しかしてその正体は。


「『めんどくさ』……!? ひ、酷い! 校則に従って死刑や!」


 よよよ、とわざとらしく泣きまねをして制服の袖を目元に当てるご令嬢。

 何を隠そう金に物を言わせて爵位を買い取りまくり、お家は侯爵家。ご本人は能力と地位の重ね合わせでとうとうこの夏、王都の名門、王立魔術学園で生徒会長の職に堂々着任。神算鬼謀。性格陰湿。表面方正。文武は文の一辺倒と名高い彼女、コン・コンクロール――


「いや……私はルールに縛られないから死刑とか『効かない』けど……」

「それはそれで秩序側の貴族としてどうなん?」


 ではなく。

 その横で肩を揉んだり堂々と規則無視を宣言している、この夏、生徒会書記から生徒会副会長に脅威の大出世。ミティリスの住むフェリアーモ子爵領のご令嬢、フェリシー・フェリアーモだった。


 彼女たちがいるのは、夕暮れの生徒会室だ。

 ここにもまた、ちょうどよい夏が来ている。昼の熱気が少し余韻を残して、けれど夜に向けて少し涼しい風が吹く。ひらりと机の上の書類が端を立てれば、オーライ、と球技に興じる学園生の声がグラウンドから響いてくる。


「疲れる理由、教えてあげましょうか?」


 フェリシーは生徒会副会長ながら、実は会長のコンよりも一学年上。

 どこか気安い様子で問い掛ければ、ん、とコンが顔を上げるから、


「――私以外の生徒会メンバーが、誰もいないからだよ!」


 率直な指摘を、彼女に献上した。


 狐が油揚げを顔に投げつけられたような顔を、コンはする。はあ。そう言って、生徒会室の中を見回す。


 ふたりだけ。

 他に、誰もいない。


「ほんまや」

「初めて見たよ。生徒会長になっておいて組閣に失敗してる人」


 呆れた顔でフェリシーが言うと、それに反比例するようにコンは上機嫌になって、ころころと笑う。


「しゃあないやん? だってうち、おもんない人と同じ部屋におるの耐え切らんわ」

「教室ではどうしてるの、それ」

「四六時中気絶しとる。毎日睡眠学習やね」


 はあ、とフェリシーはがっくりと肩を落として溜息を吐いた。


 フェリシーは、去年から生徒会に所属している。それほど身分の高くない家柄ながら、その能力を買われて当時の副会長に大抜擢をされたのだ。その一連の経緯は学園の中でも屈指のサクセスストーリーとして語り継がれて――は、いないが。それなりに身に余る地位に就いていると、少なくとも彼女自身は思っている。


 その任期はついこの間、切れたはずだった。

 生徒会長の退任に伴い、総辞職になったから。


 前生徒会長は何と王女様でもあらせられ、卒業も近付くのでこのあたりで、と引退になった。同じくフェリシーを抜擢した副会長も。そして次の生徒会長の座には金と地位に物を言わせてコン・コンクロール侯爵令嬢が着任。これはもう私も生徒会は完全引退か。そう思ったのも束の間。


 いつの間にか副会長になっていて、しかも、他にはまだ誰もスカウトされていない。


 どういう状況なんだ、と毎回この部屋に来るたびに思う。


「前の生徒会のメンバーに私、声かけてこようか? 忙しそうだし、なかなか捕まらなそうだけど」

「そんなん嫌やわ。前の会長はんのお下がりなんか使うてたら、新しさも何もないやん」

「私は?」

「先輩は別♡」

「…………」


 そして、なぜかやたらと気に入られている。

 ところでフェリシーは、つい先日までこの異様に自分を気に入っている後輩に莫大な借金をしていた。身の危険を感じないでもない日々である。


「ま、ええやん。のんびりで」


 言いながら、のペーっとした仕草でコンは机に突っ伏した。


「今んとこふたりだけでもよう回っとるし」

「すぐ忙しくなるよ。秋には文化祭も控えてるし」

「でも先輩がまたとんでもないスケジュール押し付けられて大慌てしてるとこ、うち見たいわぁ」

「…………」


 冗談冗談、とコンは笑う。

 笑いながら、窓の外にふと遠い目をやって、まあでも、と。


「もうちょっとくらいのんびりしたってええやん。今、夏休みなんやから」


 橙色の陽が、生徒会室に差し込んでいた。

 傾いた日は、長い影を作る。特に長いのは、そうしてコンの後ろに立っているフェリシー。そしてもうひとつ、この生徒会室に長く置かれている書棚。経理や会議の記録はぴっちりとその棚の中に詰まって、何十年も前から、ここでこうして生徒たちが集まっていたことを伝えている。


 ふう、と諦めたようにフェリシーは溜息を吐く。


「……だね」

 それから、少し笑った。


「今日、この後どっか行く?」


 ぽん、とコンの背中を叩いてみる。すると彼女は振り返って、待ってましたとばかりに、


「うちな、この間面白そうなお店見つけててん」

「絶対変なとこでしょ……」

「そんなんちゃうて。聞いて? まず入口にエイみたいにのっぺりしたピンク色の犬がおって――」


 絶対うそ、と笑いながらフェリシーは部屋の片付けを始めてみる。一方、コンは生徒会長になってお姫様気分なのか、特にそれを手伝おうとはしない。お喋りに夢中のまま。嘘ちゃうよ。うち生まれてこの方嘘ついたことないもん。はいはい、と苦笑する。書類を手に持って、その背を机に置いて整える。


 とん、とん。




 どごーん!!!!!!!!!!




「公爵家騎士団だ! フェリシー・フェリアーモ子爵令嬢! 貴殿を誘拐の容疑で拘束する!」

「えっ」

「えぇっ!!??!?!」


 平穏は、まるで水に濡らした紙のように容易く破られた。

 あと、生徒会室のドアも破られた。


 どかどかと土足で、しかも凄まじい勢いで入ってきたのは、確かにどこからどう見ても騎士団だった。しかもフルアーマー。しかも十五人くらいいる。しかも全員フルアーマーですら覆い隠し切れないほど隆々とした筋骨を身に纏っている。


 そして、そのうちのひとりがこちらにずんずんと歩み寄ってくる。

 フェリシーに向かって、その手を伸ばしてくる。


「わっ」


 フェリシーは、びっくりした。

 びっくりしてつい、その手を取ってしまった。びっくりしてつい、身を翻してしまった。びっくりしてつい、その場から逃げ出そうとしてしまった。


 それが華麗な踏み込みとなった。

 一本背負い。


 がしゃーん。


 フルアーマーの騎士が、空を舞った。


「…………」

「…………」


 フェリシーは沈黙し、騎士団一同もまさか小娘が躊躇なく三階の窓から投げ飛ばしてくるとは思わなかったのだろう。同じく沈黙する。


 す、と一部始終を見ていたコンが、その手を上げた。

 上げて、人差し指できっちりフェリシーを指差した。


「学内に潜む殺人犯です。はよ連れてって」

「いやいやいやいや!」


「――待て! 貴様ら、何を先走っている!」


 そのとき、がらりと扉が開い――たりはしなかった。すでに壊れていたから。

 代わりに、大きな声がその場に響く。その声の主を、騎士団一同は知っていたらしい。背筋を正す。正されたおかげで、フェリシーもその声の主まで、はっきりと視線が通るようになる。


 というか、声だけでもわかっている。


「副会長……?」

「……それは、今は、お前の肩書きだろう」


 インガロット・イングレディオ。

 息荒く現れた彼は、何を隠そう前生徒会副会長――フェリシーを生徒会に抜擢したその人だったからだ。


 ああ、とコンが手を打つ。


「公爵家って、そういう」

「あの……すみません。さっきひとり、不慮の事故で」

「殺害してたで」

「殺してない! 殺してない!」


 はぁ、とインガロットは息を整えるついでと言わんばかりに溜息を吐く。


「どうしていつもいつも……いや、今回ばかりは悪いのはこちらだ。迷惑をかけた。申し訳ない」

「若、しかし――」

「しかしも何もあるか。非常事態とはいえ、王都の、しかも学園で性急な動きを取るなど――」


 そして珍しく、説教の対象が自分ではない。

 そのことに安堵するやら、肩透かしを食らうやら、わけがわからないやら。しばらくフェリシーは、呆然とその光景を見ている。後ろから音がする。振り返ると、フルアーマーの騎士が普通に壁を上って窓から現れる。この世の終わりのような顔をしてフェリシーが再会を果たすと、どうやらその騎士はゾンビではない。メットを被ったまま親指を立ててこう言う。受け身ッス! フェリシーは思う。受け身ってすごい。隣でコンが笑って言う。公爵家の騎士が小娘に投げ飛ばされたくらいでどうこうなるわけないやん。流石にフェリシーは手が出る。頭に手のひらでポコン。あいた、とコンが笑う。


「よかった。急に私の中に眠る戦闘の才が目覚めたとかじゃなくて……」

「いや、戦闘の才ありますよ。どうですか。卒業後はうちの騎士になるとか」

「あんた、フェリシー先輩のこと捕まえに来たんと違うん?」

「あっ、そうだ! 悪いが昨日の友は今日の敵、いざ尋常に――」

「やめんか!」


 いつ友達になったっけ……?とフェリシーが怪訝な顔をしていたら、勝手に尋常勝負モードになった騎士のこともインガロットが止めてくれる。それでようやく、フェリシーも状況に頭が追いついてきて、


「ええと」


 どうやっても追いつかない部分について、訊いてみることにした。


「どうしたんですか。一体――」

「妹が行方不明になった」


 思わずフェリシーは、「えぇっ!?」と大きな声を上げた。

 隣でコンも、「あらま」と口に手を当てている。


「それは、えーと……なんで私に?」

「証拠があるからッス!」


 受け身の騎士が横から声を上げる。


「しょ、証拠?」

「はい! お嬢様の足取りは途中まで『子ども安心魔術』のおかげで追えてたッス! その反応記録は途中で消えてしまったッスけど、その途絶のタイミングが――」


 何だかフェリシーは、猛烈に嫌な予感がし始めている。

 どうもこういうとき、嫌な予感が外れたためしがない気もする。



「フェリシー・フェリアーモ嬢、あなたが当家の邸宅に訪問した時間帯と完全に一致するッス!

 さ、キリキリ吐いてもらうッスよ!」




卍  卍  卍




 配達カバンの中に、子どもが入っていた。

 ミティリスは、完全に固まっている。


 パンの中にチーズが入っていたのとはわけが違う。ありうべからざる場所から、ありうべからざるものが出てきた。慣れ親しんだはずの我が家が、急に氷河の洞窟になったような得体の知れない寒気を覚えている。蝉の声がやけに鮮明に聞こえていて、夕日が血のように赤く、不吉に見える。


 シオもまた、じっとその子どもを見ている。

 ぐるぐると目を回して気絶しているらしい子どもを、じっと見つめている。


 それから、じーっ、とジッパーを締め直した。

 立ち上がって、


「ミティリス、誘拐は良くない」

「あなたですよ!?!??!?」


 急に責任を押し付けられたことで、ようやくミティリスは再起動を果たした。慌てて彼はカバンに駆け寄る。もう一度ジッパーを開ける。もう一度開けたら綺麗さっぱり消えてくれていないかなと思っていたけれど、残念ながらそんなことはなかった。ちゃんと入っている。子どもがひとり。


 炎天下、カバンの中にいつからいつまで入っていたのか。

 ぞっとして、


「シオくん! とにかくこの子の身体を冷やさなくては――!」

「カバンの中は常に適温だから、単に乗り物酔いをしているだけだと思う」

「えっ」

「リーダーに貰った」


 どんなカバンだよ、とミティリスが心の中で思ったのも束の間。


「う……」


 と、ミティリスが抱き起した小さな女の子は、確かにシオが言う通り、さして脱水や熱中症を起こした様子もなく目を覚まして、


「き……」

「き?」

「きぼぢわ゛る゛い……」


 まあ後は、酔っ払いの後始末みたいなことが起こる。




卍  卍  卍




「で、誰なんですか、あの子は……」


 服を着替えたり何だりして、ようやく一息。

 洗面所でミティリスは、こそこそとシオと話している。


 視線の先には、もちろんさっきの子どもがいた。

 洗面所のドアを少しだけ開ければ、リビングに座っている姿が見える。背の高い丸椅子に腰かけて、水を飲んでいる。水を飲み終えると、今度は横のオレンジジュースに手を出す。どうやら体調は本当にそれほど問題ないらしい。ほっとミティリスは息を吐く。


 のも束の間。

 その突然の、予定にない来客は、椅子に座れば床に足も着かないような子どもだった。


 シオは首を傾げて、


「心当たりがない」

「心当たりがないのが一番マズいんですよ……!」


 ミティリスは、頭を抱える。


「走っている間に気付かなかったんですか? 荷物が妙に重いなとか」

「いちいち荷物の重さを気にしていても仕方がないだろう。重い日もあれば軽い日もある。そういうものだ」

「途中で荷物を落としたらどうするんですか?」

「取りに戻る」


 それはそうだ、とうっかり納得してしまった。

 納得している場合ではない、とすぐに気が付いた。


「シオくんが知らないということは、あの子はどこから来たんですか?」

「わからないな。本人に訊いてみないことには」

「待った!」


 早速訊いてみよう、と動き出したシオの肩をミティリスは掴む。力負けしてほとんどぶら下がるように引きずられながら、


「よく見てください。あの子の服装諸々を」


 言えば、シオは言われたとおりによく見た。

 観察結果を、そのまま口にしてくれた。


「高そうな服を着ている」

「そうでしょう。ということは?」

「仲良くなると、お得」


 もちろん「下手なことをしたら厄介な事態に……」という話に繋げるつもりだったが、残念ながら繋がらなかった。引き留めむなしく、シオは洗面所から出てくる。


 びくっ、と女の子が肩を跳ね上げる。

 それを彼女は取り繕おうとして、けれどシオに引きずられてやってきたミティリスの姿を見て、もう一度びくっとする。


「な、なんだ?」

「君はどこの誰だ」


 シオは、真っ直ぐに訊いた。

 女の子は、んぐ、と口を噤んだ。いかにも「嫌なことを訊かれた」という顔をする。そっぽを向いて、オレンジジュースの続きに戻る。


「教えない」

「それでは困る」

「まあ待ってください。シオくん」


 そして、いざ始まってしまえばミティリスは腹を括った。

 ダメですよ、とシオを押しのけて前に出てくる。それから彼は、椅子の前で膝をつく。子どもと目線を合わせて、


「私はミティリスと言います。お嬢さん、あなたはどこのどなたですか?」


 にっこり笑いながら、問い掛ける。

 じろり、と彼女はミティリスを見る。冷たい目で。めげずに続ける。


「突然目が覚めたらこんなところにいて、あなたも戸惑っていることでしょう。でも、大丈夫です。お名前とご住所――どこに住んでいるかですね。それさえわかれば、こちらの腕利きの配達人さんが、あなたを家まで送り届けてくれますから」


