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第四章: 境界の守護者と四つの異能『選ばれし者たちは、まだ互いを知らない』  作者: ぃぃぃぃぃぃ


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第百九十五話:防御の完遂と代償

 衝突は、あまりにも静かだった。

 轟音を期待していた者がいたとすれば、それは裏切られた。

 虚無と純白が正面からぶつかった瞬間、この空間に残っていた最後の音さえも、その境界線へと吸い込まれ、圧殺された。

 代わりに残ったのは、魂を磨り潰すような重圧だった。

 空気という概念そのものが、二つのことわりのあいだで意味を失い、ただ冷酷な質量だけを残して玉座の間へと沈殿していく。

 石床が、見えない巨人の足に踏みつけられたかのように軋み、天井の亀裂は、音もなく、蛇が這うような速度で広がり続けていた。

 世界が、その存立を否定され、悲鳴を上げることすら許されずに震えていた。

 だが――。

 結界には、ヒビひとつ入らなかった。

 それは、頑丈だからではない。

 物理的に弾いているからでもない。

 ステファニーという個が、自らの存在をくさびとして世界に打ち込み、崩れようとする空間そのものを、無理やり“ここに在るもの”として固定していたからだ。

 崩れるのは、結界ではなかった。

 ステファニーの唇の端から、細い血が一筋、顎へと伝った。

 魔力回路は、とうに正常な駆動を放棄していた。

 魔力が減っているのではない。正確には、彼女の「生を支える余白」そのものが、限界まで削り取られていた。

 指先から順に、自らの体温だけが誰かに盗まれていくようだった。

 触れているはずの杖の感触すら、もう半分ほど遠い。

 視界の端から色が剥がれ、聴覚の底では、自分の鼓動だけがやけに幼い音を立てていた。

 虚無が結界の表面へ触れるたびに、維持に充てられる魔力という名の余力が、暴力的かつ一方的に、深淵へと吸い込まれていく。

 それは、止まらない出血に似ていた。

 傷口を塞ごうとする意志そのものが、塞いだ端から次の傷口となって開き、中身をぶちまけていく。

 守るという行為だけが、彼女の中身を世界へ流出させる唯一の出口になっていた。

 それでも、彼女は杖を握る手を緩めなかった。

 指先が死人のように変色してなお、その重みを、自らの支柱としていた。

 左手のバックラーは、目に見えぬ圧へ押し当てられ、いまなお微細な震えを返し続けている。

 まるで持ち主の代わりに、壊れる役目だけを請け負おうとする忠実な盾のように。

 アルトの瞳は、その凄惨な「摩耗」を、冷徹なまでに捉えていた。

 観測眼が映し出すのは、単なる消耗ではない。

 彼女を彼女として成立させるための「余力」が、秒単位で剥がれ落ちていく光景だった。

 あと、数拍。

 あるいは、まばたき一つ。

 アルトは奥歯を噛み締めた。口内に鉄の味が広がる。

 自分の回路が、魔王の「訂正」によって世界から切り離されていなければ。

 かつてのように《連結コネクト・リンク》で彼女の渇きを潤し、その重荷を半分背負うことができたはずだった。

 だが今の自分は、ただ見ていることしかできない。

 解析できる。

 観測もできる。

 なのに、介入だけが届かない。

 解を導き出せても、その数式に触れる指先を世界に拒絶される。

 その事実は、知性を誇りとしてきた彼にとって、存在そのものを否定されるに等しい屈辱だった。

 ならば次は、観測した法則そのものへ、自らの手を突き立てるしかない。

 そうしなければ、彼女が命を削って残した猶予に、意味が生まれない。

 介入者への変貌を強いる痛みが、彼の胸の奥で、毒液のように焼け付いていた。

 ライトの右腕が、痙攣するように魔力を練ろうとした。

 だが、結界の外側から魔王を撃つという「因果」が、この空間ではまだ行動として成立しない。

 放たれかけた光は、形を持つ前に世界そのものに拒絶され、指先で掻き消えた。

