1話 桶狭間の戦い
遠江国榛原郡大井川城 一色政孝
永禄三年五月下旬
永禄三年五月十九日。この日、運命の歯車が激しく音を立てて動き始めた。
遠江一色家の居城であった大井川城には不穏な空気が漂っている。俺の母である華様もまた暗い表情で広間に飛び込んできた兵の言葉を待っていた。
「一色山城守政文様、桶狭間の地にてお討ち死ににございます…」
無念そうに声を絞り出すその兵は、何も言わない母に頭を下げて広間から慌ただしく出て行った。
周りの者らは声を押し殺して涙を流している。そしてそれは当然母も同様だった。
そうか・・・、父上は死んだか。
不思議と俺の目から涙がこぼれることはなかった。なんとなく父上が出陣したあの日からこうなるような気はしていた。
桶狭間の地にて父が死ぬということを。覚悟は数日前から出来ていたのだ。
「右門殿、あなたは泣かぬのですね。あなたの父がお討ち死にされたというのに」
母は涙を流しながら俺に問いかける。その声を聞いてフッと我に返った。
「俺は父上の子にございますゆえ、逝ってしまわれた父上に涙を見せることは出来ませぬ」
なんて言っているが本当は知っていたんだ。尾張国桶狭間の地にて主家の大黒柱である今川義元公が討ち死にすることも、それ以降今川家が没落していき江戸時代になるころには今川という大名がいなくなっていることも。
なんていったって俺はこの時代の人間じゃない。前世の・・・、いや違うな。正しくは後世の歴史を知る2000年代を生きた一般人なんだ。
「強いのですね・・・」
「俺は強くなんてありません。それより今は存分に泣いてください。そしてその後は・・・」
「後は?」
「我らが父上の意志を継いで今川家をお支えしていくのです」
母はまた泣き出してしまった。母は先々代今川家当主である今川氏親公の娘で、かなり濃い今川の血筋の人間だ。俺の言葉で母が安心したというのであれば、今はそれでいい。
俺こと一色右門政孝の前世は本当にただの青年だった。ある日目が覚めると見知らぬ天井、見知らぬ人たち、そして見知らぬ自分がいた。
ある程度大きくなってから知ったことだが、ここは遠江国榛原郡の大井川領という地。そして亡くなられた俺の父は遠江山城守一色家の当主で大井川城城主一色政文という人物だった。母の名は先述したとおり華といい、先代氏親公の娘。
現当主が今川義元だというから年代的には千五百年代だと思われる。そんなことを考えていたそばから起きてしまった桶狭間の戦い。
もし俺の知っている世界だとすれば、この日が東海の覇者であった今川家にとって最悪の日になることは間違いない。
別に俺も特別今川という家に思い入れがあったわけでは無いけれど、この時代に生まれた限りは天寿を全うしたい。そのためにこの傾きかけた家を建て直してやる。
これは後世の歴史を知る一人の男が歴史を紡ぐ物語である。
最後までお付き合いしていただきありがとうございます。
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