 にこにこ笑って、そう告げる。

 実を言うとミティリスは、子どもの相手がそれほど苦手ではなかった。


 教会の合唱隊としての経験が豊富だからだ。訪問先で子どもと触れ合う機会は、いくらでもあった。あまり何かを強く意識してどうこうしたことはなかったけれど、『好かれる笑顔の作り方』くらいはわかっている。


 だから笑う。

 にこーっ。


「……どこの誰でもない。私はここにいない」

「…………」


 無意味だった。

 しかも、なんだかすごく強引な逃げ方をされた。


 ふうむ、とミティリスは息を吐いた。まあまあそんなこと言わずに……とさらに踏み込んでみてもいいけれど、何にせよ状況もわからないし、それなりに成熟した男性ふたりで小さな女の子を取り囲んで尋問というのも、どうも絵面が悪すぎる。


 振り返って、


「シオくん、この配達カバンを最後に開いたのはどこですか?」

「リーダーと会ったときだな」


 外堀から埋めてみることにした。


「王都に食料の配達をして、それからリーダーのところに立ち寄ろうと思ったんだ。学校に行ったらコンちゃんさんが『今日は夏休みだ』と教えてくれて……」

「くれて?」

「その後、王子様の家に行った」


 王子様、の言葉にミティリスは身を凍らせる。

 まさか……そう思ってから、すぐにハッと救われたような気持ちになる。シオが『王子様』と呼ぶ相手は、実は正真正銘の王子だけではない。彼は貴族関係の知識があやふやなので、お金を持っていそうな地位の高い人間のことは、割と誰でも王子様にしてしまう。


 行った先でフェリシーを見つけられるような『王子様』の家。


「インガロットさんの家ですか?」

「!」


 こくり、とシオが頷くのを待つまでもなかった。

 インガロット、の名前に少女の肩が跳ね上がる。当たりだ。ほ、とミティリスは安堵の息を吐く。どうやらこの子は、我らが知り合いであるインガロットのところで荷物に紛れ込んでしまったらしい。身元がわかれば安全だ。さあ話を進めよう。


「ではあなたは、イングレディオ家ゆかりの――」


 方だとすると、公爵家の縁者ということになる。

 公爵家は、ざっくり言って王家の次くらいに偉い。


 そのことに気付いて、もう一度ミティリスは固まる。

 一方少女は、往生際悪くぶすくれたまま、口を噤んでいる。




卍  卍  卍




「レミルちゃ……さんですか」


 馬車の中。

 名前を聞いたフェリシーは、何とか手錠をかけられずに済んでいる。


 正面には、もちろんインガロット・イングレディオがいた。ああ、と彼は頷く。隣には、コン・コンクロールがいた。なぜか「面白そうやん」「仲間外れにせんといて」とついてきた。最後まで「いや先輩には手錠かけた方がええで」と強硬な主張を貫いていて、フェリシーは果たしてこの後輩とこれから一年間やっていけるのか不安になってきていた。


「私は会ったことない……ですよね?」

「まあ、ないだろうな。お前が俺の家で勝手にうろちょろしていたタイミングで会っていなければ」

「あれは散策です」

「人の家を勝手に散策するな」


 人間には移動の自由があり、という話をフェリシーが始めようとしたところ「はいはい」とコンが扇子をふたりの間に差し込んで、


「仲良しなのはええけど、そんで妹はんが行方不明っちゅうのはどういうことなん?」


 話を戻してくれる。

 これ幸いとばかりにインガロットはその流れに乗って、


「さっきも言った通りだ。朝から姿が見えなくてな」

「王都の中の捜索はしはったん?」

「した。が、見つからない」


 それで痕跡を辿ってみたところ、


「その失踪の時間が、フェリシー。お前が我が家を訪ねた時間と一致している」

「フェリシー先輩はなんでイングレディオ家にいたん? 逢引?」

「それ私以外に言ったらまあまあ怒られるからね」


 違う違う、とフェリシーは手を振って、


「この間のほら、例のアレ。お金周りの話があったから」


 ああ、とコンも頷く。


「けど、先輩が誘拐したんやったら今頃、身代金の要求とかもっと派手な事態になってるんと違うん?」

「はい?」

「確かにその見方には一理ある」

「名誉棄損?」


 抗議の声もむなしく、


「だから俺は、そもそも誘拐の動機がないだろうと言ったんだ。が、状況証拠自体は揃っていたし、まだ妹も学園の入学前で幼い。騎士団も焦っていてな」


 悪かった、と頭を下げられるから、何も言えなくなる。


「いや謝るならさっきの名誉棄損を謝れや」


 わけでもない。


「私が誘拐してたらもう身代金の要求してるだろって偏見すぎるでしょ! こんなに清く正しく生きてるのに!」

「褒めてるんよ」

「褒め方独特すぎるだろ!」

「清く正しく生きている人間はあまり自分のことを清く正しく生きていると主張しない気がするが……」


 まあいい、とインガロットは言う。続けてこうも言う。俺も言葉が過ぎた。すまん。

 正論と言えば正論だったので、フェリシーもこのあたりでやめておくことにした。


「まあでも、確かに誘拐しておいて身代金の要求をしないっていうのは考えられませんね。およそ常識から外れています」

「どこの国のだ?」

「さっきインガロットはんが謝らされたのはなんだったん?」

「だって、公爵家のご令嬢を攫うっていうことは相当なリスクを伴うわけじゃないですか。大きなリスクを伴うことそれ自体に快感を覚えているなら別ですけど、普通はそれ相応のリターンを期待して行動に移してるわけですよ。だったら、何の要求もないっていうのは変ですし、そもそもリスクだって犯行声明をしっかり出した方が楽しめます。やはり、何かがおかしい」

「なんで急に誘拐犯の気持ちに寄り添い出したん?」

「待て、コン・コンクロール。ここから有益な情報が出てくるかもしれない」

「うちこの間、こないな演劇観たわ。囚人が罪を償う代わりに騎士になるやつ」

「となると……」


 散々な言われようだが、名探偵の推理は止まらない。

 ピン、と指を立ててフェリシーは言った。


「家出じゃないですか?」


 意表を突かれたような顔を、インガロットはした。


「家出……」

「小さい頃なら誰でもあるものじゃないですか? 私も海が見たくなって三歳ぐらいの頃に徒歩で三日くらい歩き通したことありますよ」

「何そのエピソード。親泣くで」

「確かに私を見つけたときは嬉し泣きしてた気がする」

「ええ親御さんやね。でも叱らんからこうなってもうたと思たら表裏一体や」

「ふたりにもあるでしょ? こういうエピソード」

「ない」

「ないわ。うち子どもの頃から箱入り娘で通ってんねん」


 箱入りとかそういう問題でもない気がするが、とインガロットは言いつつ、少しずつその目線が床の方に下がっていく。

 というわけでフェリシーは身体を折りたたみ、その顔を下から覗き込む。


「心当たりが?」

「……いや」


 口重く、彼は言う。


「妹は、それこそ品行方正でな。就学前から文武の研鑽も欠かさず、公爵家の生まれということを差し引いても、令嬢の鑑と言って差し支えがない」

「シスコンや」

「まあどう見てもシスコンそうだしね」

「だが……」


 だが?

 とフェリシーは首を傾げる。が、インガロットはその先を言わない。


「……いや、確証はない。少し考える時間が欲しい」

「うちこの間、こないな演劇観たわ。探偵より賢い眼鏡の兄さんが犯人にさっさと始末されるやつ」

「どう見てもそういう枠っぽいしね」

「貴様ら――っと」


 インガロットが立ち上がろうとしたとき、とうとう馬車が止まった。

 目の前にあるのは、イングレディオ公爵邸だ。イングレディオ公爵家は王都の外に大領地を持つが、王都の中にも巨大な別邸を持っている。フェリシーもこの間来たばかりではあるものの、やや気後れしつつ、何ならコンの背中に隠れるようにして降りていく。


「とにかく、一度現場を見てくれ」

 とインガロットは言った。


「フェリシー・フェリアーモ。お前が誘拐の実行犯とは思っていないが、今は手がかりがひとつでも欲しい。今日、ここにいたときの状況を思い出してくれないか」

「って言っても、そんなに特別なことはしてないですけど……」


 しかしそこまで言われては何もしないのも据わりが悪い。フェリシーは言われた通り、今日この家を訪問したときの行動を再現してみることにする。


「まず、門番の人に声をかけるじゃないですか。『友達なんですけど』って言って」

「先輩ってインガロットはんの家に行くとき『友達です』って行くんや」

「…………」

「で、そうしたら今は多忙で手が離せないって……ちなみに、何してたんですか?」

「今日は、元は午後から王宮で会合の予定があってな。朝になって予定変更の話があったものだから、少し確認に手間取っていた」

「ああ……。お疲れさまです。で、そうしたら副会ちょ……全然慣れないな。まあいいや。に、問い合わせたんですかね? 『とりあえず中で待っててください』ということで、入れてもらったんです」


 言いながら、まさに再現するように三人はイングレディオ家の中に入っていく。

 で、とフェリシーは、


「部屋に通されそうになったんですけど、部屋で待ってるのも暇なので『お構いなく』って屋敷の中を歩き回ってみることにしたんです」

「学校に侵入してきた犬?」

「いやでも……中で待っててって、中のどことは言われてないし」

「騎士団ってちゃんと仕事してるんやなあ」

「まあいい。それで、どのあたりを歩いていたんだ」


 別にどこってこともないですけど。

 そう言いつつ、フェリシーは冒険者をやっていた頃の名残だ。何だかんだと自分の足取りを覚えていて、ふたりを案内するように歩く。人の家で。


「肖像画とか飾ってないかな~とか。あとこのへん壁の装飾綺麗だな~とか」

「観光名所にされてんで」

「いや、別に鍵が掛かってないところだけだからね? ていうかそもそも、扉があったら勝手に入っては――」


 その足が止まる。

 あれ、と。それからフェリシーは、まさに扉に寄っていく。ドアノブを捻る。


 がちり。

 開かない。


「あれ?」

「なんだ、どうした」

「いや、ここの扉って、私が来たときには開いてたような……」


 振り向くと、インガロットは難しい顔をしている。


「……そこは、妹の部屋に通じるドアだ」

「えっ」

「ということは、フェリシーが来た段階ではすでに部屋から抜け出していたのか……?」


 そっからどないしたん、とコンが言うから、戸惑いもそのままにフェリシーは続ける。

 で、そこから、


「来客があったので、そこの部屋に入れてもらったんです」

「来客?」

「家を闊歩するだけじゃ飽き足らず、とうとう主人面までするようになったん?」

「違う違う。私がここにいるって聞いて……あ、ていうかコンちゃんも会ってるんじゃなかった?」


 首を傾げる彼女に、フェリシーは言う。

 副会長も知ってる人ですよ、とも。


「シオくん。長い黒髪の男の子」


 ああ、とふたりとも声を揃えた。


「確かに、学園にシオはん来はったわ。どこにおるかはわからんよて言うたんやんけど」

「……そうか。確かに報告があった。訪ねてきた配達人とは、彼のことか」


 そうそう、とフェリシーは頷いて、


「探し当ててくれたらしくて。で、まあどうせ待ってる間は暇だからっていうことでちょっとそこの部屋で喋らせてもらったんです」


 入ってみた部屋は、特にどうということもない。

 公爵家にいくつも存在する客間のひとつだ。


「それは何分くらいだ?」

「十五分くらいじゃないですか? 内容も久しぶりだね今何してるのみんなと会ってるのとか――」


 このときフェリシーは、「ん?」と思う。

 可能性が頭に浮かんできたから。


「……」「……」「……」


 そして、なぜか同時に他のふたりも、急に押し黙った。

 妙に頭の回転が速いのが三人揃ってしまったから、それぞれがそれぞれの心当たりを浮かべて、


「……シオはんって、うちが見たときは大っきなカバンを持っとってんけど、ここの荷物チェックってどないしてはるん?」

「……通常は、家の前での受け渡しだ。しかも客人の客人ということであれば、それほど徹底してはいない」

「……一応、お友達の弁護をしていいですか。シオくんは突然子どもの誘拐とかを企むタイプじゃない……とは思うんですけど」


 実は、と挙手してフェリシーは言う。


「途中で『他の人たちに手紙を書いて持ってってもらおうかな~』と思って、ふたりで紙とペンを借りに行ったんです。そのとき、その大っきなカバンはそのへんに置きっぱなしにしてて……」


 だからまあ、その。

 その中に何かが入れられたとしても、誰も気付けなくてですね。ちょうどこの部屋って開きっぱなしになっていた妹さんのお部屋のすぐ近くでですね。あと、そのカバンの大きさを見てもわかるように持ち主であるシオくんっていう子は大変な力持ちで子どもひとりくらいは羽根のように持ち上げられてしまうわけでしてね。


 それで、


「細かいことは気にしない、っていうか……」


 大体、居場所はわかった。




卍  卍  卍




 そして実際、家出といえば家出だった。

 少なくとも家出の張本人は、真っ暗になったフェリアーモ領のベッドで、ひとりそんなことを考えている。


 小さな身体には不釣り合いの、ひどく大きなベッドだ。ひとり暮らしの男の部屋だから……というわけでは、全然ない。そもそも彼女がいるのは、ミティリスの家でも何でもない。


「流石に私たちと同じ家に泊めるわけには……」


 というのが、彼の言。

 すると彼は、彼女が――レミル・イングレディオが泊まるための家を見つけてきた。フェリアーモ子爵邸。かくかくしかじか、の間にどの程度の事情を向こうに伝えたのかはわからないが、とりあえずのところレミルはそれなりの歓待を受け、一番豪華らしい客間で、一夜を明かすことになった。


 普段住んでいる公爵邸に比べれば、大したことはない部屋だ。

 それでも妙に心が落ち着いてしまうのは……どこか、小さな解放感を覚えていたからなのかもしれない。


 ダメでもともと、というより、そもそも成功するとも思っていなかった。

 ただ、ふと魔が差したのだ。


 あのとき、レミルが目の前にしたのは大きなカバンだった。

 誰かの持ち物だろう。そう思ってはいた。公爵家のものではないような気がしたのは、そのカバンに見覚えがなかったからだけれど、これだけ堂々と置いてあるのだ。少なくとも自分の家と縁深い者の持ち物であることは間違いないはず。