 何もできない。

 目の前で、おどけて笑っていたあの人が、自分たちのために削り取られている。

 それなのに、自分の剣も、自分の光も、まだ届かない。

 誰かがこの理不尽を討たなければならない。

 誰かがこの絶望を終わらせなければならない。

 その重圧は、最初から自分の魂に刻まれていた。

 誰も成せないのなら、自分こそが。

 その根源的な衝動が、無力という名の枷に繋がれ、魂の底で鈍い軋みを上げていた。

 彼女が守り抜いたこの数秒を、次の一撃へ変えられなければならない。

 そうでなければ、自分がここまで積み上げてきた歩みのすべてが、空白になる。

 守られたままで終わるつもりはない。

 この白を、一度きりの自己犠牲で終わらせない。

 彼女が押し返したこの一瞬を、次の打破へ変換する。

 その誓いだけが、折れかけた右腕の奥で、なお消えずに燻っていた。

 レイナの瞳が、至近距離で展開される「白」を焼き付けていた。

 深淵の外縁すら呑み込めなかった自分の闇より先に、あの人の白が届いた。

 その事実だけが、レイナの胸の奥に、悔しさとも、畏れとも、羨望ともつかない熱を残していた。

 自分の闇は、奪うための力だ。

 呑み込むための深淵だ。

 だが、あの白は違う。

 あれは、消えるはずのものに対して「ここにいろ」と命じる色だ。

 届かない闇を持ち帰るのではない。

 この白が示した「意志」を、自らの深淵へと塗り込める。

 今はまだ、動けない。

 この理不尽が、自分から行動の選択肢を剥奪している。

 それでも、その視線だけは逸らさなかった。

 この白を、見届けるために。

 そしていつか、自分の闇もまた、誰かを守る形へ届かせるために。

 呼吸と呼吸のあいだだけが、不自然なほど長く引き延ばされていく。

 ステファニーの意識の端々から、記憶がこぼれ落ちていく。

 訓練場で膝をついた、あの日の情けない自分。

 息を切らし、守れず、謝ることしかできなかった未熟な自分。

 ――これがお前の弱点だ。

 あの日のシエラの声が、今さらのように胸の奥で蘇る。

 長く持たなくていい。

 優雅でなくていい。

 ただこの一瞬、仲間たちが「存在していい」という許可証を、残された余白のすべてを注いで買い支える。

 守ることだけは、昔から下手だったわけじゃない。

 ただ、自分を残したまま守るやり方を、最後まで覚えきれなかっただけだ。

 それでもいい、と彼女は思った。

 不器用でも。

 未完成でも。

 燃え尽きるようなやり方でしか、誰かを庇えなくても。

 今この瞬間、自分の前から誰も消えないのなら、それでいい。

 結界の白が、わずかに揺らいだ。

 だが、それは崩壊の予兆ではない。

 彼女の執念が、結界に最後の色を注ぎ込んだ証だった。

 変化は、唐突に訪れた。

 魔王の瞳が、わずかに焦点を変えた。

 それは驚愕ではない。

 想定外の誤差を、初めて「誤差」として再分類した機能の反応だった。

 魔王が、この場における「訂正」の優先順位を、一段引き上げた。

 虚無の収縮が、一瞬だけ、その密度を極限まで増した。

 最後の一押し。

 世界そのものが、ステファニーという「間違い」を、一息に握り潰そうとする。

 持たない。

 論理が、死の結論を冷酷に告げた。

 その結論が下るより、一瞬早く。

 ステファニーが、深く、深く息を吸った。

 肺胞の一つひとつに、この世界の空気を刻みつけるような、慈しむような呼吸。

 まるで、これが最後に受け取る“生”なのだと知っていて、それでもなお、この世界を愛そうとするような息だった。

 そして――。

 白が、世界を塗りつぶした。

 揺らいでいた結界の輪郭が、信じられないほどの解像度で再構成され、虚無を真正面から押し返した。

 それは反撃ではない。

 勝利でもない。

 ただ、「ここにいる」という事実だけを、この世界に再提出するための、あまりにも純粋な意志の噴出だった。

 虚無が、純白に触れたその境界で、初めて「押し返される」という現象を強いられた。

 沈黙が極限まで圧縮され、そして――。

