エピローグ 十月 月を編む繭
二人が待ち合わせた場所は、空き地だった。
粗末な塀と野放図な雑草に囲まれて、二人は立ったまま向き合った。
秋の夕日は、今にも闇に飲まれようとしている。
灰色の髪をした青年が、黒髪の青年に向かって、口を開いた。
「誤解を解くのを忘れていた。僕は、君のことが二の次だったわけじゃない」
「どうかな。あまりご執心いただいていたようには思えなかったが」
「君に見向きもしなかった、ということじゃない。ただ、……君だけは、何があっても絶対に僕の友人でいてくれると信じていただけだ。勝手にもね」
「まあ、そういうことにしておくか。大変勝手だけどな。言っておくが、キリの繭の部分だけを鳴島から引きはがせないからって、鳴島の繭を無理矢理ごっそり切り取るような真似でもしてたら、今こうして平和になんて話してないからな」
「これも、誤解のないように言っておくが。それは彼女を不要に傷つけないためではなく、そんな不純物だらけの繭なんていらなかったんだろうね、あの時の僕は」
「ろくなもんじゃないな」
「欲しいものは、一部じゃ足りないし、無駄な部分もいらない。純粋だろう? 理解できないほどに」
灰色の髪の青年は、別れの挨拶も交わさずに、空き地から出ようとした。その足元から伸びた影が長い。しかしその横には、同じくらい長く伸びた、黒髪の青年の影が並んでいるのを、彼は見た。こんな風に、並んで過ごした時期があった。ずっと昔に。今はもう違う。
「お前、今何をしていて、これからどうするんだ?」
「前にも言ったろう。今の僕なりの――償い方があるさ。君こそ、僕をどうにかしたいと思わないのか」
「考えたこともあるけどな。ただ、死者も生者も、その尊厳を守れるのは生者の理性しかない。そうとも思ってるよ。お前はまだ、僕にとってはかろうじて理性の範疇内ってことだ」
二人とも、少し笑いたくなった。しかし、微笑みもしない。
「だから君の傍にはいられない。君に許されるわけにはいかない」
誰も許すなんて言ってないだろうが、と言葉にする前に、空き地には黒髪の青年一人が残った。
「さて……帰るか。日曜日の日暮れって、何だか早く感じるよな」
空を見上げる。血のような赤が、今まさに遥か遠くで点になり、消えようとしている。
その時。
「クツナ」
アルトが、再び空き地の入り口に立っていた。乏しい光の中、かろうじてその顔が見える。
「何だ」
「……僕が」
「ああ」
「僕が悪かった。取り返しのつかないことをした。済まなかった」
周囲の街頭の光量が足りないのか、太陽が沈むと、周囲はひどく暗くなった。
クツナが気がついた時には、もうそこに幼馴染の姿はなかった。
「遅いです。少し出かけるって、何時間経ってるんですか。誰と会ってたんです?」
自分の家に戻ったクツナは、よく吠える飼い犬を尻目に玄関に入るや否や、アルバイトの高校生にそんな風に責められていた。
「いや、悪い。会ってた時間はほんの数分なんだが、家からはつい早く出ちまったんだよ。まあいいじゃないか、今日は依頼も午前中に終わったし」
「クツゲンさんも今日は遅くなるって言ってましたし、電話番しないといけないと思って残ってたんです。そうでなければ、尾幌先輩とどこか出かけられたかもしれないのに」
尾幌エツには、夏休みが終わる前に、クツナの方から必要な範囲の事情を話してあった。エツは驚いてはいたものの、その後もシイカとはよい友人でいてくれている。
「ところで、どうだ鳴島。最近は何か、仕事内容に不満とかあるか?」
「不満てほどじゃないですけど……。ただ、私には繭も見えないし触れないので、クツナさんが繭使いをしている間、何もできないでぼーっとしているみたいで、それは時々何というか……いたたまれないものがあります。アルバイト料だって、多めにいただいてますし」
「ん。手伝ってみたいか?」