 そういう安心も手伝って、ふと気付けば、そのカバンの中に足を入れていた。


 すっぽりと嵌まる。

 自分がこれほどちっ




ぽけなものだとは、実のところレミルは、思っていなかった。


 後はどうということはない。ただ、流れに身を任せていただけだ。


 穏やかで小規模な旅になると思ったのが、一瞬のうちに王都を出てしまったのは全くの誤算だった。フェリアーモ子爵家というのは、記憶の片隅に残っている。王国貴族名鑑の、ひどく後ろの方に載っていた名前。馬に乗ったって相当な時間のかかる片田舎で、だから本当のところ、レミルはまだこの場所が本当にフェリアーモ領なのかを疑っている。自分をもの知らずの子どもと侮って、嘘を吹き込んできているのではないかと身構えている。


 だから、ベッドを降りてカーテンを開く。

 それだけで、その疑問が消えていく。


 満天の星空だった。


 どうしてこれだけ星がはっきり見えるのか、レミルにはわかる。目の問題だ。王都は夜遅くになってもいくつもの明かりが点いている。その明かりが夜空を照らしてしまうものだから、淡い星の光は簡単に消えてしまって、地上に届かなくなる。対してここでは人工の明かりが少ないから――そういう理屈は、もちろんわかる。


 目の前にすると、理屈ではなくなる。


 綺麗だった。


 レミルは、わかっている。自分が他人に迷惑をかけていることを。今頃公爵家では大騒ぎだろう。自分の介抱をしてくれたあの男――ミティリスと名乗った――だって、あれだけ顔色を悪くする理由は十分にある。フェリアーモ子爵夫妻は、状況の悪さがわかっているのかいないのか、どこにでもいる子どもを労わるように、何なら幼いレミルの目から見ても「この人たちはこれで世の中を上手く渡っていけているのだろうか?」と不安になるくらい優しくしてくれたけれど、そのふたりにだって、これから面倒を背負い込ませてしまうことは想像に難くない。


 優れた貴族であれば、こんなことはしない。

 お兄様なら、こんな我儘も無茶も、決してしない。


 でも――


「…………」


 小さな手でレミルは、カーテンの裾を握り込む。

 目の前の星空を見つめながら、誰の声も聞こえないこの静かな場所で、ほんの少しの安らぎに身を浸しながら、誰にも聞こえない言葉を零す。


「帰りたくないな……」




卍  卍  卍




「さ、帰りましょうか。レミル様」


 そうは言っても、いつの間にか来てしまうのが次の日の朝というもので。

 朝から早速、ミティリスはフェリアーモ子爵邸に迎えに来ていた。


 名前は必死になって思い出した。イングレディオ家はかなりの大きさの……というか国内でも王家に匹敵するほどの大貴族だ。聖歌隊に所属していた頃に、何度か見かけたこともある。確か……と一晩中記憶を探ってみれば、それらしい名前も出てきた。


 そして目の前の少女は、明らかにその名が出てきたことに驚いていた。


「……私は、レミルではない」


 その上、そんなことまで言った。

 もう、自白みたいなものだ。


「それならそれでも結構ですよ」


 機嫌を損ねて厄介なことにならないよう、ミティリスはあえて追及をしなかった。

 代わりに、でも、と続ける。


「あなたくらいの年の子を保護者の方のところまで送り届けるのは大人としての義務ですからね。シオくんが最後にカバンを開けたのは王都でのことですから、ひとまずあなたには王都までついてきてもらいます」


 いいですね、と言えばレミルもそれ以上は強情を貫こうとはしなかった。


 むしろ、ミティリスの方が拍子抜けしてしまったくらいだ。昨日の夜はベッドで考えていたのだ。明日はどうやって説得しよう。力尽くってわけにもいかないよな。かと言って地位を盾にして来られたらこっちとしては形勢がかなり悪い。送り届けた先であることないこと言われたらどうしよう。あることを言われただけでもこっちは誘拐犯みたいなもので、圧倒的に不利なのに。


 投獄されてからどう脱獄しよう、なんてことまで考えていた。

 完全にあの時期の、妙な冒険が自分の思考に悪影響を及ぼしているとも思った。


 だから拍子抜けする一方で、強い安堵の気持ちもある。何だかんだと言って公爵家の令嬢だ。あのインガロット・イングレディオの妹だ。言動から察するに彼女は自分でシオのカバンに入り込んだようだけれど、バツの悪そうなその横顔を見れば、自分の現状がどれだけ人を慌てさせているかに満更心当たりがないわけでもないらしい。


 分別がある、とまでは流石に言わないけれど、しかし説得が通じない相手でもなさそうだ。そうミティリスは結論づける。気が変わらないうちに話を進めてしまおうと、隣のシオに呼び掛ける。うむ、と彼が頷く。踵を返して、例のものを引っ張り出してきてくれる。


 そのとき、けれどふと、ミティリスは考えてしまう。



 でも。

 この子、何かやりたいことがあってここまで来たわけじゃないのかな。



「――しかし、折角なのだからどこかに寄ってから帰るというのはどうかな」

「へ」


 そうしたら、全く予想していないところからその提案はやってきた。


 もちろんミティリスではない。大本命のレミルでもない。シオですらない。


「折角ほら……なあ?」


 フェリアーモ子爵。

 フェリシー・フェリアーモの父が、大して中身もない言葉で、夫人に呼び掛けている。


「え、いや、え?」

「そうねえ。お嬢さんも折角の旅行だったのに、一泊二日ですぐにおうちに帰るんじゃあねえ」


 目を白黒させているのは、ミティリスだけではなかった。

 レミルもだ。彼女は子爵夫妻を見上げて「こいつらは何を言っているんだ?」という顔をしている。ミティリスも全く同感だったけれど、その顔を見てシンパシーを覚えるより先に、激しい動揺を覚える。レミルがこの話にぽかーんとした表情を浮かべているということは、これはたとえば、昨晩のうちに根回しが済んだとかそういうことではないのだ。


 ただ、子爵夫妻が心から言い出しただけなのだ。

 一泊二日じゃちょっとあれだし、折角だからどこかに寄ってから帰ったら、と。


 本当に正直なところを言う。

 ミティリスは、「この親にしてあの子あり」と思った。


「親御さんもね。あのー……ね? 私たちも知らないわけじゃない人……かもしれないし」

「そうだな。まあその……私たちもほら、貴族だし。うん、うん。顔もまあ、利くかもしれないし」


 ふにゃふにゃと曖昧な言葉を、やたらに夫妻は口にし続ける。


「ね。ついて行ってくれるおふたりも、ほら。私たちも信頼しているお相手ですし」

「うむ。私の方から先方にはよく言っておく……にしても。どんな手紙もシオくんが直接このお嬢さんを届ける方が早くなるだろうしな」


 シオはこれから待ち受ける事態の深刻さがわかっているのかいないのか、「任せてくれ」なんて言ってぐっと拳を握ったりしている。

 ずっとついていけていないのは、ミティリスとレミルのふたり。このあたりでようやく、じわ~っとしたシンパシーがミティリスにも湧いてくる。


「どうだい。一ヶ所くらいならまあ、どうとでもなると思うんだが。お嬢さんはどこか行きたいところはあるかな」


 子爵が訊く。

 レミルは、しかしこのとき決定権を持つ人間を子爵ではなく、恐れ多くもミティリスと定めてくれたらしい。すぐには答えない。代わりに彼女は、こっちを見た。見上げてきた。


 その瞳の奥に、ミティリスはうっすらとしたきらめきを感じ取ってしまった。


「……どこかあります? 行きたいところ」

「……いいの?」


 はっきり言う。

 全っ然ダメだ。


 いいわけがない。公爵家のご令嬢が行方不明で、社会的な信用が著しく高いとも言えない二人組の男性がその護送係で。その途中でどこかに旅行みたいに寄っていくなんて。自分たちどころか、子爵家だって多分、責任を取れない。来週にはここの領主が変わっていたって、全然おかしくない。


 絶対ダメだ。


「……ここから王都に行くルートは、いくつかあるので」


 絶対本当は、ダメなんですけど、


「そのルートを、あなたが選ぶくらいなら……」


 レミルは、とうとう瞳のきらめきを隠し切れずにいる。

 ミティリスは、すでに後悔を始めている。


「じゃあ、」


 海に行きたい、と彼女は言った。




卍  卍  卍




「お泊りと言ったら――」


 とコンが振りかぶって、


「枕投げや!」

「……」

「きゃんっ」

「弱すぎる……」


 フェリシーが投げ返し、勝敗が決まる。

 ミティリスたちが目覚めるより前の夜のことだ。


 次の日を待たずに、一行は王都の外に出た。中にいるなら公爵家でしらみつぶしにすれば見つかるだろうけれど、外ともなると流石にそうはいかない。となれば中のことは騎士団に任せて、自分たちは心当たりに向かってみよう。というわけでインガロットがまず向かう。どうも自分にも責任の一端があるような気がして――あのカバンに魔術遮断作用をつけて『子ども安心魔術』が途絶える原因を作ったのは実は自分だということを今のところ胸に秘めている――フェリシーもついていく。「仲間外れにせんといて」とコンまでついてくる。


 とはいえ、公爵家の嫡男が乗っている馬車が夜通し移動し続けるというのも少し危ういものがある。

 というわけで夜更け、ある宿場町で馬車は泊まり、一夜を明かすことになった。


「ていうか、コンちゃんまでついてきちゃって大丈夫?」

「何が?」

「仕事」

「先輩、自分だけ旅行に行ってうちに仕事全部押し付けるつもりやったん?」

「うん」

「あかん。苦しむときは一緒や」


 まあ最悪インガロット元副会長も引っ張り込んで仕事をやらせればいいか、とフェリシーは思う。何だかんだ号泣したらやってくれそうな気がする。押しに弱いし。


 はーあ、と一方そんな算段がついているわけでもないはずのコンは、やたらに満足げにベッドに飛び込んだ。ぐえっ、と声を上げて、


「固っ。何このベッド」

「うそ、そんな? ……普通じゃん」

「嘘ぉ。うちこんな固いベッドで寝たことあらへんよ」

「あんまり柔らかいとそれはそれで疲れない?」

「床で寝る人の言うことって全然当てにならんわ」

「あれは寝てるんじゃなくて気絶してるだけだから」


 そこからコンの糾弾が始まる。大抵のことは許しているけれど先輩のあの謎の実験室はまず存在しているのがマズい。あれは法的に大丈夫なものなのか。そもそも一体誰のコネを使ってあんなものを拵えたのか。まさか自作なのか。あんなものが自作できるならなぜいまだに学園を飛び級で卒業していないのか。というかあれは建造物等損壊罪に問われないのか。フェリシーは口笛を吹いて誤魔化し、誤魔化し切るためにもとコンに背を向け、わざとらしく窓の方を見る。


「あ」

 窓の外に見つける。


 どないしたん、と訊ねてくるコンに手招きをする。一緒に覗き込む。部屋の外。真っ暗闇の中。三階の窓から見下ろした先に、ひとりうなだれている人がいる。


 うわ、とコンは、


「絶対あないに深刻ぶることちゃうで。先輩絡みの話って全部笑い話で終わりやもん」

「どんなイメージ?」

「だって連れてったとしてシオはんやろ? あの子、全然邪気ないし」


 心配するだけ損や、と大胆にも言い切った後、くぁ、とコンは小さく狐のようなあくびをして、


「うち、先寝るわ。はしゃぎ疲れてもうた」

「あ、うん」

「外出るなら戸締りだけちゃんとしてってー。乙女の寝る部屋やから」


 それだけ言って、歯磨きのために洗面所に引っ込んで行ってしまう。


 まあ、とフェリシーは思う。

 行ってやらんでもないか。




卍  卍  卍




「よ」


 なーに落ち込んでんですか。

 そう言って軽く背中を叩いてみようとしたら、「よ」の一言でうっかりインガロットが頭を上げてしまい、フェリシーの手は全く予想外のところに伸びていった。


 頭。

 ぱこーん。


「…………」

「――うそ! 今のうそうそうそうそごめんなさい!」

「何が嘘なんだ……」


 呆れたように言ったインガロットは、しかし打ち首までは命じてこない。

 はあ、と溜息を吐き「気にするな」と一言、それだけ。


「…………」


 今度は、何とも言えない気分になるのはフェリシーの方だった。

 この人はいかにも「俺は仕事ができます」という感じの傲慢そうな顔をして、しかも実際仕事はできておいて、その割に気苦労が多い。それでいて、気苦労にまともに向き合ってたびたび弱っている。


 仕方がないので、隣に座ってあげた。

 折角気を利かせて持ってきてあげたふたり分のお茶を、謝罪用の小道具みたいにしながら。


「心配ですよね。小っちゃい子だし」

「いや、そこはそれほど心配していない」


 それでいきなり慰めの言葉を叩き落とされたので、びっくりした。


「なんでですか」

「そもそも、推測が正しければレミルと共にいるのは彼――シオ氏だろう。彼の能力は、ここ一年ほど何度か仕事を共にしてよく知っている。偶発的なものであれ、彼ほど護衛に適した人物もいない。何かあったとしても、レミルの身に危険が及ぶようなことはないだろう」


 そうかなあ、とフェリシーは思った。

 確かに最近は仕事をばりばりに頑張っていて評判が良いみたいだけど、それはそれとしてシオに全幅の信頼が置けるかと言われるとかつて冒険者として同じパーティにいたものとしては――いや確かに、信頼自体は置けるけれど。結果はともかく過程が、ほら。ちょっとダイナミックすぎるっていうか。


 というのはともかく、


「じゃあなんでこれ見よがしに落ち込んでたんですか?」

「これ見……どこからだ」


 ん、と三階の窓を指差してみると、ああ、とインガロットは小さく呟く。別に、何かのアピールというわけではなかったらしい。


「まあ、少しな」

「少しですか」

「ああ」

「…………」

「…………」

「いや言ってくださいよ。気持ち悪いじゃないですか」


 フェリシーが言えば、彼は眼鏡を上げる。

 しばらくの逡巡の後、


「……ついてきてもらっている以上は、話さないのも不誠実か」


 と、別にそんな話をしてたわけでもないのに、勝手に誠実/不誠実なんて枠組みまで持ち込んできて、言う。


「今言ったように、俺はレミルの身の安全については心配していない。しっかりした妹だ。俺が同じ年の頃とは比べ物にならない」


 同じ年の頃はどんなんだったんですか。

 じゃあなんでそんなにしっかりした子が家出なんかしちゃったんですか。


 ふたつの質問がフェリシーの頭には浮かんで、選ばれたのは後者の方。さりげなく、多分家出だろうと勝手に決めつけて。


 しばらくインガロットは、何も答えなかった。

 けれど、今度はただ黙っているわけではないように見えた。フェリシーが差し出したお茶を、ほんの少しだけ口に含む。何か、言葉を探しているような顔。だからフェリシーも催促したりはせず、ぼんやりと空を見上げて、星を眺めたりしながら、待っていた。


