第7話:物理(スキャンダル)で殴るいじめ解決、そしてヒロインは完全陥落する
魔法学園に入学してからというもの、私の生活は『平穏』とは対極にある地獄のような日々へと変貌していた。
学園の廊下を歩けば、物陰から「エルナ嬢……君の魔力配列のサンプルを一つ……」と呟きながらユリウスが這い出てくる。
中庭に出れば、どこからともなくバルドが現れ、「師匠! 今日の組手をお願いします! 俺を鍛え直してください!」と大剣を振り回して追いかけてくる。
油断して図書室へ逃げ込めば、ドM王太子アルベルトが「君のその冷たい視線、もっと私に向けてくれないか? ああ、今日の君も最高に無愛想で美しいよ」などと耳元で囁きかけてくる。
そして極めつけは、なぜか私に絶対的な忠誠(と百合的な愛情)を誓ってしまった本来のヒロイン、マリアである。彼女は事あるごとに「エルナ様! 私のことはどうぞ踏み台になさってください!」と目を輝かせて付き纏ってくるのだ。
もちろん、それらを遠くから睨みつけている私の義弟、ルカの「姉上に馴れ馴れしくする虫ケラどもめ、僕が全て駆逐してやる」という殺気も日常茶飯事である。
「もう……本当に嫌。実家に帰りたい……いや、実家にはお父様っていう一番の親バカ爆弾があるんだった。どこにも逃げ場がないじゃない……」
私は誰もいない旧校舎の裏手に身を潜めながら、一人で膝を抱えていた。
胃の辺りがシクシクと痛む。このままでは若くして胃潰瘍になってしまう。
私はいかにして彼らからのヘイト(好感度)を削り、モブとしての人生を取り戻すか。そればかりを考えていた。
そんな時だった。
旧校舎の壁の向こう側から、甲高い女性の笑い声と、ひどく怯えたような小さな声が聞こえてきた。
「本当に身の程知らずですこと。平民の分際で、殿下やバルド様にまで色目を使うなんて」
「光の魔力を持っているからって、自分が特別な存在だとでも思っているのかしら?」
私はピクリと耳を動かした。
そっと壁の隙間から覗き込むと、そこには三人の高慢ちきな令嬢たちが、一人の少女を取り囲んでいる光景があった。
取り囲まれているのは、案の定、マリアだった。
マリアの手には、彼女が大切にしている魔法学の基礎教科書が握られている。しかし、令嬢の一人がその教科書を無理やり奪い取ろうとしていた。
「返してください……っ! それは、明日テストがあるから、勉強しなきゃいけないんです……!」
「あら、平民に魔法の勉強なんて必要ないでしょう? どうせロクな魔法も使えないくせに。この教科書は、私たちがビリビリに破いて燃やして差し上げますわ!」
絵に描いたようなテンプレの『ヒロインいじめイベント』である。
乙女ゲーム『ルミナス・ハーツ』において、このイベントは攻略対象たちの好感度を上げるための重要なフラグポイントだ。
ここで攻略対象の誰か――アルベルトやバルド、あるいはユリウスが現れ、「彼女に何をしている!」と令嬢たちを一喝し、マリアを助け出す。そしてマリアは「助けてくれてありがとうございます……!」と涙ぐんで見つめ合い、二人の距離がグッと縮まるのだ。
(よし……! 今度こそ、今度こそ完璧なシチュエーションじゃない!)
私は壁の陰で、両手で固く拳を握りしめた。
前回のような魔物の乱入といったイレギュラーはない。純粋ないじめっ子といじめられっ子。これなら間違いなく、誰かが助けに来るはずだ。
私は息を潜め、「さあ、誰でもいいから早く来なさい。そしてマリアとフラグを立てて、私をこの地獄の逆ハーレムから解放して!」と神に祈った。
……五分経過。
「泣けば許されるとでも思って? 本当に目障りね」
「さっさとこの教科書、燃やしてしまいましょう」
「やめて……っ!」
マリアが涙を流して懇願している。いじめっ子たちは調子に乗って、教科書に火の魔法を向けようとしている。
ちょっと、まだ誰も来ないの?
おかしいわね。ゲームなら、いじめが発生して数十秒で王子様が駆けつけてくるのに。
……十分経過。
「あーっはっはっは! その惨めな顔、お似合いですわよ!」
いじめっ子たちの笑い声が虚しく響く。
マリアは地面に這いつくばり、教科書を守ろうと必死になっている。
そして私はといえば、壁の陰でずっと中腰の姿勢を保っていたせいで、両足が極限まで痺れ始めていた。
(い、痛い……! 足がジンジンする! なんで誰も来ないのよ! いつもは私がちょっと廊下を歩いただけで、どこからともなく湧いてくるくせに! 肝心な時に使えない男たちね!!)
私は心の中でブチ切れていた。
足の痺れは限界に達し、さらに旧校舎の裏という立地のせいで、蚊らしき虫まで私の腕を刺し始めた。
かゆい。痛い。そして何より、早く帰ってベッドでふかふかのお布団に包まりながらお昼寝がしたい。
「もう……限界っ!」
私の「面倒くさい」「早く帰りたい」という感情が、ついに保身の理性を上回った。
これ以上待っていても誰も来ない。マリアの教科書が燃やされたら、それはそれで後味が悪い。ならば、手っ取り早くこの場を片付けて、さっさと寮の部屋に帰るしかない!
