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第四章: 境界の守護者と四つの異能『選ばれし者たちは、まだ互いを知らない』  作者: ぃぃぃぃぃぃ


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第百九十六話:時間停止と異物

 アルトの右手が、石床に喰らいついた。

 それはもはや、倒れないための支えではない。

 いまの彼にとって、その一点だけが、この世界へと残された最後にして唯一――自分という存在を、まだ現実に噛み合わせておける「楔」だった。

 視界の先では、魔王の瞳が再びその底に、冷徹な「訂正」の光を宿し始めていた。

 ステファニーが命を削って買い上げた純白の猶予は、あくまで一時的な先送りに過ぎない。

 世界が再び彼女という「誤差」を握り潰そうと、その巨大な指を動かし始めるまで、もはや一拍の余裕も残されていなかった。

 足りるはずがない。

 残された魔力も、焼き切れかけた回路も、何もかもが絶望的に不足している。

 それでも――ここから奪うしかない。

 魔王にも。

 運命にも。

 この次の一秒だけは、渡さない。

 アルトは、自らの内側に残された最後の「接続」を、無理やり一点へ圧縮した。

 壊れかけた演算器が悲鳴を上げる。

 視界の端が、黒く、粘つくように沈む。

 だが、その崩壊より一瞬早く。

 彼は、世界の次の一秒を、奪った。

 発動は、一瞬だった。

 宣言はいらない。

 詠唱も、祈りも、届く前に遅い。

 ただ、アルトの指先が、世界の背骨に直接触れた。

 その瞬間。

 この空間を走っていた、あらゆる「続き」が、まとめて沈黙した。

 玉座の間から、すべての「連続性」が剥奪された。

 いままさに世界を握り潰そうとしていた魔王の指先が、その絶対性を保ったまま、冷酷な彫像として止まる。

 天井から剥落し、落下していた石片が、重力の命令を無視して空中に釘付けにされる。

 ライトは、前へ出るためだけに作られたような不屈の姿勢のまま、途中で凍りついていた。

 レイナの指先は、あとわずかでステファニーへ届くはずだった、その切実な距離のまま、世界そのものに縫い止められている。

 そして、石床に横たわるステファニー。彼女の唇から溢れかけた最後の一滴が、重力に従う途中で、美しい真珠のように空中に静止していた。

 音が、消えた。

 風が、死んだ。

 熱さえも、その伝播を禁じられたかのように、一点に留まった。

 世界が、完全に凍りついた。

 アルトは、膝をついた姿勢のまま、その静止した地獄の中に独り、取り残されていた。

 動けるのは、自分だけだった。

 それだけで、十分すぎるほどに重い。

 右手を床につき、崩れ落ちるのをどうにか防いでいる。

 左腕は、自分のものではない何かのように、激しく、細かく、痙攣を繰り返していた。

 この禁忌の発動は、壊れかけた彼の回路を、その存在の根源ごと燃料として焚き付けることで成立していた。

 冷たい麻痺が、遅れて神経を噛んでくる。

 それが警告なのか、あるいは存在の徴収なのか、もう判別する余裕はなかった。

 指先の感覚は、もう半分ほど消えている。

 呼吸は浅く、胸の奥では心臓が、他人の臓器のように遠く脈打っていた。

 それでも彼の意識だけが、薄氷のような危うさで、辛うじて「時」の外側に踏みとどまっていた。

 最初に異常を告げたのは、耳ではなかった。

 停止したはずの世界に、存在してはならない「次の一拍」が、混入したのだ。

 ――コツ。

 アルトの思考が、一瞬だけ、その処理を拒絶した。

 時間停止の領域内に、干渉を受けない個体が存在するなど、論理が許さない。

 時の外に立っているのは、術者である自分一人。

 他の三人は、魔王さえも、この「凍った瞬間」の一部として組み込んだはずだった。

 ――コツ、コツ。

 足音は、ゆっくりと近づいてくる。

 焦りはない。

 だが、迷いもない。

 それは、止まるべきものが、最初から「止まるという理」に属していない歩みだった。

 視界の奥で、影がひとつ、こちらへ向きを変える。

 シエラだった。

 凍りついた空間のノイズを割って、彼女だけが、そこにいた。

 周囲の異常に驚く様子さえ見せず、当然の顔で、彼女は歩いていた。

 理屈は、いくつか浮かびかけた。

 だが、そのどれもが、形になる前に壊れた。

 耐性。

 例外処理。

 位相ずれ。

 観測外。

 どれも違う。

 あるいは、どれも足りない。

 彼女を説明するための言葉だけが、最初からこの世界に用意されていないかのようだった。

 ただ、一つだけ、逃れようのない事実があった。

 シエラは今、アルトと同じ「時の外側」に立っている。

 シエラは、アルトの数歩前で、音もなく立ち止まった。

 床に這いつくばる彼を、静かに見下ろしてくる。

 その瞳には、彼を案じるような同情も、状況を危ぶむ焦燥も、何ひとつ宿っていなかった。

 その静けさだけが、この異常を、異常として扱っていなかった。

 アルトは、重い首を、軋ませながら上げた。

 震える左腕で、爆発しそうな胸を押さえ、床を押し上げる。

 完全には立てない。

 半分だけ体を起こし、滲む視界の先にある、彼女の顔を凝視した。

 口を開こうとした。

 問いの形は、頭の中にあった。

 なぜ、貴女だけが動けるのか。

 貴女は、一体何者なのか。

 だが、言葉が喉を通るより先に。

 シエラの視線が、アルトの問いを音もなく叩き伏せた。

 答えない、という拒絶ではない。

 そのような問いを重ねる必要すらないのだという、絶対的な確信。

 アルトは、開こうとした口を、静かに閉じた。

 この沈黙の中で言葉を発することは、あまりにも粗雑で、あまりにも不純に思えた。

「……シエラ、さん」

 辛うじて絞り出したその名は、自分自身を、この残酷なまでの現実へ繋ぎ止めるための命綱だった。

 シエラは、何も言わなかった。

 怖気がした。

 なのに、視線を外した瞬間にすべてが終わるという恐怖は、不思議と薄れていた。

 その矛盾だけが、アルトの芯を震わせた。

 彼女は、この戦いの「味方」という言葉で縛れる存在ではないのかもしれない。

 だが、彼女の瞳が自分を捉えているという事実だけが、いま、唯一の調律として機能していた。

 アルトには、それ以上の言語化ができなかった。

 思考の限界が、もうそこまで来ていた。

 できないまま、彼はただ、シエラの視線だけを、その魂で受け止めていた。

 止まった世界。

 未遂の意志を抱えたまま固まった、仲間たち。

 そして、自分を見下ろす、この世界の例外。

 それでも、彼は視線を逸らさなかった。

 この沈黙の先で、自分の役割が決まる。

 何かが、言葉ではなく、責任の形で自分に渡されようとしている。

 その予感だけが、いまのアルトを、辛うじてこの場に繋ぎ止めていた。

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