「……学園に行く前に、何を考えて生きていたか覚えているか?」


 そして、インガロットは訊ねてきた。


 そりゃあ。その一言がまずは口をついて出て、しかしいざ続けようとすると、意外と浮かばない。何を考えて生きていたって、そんなこと訊かれても。


「俺も、自分では思い出せん」

 結局、インガロットが自分でその答えまで引き取ってしまった。


 けれど、彼の場合はその先がさらに続く。


「だが、何かを考えていたはずなんだ。俺はああいう風に家を出たことこそなかったが、入学前は……」


 ふとフェリシーは、思い出す。

 別に、同学年というわけでもない。一個下。だからフェリシーは、インガロットの入学当初の姿なんて全然知らない。けれど、入学してから一年経っての姿くらいは知っている。ちょうど彼と同じ学年には王女がいて、フェリシーが入学したときには、当然のように王女と公爵子息で一番と二番。


 でも別に。

 何も努力しないでそうなれる人たちではなかったんだろうな、と。生徒会に入ってみて、思いもした。


「結構、大変だったんですか」


 インガロットは、その相槌に頷きもしなければ、首を横に振りもしなかった。

 こういうところがある、とフェリシーは思った。インガロットだけではない。我らが元生徒会長たる王女様も、こんな風になることがあった。高位貴族は、あまり自分の努力を誇示しない。コンだってそうだ。それが当たり前のような顔をしていて、実際、本当に正直なところを言うと、フェリシーから見て彼らは環境的に恵まれていて、普通に努力するよりはずっと平らな道を歩いているなと思うこともある。


 引け目なのか、矜持なのか、それとも客観的な判断なのか。

 とにかく彼らはこういうとき、うんともすんとも言わなくなる――けれど、別にそれで会話が終わるわけでもない。


「そのことも、忘れていた」


 彼は、ぽつりと呟いた。


「心当たりがあるのか、と訊いたな」


 フェリシーは頷く。確かに訊いた。レミルは家出をしたのではないかと自分が推測したとき、インガロットが口を閉ざしたから。何か心当たりがあるのかと。


「振り返ってみれば、確かにある。が……」

「が?」


 インガロットは、顔を上げた。

 何だかそれは、開き直ったというよりも、自嘲しているような顔だった。彼もまた、空を見上げる。王都から少し離れて、満天の星。夏の夜にお茶の入ったカップは湯気なんか立てなくて、それでも、もう一度それに口をつけた。


 それから彼は、本当に珍しく、弱音のようなものを吐いた。



「言われるまでそれに気付けなかった自分が、兄として不甲斐ない」



 フェリシーは、弟妹がいない。

 上にもいない。強いて言えば自分を「お姉さま」呼びしてくる下級生とか、「親分」呼びしてくる地元の領民たちはいないでもないが、そういう話ではないと思う。


 だから、試しにうんともすんとも言わずにいてみる。

 どんな人生なんだろうな、と思う。自分みたいに「経営の才能とかないから後継ぎは家の外から取ってよろしく!」で済まない人たちが真面目に生きるっていうことは。人より恵まれていて当然の人たちが、競争の場に出ていくときの気持ちは。これからいくらでも楽しいことと知らないことが待ってるはずの人生で、肩に掛けられた大きな大きな「こうしなきゃ」の重さは。


 もちろん、答えなんか出ない。

 だからまあ、普通の会話を続けてみた。


「副会長って」

「ん」

「結婚相手とか探すの大変そうですね」

「げほっ!!!! ごほっ!!!!!」


 闇夜を切り裂く鋭い噎せ声。

 うわっ、とフェリシーは半歩引いた。


「どんな勢いで飲んでんですか」

「こっちの――がっ、なんだ、急に!」


 気管にでも入ったのだろうか。相変わらずこの人は変なところで軟弱だなあ、とフェリシーは彼の背を擦りながら、


「いや別に、普通に会話のバリエーションですけど……だって、思いません? 副会長は別に生まれたときから公爵家の人なわけですけど、結婚する人は『結婚するぞ!』ってなってからそのしっかり者の妹さんが家出したくなるような公爵家の一員になるわけじゃないですか。大変でしょ」

「それは、」


 んんっ、と咳払いをして、ようやく、


「大きなお世話だ」


 それはそう、とフェリシーは思う。

 妙にギッと鋭い目つきになったインガロットに、ちょっと笑う。


「まあでも、家格が釣り合ってる人を選びますもんね。大丈夫か」

「……わからんぞ。能力主義的な結婚も、公爵家の歴史の中ではないでもない」

「そのときはすっごい有能でタフな人じゃないとダメですね。あはは。それ、なんか想像つくかも。副会長って、なんかちょっと苦労性っていうか、そういう人に振り回される側っぽいですもんね」

「その苦労をさせているのは誰だ?」

「少なくとも生徒会にいる間、私は副会長の苦労を解消したりもしてたのでトントンです。プラマイゼロ」


 大胆不敵に言い切ってみれば、意外にもインガロットは、それ以上は言わなかった。

 確かにそうだ、とも言わなかったけれど。少しの間、まるで生徒会にふたりで在籍していた時間を思い出すようにして、


「……生徒会が終わった今、」


 と言った。


「確かに、もうお前に苦労させられることはないか」


 そうでしょうそうでしょう、とフェリシーは笑った。


 さて、とどちらともなく立ち上がる。意外と話し込んでしまったが、明日も一日中移動だ。しっかり眠ったコンは移動中も寝かせてはくれないだろうし、今のうちに休んでおかなければ明日が大変になる。お茶のカップ、とフェリシーが手を差し出すと、かえってインガロットはこちらの分まで引き取ってくれた。あれいいんですか。訊ねると、あっさり頷く。お前が用意してくれたからな。片付けは俺がやる。


 どうも、と軽く頭を下げて、宿へ戻る。

 扉だけは開けてあげようと、フェリシーは無駄に大きなインガロットの歩幅を追い越すべく、少し小走りになる。


「あの」


 その途中で、振り返る。


 インガロットが眉を上げる。これもまた、とフェリシーは思う。大きなお世話だと言われるだろうか。


「心配は、してあげてもいいんじゃないですか」


 ついさっきの会話。

 心配はしていない、とインガロットは言ったけれど。


「されて嫌なものでもない気もしますけど。それに、どう見ても心配してますし」


 少しだけ、インガロットは目を見開いた。

 それを誤魔化すように、彼は眼鏡を上げる。けれど意外に、言葉は誤魔化さない。


「……そうだな」


 小さく頷いて、言った。


「心配だよ。本当はな」




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「海じゃないじゃないか……」

「お、おお」


 がちゃりと扉を開けて出てきた大男を前に、最初に不平不満を零せる度胸をあっぱれと言うべきか。

 レミルは今、とある民家の前に来ていた。


「確かに俺は見ての通り海とは程遠い男だが……ミティリス。なんだこいつは。お前の隠し子か?」

「あなたの中での私のイメージはよくわかりました」

「オズウェン。久しぶりだ」


 おう、とシオの挨拶に軽く手を上げて答える。

 その男の名を、オズウェンと言った。


 彼は順番に、来客者の姿を見ていく。

 ミティリス。シオ。このあたりまではわかるはずだが、このあたりの時点ですでに顔色が疑わし気なものになっている。そして最後にレミル。小さな女の子に、決して膝をつくこともなく上からじろじろと不躾な目線を投げかける。向こうがキッと睨み返してきてもびくともしない。代わりに、その服装やら靴やら何やら、ひととおり眺めて、


「厄介事なら帰れ」

「大丈夫大丈夫。そんなに厄介じゃありませんから」


 にべもないことを言うけれど、ミティリスには通用しない。

 咄嗟にドアを閉めようとしたオズウェンだが、ミティリスがそのドアの隙間に足を挟んでくる。


 ドア越しのにらみ合いが数秒。

 ミティリスが笑顔を崩さないのを見て、先に根負けしたのはオズウェンだった。


「……ったく」


 苦笑いをして、


「折角落ち着いた場所に引っ越して来たってのに」




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 騙された、とレミルは思っている。

 何にと言って、まあ、ほぼ全てに。


 海に連れて行ってくれる、と言っていた。だからしぶしぶついて行くことにしてやった。だというのに、着いた先は見知らぬ大男の家だった。「ちょっとお話していくので、この部屋でしばらく待っていてくださいね」と言った、あの優男のにやけ面と言ったら! 恐らく――これはあくまで今の段階では根拠のない推測に過ぎないのだが――あの男はかつて詐欺師か何かをしていたに違いない。むやみに容姿が美しいのも、いかにもそれを武器にしてきた人間という感じがする。


 騙されて来た。

 しかも、とんでもない速度で。


 思い出すだけでも身震いする。ありえないことが起きた。一体カバンの中に収まっていただけでどうしてあんな遠くの子爵領にまで至ったのかという疑問を昨日から持っていたけれど、それがあっさり氷解した。


 凄まじいスピードだった。


 これに乗ってください、と言われて屋根付きのリヤカーを出された時点でまず疑うべきだったのだ。辺境のあたりではこんな馬車を使うのかなんて、本気で思っていた。シオと呼ばれたあの配達人がその持ち手を握ったときは「正気なのか」と思った。農業を主産業とした穏やかな領地だと思っていたけれど、まさか馬の一匹もいないのか。人が手で車を引くのか。


 引いた。

 空まで吹っ飛ぶかと思った。


 乗るときに謎の金具を身体に取り付けられた意味がわかった。なんだこんなもの、もし私をどこかに連れ去るつもりならいつだって外してやる。そう意気込んでいたのに、一度走り出したらもう二度と離れたくない。まるで家族のように愛おしい。必死で握った。全部の謎が解けた。一日で王都からフェリアーモ子爵領まで自分が移動した理由。移動できた、移動してしまった理由。


 この配達人の足は、王国にいるあらゆる馬の十倍は速い。


 ありえなかった。

 自分の隣で、金具も何もなしに車に掴まって、「風が気持ち良い」とばかりに髪をなびかせて笑う男は、全く正気ではないと思った。


 そして、一体どのくらいの時間が経っただろうか。

 風景はほとんど線になって、膨大な量が背後に置き去りにされていた。太陽が頭上に上り切るころ、ようやく車は止まった。


 なのに、海ではない。

 見知らぬ男の家の中。


 騙された、とレミルは思っている。


「…………」


 部屋の中には、ひとりだった。

 随分大きな家に住んでいる、とレミルは思う。手持無沙汰だからつい、部屋の中に目をやってしまう。家の中の人の気配を探ってみると、どうもあの大男のひとり暮らしらしいけれど、それにしたって一軒家。周囲には他の家も全くない、辺境のフェリアーモ領から遥々出てきてまた辺境。あまり家主の男は貴族然とした様子にも見えなかったが、しかし同時に、田舎で農作という感じの肌にも見えなかった。一体どうして、こんな場所に住んでいるのか。


 ぺこ、と音がした。

 何だろう、と見上げると、そこにはカレンダーしかない。


 窓は開け放たれていた。夏だ。締め切った部屋で倒れないようにという配慮だろう。風が吹き込んできている。それがきっと、カレンダーに当たった。ただそれだけのこと……のはずなのだけど。


 一度不思議に思うと、次々目に留まり始める。


 どうもこの部屋は、何かの研究室のように見えた。いくつもの書籍が棚に収められている。背表紙を見れば、それは魔術に関する学術書だ。専門は物理系だろうか。流石にレミルも、学園の専門課程のことは今の時点ではあまり詳しくない。それなりに高度なものに見えるけれど、それは自分が幼いからそう見えるだけなのか、判断がつかない。


 ところで、この部屋にはカレンダーが多すぎる。

 よく見ると――いや、よく見なくても、三十枚くらいある。


 何がどうなってこういうことが起こるのかはわからないけれど、恐らく自分で買ったものではないのだろう。すべてのカレンダーのどこかしらに、何かの店の名前が入っている。どこかで貰ってきたものを、もったいなくて全部試しに掲示してみただけなのか。それならそれで相当奇特な家主だと思うが、しかし、さらに奇妙なことがある。


 ゴミ箱。

 ものすごい量の紙が入っている。


 ゴミ箱を漁るなんてことは、レミルは公爵令嬢だ。流石にやらない。それでも、目線をやるだけで端の方が見える。所詮は子どもと侮られたのか、証拠が残されている。


 それは、大量のカレンダーの切れ端だ。

 そう、まるでたった今壁中に貼ったカレンダーを、あたかも前から使っていると見せかけるために、春から夏にかけての暦を、一斉に破り取ったような。


「…………」


 ごくり、と喉が鳴る。

 試しにレミルは、立ち上がる。壁に寄ってみる。


 カレンダーのひとつを、思い切り捲ってみる。



 隠された壁に、大きな大きな破壊痕。




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「綺麗な家ですね。三秒で激怒する癖は抜けたんですか?」

「考えごとは破壊してもいい部屋でやることにした。アンガーコントロールだな」

「それはコントロールなのか……?」


 できてる、とオズウェンは言い張る。

 彼もまた、ミティリスがかつて冒険を共にした友人のひとりだ。


 フェリシーたちが通う学園の、修士を出ている。聞けばなかなか優秀な研究者らしく、しかしそんな彼がなぜ学園に残らずこんな場所でひとりで暮らしているのかといえば、実は彼には少し困った特徴が……。


 あるが、それはミティリスやシオには慣れっこのこと。

 というか別に、ふたりにだって困ったところはある。だから気にせず、話は続く。


「壁が壊れれば、次は壊れない壁を作るって目標ができるしな。王都の土地が空くのを待つ間にその目標を達成しておけば、いざ家を建てるときも壊れない完璧な家ができるだろ。そうして人生はPDCA、これが俺のエコシステムだ」

「ぴ……?」

「特殊な自己修飾はともかく、実は今日は、君に伝言をお願いしたいんです」

「伝言?」


 不思議そうな顔をして、オズウェンは眉を上げた。

 それから彼は、シオを見る。いかにも「伝言役ならもっと適切な奴がいるだろう」という顔。それにシオは、首を横に振って、


「僕たちはこれから、少し別のところに向かう」

「そりゃどこだ」

「海」

「海ぃ?」


 オズウェンは、何かを思い出すように天井を見る。が、結局上手くは思い当たらなかったらしい。ミティリスの方を見て、


「海沿いから王都に出る道なんてあったか?」

「あるんですよ。確かにちょっと険しい道ですが、ここから王都までは大した距離でもないですし、シオくんなら――」


 説明の途中でミティリスは、「あれ?」と、


「王都に行くって、言いましたっけ」

「見りゃわかる。あのちびすけ、どっかの高位貴族だろ」


 ミティリスは驚き、シオは「ほう」と感心した。


「どういうところで見分けるんだ。僕はよく平民と貴族の区別がつかずに怒られる」

「着てるもん見とけばいいだろ。どうせ金持ち相手なら、平民だろうがへりくだっといて損はないしな」

「どの服も布にしか見えないが……」

「そこまでわかってんなら話は早い。後はその布の良し悪しを見分けるだけだ。人間の良し悪しなんか見ようとするから間違える。簡単だろ?」

「そもそも君、さっきはへりくだってるつもりだったんですか? あれで?」


 素直に家に入れてやった、とオズウェンは言う。

 ミティリスは呆れるやら感心するやら。ついこの間まで一緒に住んだりもしていた相手だけれど、相変わらずの調子で、全く変わっていない。


「んで、伝言ってのは何だ。俺をどこに行かせたいんだ?」

「いや、別にこの家にいてくれればいいんです」

「ん? ……ああ。そういうことか」


 そして、相変わらず呑み込みがすごく早い。


「迎えが来るのか。あいよ。そのくらいなら請け負ってやる。まさかあれがどっかから誘拐してきた金持ちの娘で、あわや俺は迎えの騎士団相手に大立ち回りなんてことはないだろ?」