 静かに、この場の世界だけが、仮初めの色を取り戻した。

 それは治癒ではない。

 崩壊を止めたのでもない。

 ただ、消去の進行が、この一瞬だけ先送りにされたに過ぎない。

 それでも、その“先送り”は、あまりにも尊かった。

 緋色が、再び玉座に滲んだ。

 剥奪されていた「音」が、雪解けのように還ってくる。

 ライトの荒い息遣い。

 アルトが奥歯を噛む音。

 レイナの喉が、小さく鳴る気配。

 誰一人、欠けなかった。

 血も、骨も、記憶も、名前も。

 この場にいた四人の「存在」は、確かにまだ、この世界に残っていた。

 その事実を確認したかのように。

 ステファニーの杖が、指先からこぼれ落ちた。

 カラン、と。

 その乾いた音を合図にするように、彼女の膝が、ゆっくりと沈んだ。

 折れるのではない。

 崩れるのでもない。

 すべての役目を終えた糸が、持ち主の手を離れて重力に身を委ねるように、静かに、丁寧に、床へと向かっていく。

 ただ、もう。

 彼女を彼女として成立させていた「余力」のすべてを、使い果たしていた。

 倒れる瞬間、ピンク色の長い髪が、空中で羽のように広がった。

 石床に頬が触れる直前、その横顔に、後悔はなかった。

 守り切ったという確信だけが、柔らかな光となって宿っていた。

 未熟だった自分を責める必要も、もうどこにもなかった。

 あの日、一分も持たなかった守りは、たしかに今、この絶望の中心で最後まで役目を果たしたのだから。

「……守り切り、ました~」

 それは勝利宣言ではない。

 ただ、自分が背負った役目を、最後まで手放さなかった者だけが残せる、静かな完了報告だった。

 小さな体が、石床に横たわる。

 誰も、その一歩を「次の行動」へと変換できなかった。

 立ち尽くすしかない、というより――立ち尽くす以外の選択肢が、この世界からまだ返却されていなかったのだ。

 ただ、レイナだけが、弾かれたようにその場へ膝をついた。

 震える指先が、ステファニーの蒼白な頬へ触れる。

 指先に伝わる、微かな、だが確かな熱。

 それだけで、十分だった。

 生きている。

 その事実が、レイナの奥歯を噛ませた。

 安堵ではない。

 まだ足りない、という感情が、熱となって胸の奥に沈んでいく。

 この程度では終われない。

 この白の隣に立つには、自分の闇はまだ浅すぎる。

 その悔しさだけが、彼女の中で静かに、だが決定的に形を変え始めていた。

 アルトは、ゆっくりと天井を見上げた。

 戻ってきた色の中で、自分の右手を見つめる。

 指が、かすかに動いた。

 世界から切り離されていた自分の「意味」が、ステファニーが命を賭して繋ぎ止めた時間の恩恵を受け、再び因果の鎖へと手を伸ばし始めていた。

 まだ、終わっていない。

 彼女が削り取り、自分たちに託したこの「暫定的な猶予」を、無意味な死へと返してはならない。

 アルトの瞳の奥で、何かが静かに、だが冷徹に点火した。

 不条理なルールそのものを、自分の手で書き換えるという、狂気に近い決意。

 そして、ライトもまた、ゆっくりと顔を上げた。

 守られたままで終わるつもりはない。

 この数秒を、次の一撃へ変える。

 彼女の白を、ただの自己犠牲で終わらせない。

 その誓いだけが、折れかけた右腕の奥で、なお消えずに燻っていた。

 その時。

 その場に残っていた誰よりも、静かで、揺るがない足取りが響いた。

 まるで、この空間の理不尽だけが、彼女を例外として扱っているかのように。

 色を取り戻したはずの世界の中で、そこだけがまだ別の法則に属しているような足音だった。

 重くもない。軽くもない。

 ただ、「止まるはずのものではない」とでも言うように、当然の顔で前へ進んでくる。

 凍りついたままの世界で、ゆっくりと歩みを進めたその人物は――。

 シエラだった。

 彼女は、倒れ伏すステファニーを一瞥し、そして――。

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