第百九十四話:究極防御の選択
ステファニーの足が、前へ出た。
右足が一歩、理の崩れかけた石床を踏み抜く。
その靴音だけが、音という概念すら剥奪されかけたこの「無」の玉座の間において、異物のように、あるいはこの世界にまだ残されていた最後の真実のように、確かな質量を伴って響いた。
二十九歳の転生者として、この世界で不器用に積み重ねてきた彼女の歩み。その一歩は、削がれかけた静寂の中で世界の綻びのように、あるいは絶望そのものへ突きつけられた小さな反逆の宣告のように、あまりにも鮮明だった。
誰も止められなかった。
止めるための言葉や論理が、喉元まで出かけていたわけではない。
そもそも、その一歩を否定するための「正しさ」を、この場の誰も持ち得なかったのだ。
ライトの喉が不規則に動く。何かを叫ぼうとして、言葉の輪郭だけが唇の奥でかすかに震える。だが、その声は、魔王が生み出した虚無の重圧に押し潰されるようにして、出口を見つける前に霧散した。
止める理屈を、誰も間に合わせられなかった。
この刹那において、彼女が前に出ることの「不合理」を証明できる者は、一人としていなかった。
ステファニーは、一度も振り返らなかった。
背後に四人の気配があることは、痛いほど分かっている。
アルトの呼吸が、思考回路の過負荷によって乱れていることも。
ライトの右腕が、機能を捨ててなお光を手放そうとしない、その執念の軋みも。
レイナが、戦士としての本能と死の恐怖の狭間で、構えを崩せぬまま震えていることも。
そして――一年間、エルトリアの街でただひたすらに待ち続けた「お姉さん」であるシエラが、師として、今の自分に差し出すべき正解を持ち得ぬまま、ただその背を見守っていることも。
すべて、肌を通じて分かっていた。
(……こわいです~)
胸の奥で、情けないほど正直な本音が漏れる。
(こわいに決まってるじゃないですかぁ……)
ふんわりとした美貌が、恐怖にわずかに歪んだ。天然と評されるいつものおどけた余裕は、もうどこにもない。
高い位置で結ったピンク色のポニーテールが、魔王の生み出した吸い込むような引力に引かれ、前へと靡く。
刺メイスを握る右手に、限界まで力を込める。
シエラから譲り受けた左手のバックラーが、空間の歪みに触れて、悲鳴のような金属音を上げた。
脳裏に、あの日の訓練場が一瞬だけ過ぎる。
五人で立った、エルトリアのギルド訓練場。
自分の《生護》を軸に、防御ラインを構築するはずだったあの日。
淡い光は確かに皆を守った。
けれど、それは一分も持たなかった。
光は揺らぎ、途切れ、崩れた。
息を切らし、膝をつき、情けないほど小さな声で「ごめんなさい〜……」と謝るしかなかった、あの未熟な自分。
――これがお前の弱点だ。
シエラの言葉が、今さらのように胸の奥で蘇る。
魔力管理ができない。
常に全力でしか守れない。
だから、長くは持たない。
欠点だった。
誰よりも守りたいくせに、誰よりも長く守れない。
それが、自分という治癒者の、どうしようもなく不器用な欠陥だった。
後ろに下がって、祈ることもできたはずだ。
誰かの背中に縋って、奇跡を待つことだってできた。
けれど、そのどれもが、今の彼女には「守る」ではなかった。
(ええ……そんなことは、最初からずっと分かってたんです~)
怖い。
無理だ。
足が竦む。
それでも。
(分かっていて、それでも……私は、守ることをやめられなかった)
たとえ一分も持たなくてもいい。
数十秒で焼き切れてもいい。
たった一瞬でも、この場で“消えるはずの誰か”を繋ぎ止められるなら、それでよかった。
これは、未完成のまま捨てられなかった、彼女の祈りだ。
アルトとの《連結》による魔力の強制循環は、もうない。
本来なら、自分が繋ぐはずだった。
その不在だけが、アルトの知性に、敗北という形を与えていた。
彼は何も言わない。
言えなかったのではない。
言う資格が、今の自分にはないと理解してしまったからだ。
彼女の回路が、今この瞬間どれほどの悲鳴を上げているか。
その地獄を、もっとも正確に理解できてしまうのが自分だと知っているからこそ、アルトは奥歯を噛み締めるしかなかった。
ライトが、声を絞り出した。
「ステファニー――っ!」
届いた。
だが、その声に込められた「待て」という意志は、彼女の背中に触れる前に、虚無の中へ溶けていく。
止められない。
届かない。
それでも、ライトの中で何かだけは、確実に折れなかった。
この白を、一度きりの自己犠牲で終わらせるつもりだけは、毛頭なかった。
この一歩の代償を、絶対に彼女一人のものにはさせない。
その火種だけが、彼の瞳の奥で、消えずに燃えていた。
ステファニーは、魔王の前、三歩の距離で止まった。
三歩。
それは、この世界で最も遠い距離のように思えた。
虚無の収縮が、彼女の肌から温度を剥ぎ取っていく。
周囲の空気が、剥き出しの真空へと変質する。
そこに立っているだけで、「ステファニー」という存在の輪郭そのものが削られていくような飢餓感が、全身を貫いた。
それでも、彼女は退かなかった。
震えていないわけではない。