「…………」「…………」

「帰ってもらっていいか?」


 ミティリスは笑ったままで言う。

 大丈夫ですよ。大丈夫、大丈夫。


「多分……」

「それよりオズウェン。ついでにキッチンを借りてもいいか。どこかで食べてこようかと思ったんだが、このあたりに全然食事処がなくてな。限界だ」

「お前ら今の話まさか流すつもりじゃ――」


 ぐー。

 と、シオの腹が鳴った。


 それでオズウェンの言葉は遮られる。遮られて、肩透かしを食らったような顔をして、それから「アホらしい」とでも言いたげに、椅子にどっかりもたれかかる。


「ま、何でもいい。お前らの人生がムチャクチャなのにはもう慣れたよ」


 それより、と。

 彼はぴっと人差し指を立てる。傾ける。


 窓の外。


「あれはいいのか?」

「?」「?」


 その言葉に、ミティリスとシオは一緒になって振り返る。


 レミルが、逃げ出している。




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 食われる、と思った。

 あそこは、人食い鬼の住処か何かだ。


 本気でそう思っているわけではない。まさかこの年になって本気でそんなことは思わない。思わないが――しかしそれでも、レミルは駆け足で炎天下を走り出している。


 まさか公爵令嬢が、こんなどことも知れない場所で頭からバリバリ食われるわけにもいかない。


 本気で、全力で、走った。


「どうした。どこかに用か」

「!」


 何の意味もなかった。


 突然声がかかって、振り向いた瞬間にはもういない。振り向いたものだから前方の注意がおろそかになる。よりにもよって小石に躓く。あ、と思ってももう遅い。身体が宙に投げ出される。ぎゅっと目を瞑ったのに、いつまで経っても衝撃が来ない。代わりに、妙に心地よい浮遊感が身体を包む。


「大丈夫か」

「――持つな、無礼な!」


 まるで弁当箱でも持つみたいに、片手で宙吊りにされていた。


 言えば、「すまない」と配達人の男――シオは、自分を手放した。手放されて、レミルは華麗に着地する。ぐきっ。嘘だ。ちょっと足首が泣いている。でも大丈夫。それほど痛いわけじゃない。そんな高さじゃなかった。普通に、ただ焦りすぎて勝手に着地に失敗しただけだ。


「……お前、なんだあの家は」

「家?」


 追いかけてきたのはひとりだけだったのか、あるいは他のふたりが到底追いつかない速度で走ってきただけなのか。

 しかし好都合なことに、レミルの目の前にいるのはシオだけだった。


 正直なところ、レミルは若干シオを見くびっている。他のふたりは得体が知れないし、こいつも得体が知れないが、何となく底が透けているというか、有体に言って考えることが全部口と連動しているタイプで、質問すれば駆け引きも何もなく全部喋りそうに見えた。


 というわけで、訊ねる。


「さっきの男の家だ! すごい壁になっていたぞ! 何者だ!」

「壁?」


 首を傾げたときのあまりにも透き通った表情を見ると、本当に何も知らないらしい。

 レミルは、今自分が走ってきた方を見る。今のところ誰が追いかけてくる影もない。だから今のうちに、


「い、至るところが壊れていた。凄まじい暴力の痕だ。もしもあの男が全てをあの場所で惨状を引き起こしたなら……魔獣のように凶暴な男だ」

「凶暴……」


 もう一度、シオは繰り返す。

 本当にこっちの言ってることがわかっているのかこの男。レミルが不安に駆られたのも束の間、彼は「ああ」と平手に拳を落とす。何を言っているのかわかった、と言うように、


「まあ、そういう一面があるのは否めない」

「否めないのか!?」


 びっくりしすぎて、レミルは口を大きく開けて叫んでしまった。


 ああ、とシオはシオで迷いなく頷く。失言したから誤魔化さなくちゃ、なんてなよついた考えは一切窺えない。曇りのない肯定。僕たちがあなたを連れて来た場所に住んでいる男は、まるで魔獣のように凶暴な一面を持つ男です。そう、顔で語っている。


 こんな奴らについてきたのが間違いだった、と思った。


「ふざけるな! 私は帰る!」

「大丈夫だ。人に危害を加えているところは……………………見たことがない」

「なんだそのたっぷりした思考の時間は! お前も『やりかねないけどやってなかったよな?』と不安になってるじゃないか!」


 言えば、図星だったのかもしれない。シオは何も返してこない。この隙にとレミルはもう一度駆け出す。意味があるのかないのかはわからない。が、全く無意味でもないような気がした。妙に生真面目なところも感じさせるような奴だ。もしかすると、こんな風に会話で丸め込むことができれば、あんな風にずっと足を止めているかも――


「――帰るというのは、どこにだ?」


 足が止まったのは、レミルの方だった。


 答えがないわけではなかった。そんなの、お前らがいないところに決まっている。売り言葉に買い言葉というわけではないが、それなりの教育は受けてきた。こんなぼんやりした男を相手の会話、なんてことはない。いくらだってやり過ごせる。


 けれど、自分を相手には誤魔化せない。


 帰る。

 どこに――



 ぐう、と。

 シオの腹が鳴った。


「……海にせよ、王都にせよ。どちらでも僕たちが送っていく」


 彼は腹を撫でながら、こちらの逡巡なんてまるで思い当たらないような顔をして、言う。


「しかし、先に食事にしないか。もう、ぺこぺこだ」


 反論する気力もなくしたのか。

 それとも反論しないでいい理由を貰えてほっとしたのか。


 しばらくの無言の後、「仕方ない」と言うように、レミルは歩き出した。




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「…………なんだ」

「いや」


 オズウェンの自宅。

 ダイニングでパスタを頬張りながら、レミルは正面から注がれる不躾な視線を睨み返している。


「随分美味そうに食うなと思ってな」

「美味そうになど食べていない!」

「えっ、不味かったですか!?」

「あ、いや、」

「いや、美味しいと思う。久しぶりに食べたが、やはりミティリスは料理が上手い」


 レミルは視線を行き来させる。正面でにやにや笑っているオズウェンと、隣で二十人前みたいな量を凄まじい勢いで食べているシオと、ようやく料理を終えてエプロンを外してこっちにやってきたミティリスの間で。


 様々な葛藤があった。

 礼儀が勝った。


「お、美味しくは、ある……」

「そうですか? よかった」


 はん、とオズウェンが鼻で笑った。

 ぎっ、とレミルは耳を赤くしながら睨んでやる。


「何がおかしい」

「いけ好かない上に迷惑で、とんだクソガキが家に来たと思ってな」

「な……!」


 思わずレミルが立ち上がりかけると、「こら」とミティリスがオズウェンの頭にチョップを入れる。


「子どもを相手に言いすぎです!」

「だけど実際そうだろ?」


 ミートソースのスパゲティ。

 一口でレミルの三倍くらいの量を巻き取りながら、オズウェンは言う。


「大体の話は聞いたぞ。カバンの中の異物に気付かなかったのはシオの落ち度だが、異物自体にも落ち度はある」

「いぶ――」

「というか、お前が悪い。金持ちのガキだからって何でもかんでも許してもらえると思ったら大間違いだ。やっちまったもんはやっちまったんだから仕方ないが、せめて多少は自分の感情をコントロールして、自分が悪いと思うなら周りに殊勝な態度を取れ」

「…………」


 レミルは、返す言葉もない。

 一方ミティリスは、信じられないものを見る目でオズウェンを見ているし、もちろん言う。


「それ、あなたが言います?」

「俺は自分の感情を常にコントロールして、周りに殊勝な態度を取っている」

「引っ越しの餞別に鏡を送るべきでしたね……」


「……ん?」


 シオが顔を上げる。

 その間も食事の手を止めることはないが、視線に気付いてくれた。食べながら、レミルの方を見る。


 レミルは、分水嶺にいるような気がした。

 まともな人間になれるかどうかの。


「……め、迷惑をかけて、申し訳ない」


 きょとん、とした顔をシオはした。

 それからゾッとスパゲティを吸い切って、もぐもぐと咀嚼して、呑み込んで、


「気にするな。僕もどうせこっちの方に来るつもりだったし、一日中走り回っているのは何の用事のときでも一緒だ。大したことじゃない。こちらも荷物確認を怠ってすまなかった」

「いや、うん……そっちの、音楽家も」


 ミティリスはミティリスで、ぱちくりとまばたきをする。

 それから、笑った。


「いいえ。まあ、良い気分転換ですよ」


 意外にも、その言葉に食いついたのはオズウェンだった。


「仕事、忙しくしてるのか?」

「……嬉しい悲鳴、というところですね」

「の割には顔色が悪いな。厄介なクライアントでもいたか」

「というより、まあ……。多分、作曲家なら誰でも直面するような類の悩みです」

「職業病か」


 ええ、まあ。

 そうミティリスが、どことなく疲れた表情で頷いたとき、カラン、と音がする。


 シオがフォークを置いた音だ。


「ミティリス。おかわりはあるか」

「あれ。シオくん、前より食べる量が増えましたね」

「昨日から走りづめだからだと思う。何だかんだ、冒険者をやっているときは休日も多かった」

「ああ、なるほど……。ちょっと待ってくださいね。勝手に冷蔵庫からっぽにしちゃいましょう」


 おい、とオズウェンが咎める声にミティリスは笑って、シオとともにもう一度キッチンに引っ込んでいく。


 残されたのは、レミルとオズウェン。


「…………」

「…………」


 かち、かち、と食器の音だけが静かに響いた後、


「海に行くんだって?」

「……まあ、はい」

「そうか。向こうも晴れてるといいな」


 驚いて、レミルはオズウェンを見る。

 なんだ、とからかうようにオズウェンは笑った。


「雨の海の方が好みか。通だな」

「いや……」


 驚きの理由を、どう言葉にしていいかわからない。

 もにゃもにゃとした気持ちを抱えていると、オズウェンは大してそれを気にもせずに、


「金持ちのガキなら何でも許されると思ったら大間違いだが、俺も別に、ガキに必要以上に厳しくしようとは思わん。鬼じゃないんだからな」


 鬼の可能性はまだ否定されていない。

 あるいは、なんだそのガキガキ言っているのは。頭に浮かんだ言葉のうち、後者をレミルが口にすれば、


「ガキはガキだ。どうせ学園にもまだ入ってないだろ」


 ひらりと躱すように、オズウェンは言った。


「魔術は使えるのか?」


 関係ない、という言葉を一度呑み込んだ。

 実際この見も知らない家で、家主の許可を経て食事をしているのは確かだから、会話に応じるくらいはと礼儀が働いて、


「使える」

「そうか。じゃあ二択だな。……有名な話、教えてやろうか」

「なんだ」

「生真面目な奴は、貴族学園の方が向いてる」


 言われずとも、とレミルは思った。

 そんなことは聞きかじりの知識だけでわかっている。魔術が使える貴族は大抵、貴族学園か魔術学園か、どちらに進むかの二択を選ばされる。本人の魔術的な素質の問題であるとか、将来的な進路選択の問題であるとか、あるいは気質とか、そういうものを勘案して。


 自分が貴族学園の方が向いているだなんて、わかっている。

 のに、


「で、生真面目『すぎる』奴は、魔術学園の方が向いてる」

「――は?」


 それはどういう、と訊こうとした。

 が、そんな暇はなかった。すぐにミティリスとシオが戻ってきてしまう。両手に大皿を抱えて。どれだけ食べるんだこの男、とレミルが驚愕の目線を向ければ、「もし入るならもっと食べちゃってください」なんてミティリスが言う。色んな種類を作りましたから。


 私もか。

 と訊けば、あなたもです、と言う。



 食事の時間が終われば、再び旅立ちの時が来た。

 夏だ。燦々と光る太陽も、いよいよ本気を出してきた。水筒はちゃんと持ってますよね、とミティリスが言う。帽子もちゃんと被りましょうね、と言う。何だかメイドみたいな男だと思うが、口には出さない。


「じゃ、」


 オズウェンは、軒下の柱に寄り掛かりながら、旅立つ三人を見て言う。


「楽しんで来いよ」


 小さく頷いて、ごろごろとまた、車輪が回り始める。




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 コンコン、からドンドン、に変化するまでの時間が短すぎる。

 それが気心の知れている証明だと言えば、まあ、美しいものと取れなくもないが。


「おう。本当に来たな」


 そしてオズウェンも、大して驚くことなく顔を見せた。

 その一言で、もちろん伝わるものもあった。


「お、次期公爵閣下……なんだ。そんな大物だったのか」


 インガロットが、深く安堵の息を吐いている。

 フェリシーは、それにちょっと笑って、


「話が通ってるってことは?」

「残念ながら、もう出た後だ。ちょっと遅かったな」


 えー、とオズウェンは懐から紙を取り出して、読み始めようとする。

 途中で面倒くさくなったらしい。ほれ、とフェリシーに手渡してくる。当然、後ろに立っているインガロットとコンも覗き込む。大体、こんなことが書いてある。



 拝啓。


 お前の妹は預かった。

 海に行きたいとのことなので、海を経由してお前の家までお届けしてやるぞ。


 敬具。



「海?」

「夏だからな。開放的な気分なんだろ」


 また適当なことを……とフェリシーはオズウェンを不信の目で見る。オズウェンは気にしない。コンと目を合わせて「おや、ご機嫌いかがかな若社長」なんてご機嫌伺いを始める。私を前にしたときと態度が違うのはどういうわけだろう、とフェリシーは思う。かつて自分も若社長みたいな時期があったというのに。金の匂いの違いか。まあ、そうか。