「依頼者の人たち、皆、救われたような顔になって帰っていくじゃないですか。そういうのは、いいなって……思います。不思議なお仕事ですけど、でも、いいお仕事ですよね」
二人は居間へ移った。シイカが紅茶を二人分淹れる。クツゲンはよく茶葉を大瓶で買ってくるのだが、それがしけってしまわないように、最近はクツナも半ば強制的に紅茶派となって、消費に協力していた。
「でも私、どうしてこのアルバイト始めたんでしたっけ。私、こんな不思議な能力のこと、簡単に信じるような性格じゃないと思うんです」
「まあな」
「私、ここで働くの好きですよ。でも、何か、時々……変なんです。辛いっていうか、あ、いえ、辛いといっても、嫌だとかではなくて……」
シイカはぱたぱたと手を振った。口数は以前より増えたし、身振りも大きくなっている。しかし時折、一人で何かを悩んでいるのも事実だった。
「変な言い方になっちゃうんですけど……ここにいればいるほど、不安になることがあるんです。これでいいのかな、私ってなんでこうしてるんだっけって。何の役にも立ってませんし。依頼者の方を少し接客したり、ちょっとヒアリングするくらいじゃないですか。私、アルバイトっていうほどのことできてるんでしょうか」
「見てみるか?」
紅茶のカップをクツナがソーサーに置く。アールグレイの水面が小さく揺れていた。
「え?」
「君に何ができて、どんなことをしてくれたのか、見てみるか」
「どういうことです?」
クツナは、長袖の青いシャツの胸の辺りを指さした。
「今ここに、君の記憶の繭がある。以前、君がある――依頼者に、与えたものだ。この繭は、一度はその依頼者の一部となって、彼を助けた。でもそいつが、二か月以上もかけてようやく、きれいに、過不足なく、自分の繭から切り離してくれた。そいつには、もう充分役に立ってくれたってな。僕がさっき会ってきたのは、そいつなんだ」
「私の……? どうして……」
「それも、この繭を君に戻せば分かる。ただ、楽しい思い出ばかりじゃない。それでもいいって気になったら言ってくれ。いつだって――」
「いいです。ください、その記憶」
シイカは、両手の拳を握って、前のめりになって言った。
「お、おお。即決だな。いいのか?」
「分かるんです。それが、とても大切なものだって。私がずっと欲しかったものだって」
「承知した。辛かったら、すぐ言えよ」
施術室でもないリビングで、二人はローテーブルを挟んで立った。
クツナが慎重に、しかし手早く、自分の胸につなげていたシイカの記憶の繭を切り離し――そしてシイカにつなげていく。
やがて、クツナの手がシイカの繭から離れた。術式は終わった。
シイカは何も言わずに立ち尽くしている。
一分。二分。
クツナは身をかがめて、シイカの顔を覗き込んだ。面白いほど真っ赤になっている。
「鳴島」
「……はい」
「クツナサンノ記憶ヲナクシテモ、クツナサンノコトハ忘レナイヨウナ気ガスルンデス」
「わ……忘れてないじゃないですか」
「どこがだっ!? 今の今まできれいさっぱり忘れてただろうが!」
「お、覚えてましたよ! 変わったアルバイト先の変なことができる人です!」
「そんな認識だったのか、この何ヶ月……! 肝心なことは忘れまくった上で……」
「仕方ないじゃないですか、繭がなくなっちゃってたら!」
「言ってることが違うじゃないか!」
「ち、違ってません!」
二人とも立って向かい合ったままで叫び合い、はあはあと肩で息をした。
「君の大声って、久しぶりに聞いた気がするな」
「私も、中学の音楽の合唱の時間とかより今の方が大きい声出したような気がします」
揃って、すとんとソファに腰を下ろす。
「でも、そうですね……大切なことは思い出せましたけど、辛いこともありました。キリさんのこと、クツゲンさんやお母さんのことも」
「『私がいなければこんなことには』とか思ってるんじゃないだろうな」
「少しだけ」
シイカの苦笑を見て、クツナは座ったまま身を乗り出す。