「――いい加減になさい、あなたたち」
私はビリビリと痺れる足を引きずりながら、壁の陰から姿を現した。
突然現れた私に、いじめっ子の令嬢三人はビクッと肩を跳ねさせ、顔面を蒼白にした。
「エ、エルナ様……!?」
「なんで、このような場所に……?」
公爵令嬢である私の登場に、彼女たちは慌てて居住まいを正した。
私は無表情を装いながら(実際は足の痺れと蚊の痒みで顔を引きつらせないように必死だった)、扇子をバサァッと広げて口元を隠した。
そして、冷酷な悪役令嬢としての威圧感をフルに放ちながら、彼女たちにゆっくりと近づいていく。
「こんな人目に付かない裏庭で、随分と下品な声を上げているのね。貴族の恥曝しもいいところだわ」
「そ、それは……! この平民が、生意気にも……っ」
「言い訳など聞いていないわ」
私は扇子を閉じ、先頭に立っていた赤毛の令嬢――マルコ伯爵家の娘の耳元に顔を寄せた。
魔法も、公爵家という権力も使う必要はない。私には、このゲームを隅々までやり込んだ『チート級の知識』があるのだ。ゲーム内で彼女たちが没落していく原因となった、実家の致命的なスキャンダルを、私は一字一句違えずに覚えている。
「マルコ伯爵令嬢。あなたのところのお父様、最近羽振りがいいみたいね。……例の『裏帳簿』、王家の監査院が嗅ぎ回っているそうだけど、大丈夫かしら? 東の領地で誤魔化している税の着服、公爵家の耳に入れば、伯爵家なんて一瞬で吹き飛ぶわよ」
「っ!!?」
赤毛の令嬢は、雷に打たれたように全身を硬直させ、目を見開いた。彼女の顔からスゥッと血の気が引いていくのが手にとるようにわかる。
私は次に、隣にいた金髪の令嬢――シモンズ男爵家の娘に視線を向け、冷ややかな声で囁いた。
「シモンズ男爵令嬢。あなたのお兄様、隣国との国境警備隊に配属されたわね。でも、夜な夜な『違法な魔石の密輸』を見逃して、賄賂を受け取っているって噂、どこまで本当なのかしら? もしその証拠が騎士団長に渡ったら……男爵家は取り潰しの上、お兄様は死刑ね」
「ひぃっ……!」
金髪の令嬢は腰を抜かし、ガクガクと震えながらその場にへたり込んだ。
最後に、一番後ろで震えていた令嬢にも、私はトドメを刺した。
「そこのあなた。実家の領地で流行っている疫病の支援金、お父様が私腹を肥やすために横領している件、とっくにバレているわよ。明日にでも私が王太子殿下に耳打ちして差し上げましょうか?」
「あ、あああ……っ!」
もはや魔法など使わずとも、完璧な『物理的な脅し』である。
彼女たちにとって、自分の実家の致命的な秘密を、この国で最も権力を持つローゼンバーグ公爵家の令嬢に握られているというのは、死の宣告に等しかった。
「さて……まだそこで平民いじめなんていうくだらないお遊戯を続ける気かしら? それとも、今すぐ私の視界から消え去る?」
「ひぃぃぃぃっ! も、申し訳ございませんでしたぁぁっ!」
「お許しをぉぉっ!」
三人の令嬢たちは、マリアの教科書を放り出すと、ドレスの裾を振り乱しながら、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
後に残されたのは、静寂と、地面に座り込んで呆然としているマリアだけだった。
「ふぅ……全く、無駄な時間を過ごしたわ」
私は足の痺れに耐えながら、ため息をついた。
これ以上マリアに関わると、また面倒な好感度イベントが発生してしまう。
私は早く寮に帰るべく、冷たい態度を維持したまま、マリアに向かって言い放った。
「あなたもあなたよ、マリア」
「え……?」
「次からは、あんな風にボケっと突っ立ってないで、自分でどうにかしなさい。光の魔力を持っているんでしょう? 脅すなり逃げるなり、自分の身くらい自分で守れなくてどうするの。……ここは、弱者が泣いているだけで誰かが助けてくれるような、おとぎ話の世界じゃないのよ」
私はそう言って、持っていた自分の鞄から一冊のノートを取り出した。
それは、私の『予備の教科書』――という名目の、ゲームの攻略メモをびっしりと書き込んだチートノートだった。
本来は私がテストで赤点を取らないため(目立たないため)に作ったものだが、マリアが教科書を破られそうになっていたのを思い出し、「まあ、あげるくらいならいっか」と適当に彼女の胸に押し付けた。
「これ、私の予備のノートよ。あなたのような平民が赤点ばかり取っていては、私まで目障りだからね。これを読んで、少しはマシな成績を取りなさい。……それじゃ、私はこれで」
私はマリアの返事も聞かず、踵を返してその場から立ち去った。
ああ、疲れた。早く部屋に帰って、ベッドにダイブしよう。