「よし。伝言も終わったことだし」


 言いながら、オズウェンは玄関の鍵を閉めた。


「え?」


 フェリシーは不思議に思う。だって、オズウェンは中から鍵を閉めたわけではなかったから。外から。


 つまり、自分もすっかり準備万端で外に出てきて、


「夏だからな。開放的な気分なんだ」




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「ちゃーっす! そこの馬車止まって――あ?」


 馬車だと思ったら人だった、というのがその驚きのわけではなかったはずだ。

 というのも、シオもミティリスも、自分たちを道の真ん中で止めようとしたのが誰なのか気付いたから。


「アルマ?」「アルマくん?」

「え、あ、おっす」


 それは、海辺へ向かう道の途中だった。

 もう少し、というところだったと思う。少なくともミティリスの鼻先には、潮の香りが漂い始めていた。今はどこなんだ、と訊ねるレミルに地図を見せてやって説明したりもした。もうすぐ海沿いの大きな通りに出る。そこからぐーっと走っていくだけで王都に通じる道があるから、しばらくは海を見ながら行きましょう。


 そうか、とレミルが頷いた。

 喜びの混じった表情を見て、ミティリスは「オズウェンのところに寄って良かったかもしれない」と思うと同時、もうひとつの気持ちを感じたりもした。


 それは何だか、結構長らく忘れていた気もする感情だった。

 が、それはそれとして。


「えー、めっちゃ奇遇じゃん。どした? オレに会いに来た?」


 キキーッ、と車は止まる。うわ、とレミルとミティリスは声を上げる。レミルは安全金具のおかげで大丈夫だったけれど、ミティリスは普通に転がり落ちた。


 シュタッ、と綺麗に着地する。


「お、忍者っぽい」

「はは。今は違いますけどね」


 笑いかけた相手は、最後のパーティメンバーだ。

 かつてミティリスが忍者としてダンジョンを共に駆け抜けた、冒険者のひとり。


 アルマだ。


「会いに来たというか……アルマくんこそ、どうしたんですか。こんなところで」

「オレがふらふらしてたらこれ以外ないっしょ」


 言って彼が手をかけたのは、腰に帯びた剣。

 ああ、とミティリスは頷いて、


「冒険者関連ですか」

「そ。他はみーんな辞めちゃったけど、ほら、オレって一途だし頑張り屋だから? 今でも真面目にひとつの職業をコツコツ頑張ってんの」

「どこかに行きがけか」


 車を道の端に寄せたシオも、会話に加わってくる。


「ヒッチハイクなら送っていくが」

「違う違う。オレは普通にここが持ち場で――てか、その前に訊いていい?」

「なんだ」

「そっちにいる身なりの良いお嬢さんはどなた? もしかしてフェリシー関係?」


 ああ、まあ、と。

 ミティリスが振り返って紹介しようとしたとき、レミルは怪訝な顔をしている。「ん?」と不思議に思うと、レミルはそのまま目線で訴えかけてくる。


 なんだあれは。

 どれですか。


「……よーし。オッケー。オレは今日ここにいなかった。そういうことにしておこう」


 一瞬のうちにものすごい距離を取って、関わり合いになるのを拒否しているアルマの姿が目に入る。


 ミティリスは、苦笑するほかなかった。


「大丈夫です。確かにフェリシーさん関連ですが、物騒な話じゃありませんよ」

「マジ? その子は間違えてどっかの貴族の家から攫ってきた子で、実はミティリスたちは騎士団に追われてるとかそんなことない?」

「…………物騒な話じゃありませんよ!」

「イエスかノーかで答えてくんね?」


 なおもアルマが一歩下がろうとしたとき、意外な人物が口を開く。


「大丈夫だ」

 レミルだった。


「確かに私は貴族の娘だが、この者たちが追われているなどということはない。少し道に迷って、家まで送ってもらっている途中だ」


 驚いたのは、ミティリスだった。

 つい、見下ろすようにレミルの表情を窺ってしまう。そして実際、彼女も自分で態度の変化には自覚的だったのだろう。見上げ返してきて、少しバツの悪そうな表情で言う。


「なんだ」

「あ、いえ……」

「……ホントかな~~」


 いまだ不審がりながらも、アルマはその言葉にある程度説得された。

 戻ってくる。戻ってきて、こちらの様子をじろじろ観察して、


「あ」


 それから、思い出したように、


「てか、送ってるってことはこの先の道使う感じ?」

「ええ。そのつもりですが……」


 言えば、あちゃあ、とアルマが言う。

 言葉の割に大して残念でもなさそうな言いぶりではあるけれど、


「今、この先通行止めになっちゃってんだよね」

「え」


 驚いて、ミティリスは地図を取り出した。

 アルマの方に歩いていって、それを見せる。アルマも覗き込むから、そのまま訊ねる。このあたりの道を行こうと思っていたんですが……


「ちょっと待って。どう見んだこの……あ、わかった。はいはい。この道か。あー」


 無理だね、と。

 やはり軽い調子で、アルマは言った。


「工事か何かか?」

「いや。てか、シオならわかるっしょ? 冒険者のオレがこのへんで交通案内に立ってる意味」


 別に、わかったのはシオだけではない。

 ミティリスにもわかったし、


「……魔獣か」

 レミルにも、わかった。


 そ、とアルマは言う。頭の後ろで腕を組んで、


「あのへんにダンジョンとかないから街道も整備されてたんだろうけど、まー、最近はどこもバタバタだからさ」

「増えましたか、やっぱり」

「増えたっつーか、見つけちゃったって感じ? オレみたいなタイプはむしろ需要が増えてウハウハだけど、最近の冒険者のトレンドっぽい人らは適応に苦労してるよ」

「魔獣が出たのになぜアルマはここにいるんだ?」


 ストレートに、シオは訊ねた。

 アルマは一瞬、真顔になる。それから溜息を吐くように、


「それ訊いちゃう?」


 特にこちらの答えを待つわけでもなかった。

 そのまま続けて、アルマは言う。


「秘密兵器ってスカウトしてホントに秘密にする奴がどこにいんだって感じだよな~! 『日が高いうちは使うな』とか言ってさ~! オレの人生の無駄遣いだよマジで!」


 ああ、とシオは頷いた。


「うるさいから引っ込められているのか」

「んな直球で言う?」


 はは、とミティリスは苦笑した。


「でも、仕方ないんじゃないですか。アルマくんの『必殺技』は一日一回の制限があるんですし」

「いや、あれって別に日付変わったら使えるようになるとかじゃないし。オレとしてはクールタイムが明けたらすぐ使いたいんだよ」

「リーダーといたときはじゃんじゃん使っていたからな」

「恋しくなりますか?」

「…………」


 ものすごい顔を、アルマはした。

 思わずミティリスが本気で笑ってしまいそうになるくらいの、ものすごい葛藤が見て取れた。


「なんだその質問……」

「あはは、すみません。あ、それで話は戻るんですけど、それじゃあこの道、いつ頃になれば通れそうですか?」

「夜じゃね? 大体夕方くらいにオレが駆り出されて、ぶっ飛ばして、後片付けして撤収だから。どうせいっつも同じパターンなんだし、時短して欲しいんだよな~。てか、普通に迷惑っしょ。実際シオたちみたいにここの道使わなきゃいけない人たちだっているのに」

「どうしてもこの道じゃないといけないわけでもないが」

「まあまあ……。安全マージンを取っておきたい気持ちもわかりますからね」

「大丈夫だって。偽物の無手法のオレが大丈夫だって言ってんだから」

「開き直っているな」

「ちょっとその自己認識は比較対象が良くないかもしれませんね……」


 ま、そういうわけだから。

 そんな風に、アルマは話をまとめにかかる。


「別の道から行った方がいいぜ。シオとミティリスどっちかひとりだけならともかく、ふたり揃ってんならどんな道でも行けるっしょ? 適当に迂回してってくれよ。悪いけど」


 まあそういう事情なら。

 納得するしかない、とミティリスは思う。そうですね。そう言って頷いて、地図を見る――前に、やることがある。


 隣に立っている、小さな少女に。

 レミルに、こう言っておかなくてはならない。


「すみません。そういうことなんですが、構いませんか?」


 言いながら、ミティリスはふたつの予想を頭の中に浮かべている。


 ひとつは、激怒。気が楽なのはこっちの方だ。なんだ貴様ら私をこれだけ振り回しておいて約束のひとつも守れないのか海に連れて行くというのはどうした私は納得せんぞ――こう言ってくれた方が、かえって気持ち的には助かる。まあまあまあまあ、こればかりは個人の都合じゃどうにもならないことですから許してください。そう言って、宥めすかそうという目標ができる。


 残念ながら、現実はもうひとつの方だった。


「……ん」


 レミルは、頷いた。

 心の中にあるだろう感情とは、全く無関係に。


「そうだな。仕方がない。海になどいつでも行ける。気にするな」


 気にするなと言われても、気にかかることがあった。


 フェリアーモ子爵領を出るときと同じく感じたこと。引っ掛かり。できれば気付かないふりをして済ませたいこと。気付かないでいれば、穏便に事を終えられるはずのこと。


「むしろ、ここまで連れ回して――さっきの男にも言われたが、悪かった。ふたりにも迷惑をかけたな」


 それでもミティリスは、彼女の目の前に立っていて。


 そしてそれは、自分が直面している悩みと――


「海?」

 アルマが訊いた。


 その質問で、はっとミティリスは我に返る。

 ええ、と頷いて、


「ルートの話です。王都に帰る途中で、ついでに海を見ていきたいと、こちらのレミルさんが。時間も変わりませんし、それもいいかと思っていたんですけどね」

「ふーん……」


 じろじろと、アルマはレミルを見た。


「な、なんだ」


 もちろんレミルはたじろぐに決まっている。


 オズウェンよりは多少小柄だけれど、それでも自分より遥かに年上の男が覗き込んでくるわけだからだ。こらこら、とミティリスは間に入って彼女を庇おうとする。


 その前に、アルマが言う。


「君、結構偉い?」

「えら……なぜだ?」

「ま、物は相談なんだけど」


 とんとん、とアルマはそれを叩く。

 腰に帯びた剣。ミティリスとシオはすっかり見慣れた――彼のトレードマークと言っていい、魔術剣。



「『おい平民、私に今すぐ海を見せろ!』……とか、言ってみたくならない?」




卍  卍  卍




「お、」


 フェリシーたちの馬車が止まる。

 なんだなんだと降りてきて、一番最初にオズウェンが、それを見つける。


 看板。

 こんなことが書いてある。



『ただいま【超】道路工事中!

 迂回してって!』



「見覚えがある字だな」

「どれ……うわ」


 フェリシーも遅れて、それを見る。

 誰の字だ、と後ろでインガロットがコンに訊ねている。さあ、とコンは言うけれど、扇子で隠した口元は、すでに笑っている。


「まいったな」


 オズウェンが、肩を竦めて言った。


「こんな自然に集まったんじゃ、俺たち、大の仲良しみたいだぞ」


 ねえ、とフェリシーもしみじみ同意した。




卍  卍  卍




「……冒険者なのか」

 ぽつりと訊ねたとき、当然のことではあるけれど、反応したのは隣にいるミティリスだった。


 シオは今、もちろん車を引いている。

 アルマは車の前の方に陣取って、シオに道案内をしている。


 だから、大人しく座っているのはレミルとミティリスのふたり。

 当然、質問に答えてくれるのは、ミティリスだった。


「昔は、ですね。私とシオくん……それからさっきの家にいたオズウェンは、もう引退してしまいましたけど」

「大丈夫なのか?」


 訊ねたのは、もちろん不安からだ。

 最近の魔獣がどうこうという騒ぎのことは、公爵家で暮らしているのだ。当然、レミルの耳に入っている。冒険者たちがその対応に苦慮していることも。


 大きな道を通行止めにするからには、それなりの理由があるはずだ。

 それを、たかが「海が見たい」なんて我儘で、曲げてしまっていいものなのか。


 ミティリスは、困った顔をした。

 彼は言う。うーん……。言葉を選ぶように少し視線を逸らして、頬を掻いて、


「細かいこと気にすんなって!」

 代わりに、アルマが答えた。


 聞こえていたらしい。彼は道案内を終えたのか、どっかりとレミルの隣に座り直す。その豪快な座りぶりに、思わずレミルは肩が引けてしまう。寄り掛かられるようにして、ミティリスは苦笑する。


「細かくはないと思いますよ。まあまあ大事です。アルマくんが出るときはいつも」

「そう言ってくれんの、今はもうミティリスくらいだよ」

「絶対そんなことはないでしょう」


 そんなことはないんだけど、とアルマは言う。

 軽口の男だ、と思えばレミルはますます不安になってきて、


「おい、本当に大丈夫なのか? 別に、そこまで私もこだわっているわけじゃない。戻って迂回しても――」


 そこまで言ったところで、気が付いた。

 アルマが、心底不思議そうな顔をして自分をまじまじ見ていることに。


「な、なんだ」

「もしかして、あんまり権力とか振りかざしたことない?」


 どういう質問だ、とレミルは思った。

 あまりにも人生で投げかけられることのない問いすぎて、思考が一瞬、止まった。


「もったいね~!」


 するとその隙に、アルマが思い切り言った。


「オレ、君みたいに偉い立場に生まれたら威張り散らかすけどな。全身にじゃらじゃらアクセサリーとか付けて」

「は、はあ?」

「だって、使えるもの使わないの勿体なくね?」


 言っている意味が、よくわからない。

 ついレミルは、逆隣を見た。自分でもそうとは自覚していないが、助けを求めて。


 しかし助けを求められた方はといえば、何かハッとしたような顔をしている。

 何をハッとしたような顔をしている。そう思ってレミルが袖を引けば、「ああ」と我に返る。


「まあ、そうは言っても責任ある立場ですから……」

「こんなちっちゃい子に責任持たせようとしてる方がヤバくね?」

「さっき自分で言ったこと覚えてます?」

「オレはちょっとヤバいから別にいーんだけど」


 めちゃくちゃだコイツ、という視線をレミルはアルマに注ぎ始めている。

 しかし彼は気にすることもなく、


「やりたいことやりゃいいじゃん」


 あっけらかんとして、言った。


「別にめっちゃ努力が必要ですとか言われたら『それダルい』ってなるのはわかるんだけどさ。立場からして顎で人使えんでしょ? じゃ、どんどんやりたいことやりゃいいじゃん。うじうじ悩んでないでさ」