「繭使いは、心や体の傷は治せても、運命は編めない。起こることは誰のせいでもないし、出会うことは常に開かれている。鳴島は、僕たちと出会ったことを後悔してるか?」
「ずるいですよ、そんな言い方は」
「君が君を肯定するためなら、何でもするさ。僕たちはつまるところ、独りぼっちずつなんだ。だから独りではなくなることができる。それを分かって欲しいからな」
シイカがカップを口元に当てた。顔をうつむかせ、カップは少々大きく傾けて、隠した目元をこっそりぬぐう。クツナは、見ないふりをする。
「アルトさん……どうされてました?」
「さてね。とりあえず元気そうではあったが」
「私、思うんですけど。アルトさん、クツナさん以外の人への執着を、切断ではなくて結紮してたんですよね。つまり、切り捨ててはいなくて、ずっと……持っていた」
「言ったろ、切断よりは結紮の方が手っ取り早いんだ。それでも、あるいはその施術が完璧なら、今さら君の中のキリの繭にこだわったりはしなかったかもしれないな。自分への繭使いというのはそれだけ難しいってことでもある」
「不完全な施術だったなら、なぜその後、改めて切断してしまわなかったんでしょう。縛るだけで、繋げたままにしておいた……のは」
クツナがかすかに眉を上げた。小さ過ぎる動作だが、その意味は、シイカへの敬意だった。
「その辺が、あいつの更生においての一縷の望みだな」
シイカがカップを置いた。わずかな沈黙を挟んで、切り出す。
「私……これからもここでお仕事していいですか」
「もちろん。来てくれなくちゃ、困る。もうとっくにそういう存在だよ」
「でも、もう繭使いのお手伝いもできないのに。戻ったのは、記憶だけですもん」
「それでも構わないが、そうと決まったわけでもない」
怪訝な顔をするシイカが、カップを置いた。
「今返した記憶の繭には、アルトのやつが、君の持っていたキリの繭をつなげてあった。君があいつを助けてやった時に移植した繭が、そっくり戻ってきたってことだ。結果、今の君には、以前とほぼ同量のキリの繭が宿っている」
シイカが目を見開く。
「あっち行ったりこっち行ったりして、全くの元通りではないから、前までと同程度の繭使いができるくらいに成長するか、そこまでには至らないか、あるいはさらに伸びるか。どうなるかは僕にも分からないが、試してみる価値はあると思わないか」
「あ、あります! 凄くあります。私、頑張ります」
シイカが上気した顔で立ち上がった。
「僕もアルトもやってるから、なんだか繭の移植ってのは簡単にできているように見えるかもしれんが、結構な革命的技術だぞ、これは」
「凄いです、二人とも」
「ま、必要は進歩の最大の機会ってことだな」
その時、外から犬の鳴き声が響いた。
クツナが頬を掻いて、ぼやく。
「ヨイチのやつ、こんなに鳴くとはなあ。もう少し静かになるよう、しつけられるもんかな」
「元気になりましたよね、本当に」
「そうだな」
「私も」
「ああ」
シイカが紅茶を淹れ直した。
「クツナさんが、いつか言ってたんですけど」
「何だよ」
「いいコーヒー豆を、人と分かち合いたい時があるって。私も今、このお茶を淹れていて、そんな気持ちです」
「僕もだよ。繭を使わずに分かり合うってのも、いいもんだろ」
テレビもついておらず、屋外からも特に物音は聞こえない。
静寂の中、しばらく、二人も黙る。
それでも居心地が悪くなるということもなく、何か話したいことがあれば口にするだろうし、そうでなければ、ただ静かにしている。
そんな自由な沈黙があることに、シイカは驚いていた。
手の中のカップが温かい。いい香りがして、落ち着く。
お互いの大切さが、そんな空間にたゆたっている。
そして家に帰れば、以前よりもずっと安らいで眠りにつける。
目線が合うと、クツナが、目と口元で笑った。
シイカも笑う。
幸せだな、とシイカは思った。
END