私は自分の行動が、『完璧なツンデレ悪役令嬢の、不器用な優しさ』として相手にどう映るかなど、この時の私には一ミリも想像できていなかったのである。
◆ ◆ ◆
【マリアの視点】
震えが、止まらなかった。
地面に座り込んだまま、私は、遠ざかっていくエルナ様の後ろ姿を、ただただ見つめていた。
怖い令嬢たちに囲まれ、教科書を破られそうになった時、私は絶望していた。
平民の私を助けてくれる人なんて、この貴族だらけの学園にいるはずがない。そう思って、ただ泣くことしかできなかった。
しかし、そこに現れたのは――入学式の日に私に厳しく忠告をしてくれた、エルナ・フォン・ローゼンバーグ様だった。
彼女は、魔法も権力も使わなかった。
ただ、圧倒的な知性と情報網を駆使して、あ的高慢な令嬢たちの『実家の不正』を次々と突きつけ、一瞬にして彼女たちを退散させてしまったのだ。
なんという凄まじい洞察力。なんという完璧な情報掌握。
そして何より、エルナ様は私にこう仰った。
『ボケっと突っ立ってないで、自分でどうにかしなさい』
『自分の身くらい自分で守れなくてどうするの』と。
その言葉は、冷たく聞こえるかもしれない。
でも、私にはわかった。これは、私をただ庇うのではなく、私自身がこの過酷な貴族社会で生き抜くための『強さ』を身につけろという、限りなく深く、厳しい慈愛なのだと。
エルナ様は、私が他人に依存して生きる弱虫のままでいることを、許さなかったのだ。
「エルナ様……」
私は、胸に押し付けられたノートに視線を落とした。
『予備のノートだから』と冷たく渡されたそれ。
そっとページを開いてみて、私は息を呑んだ。
そこには、ただの授業の板書など書かれていなかった。
『第七迷宮における、魔力効率を劇的に上げる古代魔法陣の簡略化ルート』。
『森の最奥にしか生えない、万能薬の素材となる幻の薬草の正確な群生地マップ』。
『次回の実技テストで出題されるであろう、課題の完全な傾向と対策』。
……それらは、学園の教師ですら知り得ないような、魔法学の常識を覆すほどの『真理』とも呼べる知識の結晶だった。
こんな国宝級の知識が詰まったノートを、私のような平民に……。
『あなたのような平民が赤点ばかり取っていては目障りだから』
あの言葉の裏には、「これを読んで、誰にも見下されない本物の力を手に入れなさい」という、エルナ様の強烈なメッセージが込められていたのだ。
ドクン、ドクン、と。
私の心臓が、今まで経験したことのないほどの早鐘を打ち始めた。
両手でノートを抱きしめると、エルナ様のほのかな香水の香りがした。
「なんて……なんて格好いいの……!」
頬が熱い。頭の中が、エルナ様の凛とした横顔と、冷たくも優しい声でいっぱいになる。
男の人に守ってもらう恋愛なんて、もうどうでもいい。
アルベルト殿下も、バルド様も、ユリウス様も、エルナ様のこの完璧な気高さと圧倒的な美しさの前では、路傍の石ころと同義だった。
「エルナ様……私、やります。必ず貴女の期待に応えられるだけの、強い人間になってみせます。そしていつか、貴女の隣に立つにふさわしい、最高の右腕……いえ、パートナーになってみせますから……!!」
私は夕日に照らされた裏庭で、一人固く決意を抱いた。
私の光の魔力は、全てエルナ様のために。
ヒロインとしての全ての好感度の矢印が、ただ一人の悪役令嬢に向けて、完全に、そして不可逆的に固定された瞬間だった。
◆ ◆ ◆
【エルナ・フォン・ローゼンバーグの視点】
「はくしょんっ!」
自室のベッドにダイブし、ようやくふかふかの枕に顔を埋めた私は、盛大なクシャミをした。
誰かが噂でもしているのだろうか。
まあいい。とにかくいじめっ子は追い払ったし、マリアには適当にノートを渡して説教しておいた。
これでマリアが「一人じゃどうにもならない! 誰か助けて!」と攻略対象たちに頼るようになれば、私のキューピッド大作戦も少しは前に進むだろう。
「……それにしても、胃が痛い。足も蚊に刺されて痒いし、最悪の一日だったわ」
私はうつ伏せになったまま、シーツをギュッと握りしめた。
平和な隠居生活への道は、まだまだ遠い。
だが、私にはゲームの知識がある。どんなフラグが立とうとも、全てをへし折って、絶対にギロチンを回避してやるのだ。
「明日こそは、目立たず、誰とも関わらず、空気のように過ごしてやるんだから……!」
そんな私のささやかな願いが、翌日、マリアの異常なまでの『エルナ様バンザイ!』という布教活動によって木端微塵に粉砕されることを、ベッドで丸くなる私はまだ知る由もなかった。
私の平和なモブ・スローライフ計画は、すでに崩壊のファンファーレを大音量で鳴り響かせていたのである。