「う……」


 誰がうじうじだ、という言葉が出そうになる。

 が、上手く出ない。配達カバンから出てきてしばらくの勢いは、いつの間にかレミルの心から消え去ってしまった。あれは夏の幻だったのかもしれない。自分で、そう思う。


 今ここにいるのは、すっかりいつもの自分だった。

 勝手なことを言われても、上手くは言い返せない。言われたことを言われた通りにやって、褒められるだけ。


 残念ながらお兄様の足元にも及ばない、たった数年であんな風になるとは到底思えない未熟者――


「子どもなんか、何言ったって許されんだから」


 そう思っていたら。

 すごいことを、目の前の冒険者は言った。


「オレなんか、この年になっても周りからマジギレされまくってるし。あんま改める気ないし」

「あった方がいいですよ」

「わかってはいるんだけどなかなか直んないよな。性格って」


 まあでも、と一瞬だけアルマは遠い目をして、


「本格的な奴とはまたちょっと違うんだけど……」


 まあいいや、と。


「『海に行きたい』なんてかわいーもんじゃん。自分から先に諦めてないでさ。もっとガンガン、周りに言ってみなよ」


 そう言って。

 まるで気の良い兄貴分みたいな顔をして、笑った。


「アルマ。そろそろ着くぞ」

「お、マジ?」


 もちろんレミルは、こう思っている。

 勝手なことを言うな。


 さっきは周りに気を遣えと言われて次は何だ。子どもなんだから責任がない? そんな我儘かわいいもの? ふざけるな、と思う。お前たちに私の何がわかる、と思う。そんなことは常日頃から考え続けている。これをしたら誰に迷惑がかかる。これをしないと誰に軽蔑される。内側から見る『私』はこれをしたいけれど、外側から見る『私』はこれをしてはいけない。したくないけど、しなくちゃいけない。そういうものが日々山積みになって、それがどれだけの高さに見えるのか、それをいつか自分の背丈が追い越すことのできる日が来るのか。


 そんな不安は、お前らには決してわかるはずがない。

 わかるはずも、ないのに、


「しょくーん! 待たせたなー!!」


 アルマが、車の上で立ち上がる。


 それはもう、堂々とした声だった。大声。思わずレミルは、尻尾を踏まれた猫のようになる。隣でミティリスが苦笑している。


「真打登場! 今日の仕事はこれで終わり!」


 呼び掛けているのは、仲間の冒険者たち相手らしかった。


 しかしどうも、このアルマという男、あまり仲間との関係は良くないらしい。いや、むしろ良すぎるからこうなるのか。ほんの一瞬その場に居合わせただけのレミルには本当のところを知る由もないが、向こうからはこんな声が返ってくる。


「あ、アルマ!?」

「おい誰だ呼んだ奴!」

「リーダー! おい! ぽーっとした顔してんな! あいつクビにしろ!」

「もういいよ今日暑ぃし。さっさと終わらせようぜ」

「いいぞ、やっちまえ!」

「やっちまっていいわけねえだろバカ!」


「〈其は黄金にして赤熱する灼火の剣〉!!」


 そして、それらを掻き消すほどの、勇ましい詠唱。

 凄まじい魔力が、アルマの剣に宿るのを見た。思わずレミルは、口を開いたり閉じたりした。さらにアルマの詠唱は続く。車は止まらない。途轍もない音を立てて激走している。言いたいことが山ほどある。


 山ほどあるのに。

 問いかけにもならない言葉が、選ばれた。


「や、やかましすぎる……!」


 ああ、と隣でミティリスが頷く。

 まるで焦った様子もない。最初にあった頃とは大違い。妙に大物めいて見えるやり方で、彼は頷く。


「まあ……」


 答えてくれた。




「言いたいことがあるから、声が大きいんでしょうね」


「――――輝けェ!!!!」




 そうして。

 山積みになった全てを吹き飛ばすような爆音の果てに、海はあった。




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「レミル!」


 フェリシーはあのとき、その音を聞いても「ああ、いつものね」としか思わなかった。

 けれど、インガロットはそうではなかったのだと思う。


 合流は、思ったよりもずっと呆気ないものだった。

 爆発音を聞いてから駆け付けるまでの間に、すでに会場は出来上がっていた。会場というのが何かといえば、海で、夏でと来ればひとつしかない。


 バーベキュー。

 焼きとうもろこしを頬張っていたレミルは、駆け付けた兄の形相に固まった。


 フェリシーから見ても可哀想になるくらいの血の気の引き方だった。というか、フェリシーもフェリシーで血の気が引いた。生徒会に入ってからというものフェリシーはこのちょっと年上で苦労性の男を散々怒らせてきて、何なら「この人別に怒っても怖くないわ」と気付き、舐めて掛かり始めていたくらいなのだけれど、今日という今日はちょっとビビった。この人こんな顔するんだ、と思った。


 烈火のごとき説教が始まる。

 驚くべきことに、いい年こいた周りの大人が、誰ひとりとして仲介に入らない。怖すぎて。


 で、フェリシーも一旦目を逸らすことにした。

 これも家族のスキンシップのひとつだろう、と結論づけて。


 久しぶりの友人たちも、そこにいた。

 シオとは最近会ったばかり。反応はそれほどのものでもない。ミティリスは、自分の名前を呼ぶと同時にあからさまにほっとした顔をした。頼りにされているというのは、悪い気のすることじゃない。一方でアルマは「げ」と声に出したので、悪い気が芽生えた。こいつに言われる筋合いはない、とフェリシーは思う。本当に、そんなにないと思う。


 で、途中の馬車でいつの間にか意気投合していたふたりが、まるで場の雰囲気を読まずに言う。


「ええ匂いやね」

「旅の終着点としちゃ、なかなか上等だ」


 どう見ても、食べる気満々で。




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「いやこの人オレよりヤバいよ。前にちょっとだけ一緒に仕事したことあるんだけど、オレいまだに引いてるもん」

「すげえ……」

「世の中は広いな……」

「真に受けないでもらっていいですか?」

「真に受けてもらっていい? ホントのこと言ってんだからさ」


 そしてフェリシーの役どころとしては、おおむねそんなところだった。

 街道を封鎖していた魔獣を一撃で打ち倒したぶっ飛び冒険者から「この人の方がヤバいよ」と名指しされ、酒の肴に使われる。そういう哀れなピエロの役だ。一応子爵令嬢なのに。


 アルマはそんな調子で、冒険者たちと楽しくやっていた。

 聞くところによると、相変わらず人の言うことを聞いたり無視したりで自由にやっているらしい。「最近は怒られないギリギリのラインがわかってきたぜ」と豪語していたけれど、「本当なんですか?」と他の冒険者たちに訊いてみると「いやそんなことないっすよ」「普通にガチギレしてます」との答えが返ってきた。再び彼が冒険者パーティから追放されて金に困る日も近い……かは知らないが、一応これでも元雇用主だ。アフターフォローも義理のうち、と少しだけ優しさを出して「でもこの人、一線は弁えてますし、本当に危ないことは自分からは絶対やらない人ですから」と褒めておいた。ちなみにアルマは、これが一番効いていた。


 シオは、すごい勢いで食べていた。

 ついこの間会ったときはほんの短い時間のことだったから、一緒に食事までは摂らなかったけれど、こうして見るとやっぱり変わらないらしい。数人の冒険者が大食い対決を挑んでいたけれど、「そういう無意味なことはしない」と丁重に断りつつ、その数人の全員を合わせたよりも大量の食事を口に運んでいた。フェリシーは、もちろん彼に謝った。「ごめんね、変なところで仕事頼んで、変なことになっちゃって」……実際、自分が謝るようなことがどこかにあったかと言われると微妙な気もするけれど、形だけの謝罪というのは心を楽にしないでもない。そしてもちろん、シオは「気にするな」と言った。むしろ落ち度があったのは僕の方だし、僕は僕で目一杯走れる口実もできてバーベキューもできて楽しい仕事だった、と。人の優しさに感謝する日々である。


 オズウェンは、コンと怪しい話をしていた。

 ので、見なかったことにして立ち去ろうとしたら捕まった。「なんで逃げてん。可愛い後輩にひどいわあ」「可愛い先輩にも酷いな」報酬分配のときも薄々思っていたけれど、ひょっとして自分は会わせてはいけないふたりを引き合わせてしまったのではないか。さっきよりも強めの罪悪感がフェリシーを襲う。が、このふたり、厄介なのは基本的には気の良い人間であるということで、よくよく考えると何も関係ないのにここまでついてきてくれている。どうもどうも、と礼を言うと「何言うてんの」「お前もそんなに関係ないだろ」とあっさり礼を突っぱねて、それより、と怪しい儲け話を持ち掛けてくる。これが意外と中身を聞いてみると、魔術師の自分にとってはなかなか真面目に面白い話だったりして、また厄介。律さねば、とフェリシーは思う。身を助ける特技もあれば滅ぼす特技もあるのだから、強い気持ちを保たねば――と考えたところで「そういえばそれって目の前のこの先輩が言ったんじゃん」と思い出す。人には良い面もあれば、悪い面もある。


 そして、ミティリスはと言えば。


「――――あれ?」


 いつの間にか、見当たらなくなっていた。




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 奇妙な二日間だった、とミティリスは思っている。

 本当にたった二日のことだったのか、と思う。普通に考えれば、たった二日でフェリアーモ領からこんなところまで来られないわけだから、なおさら。


 しかし、まあ。

 思いがけないトラブルだったけれど――かえってそれが、良かったのかもしれない。


 砂浜は、静かに音を立てていた。


 打ち寄せる波は、来る前に想像していたような色はしていない。アルマが倒した魔獣の処理に――というより、アルマが起こした爆発の処理に、思いのほか時間がかかってしまったから。真夏に爽やかさを加えるような、美しい青色ではなかった。橙色。少しずつ暑気は海の向こうへ旅に出て、肌に当たる風は涼しくなり始めているというのに。


 風。

 本当のところそれも、肌を震わせる音楽のひとつだ。


 音楽の、ひとつ。


「…………」

 そっと、ミティリスはそれを取り出した。


 必要か必要でないかで言ったら、必要でないものではあったと思う。が、もうこれは習慣のようなものだ。何せ、ダンジョンに潜って生死を賭けた戦いを――なんて場面でも、こうして持ち歩いていたのだから。


 弦の楽器が、ひとつ。

 取り出せば、それは夕日にきらめいた。


 思う。結局、スランプの乗り越え方なんてふたつくらいのものだろう。初心に帰るか、前に進むか。簡単なのは初心の方に見えるけれど、実はこれがどうして、なかなか難しい。初心を持って何かに取り組んでいる頃というのは、あまりにも必死で楽しんでいるものだから、自分がどんな状態かなんて覚えていない。となると、前に進む。これも実は難しい。大抵の仕事というのは同じことの繰り返しなわけで、前に進むのはいいけどその先は崖ですよ、なんてことも多々あるからだ。


 それじゃあどうするの、と言ったら。

 たとえば、『初心に進む』とか。


「……あの」


 ざっ、と砂を踏む音がする。

 振り返れば、あからさまに目元の赤い女の子が、おずおずとこちらを見下ろしている。


 ミティリスは、笑って出迎えた。




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「はい」

「……すまん」


 フェリシーがバーベキューの皿を持って声をかけたとき、インガロットは意気消沈していた。

 というより、意気消沈しているのが見えたから、わざわざよく焼けているのを選んで、皿に取って、持ってきてあげた。


 立っているのもなんだから、フェリシーは彼の隣に座る。

 夕日が傾いて、ふたりの影を長く引く。インガロットは、到底夏の浜辺でバーベキューとは思えない綺麗な所作で、皿から食べ物を口に運んでいく。


「……いや、突っ込んでくださいよ」


 フェリシーは、間に耐えかねて言った。


「わざわざ肉だけ取ってきて『お前どういうチョイスだ』『野菜も食わせろ』って言いやすいようにしてあげたんですから」


 これじゃ私がバーベキューで人の皿に盛るのに一切野菜は入れない人みたいじゃないですか。


 なんて言い分は、インガロットには通じなかった。しばらく彼は、本気の戸惑いを見せた。それから言った。そういうものかと思った、と。そしてそこから、小言にも繋がらなかった。


「大丈夫だ。これはこれで、味がある」


 相当な重症だ、とフェリシーは思った。


「シスコンだから今まで一度も怒ったことなかったんですか?」


 あの子、と言ってはみるけれど、もうフェリシーはレミルがどこにいるのかわからなくなっていた。

 しかし流石に、あれだけ叱られた後にどこかにひとりで勝手に消えていくことはないだろう……。そのはずだよね? うっすら不安が心に差しつつ、インガロットがこの場でのんきに座っているのだからと、自分を納得させてみたりする。


「そのシスコンというのはよくわからんが」


 インガロットは、意外に早食いだった。

 空になった皿を置く。珍しく行儀悪く浜に手をついて、上体を少し後ろに倒す。


「あまり気分が良くなるものでもないだろう。俺が普段から気にかけていれば防げた過ちを、自分を棚に上げて叱りつけるというのは」

「そんなもんですか」

「お前は違うのか」


 と言われても、と。

 フェリシーは、過去の自分のことを考えて、


「私って、怒るときは大体自分が大ピンチになってるんで……。それどころじゃないっていうか……」

「……ああ……」


 妙に納得されてしまうと、それはそれで納得いかないものがある。

 が、少しずついつもの調子に戻ってきた気もした。たまには、とフェリシーは思っている。たまにはそう、普段から顎で使ってくるいけ好かない人ではあったけれど、最近はそういうこともなくなってきたし。旧知の友人のひとりとして、励ましてやってもいいだろう。


「大丈夫です。怒られた方は怒った方ほど気にしてないっていうか、次の日には忘れてますから」

「それはお前だけだ」


 そして気にしろ、とインガロットは言う。前向きに検討します、とフェリシーは答えて、知らん顔でとうもろこしを齧る。


「……ふ」


 変わった声が聞こえた気がした。

 したので、隣を見た。


 世にも珍しいものが見えた。


「……副会長って、笑ったりするんですか」

「当たり前だ」

「私はてっきり感情のない魔術人形か何かなんだと……」


 今までも笑ったことくらいあっただろうが、と。

 言葉とは裏腹に、彼の声は少し明るい。そりゃあったけど、とフェリシーは思う。思うけれどそれは、今見ているものとは違う。



「お前と結婚する相手は、幸せだろうな」


 そして自分の知るインガロット・イングレディオは、こんな話題の振り方をしない。



「…………」

「何を身構えている」

「いや……どこかで偽者に入れ替わったのかと」

「お前が昨日言った話題を振り直しただけだ。別に、そう不思議なこともないだろう」


 いや、不思議だ。

 が、不思議すぎて会話を切るのも勿体なくなってきた。


「気付きましたか。私の有能さに」

「有能だと思わなかったら、そもそも生徒会に引き抜いていない」


 この会話がどこに向かっていくのか、見届けたくなってきた。


「ちなみに、どんなところでそう思ったんですか。顔?」

「訊いてどうする」

「今後お見合いの話が出てきたときに釣り書きにその文を添えておこうと思って。『イングレディオ次期公爵閣下お墨付き!』って」

「そもそもお前、見合いなんてするのか。子爵家を継ぐつもりはないんだろう」

「……確かに」


 なんだそれは、とインガロットは言う。

 その顔もやはり、笑っている。


「お前といると、気が楽になるよ」


 そして、わざわざ理由まで教えてくれた。


「いつも騒がしいというのもそうだが、どんなトラブルが起きても結局は何とかなる。そんな気がしてくる」

「……はあ」


 そう直球で言われると、フェリシーの方も反応に困ってしまって、


「というか、大体のことはそもそもトラブルじゃないんですよ。副会長が細かいこと気にしすぎなだけで」

「そうか」

「そうです。取り返しのつかないことなんてそうないんですから、どーんと構えておけばいいんですよ」

「そうない取り返しのつかないことを前にしたら?」

「焦りましょう」


 何だそれは、と。

 小さく、彼は笑った。


 横顔を見て、フェリシーは思う。何だかちょっと、見たことのない姿だったから。


「そんなに大変ですか。生徒会、引退してから」

「……まあ、そうだな。いよいよ子どもから大人になるわけだ。そう簡単に行くことばかりではない」


 色々とな、とインガロットは答える。

 その『色々』の色について、小さな子爵家の娘にわかることなんて、ほとんどないけれど。あれだけ頼りになるように見えた人が重荷に感じることが起こるって、一体学園から出るとはどういうことなのか、自分の周りにいる社会に出た人々――アルマやシオ、オズウェンやミティリスは大層気楽に見えるけれど、あれはあれですごい人たちなのかとか、思うところはあるけれど。