ただ、その震えより先に、守りたいという意志だけが、絶望の前に立っていた。
「……今度は~」
声は、驚くほど静かだった。
「今度はぁ、私が守りますね~」
それは、誰かへの宣言ではなかった。
仲間への激励でも、覚悟の誇示でもない。
ただ、自分自身への最後の確認だった。
詠唱が始まる。
その瞬間。
削がれかけていた世界の輪郭に、一本の白い線が走った。
それは光ではなかった。
熱でもない。
祝福でも、奇跡でもない。
ただ、この場から剥がされようとしていた「存在」に対してのみ、静かに告げるための色だった。
まだ、ここにいていい。
その許しだけを、この世界に無理やり残すための、白。
杖の先に集まった純白が、音もなく広がっていく。
かつて訓練場で展開した《生護》は、あくまで防御だった。
攻撃を防ぎ、衝撃をいなし、味方を守るための、極めて優秀で、そして極めて燃費の悪い“盾”に過ぎなかった。
だが、今は違う。
この場で彼女が広げているそれは、もはや「攻撃を防ぐための壁」ではない。
魔王が世界の記述から“不要”を削り落としていくのなら。
その白は、その削除に対して、たった一つだけ異議を差し挟む。
この人たちは、まだ消えてはいけない。
それだけだ。
それだけの、あまりにも非合理で、あまりにも小さな祈りだけが、今この瞬間、魔王の理へ真正面から抗っていた。
純白は、仲間たちを包み込むのではなかった。
むしろ逆だ。
消えかけた四人の輪郭を、一つひとつ、白い糸でこの場へ縫い留めていく。
アルトの演算が空白に飲まれないように。
ライトの光が、光であることを奪われないように。
レイナの闇が、自らの主を見失わないように。
そして、シエラがこの場で「見送る側」に堕ちてしまわないように。
剥がれる端から、彼女の魔力が流れ込む。
崩れる端から、彼女の命が継ぎ足される。
それは修復ではない。
治癒でもない。
係留だった。
世界から滑り落ちようとする命を、ただこの一瞬だけでも、ここへ留め続けるための、治癒者にしか成し得ない守護。
魔力回路が悲鳴を上げた。
血管が焼ける。
神経が裂ける。
視界の端が、白く、白く、何度も明滅する。
それでも、止まらない。
止められないのではない。
止める理由が、彼女の中から完全に消えていた。
思い出すのは、あの日の訓練場だった。
一分も持たなかった。
全力でしか守れなかった。
揺らいで、崩れて、息を切らし、最後には「ごめんなさい」と謝ることしかできなかった。
あれが、自分の弱点だった。
魔力管理ができない。
常に全力でしか守れない。
長く持たない。
――けれど。
今この場に限って、その欠陥だけが、唯一の正解だった。
加減して守れる相手ではない。
出力を抑えて受け止められる理不尽でもない。
ならば最初から最後まで、焼き切れることを前提に、全身全霊で張り続けるしかない。
訓練場では欠点だったその不器用さが、今だけは、何よりも純粋な“守護”へと反転していた。
あの日と同じ《生護》のはずなのに。
そこに立っているものは、もうまるで別物だった。
未完成の盾ではない。
燃費の悪い防御でもない。
脆く、危うく、壊れることを前提にしながら、それでもなお誰かの前に立ち続けると決めた――
祈りそのものが、形を持った防壁。
「――《生護》」
その名が告げられた瞬間。
純白の係留が、虚無の訂正を、真正面から受け止めた。
世界が、軋んだ。
目に見えないはずの法則そのものが、激突の余波で悲鳴を上げる。
魔王の「無」は、あらゆる存在を削り、世界から不要を排除するための理。
ステファニーの「白」は、消えゆく存在を、この場へ留めるためだけの祈り。
相容れない二つの在り方が、ついにこの場の中心で噛み合ったのだ。
純白の防壁は、最初から完全ではなかった。
表面は触れた端から崩れ、剥がれ、砕けていく。
だが、その崩壊よりも速く、彼女の命が白へと変換され、裂け目を埋めていく。
壊れる。
継ぎ足す。
壊れる。
継ぎ足す。
その反復だけで成り立つ、あまりにも危うい均衡。
それでも、彼女は一歩も退かなかった。
バックラーを構え直し、自らの存在そのものを楔として、魔王の理へと突き立てる。
(守り切ります~……)
喉の奥で、血の味がした。
(お姉さんも……アルトさんも、ライトさんも、レイナさんもぉ……)
全身が焼ける。
けれど、その痛みすら、今の彼女にはどうでもよかった。
(……一人になんて、させませんから~)
それが、彼女の選択だった。
たとえこの守護の代価として、自らの限界を無残に踏み越えることになったとしても。
たとえその先に、自分自身の崩壊しか待っていなかったとしても。
今、この瞬間の彼女にとって、それこそが二十九年の果てに掴んだ、唯一の「生」の在り方だった。
結界の外側で、ライトが叫ぶ。
アルトが、奥歯を砕くほどに噛み締める。
レイナの瞳が、絶望の中でなお消えずに揺れる。
だが、その誰も、彼女の孤独な守護を止めることはできない。
その白は、もう誰の論理でも止められなかった。
そして次の瞬間。
世界を削るための“正しさ”と、世界に残すための“祈り”が――ついに、真正面から噛み合った。