 けれど、フェリシーは。

 ぽん、と背中を叩いた。


「元気出せ」


 それで本当に元気が出たのかなんて、わからない。

 ただ、波が打ち寄せて、日が傾いて、インガロットの背中の熱が、フェリシーの手のひらに移るまで、十分な時間が経って、


「ところで」


 不意に、インガロットが言った。


「俺はいつまで『副会長』なんだ?」


 それ前から私も思ってた、なんてフェリシーは思いつつ。

 適切な呼び方も他に思いつかなくて……こんなことを、彼に訊ねる。


「なんて呼ばれたいんですか?」


 後の言葉は、夏の風がどこかに連れ去ってしまった。




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「実は、私もスランプだったんです」


 いきなり『私も』なんて言われても、向こうからすればピンと来ない話だろう。

 それでも、話をしたがっているのはわかってくれたらしい。レミルは、行儀よくミティリスの隣に腰を下ろした。


 ごめんなさい、と言って回る途中らしい。

 自分の番が最後だったらいい、とミティリスは思った。それなら、後のことを気にしなくて済むから。


「……音楽のか?」


 向こうは幼いのに、随分と察しが良い。

 自分が同じ年の頃はどうだったかな、とミティリスは考える。何も考えていなくて、人を困らせたり怒らせたりしてばかりだった気もする。


 ええ、と頷いて、弦を少しだけ弾いてみた。

 ぱ、とレミルの目が開く。


「まさか、その曲を?」

「はい。よかったです。知っていてくれて」


 ちょっとは恰好がつきました、とミティリスが言えば、レミルはそれどころではなかった。


「知っているも何も……」


 けれど、彼女はそれ以上は言わない。

 やはりそれも、もっと話したいことがあるのだろうと、察してくれてのことかもしれない。


「自分が言いたいことを言うって、難しいですよね」


 ミティリスは、それに甘えた。


「自分の好きなことを好きなように……というのは、確かにひとつの理想なんですが。言葉も音楽も、やっぱりどこかしら『相手に伝えようとする』意図があるものですから。そうしてばかりもいられない。仕事なら、なおさら」


 ゆっくりと、レミルはその言葉を咀嚼する。

 うん、と小さく頷く。


「……まあ、私程度の子どもが言うことでもないが」

「そんなことありませんよ。人の苦しみの重さは、人それぞれです」


 するすると、ミティリスの口からは言葉が出てきた。


 初めにあった頃と比べれば嘘のようだ、と自分で思う。話すべき言葉が、話したい言葉が決まっているというのは、本当に楽だ。


 少し勇気は要るけれど。

 これだと思うことを、ミティリスは言った。



「人の期待に応えるのって、楽しいですよね」




卍  卍  卍




 レミルは、兄から散々に怒られた。

 それはもう、これまでの記憶にないくらい。これから何があっても「あのときに比べれば大したことじゃないな」と引き合いに出してしまうくらい。


 だから、自分が憔悴していたのもわかっていた。

 たった一泊二日の付き合いで何をと言われても、この目の前にいる男の大体の性格も、わかっていた。


 だからてっきり、真逆のことを言われると思っていた。


「そう、なのか」


 思っていたから、気の利いたことは何も言えない。

 それでもミティリスは、微笑んだ。


 そうですよ、と。


「この仕事を始めたころ――まあ、ちょっと自慢話になってしまいますが。仕事がどんどん舞い込んできたんです」


 それはそうだろう、とレミルは思う。

 ミティリスがついさっき奏でた曲は、自分も知っていた。新進気鋭。あの辺境の子爵領に住んでいても耳に入るのだから、それはもう、素晴らしい実力を持った音楽家なのだと思う。


「で、私も調子に乗ってどんどんそれを受けました。どこそこで使ったとか、反応はどうだったとか、次もぜひとか、そういうことを言われるたびに、気分が良くなりました」


 相槌しか打てない。

 うん、と小さくレミルは頷く。話の続きを、静かに待つ。



「でも、飽きました!」



 仰け反った。

 あまりにも、これまでの印象からかけ離れた素直さで言うものだから。


「あ、飽きたって――」

「好きなことでも、ずっと続けていればそのうち飽きるんです」


 それはとても、実力のある音楽家の台詞とは思えなかった。


「でも、きっとそれでいいんです」


 けれど、ミティリスの表情はとても晴れやかだった。

 彼は、レミルを見る。


「今日、」


 レミルは、まだミティリスの言うことを呑み込めていない。


「違う人から正反対のことを立て続けに言われて、腹が立ちませんでしたか?」

「――――」


 けれどその質問は、完全に図星だった。


 オズウェンから言われた。人の迷惑も考えろ。

 アルマから言われた。勿体ね。好きなことやんなよ。


 兄から言われた。

 人がどれだけ心配したと――


「でもあれ、私もあんなものです」


 しかも私ひとりで、と。

 ミティリスは笑った。


「あんなもの……」

「つまり、ああいう矛盾したことを一度に頭の中で考えてるんです。人の迷惑を考えなくちゃ。でも好き勝手したい。いや人の悲しむ顔を見たくはないな。でもたまには自分のことも大切にしないと」


 今の言葉の意味くらいは、レミルにもわかる。

 まだ、話がどこに向かっていくかはわからないけれど。「自分のことも大切に」という響きに、不思議な心地よさを感じたりはできている。


「そう思ったら、何だか急に、気が楽になりました」

「……音楽もか」


 音楽もです、と彼は頷く。


「似た曲ばかり書くのは嫌だ。でも、人が期待したものを出してあげたい。もっと自分のセンスを試したい。でも、本当に好きなものを書いたら失望されてしまう。もう疲れたしやりがいもなくなってきたから、音楽を仕事にするのはやめよう。ああでも、仕事の中ではこれが一番好きだ……」


 そして少しずつ。

 本当に少しずつ、ミティリスの話の意図が、見えてくる。


「レミルさんも」


 彼は、言った。


「別に、イングレディオ家のご令嬢である自分のことが、全て嫌いなわけじゃないでしょう?」


 不思議な人間だ、と。

 ようやく、レミルは思った。


 一泊二日の小旅行。最後に信じがたいほどの大説教付き。そんな旅路の中で出会った人々は、どいつもこいつも変な奴ばかりだった。その中でも、目の前にいる彼は比較的常識もありまともな方。そう思っていたのに。


 今は何だか、やけに鋭い芸術家にも見える。


「……うん」


 実際、そうなのかもしれない。

 そう見えるから、ぽつりとレミルは、吐き出した。


「嫌いじゃ、ない。確かに疲れることもあるし、嫌なこともあるが……」


 レミルは、瞼を閉じれば思い出す。


 烈火のごとく怒っていた、兄の姿。

 その表情の奥にほんの少し滲んでいた心配と安堵の色を。


「……期待に応えるのは、私も、好きだ」


 ミティリスは、やわらかく微笑んだ。

 まるで子どもを相手にする、優しい大人のような顔をして。


 少しだけレミルはそれが気に食わなくて、けれど同時に、不思議な居心地の良さも感じている。


「これは『今日から』私の持論ですが」


 そう、得意げな顔で彼は言った。


「別にたったひとつ『これ!』という自分を決める必要はないんです。同じことに対して『好きだなあ』と思ったり『嫌だなあ』と思ったり、そういう自分が一緒にいても、別にいいんです」

「……しかし、嫌なところがあるものを、好きだ好きだと言って続けるのも、つらいだろうう」

「大体九割くらい好きなら大丈夫なんじゃないですか?」

「どこから出た数字なんだ、それは」


 適当に、とミティリスが言う。

 その無責任さに、レミルは笑いそうになる。でも、とも思う。


 別に、目の前の人間に自分の人生の責任を取ってもらおうとは思わない。

 目の前の誰かに限らず、誰にも。


「好きな日は続けて、嫌いな日はやめればいいんですよ。好きになったらまた、戻ってくればいいんです」


 ふん、と鼻で笑った。


「そんなものは自分が許しても世間が許さん」

「あはは。確かに。それは貴族の方と気楽な音楽家の違いですね」


 皮肉をそのまま肯定されると、それはそれで面白くない。

 む、とレミルは口を尖らせる。が、すぐに思う。音楽家と言ったって、まさか本当にそこまで簡単に仕事を投げ捨てられるわけではあるまい。この軽口は、本音ではない。本音があるとするなら、


 きっと、この次。



「でも、たまにこうして旅行に出るくらいはいいんじゃないですか?」



 波の音が、ようやく耳に届いた。


 不思議なもので、そうして誘導されるまでは、すっかり目に入らなくなっていた。


 海。

 到着したときも、実はあんまり。


 海に行ってみたい、と言ったのは満更嘘ではなかった。けれど、本当のこととも言いがたかったように思う。山でも川でもダンジョンでも、行ったことのない場所ならどこでもよかった。旅に出る理由が、寄り道する理由ができれば、何でもよかった。


 いざ目にしてみても、その前の大爆発の方が強烈すぎて、いまいち上手く反応できなかったし。


 海に着いて、後は怒られに帰るだけだと思えば、バーベキューも憂鬱で。


 でも今は、不思議なくらいに輝いて見える。

 一生、覚えていてもいいと思えるくらい。


「……改めて、礼を言う」


 口を小さく開く。

 この夏の音が、音楽家の耳から掻き消えてしまわないように、ささやかに。


「色々と迷惑をかけて、そのうえ、世話になった」

「いえ。私にとっても良い機会になりました」

「そう言ってもらえると、助かる。…………」

「……あ、訊いてもらっても大丈夫ですよ」


 黙っていたら、察された。

 そこまで察しているなら、自分から言ってくれればいいのに。そう思いながらもレミルは、


「音楽の方のスランプは、大丈夫か?」

「仕事の方は、帰ってみないと何とも」

「そうか、」


 忙しいときに悪かった、と、


「でも、あなたに聴かせたい曲は思いつきました」


 言う間もなく。


「私に?」

「初期衝動ですね。やっぱり、聴き手を前にすれば不思議と曲が浮かびます」


 まあ、レミルは。

 悪い気はしていない。仕事の方と関係ないのが心配……なんて考えは、本当に頭の隅の方。知っている作曲家が、自分のためにと浮かべた曲。聴いてみたくないはずはない。


 彼が楽器を確かめる最中に、つい訊いてしまう。


「どんな曲だ?」

「冒険譚です」

「は?」


 よいしょ、と。

 平然と彼は、膝の上に弦楽器を載せ直した。


「凄まじい借金を背負った令嬢が、やかましい四人の従者を連れて駆け抜ける話です」

「…………」


 呆れていいのか、わからない。

 が、色々と考えた末に、レミルは一旦呆れてみることにした。


「あれ、お気に召しませんか」

「全然、シチュエーションと合っていないだろう。夏はともかく、夕暮れだ。もっとしっとりとした曲が……」

「それは残念。でも聴いてもらいます。奏でたい曲がありますから」


 彼は弦楽器のペグを回す。音を合わせて、着々と準備を進めていく。あー、あー。喉の調子だって確かめて、それから「あ」と、


「この曲の内容は、あまり言い触らさないでくださいね」

「なぜだ」

「いや、もしかしたらインガロットさんに怒られるかもしれないので」

「は!?」


 思わずレミルは、ミティリスの楽器を奪い取ろうとしてしまった。

 ひょい、とミティリスがその楽器を頭の上に持ち上げれば、悔しいことに、届かない。


「なんだそれは! これ以上お兄様に怒られるのはごめんだぞ!」

「しー……。あまり大きな声を出さないで」


 すると、不敬にもミティリスは唇の前に指を立てる。

 それがレミルには効いてしまう。後ろを見て確かめて、誰もいなくて、


「まあでも、レミルさんになら大丈夫だと思います。…………多分」

「多分、ではない。何かあったときに責任を取れるのか」

「大丈夫ですって。レミルさんが可愛く謝れば、きっとインガロットさんもフェリシーさんも許してくれます」

「何を寝言を……フェリシーさん? なぜその人の名前が――」

「寝言じゃありませんよ、素敵なお嬢さん。自分の可愛らしさに自信を持ってください」


 じゃらん、と彼は弦を鳴らす。


「そしてきっと、」


 微笑む。


「この冒険譚も、大変お気に召すはずです」


 言うべきことは、多々あった。


 絶対にそれは、こんな雰囲気の中で歌う曲ではないはずだとか。

 どういう事情があるのか知らないが、私はもうお兄様に一生分怒られ尽くしたのだから余計な心配の種を増やしてくれるなだとか。


 大体その冒険譚って、どう考えても長くなるだろうとか。

 帰りが遅くなったらどうするんだとか。


 次々と言葉は思い浮かんで、でも、結局選ばれたのは、こんな言葉。


「……なぜ、その曲を私に聴かせたいんだ」


 待ってました、とばかりの反応だった。

 とびきりの笑顔で、ミティリスは笑う。曇りもなければ悩みもなさそうな、澄んだ声で、こう答える。



「元気になると思うからです」




 そうして夏の終わりの、長い夕暮れ。

 やかましいほど賑やかな浜辺の一角に、ふたりの人が座っている。


 片や新進気鋭の音楽家。

 片や新進気鋭と言っても過言でない観客。


 観客の少女は、もはや言うべき言葉を失って、波に身を任せるように、音を待っている。


 音楽家の青年は美しい指先で弦を弾き、口を開き、喉は、美しい歌が生まれるのを待っている。


 それは秘密の物語だから。

 始まりは、こんな言葉から。



 さ、


「耳を澄ましてみて――」




(了)

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― 新着の感想 ―
何周もできるレベルに好きな話なので更新が嬉しい! そして終わりも始まりに繋がる形で綺麗!!! ありがとうございます
全員大集合のボリュームたっぷりエピローグって感じで凄いありがたい。読んでて楽しかったです。
いつも楽しい物語をありがとうございます! 作者さんの作品が大好きです!
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